2019年10月14日月曜日

粟ヶ岳の地獄穴と磐座群(静岡県掛川市)


静岡県掛川市初馬

標高532mの粟ヶ岳の山頂に、延喜式内社・阿波々神社が鎮座する。
山の麓ではなく、山頂近くに鎮まる神社は、山岳仏教以前における山宮・山頂祭祀の実例と言って良い。

神社の南斜面は市天然記念物の照葉樹林が広がり、この社叢の中に磐座が埋もれている。





山頂やや下に、明治の神仏分離により廃寺となった無間山観音寺があった。
ここにあった梵鐘をつくと現世に巨万の富を得、その代わり来世は無間地獄に落ちると信じられていた。
欲深き人がわらわらとこの鐘をつきに来て、来世どころかそのまま足を踏み外して地獄に落ちる人が続出したことから、これを見かねた観音寺の住職が鐘を山頂にある井戸の底に沈めた。その後は、井戸に榊を垂らせば鐘をついたのと同じ効果があるという話が生まれた。

これは遠州七不思議の一つに数えられ、粟ヶ岳の別名である無間山はこの無間地獄から由来する。

無間山観音寺跡

旧社地の前の石段(手入れが行き届いていないこともあり現在使用禁止)を下りたところに無間山観音寺跡がある。

補修を繰り返しながら、とうとう管理を放棄されたお堂の残骸が残っている。でありながら、堂の一画に皿や瓶が寄せ集められ、花が供えられているところに一抹の信仰も感じられる。

境内に放置された石仏は何気なく見ると天明2年(1782年)のもの。諸行無常、もののあはれの世界を地で行く空間だ。

さて、磐座群の中心部に「地獄穴」がある。
これは人々が地獄へ落ちた地獄穴と呼ばれ、岩の裂け目の奥は知る人ぞなしとのこと。
この中に石などを投げ込んだり岩石の上に足を踏み入れたりなどすると神罰が当たると、境内各所に注意が書かれている。

地獄穴(写真右下)

この岩群がいつから「磐座」と呼ばれているかは検討の余地があるが、地獄穴の亀裂は異界との出入り(いや、一方通行か)ができる「ゲート」であったことは間違いない。
仏教説話に彩られた地獄穴が、いつから「ゲート」として神聖視されてきたかが、当地の岩石信仰を語る上で最も重要なポイントである。


磐座群の南限には人工的に整形された平坦地形があり、ここは「古代祭祀跡」と呼ばれている。現地の掲示によると、社殿がない時代の祭り場だった場所と説明されている。

所感では、磐座地帯からある程度離すのではなく、むしろ磐座地帯にやや切り込むように大幅な地形改変を加えている。
これは社殿祭祀以前の自然物信仰の祭り場の跡と言うより、おそらく仏教の影響による木造建築物が建てられていたのではないか。推測が許されるなら、社殿祭祀としての阿波々神社の最初の鎮座地かもしれない。


また、『日本の神々-神社と聖地- 10 東海』(1987年)によると、粟ヶ岳は緩やかなお椀形の山容と評され、海上からもその姿を見ることができることから、古くは漁師や船人の見立て・山アテのランドマークとして、そして現在は林野庁から航行目標の保安林として指定を受けるなど海上交通の要だという。

粟ヶ岳という名前が示すようにこの地方では粟作がかつて盛んで、阿波々神社は粟の穀霊をまつっていたものという説もある。粟ヶ岳は菊川の水源でもあり、粟を中心とした作物の生産神として信仰されたのが最初ではなかったかと考えられている。

また、静岡新聞社の連載記事を書籍化した『石は語る』(2003年)では、榛原高校の中村肇教諭のコメントを掲載しており興味深い。以下引用する。

「江戸時代の東海道名所図会に描かれた粟ヶ岳を見ると、山頂に木はなく、石は露出しています。磐座としてはその方が都合がいい。専門家の話から推測すると、ここの木はせいぜい樹齢三百年といったところでしょうか」

現在の光景を過去のある時点の光景と同一視してはいけないという警句であり、傾聴に値する。

参考文献


  • 神社由緒書・現地解説板
  • 谷川健一編「阿波々神社」『日本の神々-神社と聖地- 10 東海』 白水社 1987年
  • 静岡新聞社著・発行『石は語る』(2003年)


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