2019年1月6日日曜日

松尾山の「磐座」と月読神社の月延石(京都府京都市)


京都府京都市西京区嵐山宮町

松尾大社と松尾山の概要


京都市嵐山の松尾山(標高223m)は、「分土山」「別雷山」の別称があり、松尾大社の信仰の起源となった。

社伝によると、松尾山中の大杉谷という渓谷に「磐座」「ご神跡」「ご鎮座場」など種々の呼ばれ方をされる岩盤があり、元々はそこで神をまつっていたと伝えられる。
その後、大宝元年(701年)に秦忌寸都理(はたのいみきとり)が山麓に松尾大社を創建したことにより、以後は山麓で祭祀を行なうようになったという。

松尾大社は秦氏の氏神社として位置付けられている。
主祭神は大山咋神(オオヤマクイノカミ)・中津島姫神(ナカツシマヒメノカミ)の二柱であり、大山咋神は松尾山の山の神に他ならない。
中津島姫神は宗像大社や厳島神社の祭神として知られる市杵島姫神(イチキシマヒメノカミ)と同神であるといわれており、秦氏の奉祭した氏神とされる。

秦氏が奉祭してきた海の神と、松尾山の神が一緒になった聖地が松尾大社ということになる。

松尾大社
松尾大社と松尾山


「磐座」の様子


松尾山大杉谷の「磐座」は長らく禁足地だったが、2004年頃から許可制で磐座登拝ができるようになった。
以後、松尾山の「磐座」を実見する人は増えたが、2018年夏の台風により登拝道が崩れ、松尾大社の判断により磐座登拝は再び禁じられることになった。

磐座登拝 - 廃止 | 松尾大社 - MATSUNOO TAISHA

松尾大社
2019年現在、磐座登拝道の入口には「立入禁止」の札が張られている。


私は2004年に磐座登拝が可能になる以前、松尾山群集墳の調査の一環で松尾山の磐座を見る機会があった。

現在、写真撮影は禁止ということなので当時撮影した磐座の写真は載せないが、ここでは文章だけで磐座の様子を報告する。

磐座は、山頂のすぐ下の急斜面に位置する。
磐座は巨大な自然岩盤で、一言で形容するなら屏風岩的な形状。荒々しい粒子から構成される岩肌が印象的だった。
大雑把な目測だが高さ5m以上、幅15m以上はあるのではないだろうか。

磐座の手前には、人為的な集石があった。まるで供物を捧げる場であるかのような趣きだった。いつ頃からある施設なのかは不明というしかない。

「磐座」の考察


磐座は「ご鎮座場」とも呼ばれているので、ここが松尾山の神の降り立った磐座機能を持つ岩石だったことは確かだっただろう。
しかし同時に、この磐座は「ご神跡」とも呼ばれていることに注意しないといけない。もう「跡」なのである。

この磐座は社殿創建以後、祭祀の場としての役割からは離れた。
そして近年に至るまでこの場所は立入禁止であり、この磐座に対する積極的な神事というのも影を潜めていた。

しかしこの磐座は「最初に神が降り立ち祭祀がなされた場所」として、今でも松尾大社に否応のない神聖性と歴史性を付加している。
したがって松尾山の磐座は、正確な表現を用いるならば「磐座跡」であり、今は聖跡としての効果を松尾大社に与えていると言える。
この記事のタイトルを「磐座」と括弧付けにしているのもそういう理由からである。細かい表現の差だが、今ある岩石の役割を錯覚しないためにも重要なこととご理解いただけるとうれしい。


松尾山の群集墳

松尾山の尾根沿いに、「松尾山支群」と呼ばれている古墳時代後期の群集墳が多数残っている。現在確認されている限りでおよそ50基弱である。

松尾山支群のひとつ。天井石など露出。
松尾山支群のひとつ。横穴式石室開口。
松尾山支群のひとつ。墳丘は流出しかかっている。


古墳は墓域と言えばそれまでだが、祖先の墓所である古墳が山の中に築かれていると考えれば、松尾山は「祖霊の眠る領域」として認識されていたと思われる。

松尾山支群は、6世紀の終わりから7世紀の初めにかけて集中的に築造されたと考えられている(墳丘規模・他例との比較から)。
6世紀末~7世紀初と言えば、すでに秦氏の山城(特に太秦一帯)への入植は始まっている。だから、松尾山の群集墳に葬られている人々は、秦氏に関係のある人々だった可能性が浮上する。

ただし、松尾山支群は学術調査のほとんどなされていない群集墳なので築造時期に関しては多少前後するかもしれない。秦氏入植以前に松尾の地にいた在地の人々の墓所だった可能性も否定できない。

松尾山支群の古墳の中から朝鮮半島由来の遺物など、渡来系の性格を類推させるような副葬品などが見つかったとするならば、この群集墳は秦氏が被葬者だった可能性が上がるだろう。
逆に渡来系要素の全くない群集墳だった場合は、秦氏との関係は薄いと見るべきであり、在地の人々の墓所だったという可能性が相対的に強くなる。


