2025年12月13日

鬼岩(岐阜県瑞浪市)

岐阜県瑞浪市日吉町西ヶ洞


12世紀末、美濃国関(現・関市)で生まれた太郎(関の太郎)は粗暴な性格につき放逐されて、この渓谷の岩屋に流れ着いた。この場所は旧東山道に面していたため、往来する旅人や周辺住民に悪事を働くようになり、関の太郎は鬼として恐れられた。

この悪評を耳にした都から討伐軍が派遣されたが、岩屋は自然の要害で苦戦した。そこで大寺山願興寺(現・御嵩町)に祈願したところ、同寺の祭日に関の太郎が現れこれを捕獲することに成功した。

斬首の段になって、太郎は「吾今法心を起し薬師如来の佛恩を受け永劫其功徳に依り衆生に仏果を得ざしめん」と述べ、これをもって太郎は悪鬼から善鬼に転じ、魔除けの信仰対象としてまつられることになった(以上「鬼人岩屋由来記」)。


民話にはバリエーションがあるため、単純に悪さをした太郎が討伐されるだけの話で終わるパターンもあるが、上記の由来記によると太郎は善鬼となっており、仏法の守護者としてまつられる存在でもある。

そのような聖なる存在が宿っていた場所が鬼岩の地であると言え、この場合は聖跡型の事例とみなすことができる。


鬼岩の渓谷は花崗岩が織りなす奇観であり、昭和9年には名称及び天然記念物に指定された。戦後は鬼岩公園として温泉街と共に観光地化が進んだが、現在は全国の地方観光地と同様にその持続化が模索されている。

岩石はそこにあり続けるが、一度、人の手が入った岩石はメンテナンスされなくなることで、将来の人々の利活用に難を残す。持続的に興味関心を持たれ続けられることを願う。


太郎岩・菜箸岩


屏風岩


潜り岩

いわゆる岩屋部分をかつては潜り岩と称したらしい。


関ノ岩屋・中ノ岩屋・鬼ノ岩屋

位置によって岩屋の名称が分かれている。


蓮華岩


展望岩


臼岩



その他、「行者岩」「俎板岩」「狙岩(俎岩?)」「たぬき岩」「双ッ岩」「烏帽子岩」「亀岩」「鋏岩」「源吾岩」「蓬莱岩」「鬼の一刀石」「御智那岩(おちないわ)」などの岩石が存在する。

この内、「鬼の一刀石」「御智那岩(おちないわ)」は2009年訪問時点の現地看板には掲載されていなかったので、近年の「鬼滅の刃の一刀石」や「落ちない岩」の影響を受けて新たに命名された岩石の可能性がある。


参考文献

  • 岐阜県 編『岐阜県史蹟名勝天然記念物調査報告書』第4回,岐阜県図書館協会,1971. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12592121 (参照 2025-12-10)
  • 鬼岩観光協会「鬼人岩屋由来記」1980年(現地看板)


2025年12月7日

岩神の飛石(群馬県前橋市)


群馬県前橋市昭和町




岩神稲荷神社の境内に存在。現地の地名「岩神」の由来とされる高さ9.47mの岩塊で、地下にも約10mにわたって埋没しているとされる。

飛石には祟り伝承が付帯する。石工が石材に用いようとノミを入れたところ、真っ赤な血が吹き出た。逃げ帰った石工は祟りのせいで後日死んでしまい、これを恐れた人々によって神としてまつられたという。

赤褐色の岩肌をもつことから血の発想を得たと思われるが、岩石から血が出るという生き物扱いをされていること、岩石自体が岩神と呼ばれ本殿に位置していること、岩石自体に意思の発動が見られることから、石神の事例として認められる。


都市部に独立して存在する巨岩であることから国指定天然記念物として古くから著名な存在であり、かつては近くの赤城山から噴出した火山岩と目されていたが、近年の理化学的調査により西の浅間山から流れ着いた安山岩と考えられている。

