2019年10月12日土曜日

堀秀道『宮沢賢治はなぜ石が好きになったのか』(どうぶつ社 2006年)を読んで


鉱物科学研究所所長の堀秀道氏の著書。
「宮沢賢治はなぜ石が好きになったのか」はかなりインパクトがあるが、実は宮沢賢治の話は300頁のうちの冒頭約10頁だけという、恐ろしくリスキーなタイトルである。

章立ては次のとおり。


  • パート1 石と芸術家の物語(宮沢賢治・ミケルアンジェロ・モーツァルト・ゲーテほか)
  • パート2 石と歴史の物語(吉良上野介・イスラム・石の都・平賀源内・石神問答ほか)
  • パート3 石をめぐる人々の物語(ミネラルショー・コレクション・産地ほか)
  • パート4 誕生石の謎(ざくろ石・紫水晶・血石・ダイヤモンドほか)
  • パート5 不思議な石の物語(砂漠のバラ、インド魔術、火星の石、鑑定の基礎知識ほか)


堀氏がこれまで様々な雑誌等に寄稿した石の文章も収録されている。
本書で興味深かった記述をいくつか紹介していこう。

宮沢賢治が石を好きになった理由


本書のタイトルに対する回答はあるのか。

なにしろ彼は子供の頃から変わっていたから……ではちっとも答えになっていないではないか。文献上に私はついに答えを見付けることができなかった。

結論からいうと No. だった。
でも、他人さまの心のうちなど他人がそうそうわかるはずないので、むしろ良心的な回答と言える。

賢治が生まれた北上川へ行き、北上川ダイヤモンドが分布する白い浅瀬が朝夕照らされる光景に賢治の原点を見たとも現地での所感を綴る堀氏だが、これはエッセイ的表現か。
この光景を見た人ならだれでも石好きになってしまうが、誰しもがそういうわけではないことからも、感受性とやらに根本原因がありそうな気がする。

鉱物と岩石の定義


鉱物学者としての知識が開陳され、本書の安定感に一役買っているのも特徴だろう。
たとえば、墓石の観察を通して鉱物と岩石の定義について触れるページがある。

 一定の化学組成をもち一定の原子(またはイオン)配列をもつものを「鉱物」という。鉱物は原則的に結晶をしている(例えば水晶)。その大きさは顕微鏡サイズから大きくて数メートル大で、一〇メートルを超すような例は本当に例外的である。したがって、地層を作ったり、山を形成しているものは鉱物ではなく、鉱物の集合体である。この集合体を「岩石」という。
 漢字の「岩」が石と山から出来ているのはこの関係を文字通り表現している。
 鉱物の名前には黄鉄鉱のように「鉱」が金属系に付き、方解石のように非金属系には「石」が付くのが日本の習慣で、国際性はないが、悪くはないと思う。

わかりやすい。
おかげで、エッセイとして確信犯的に記している部分まで、まるで客観的な根拠があるかのような迫力がある(上記例では、岩が石と山の関係を表すという部分)。

鉱物を包含する概念として岩石があることは、岩石信仰の範囲を考えるうえでも重要である。

鉱物収集はスポーツか


ロシアの鉱物学者フェルスマンが鉱物収集をスポーツとたとえた。
堀氏はそこから話を広げ、スポーツに取り組む際のルールについて四か条を提示している。

一、採集した石を他の場所へ捨てない……A地点の石をB地点へ捨て、それを別の人がB地点の石として採集することのないようにします。
一、必要以上に採集しない……石は二度とできませんし、あなただけの産地でもありません。必要最小限度に止めます。
一、採集品に責任を持つ……地球の一片を自分の責任でもってきたのですから、その責任をまっとうするよう心掛けたいものです。よく見、よく調べ、よく保管することです。そして新事実があれば公表することです。採集品を捨てたり、放置するようでは、あなたは知的スポーツを楽しむエリートから自然を破壊する無頼漢に堕落してしまいます。
一、天然記念物などで規制された場所へは立ち入らない。

堀氏の石への哲学がにじみ出た、メッセージ性のある部分と感じた。
鉱物学者らしいと思うのは、「新事実があれば公表すること」のあたり。新たな発見をオープンにしてほしいという、学問への誠実さがこう書かせている。

一方で、ルールをつくることで、それ以外の行動が許されないというのも創造性を失わせてしまう。
最初の二か条と四か条目はまさにその通りでうなずけるが、三か条目は異論も許されていいだろう。
たとえば、私は自分の石を所有しているが、その石をよく調べようというところに本質を置いていない(特に、鉱物的な意味で)。
また、石を愛する人が外部に積極的に石への思いを発表する必要もないと思っている。石の信仰を保持する人の中には、石を非公開とすることもあり、その思いもまた尊重されるべきである。もちろん、研究という視点で見れば損失であるが、研究者のエゴであることも認めなければならない。

石を愛する人がすべて鉱物的な探究心を持つ人なら堀氏のルールに沿えるが、そうではない。現に私は堀氏の興味関心とはまた異なる眼で岩石を見ているため、三カ条目はやや限定的な石のオーディエンスに向けたメッセージに感じた。

石を公開する人と公開しない人、石を採集しながら保管がずさんな人、新しい石をどんどん欲しがる人、石の組成を学問的に追求したい人、そんな人々の心の動きに興味がある人…石に対峙して生まれる人のリアクションは色々だろう。
それを人のルールで規制することはクリエイティブではなく、本来の人と石の関係からは恣意的な軌道修正が入っている。

堀氏は別頁で、鉱物への認識に対して「国民の大多数が旧石器時代を脱却していない」と語るが、発展段階説が唯一の正解でもないだろう。
原初的な世界がむき出しになっているのならば、それはそれで貴重な他者として「介入せず」「尊重する」まなざしをむければ良い。


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