磐座と群集墳の関係

ここで気になるのが、磐座と群集墳の関係である。
磐座は大山咋神を祭祀した場所。群集墳は祖霊を祭祀した場所。
どちらも神霊を祭祀する場としてある。

誤解を恐れず言えば、大山咋神が祖霊より偉いのか、それともその逆なのか。
大山咋神と祖霊は別物なのか、それとも同じ存在としてみなされていたのか。

大山咋神は秦氏の氏神としてまつられているので、大山咋神は祖神とも言える。古墳の祖霊を集合化させた存在として大山咋神があるとするならば、古墳と磐座は同じ神をまつる場である。
でもそれなら、同じ神をまつる場所が2種類あると言うこと。その意味は何なのだろうか?

そもそも、磐座と古墳は併行して祭祀されていた存在なのか、磐座祭祀の後に古墳祭祀だった可能性は?あるいはその逆の可能性は?

そして、この磐座および古墳は秦氏によるものなのか、それともそれ以前から在地の人々によってなされてきたものなのか・・・

上に挙げた疑問すべてが謎と言っていい。

この「古墳祭祀と自然石祭祀の同居」という事例は、群馬県西大室丸山遺跡や奈良県石光山古墳群・京都府梅ヶ畑遺跡など他にも見られ、これをどのように理解するのかは、私にとっての大きなテーマの1つである。
古墳時代の祭祀研究テーマの1つでもある、葬祭分化・葬祭未分化論(当時の人々にとって「葬儀」と「祭り」は明確に分けられていたか渾然一体としていたかという論)に関わる話でもある。

松尾山に限って言えば、磐座は元々そこに自然のままあったもので、古墳は死者を埋めるという実利的目的も兼ねた上での人工的な施設という質的な差があるので、磐座が先行的・根源的な祭祀であり、群集墳は後出的・サテライト的な祭祀であったと個人的に思うが、根拠が付いてこない。

松尾大社社殿奥の露岩発見について

2014年のニュースとして話題になったのが、松尾大社の社殿裏の山肌から岩が露出していることが判明したことである。

松尾大社の裏山に巨岩 磐座について

松尾大社
楼門越しに眼前に入る露岩はインパクトがあり、社の雰囲気を一変させる。


松尾大社
2003年に訪れた時は樹木あるいは覆土でまったく確認できなかった。


松尾大社
拝殿前より


松尾大社
南東端より


京都新聞(2014.4.16付)の記事に辰巳和弘氏(当時、同志社大学教授)がコメントを寄せており、松尾大社の社殿を建てる時にこの露岩を選地理由にしたのではないかという見解を述べている。

それは山頂付近の「ご神跡」から続いてきた岩への神聖視によるものであり、山奥の磐座から麓の磐座のほうが祭祀が日常的にしやすいという実利的な理由も手伝ったのかもしれない。

松尾大社に関わる古記録や絵図にまったく登場しない存在であるのなら、この山裾の露岩が忘れ去られるのは相当早くからだったということになる。
他の山麓磐座の事例と比べると、山麓の磐座が忘却されるというのは珍しいのが気になるところである。


滝御前社の天狗岩

本殿裏に滝御前社という祠があり滝が流れている。
直前で拝することができるが、現地看板に「天狗岩」と名付けられた奇岩があるようだ。

松尾大社
現地看板に図示された天狗岩


このように図示されているが、天狗のような形状を判別するのはロールシャハテストの如く難しい。

松尾大社
実際の様子。私は現地肉眼で天狗の顔を見出すことをできなかった。



月読神社の月延石

松尾大社から少し南の方に行くと、松尾大社境外摂社として月読神社が鎮座する。この月読神社に「月延石」(安産石)がある。

松尾大社
月延石


その名の通り、子宝・安産に効果を発揮するとされる霊石とされるが、いつから崇敬されている岩石なのかはわからない。
2003年に初めて訪れた時は玉垣に覆われ近寄れず、単体の岩塊が安置されているだけだったが、2019年現在は 数多の白石に祈願者の氏名と願文が書かれて奉納・集積している。
わずか15年間でこれほど様相は変わるものかと思わされ、今見ている風景が原初のものと勘違いするのを戒められる。


松尾大社
月延石の本体は白石の下に半ば埋もれる一番大きな岩塊である。上と手前に置かれた小ぶりの丸石たちは後で追加されたものだろう。



参考文献


丸川義弘「松尾山の群集墳-松尾十三塚古墳群の紹介も含めて-」 『京都市埋蔵文化財研究所 研究紀要』第4号 京都市埋蔵文化財研究所、1998年

「松尾大社の裏山に巨岩 磐座信仰に関連か」(京都新聞2014年4月16日付記事。web記事はリンク切れ)

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