同時期に行われた発掘調査からは近世以降の遺物が出土し、江戸初期、前橋藩主の酒井重忠が岩神稲荷神社を勧請したといういわれと時代的に一致することになる。


これらの調査および飛石の詳細は以下の報告書にまとめられ、インターネット上で公開されている。

技研コンサル株式会社 2016 『国指定天然記念物 岩神の飛石環境整備事業報告書』前橋市教育委員会 

2025年11月30日

石谷山/ビク石山(静岡県藤枝市)


静岡県藤枝市瀬戸ノ谷


ビク石山の通称で知られるが、石谷山が正式の山名である。

標高526mを計るが、山頂近くに「市民の森」公園が整備されており、西側経由で山頂近くまで車で乗りつけることができる。


山頂一帯と東斜面を中心に、多くの岩石群が確認されている。

特に東斜面の岩石群は笹川八十八石と総称され、山頂やや下にある一巨石にビク石の名が付く。山名の由来である。

ビク石(上部)

ビク石(下部)

巨人ダイダラボッチの伝説が付帯する。悪さをしたダイダラボッチに罰として、西の国から土を採り東の国に高い山を作れと神が命じた。ダイダラボッチは籠(びく)に土を入れて運び、高い山は富士山となり、土を採られた場所は琵琶湖となった。

この時、籠から落ちた石がビク石だという話もあれば、ビク石の形状が籠に似ていることから名付けられたという話もある。


そのほか、山頂一帯には宮石・かさ石・剣ヶ石・平石・富士見石・大名石・頂上石・がま石・滝見石・夫婦岩などが存在する。

宮石

かさ石

平石

大名石

頂上石

がま石

山頂岩石群の北部には特に岩石が密集し、岩石名を同定しにくい。

さらに笹川八十八石にも、その一つ一つに名前が付いているものがある。確認できたかぎり、表石・赤石・黒石・めがね石・ふくろう石・五色石・のぞき石・こうもり石・恐竜石・なめくじ石・らくだ石・腰叩き石・象石・座禅石・なだれ石・菊石・見上げ石・鏡石の名を確認できる。

「八十八」は膨大さを表す冠名と見て良いが、その他にも名前の付いた岩石があるかもしれないし、それぞれが現地のどこに該当するかは情報不足である。


以上の点から、石谷山の岩石群はおびただしく存在し、その光景から特別視されて命名された岩石が多いものの、過去に祭祀・信仰を行なっていた記録や痕跡は確認できない。寺社も伝わらず、現在も神聖視の対象としては見受けられないこと自体が興味深い特徴である。


2025年11月23日

鳳来寺山の岩石信仰(愛知県新城市)

愛知県新城市門谷鳳来寺


大宝2年(702年)、鳳来寺が開山されたことから鳳来寺山の名で呼ばれる。

平安時代の文献に「鳳来寺」の名が登場することから、この頃から山岳仏教の霊山としてあったことは疑いない。

山中各所に岩盤が露出し、主に鳳来寺に関した岩石信仰を伝える。未訪の場所も多いので簡単に紹介する。


屏風岩/鏡岩


鳳来寺山のシンボルと言ってよい広大な岩肌。

かつては屏風岩という名称が広く用いられていたが、昭和41年、屏風岩の下から鎌倉時代の鏡や経塚関係遺物などが出土したので、それ以降は鏡岩の名前が定着したということがわかっている。歴史的には屏風岩が元来的名称ということに気をつけたい。

特段の伝承を持たない岩石だが、鳳来寺の本堂や鐘楼は屏風岩の懐に抱かれるように形成されており、明らかに鳳来寺岩石信仰の中心をなす。伝承や物語でわざわざ言語化する必要さえない存在(感)なのかもしれない。


