2024年5月6日月曜日

下部の牛石(山梨県南巨摩郡身延町)


山梨県南巨摩郡身延町下部



下部温泉郷から湯之奥集落へ通じる道中にある。

現在は手入れが行き届いていない様子にみえるが、鳥居右手には下部の名所を巡るスタンプラリーの記念スタンプが収納されたボックスがまだ残っていた。かつての下部温泉観光のよすがを感じとれる。

現地看板には牛石の由来が記されているものの、墨書が消えかかっている箇所が多く極僅かしか読み取ることができない。

いわく、「下部温泉には古くから五石と云って有名な五ツの石が有ります。牛石もその五石の中の一ツであります(以下、判読難)」らしいが、他の四石がどこの何であるかは不明である。

現地看板

『下部町誌』(1981年)に牛石の伝説が採録されており、同書によれば武田信玄が自慢の愛牛に乗って金山の様子を巡検中、その牛が突如暴れ出して信玄を振り落としたうえで路傍の大石に激突して死んだ。牛を引いていた従者も自責の念に駆られてその場で自害。起きてしまったことはしかたなく、このようなことで家臣を失った信玄は哀れに思い従者と愛牛を大石の傍らに葬った。この逸話から大石を牛石と呼ぶようになったという。

本伝説を踏まえると、牛石がたとえば牛の石化し神格化した存在ではないことはわかる。

牛石 近景
牛石の手前には力石のような岩石も添えられている。


それでは現在、牛石の手前に祠や鳥居でまつられていることをどのように受け止めればいいか。

これは一種の弔いや鎮魂祭祀としての形であり、その点では従者と愛牛は祠の中で神霊と化している。村落にとっての祖霊ではないが、死者の魂安らかならんとする聖地であり、その祭祀の可視化されたものとして神社祭祀の諸設備が設けられたものと解される。

あるいは、牛石を通して信玄公の遺徳を顕彰する場としても機能するのかもしれない。

そして、時代を経るうちに牛石はこれらの「神々」を祭神とする社にいたり、今は道行く人々が(詳しい由来を知らなくても)各種祈願を行う場としても機能しているに違いない。


なお、町誌には他に犬石(古関)、たかあげまこ岩(高萩の地名)、大明神の大岩(桑木山ろく)、大けやき下の水神様の岩(上之平)、七尋岩(栃代山)、お春岩(川向)、権現滝の馬の足あと岩(清沢)、太郎石(紙谷橋の下)、お駒の寝床(反木川旧道)などの、自然石に関する伝説地が紹介されている。詳細の位置は記述から読み取れないものが多いが、これらの中のいずれかが「下部の五石」の可能性もある。


参考文献

  • 下部町誌編纂委員会[編]『下部町誌』 下部町役場 1981年

2024年4月29日月曜日

談山神社の岩石信仰(奈良県桜井市)


奈良県桜井市多武峰


竜ヶ谷の竜神社

竜ヶ谷からは、寺川(大和川と合流して大阪湾に入る)の源流の一つとなる湧水が清らかな流れとなり、また滝となってひときわ神秘的な音楽をかなでている。巨大な岩が露出し、その上には竜神社が祭られている。当地の古代信仰の原始の姿を残す磐座で、祭りの場所となったところだ。(長岡千尋『大和多武峰紀行:談山神社の歴史と文学散歩』1998年)

著者の長岡千尋氏は談山神社宮司であり、神社の公式見解として重要な記述である。

本書の位置づけは紀行文であり長岡氏自身が記すとおり、単に歴史的事実のみ並べるものでなく資料の紙背を読んで人の心の中の歴史をも縁起的事実とみなすが、基本的には学術的見地に立って著されている。

その本書において、談山神社における岩石信仰・磐座として明記されたものが竜神社のみという「事実」は、本書上梓時の長岡氏のフィルターを通してではあるが、現在の談山神社の磐座のありかたとは様相が異なり興味深い。

(現地では龍ヶ谷・龍神社の表記)

竜神社

滝と同化した露岩を磐座とみなしたもの。社祠底部にも岩石が据えられている。

竜ヶ谷


龍珠の岩座と多武峰縁起

「龍珠の岩座」が『多武峯縁起』に記されているかのように現地看板にあるが、同縁起の該当記述を読むと「堂東大樹邊。異光時時現。」とあるだけで、岩座を含めた岩石の存在は明記されていない。

堂東の大樹の辺りという位置関係から推測、あるいは口伝によるものかもしれないが、先の長岡氏前掲書を加味して批判的にとらえたい。


むすびの岩座


情報収集不足のため由来不明。


厄割り石と厄捨て石

厄割り石

厄捨て石

談山神社では境内の東西に分かれて厄割り石(東殿前)と厄捨て石(総社脇)の2つの岩石が存在する。

名称が微妙に異なるが祭祀内容は同一である。なぜ二か所に分かれることになったのかその経緯が気になる。


参考文献

  • 長岡千尋『大和多武峰紀行:談山神社の歴史と文学散歩』談山神社 1998年
  • 塙保己一 編『群書類従』第拾六輯,経済雑誌社,明治27. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1879797 (参照 2024-04-29)

2024年4月22日月曜日

嶽の立石群 ~嶽の立石 蛇はみの蛇石 こけて鼻うつ唐戸の寝石~(奈良県宇陀市)


奈良県宇陀市榛原内牧嶽山

 

「嶽の立石 蛇はみの蛇石 こけて鼻うつ唐戸の寝石(だけのたていし じゃはみのじゃいし こけてはなうつからとのねいし)」の里謡で地元で親しまれたという奇石群。

同じ山中に嶽神社が鎮座するが、それぞれの奇石と嶽神社の直接の関係は明らかでなく、現状として神聖視の対象というよりは特別視の範疇にある。

現在は内牧区民の森としてハイキングコースが整備され、近くまで駐車可能である。しかし現地に地図の案内はないので、麓から順にアクセス方法を紹介する。


カラトの寝石/唐戸石

冒頭のGoogleマップに示すとおり、区民の森へ南下する途中で二股路になる。二股の分岐に「カラトの寝石 0.4km」と標識が立っているので、分岐の向かって左をそのまま進む。

左の車道の終点へ着くと、カラトの寝石が東に見える。

明確な駐車場はないが、終点付近に駐車スペースが多少あるので、通行の邪魔にならないように端に寄せれば普通車も駐車可能である。

カラトの寝石が現在の通り名だが、かつては唐戸石の名もあった様子である。



嶽の立石

一般に嶽太郎・嶽次郎・嶽三郎と呼ばれる3つの立石を総称して「嶽の立石」と呼ぶ。

アクセスには区民の森の駐車場を利用できる。

ただし区民の森に至る車道(林道内牧カラト線)は採石場の作業道と共用しており、ダンプカーが頻繁に行きかう(平日の場合。土日は不明)。この車道の離合箇所は少なく、ダンプが近づいていることを事前に知るすべがないため鉢合わせすると場所によってかなり難渋する。

ダンプカーの運転手さんは相当このことに慣れていると思われ、すれ違い時のアシストをできるかぎりしてくれるが、車道始点に「地元車両優先」とあるとおり、迷惑のかからないように通行したい。

区民の森に入ると、1つ目(右側駐車場)と2つ目(左側駐車場)と3つ目(左側駐車場)の3ヶ所の駐車場に大きく分かれている。

1つ目を飛ばして2つ目の駐車場に停めればそこが嶽次郎・嶽三郎の取りつき口となる。

長男的存在の嶽太郎が最初に出てこず不安になるが、太郎は3つ目の駐車場が取りつき口である。このあたりが現地案内になく、私は嶽三郎を見落とした。おそらく嶽次郎の立石からさらに北に続く道を下ったところにあるものと思われる。そこから嶽太郎やカラトの寝石まで周遊できる登山路が整備されているらしいが未確認である。

2つ目の駐車場。この表示もわかりにくいが、嶽次郎・嶽三郎のための駐車場である。嶽太郎はここからさらに奥の駐車場まで進む。

2つ目の駐車場からやや下ると嶽次郎。その先に嶽三郎があるという表示がなく引き返してしまった。

3つ目の駐車場の様子。ここが嶽太郎の駐車場である。

嶽太郎


蛇石(じゃいし)

区民の森を走る車道をそのまま奥まで走らせてよい。車道の終点は路肩に数台駐車できるようにスペースが広がっており、そこに駐車可能である。

車道終点向かって左に蛇石を示す標識があり、踏み跡を進めばすぐ蛇石がみえる。岩石の傍に蛇石であることを示す表示もあるので見落とすことはないだろう。

車道終点。写真左に蛇石の標識が見える。

蛇石。写真右手前に建つ標柱にも書いてある。

別方向から撮影。

以上、一番親切な嶽の立石のアクセス案内を目指して書きました。参考にしてください。


参考文献

  • 内牧地域まちづくり協議会「内牧地域の名所旧跡(神社・仏閣編)」(2018年)https://www.city.uda.nara.jp/s-suishin/machidukuri-kyougikai/documents/2018uchimaki-zinja-tera3mb.pdf
  • 『奈良縣宇陀郡史料』,奈良県宇陀郡,1917.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1900771 (参照 2024-04-22)
  • 皇祖聖蹟莵田高城顕彰会 編『神武天皇建国聖地内牧考』,皇祖聖蹟莵田高城顕彰会,昭和14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1023590 (参照 2024-04-22)


2024年4月21日日曜日

「神定の磐境」と呼ばれた岩石群(奈良県宇陀市)


奈良県宇陀市榛原高井字神定 伊豆神社

 

伊豆神社(高井)