勝岳不動


鳳来寺を開山した利修仙人が入寂した場所。巨岩の懐を聖者の墓所とする事例として数えられる。


奥の院


鳳来寺境内の最高所であり、利修仙人と薬師如来をまつる。

奥の院背後の岩崖は修行の場として使われており、山岳行場の一典型である。


龍の爪あと/鬼の爪あと


荒々しい岩肌に爪状の剥落痕が残る。

龍が天に昇る時についた爪あととも、利修仙人に仕えた鬼の爪あとともいわれる。


岩倉大明神


龍の爪あとに接して立てられた石碑に「岩倉大明神」と刻まれている。

「いわくら大明神」という神名は磐座を神格化したものか。石碑そのものを大明神として崇めるのか、背後の岩肌(龍の爪あと)を大明神と号するために建立したのかはわからない。前者なら御霊代の役割であり、後者なら標示ないし奉献物としての役割を果たす。

新城市には延喜式内社の石座神社も鎮座する地なので、「いわくら」を岩石信仰とする風土が続いてきたのはたしかである。


胎内くぐり


寄り添いあう巨岩内に形成された隙間に石仏群がまつられている。全国数多存在する胎内くぐりの事例である。


その他の事例

『三州鳳来寺山文献集成』(1978年)に収められた、鳳来寺縁起に関する最古の記録は『鳳来寺興記』となる。

慶安元年(1648年)に書かれた文献であり。ここには高座石・巫女石が登場する。仙人(おそらく履修千人)が山上で説法を行い、天から舞い降りた8人の巫女がこれを聞いたという話が収録されている。その仙人が座したのが高座石で、巫女が影向したのが巫女石という。


そのほか、名号岩・牛岩・双頭岩・双子岩・馬の背岩・天狗岩・鷹打場・鬼の味噌倉・酒倉・富士見岩・夫婦岩という岩石が記されている。

夫婦岩については、行者越道に夫婦石と石神があると『郷土』石特集号(1932年)に記されているものと同一の可能性がある。


参考文献

  • 川合重雄・河原慶一・小村正之・竹下正直・林正雄・牧野劭[編]『三州鳳来寺山文献集成』愛知県郷土資料刊行会 1978年
  • 『郷土』第2巻第1・2・3号合冊(1932年)


2025年11月16日

坂手神社の岩石祭祀事例(愛知県一宮市)

愛知県一宮市佐千原


境内に「磐境石(おぼれ石)」と「坂手大神御神石」の2つの神石が存在する。

磐境石/おぼれ石

坂手大神御神石


これらが岩石祭祀事例であることは言を俟たないが、詳細は不明点が多い。

小池昭氏の『遥かなる雲間に―尾張の神話・他―』(私家版 1992年)に唯一、本殿西南に自然石をまつるの一文が確認できるくらいで、後は現地看板に頼るしかない。
「坂手大神御神石」の看板にはこうある。

現地看板

享保2年(1717年)に建立された磐座だと具体的な年代まで記されている。おそらく地元にしか伝わっていないような情報ソースがあるのだろう。
岩石の表面には「坂手大神」の四字も刻まれ、磐座という表現よりも神号を刻んだ石碑を神の御霊代としてまつったものとみるのが正確だ。岩石の規模が小さければ、本殿内にまつる石体・神体石のような位置づけのものである。

注連縄で若干隠れているが「坂手大神」の刻字が確認できる。

残る「磐境石」には神号が刻まれておらず、先の御神石とはまた出自が異なる自然石信仰に端を発する可能性がある。
ただし、磐境石は天王社(津島社)の祠と共に基壇の上に置かれており、地中に根を張る岩盤としての信仰ではなく場所を移されても問題ない、可動的な性質の岩石としてあったようである。

「おぼれ石」という名称は、「負ばれ」(おばれる、背負う)の転訛だろうか。であれば類例も他で見られる。
「磐境石」という学問的な名のほうが歴史的な類例は少なく、「おぼれ石」という俗名のほうが元の古称かもしれない。

磐境石(おぼれ石)の背面

坂手神社は延喜式内社であるが、神社やや東が旧鎮座地であったという伝えもあり、そこは伊勢神宮の御厨の一つである佐千原御厨や元伊勢伝承地の中島宮址という伝承もある。

また、神社のすぐ北には富塚古墳という直径30mの大型円墳が残っており、このような古墳との関係を重視する向きもある(前掲書)。