高井鎮座の伊豆神社の地名を神定(かんじょう)といい、伊豆神社の裏山、北西の2か所に「磐境」と名付けられた岩石群が報告されている。

ただし、この「磐境」呼称は明治時代~戦前のいわゆる神籠石論争を経由して生まれた近代用語としての磐境であることに注意が必要である。

それ以前から呼ばれていた名称はないらしいので、本記事でも「磐境」で仮称しておく。

裏山の「磐境」

社殿後方なるは短径三四間、長径十余間の楕円形に、ストーンサークルとして並べられている。中央部にあった数個の石は心なき人によって搬出せられ、其の所在の痕跡をのみ存している。山の中腹を匐ひて廻らされてゐた外廊の環状の一部も近年まで存在してゐたが、漸次破壊せらるるに至ったのは遺憾とする所である。(皇祖聖蹟莵田高城顕彰会 1939年)

以上の記述であるため、現在みられる岩石の状態は原風景でないということになる。

伊豆神社の境内からそのまま裏山に登るのは難しいため、裏山の東を走る伊勢本街道から取りつくことにした。

街道から細い踏み跡が裏山に続いており、その踏み跡沿いにいくつかの岩石の群れを確認することができる。

伊豆神社裏山にみられる岩石群。現時点で環状かというと疑問符がつく。

腰より下の岩石のため草葉に半ば埋もれている。


北西の「磐境」

矢谷川に臨む突端の磐境も環状の半は残されてゐたが、最近その下方に、弘法大師石像を祀られるに際し基壇として上方より磐境の石を転落して之に用ひられ爲にいたく損傷せらるるに至った。然るに近時学童が残れる一部の巨石の底部から打製サヌカイト石斧三個及び三十数個のサヌカイト破片の一所に埋蔵せられてあったのを掘出した事実がある(皇祖聖蹟莵田高城顕彰会 1939年)

伊豆神社の北西側の尾根突端はたしかに矢谷川に接しているが、弘法大師像の場所も含めて現地ではよくわからなかった。

伊豆神社と境内を同じくする眞楽寺に弘法大師石像は見当たらず。

伊豆神社・眞楽寺境内にはこのように岩石が寄せられているがその沿革は不明。

岩石の下からサヌカイトの石斧とサヌカイト片がひと固まりに出土したという話は興味深いが、石器と剥片をもって祭祀の磐境と直結することはできず、生活の跡としての岩石の用途を越えるものとはなっていない。


参考文献

  • 皇祖聖蹟莵田高城顕彰会 編『神武天皇建国聖地内牧考』,皇祖聖蹟莵田高城顕彰会,昭和14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1023590 (参照 2024-04-01)

2024年4月14日日曜日

近況報告

昨年末から今春にかけて発表された各種成果をお知らせします。

これで数年来の取り組みの大方は出尽くしましたので、またしばらくはインプット作業に専念します。

それまでは下記の成果物をご覧いただけましたら幸甚です。


2023年12月

「愛知県北設楽郡設楽町(旧名倉村域)における自然石の文化財」を『地質と文化』第6巻第2号で発表しました。

地域調査の報告書ですが、自然石文化の取扱説明書としてお読みいただくことができます。

下のpdfで全文公開されています。

https://drive.google.com/file/d/1Fq9Rl8UfF6xiVf3Mf0JoJkxajNBiBxov/view?usp=sharing


2024年2月

「失われし岩石・巨石信仰。畏れと期待、その世界観とは。吉川宗明氏インタビュー」が、webメディア「Less is More. 」で掲載されました。

私および岩石信仰の世界を知っていただける、名刺代わりの文章となりました。

下のリンクからどうぞ。

https://note-infomart.jp/n/n2717b9684e42


2024年3月

「岩石信仰研究の視点」が、京都大学学術出版会刊『変動帯の文化地質学』に収録されました。

論文の体裁ではありますが、書籍の刊行意図に合わせて内容は概要的なまとめと後学への問題提起を主としています。

数年間はこの手の文を書く予定がないので、遺言めいたメッセージを込めました。

購入は下記の出版社HPや当HPのカタログからどうぞ。

https://www.kyoto-up.or.jp/books/9784814005161.html


2024年3月

平凡社刊『最新 地学事典』の「磐座」の項目を執筆しました。

150字程度のものですが、バランスの取れた磐座の意味を後世に残すことができました。

磐座の意味として参照されていくことを願います。

購入は下記の出版社HPや当HPのカタログからどうぞ。

https://www.heibonsha.co.jp/book/b640570.html


2024年3月

「愛知県設楽町における岩石信仰の地質学的検証」を『大谷大学真宗総合研究所研究紀要』第41号で発表しました。

地質学者の鈴木寿志氏との共著です。地質学的見地はすべて鈴木先生によるもので、私は本論を岩石信仰の学史の中に位置付けるところを負いました。

あの巨石は人工物で巨石文化の遺産――などの言説に出会ったら、本論文を使って釘を刺していただければ幸いです。

pdfで全文公開されています。

https://otani.repo.nii.ac.jp/records/2000162