2025年9月5日(金) 19時25分~21時54分、テレビ東京系列「所でナンじゃこりゃ!?」に取材コメント放送予定(1分ほど?)です。
番組内容は番組ホームページの告知にてご覧ください。
番組ホームページ
https://www.tv-tokyo.co.jp/broad_tvtokyo/program/detail/202509/23083_202509051925.html
2025年9月5日(金) 19時25分~21時54分、テレビ東京系列「所でナンじゃこりゃ!?」に取材コメント放送予定(1分ほど?)です。
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御許山あるいは大元山の石神で、この山は現在宇佐八幡宮からかなり離れて、南の方へ一里半か二里ばかり行った所にございまして、その頂上には三個の立石が立っております。これが宇佐八幡宮の元だといわれております。これは私も拝観いたしましたが、実際自然石がちょうど並んで三個立っておられます。(略)『八幡愚童訓』という本には、この石はやはり生き石で人体のように暖かみがあるというようなことが書いてあります。やはりそういう風に、特別な精霊をもっているのだ、と古代人は考えていたのだろうと思うのです。
大場磐雄 「日本に於ける石信仰の考古学的考察」 『國學院大學日本文化研究所紀要』第8輯 1961年
國學院大學デジタルミュージアムが公開する「大場磐雄博士写真資料」には、本調査時に大場博士が撮影した写真もクリエイティブ・コモンズ・ライセンス済資料として公開されている。
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宇佐神宮, 九 94~103 [乾板九 94~103], 99 宇佐神宮(昭和十四年七月~八月), 宇佐 八幡 神体/國學院大學博物館所蔵/クリエイティブ・コモンズ・ライセンス済資料 |
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前掲に同じ |
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前掲に同じ |
大場博士は、石が人体のように暖かみを持っているという伝説から、博士が唱えた石神・磐座・磐境の3つの分類のうち、「石神」の事例として評価している。
御許山・大元山は馬城峯(まきのみね)の別称も持ち、岩石の名も三石・三ノ石・石体・石体権現などの表現があるが人によって呼称がばらばらで確定していない。
また、三石を中心に禁足地内には数々の名称付きの岩石群が記録されている。
正和2年(1313年)成立の『八幡宇佐宮御託宣集』には、次の九つの岩石が絵図に注記されている。
一、二、三はいわゆる中心となる三石であり、やはり名称が特に固定されていない。
四~九は仏家による付会と見る説が濃厚だが、いずれにしても現在禁足地のため文献上に残る記録としてまとめておいた。
雨乞山(標高233m) |
雨乞山は海抜三百米で、頂上に小さな雨乞神社がある。この社には御神体として、石剣が奉祀してあったもので、夏日旱天が打ち続いて、水田が旱魃し農家の困る時は村中の者が参籠して、御祈祷をしたもので、幾日も打ち続いて、此の御神体なる石剣に湿気を帯びて来ると必らず降雨のあったもので、霊験あらたかな神として、信仰があつかった。泉村々史編纂会 編『泉村々史』,泉村々史編纂会,1956. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2991712 (参照 2025-08-24)
雨乞神社 |
岩穴状の空間に祠を安置する。古くはこの祠内に石剣をまつったということになる。 |
細江町気賀の長楽寺の北側にある「行者岩」と呼称される巨岩上から渥美窯製の経筒外容器を採集した。それらは細片であって復元は困難であるが、天白磐座遺跡出土の外容器と同型に属する資料であった。長楽寺は平安時代の開創と伝えられ、当初は行者岩直下の平坦地にあったといわれている。長楽寺の山号「光岩山」はチャート質で白色を呈する巨岩「行者岩」に由来することは間違いない。辰巳和弘『引佐町の古墳文化5 天白磐座遺跡』引佐町教育委員会 1992年
本堂跡 |
登り道から本堂跡背後を撮影。登り道の位置関係の参考として。 |
蛇行する舗装道の折り返し地点。写真左奥に入ると行者岩に到る。 |
行者岩頂部 |
行者岩からの眺望。浜名湖も見える。 |
行者岩の岩肌。岩崖である。 |
行者岩下部。「光岩」に相応しく白く輝く。 |
長楽寺庭園から望む行者岩(写真中央下) |
御嶽(御岳・御嶽山)の中腹にあり、国指定特別天然記念物として著名な岩石である。
鏡岩 |
陽光が射すと岩肌がしっかり輝く(前の写真と比較)。晴天の午前中の訪問をお薦めする。 |
光り輝く岩肌に対して畏怖や忌避の心理が読み取れるが、たとえば信仰の対象としての神聖視とまでは直接的には読み取れないことに留意したい。
麓に武蔵国二ノ宮の金鑚神社が鎮座することから、金鑚神社のご神体石のように言及される例も見受けられるが、金鑚神社が特段の神事を行う対象とはなっていない。
神職家の方の談として、かつては子どもたちが滑り台のように遊んでいたことや、昭和30年代に起こった石のブームで鏡岩を切り欠く人達がいたので今のように鉄柵で囲った話も聞き取りされている(林 2000年)。
親しみをもって大切にされてきた岩石であることは伝わるが、神社信仰の中心という役割を担っていたわけではないことがわかる。
もちろん、かつては岩石信仰の場だったという可能性と、今残る奇異・忌避の伝説はその残滓だったとみなす立場までは否定しきれない。
しかしその場合でも、金鑚神社が神体山としてまつるのは鏡岩が存する御嶽の方向ではなく、北にそびえる御室山(御室ヶ嶽)の方向であることに何らかの説明が必要だろう。
長い歴史の中で鏡岩を神聖視した人もゼロではなかっただろうと容易に想像されるが、記録に忠実であるなら、歴史学的な資料の扱いとしては信仰というより特別視(畏怖・忌避)の事例として把握することが現状望ましい。
金鑚神社の「かなさな」は「金砂」から由来するとみなされており、日本武尊が自らの火鑚金(火打金)を御室山に埋納したという神社創建由来が伝わる。
金鑚神社における岩石信仰とは、正確に言えばこの火鑚金(火打石)ということになる。
山中にどのあたりが埋納地なのかという位置や実在の有無については不明であるが、山中の岩石は鉄分を多分に含み、実際に鉱石の採掘坑も確認されているという(岡本 2003年)。
御室山・御嶽の一帯が金属採掘の地として重要視され、鉱石を産む山として山岳信仰と岩石信仰たる金鑚神社信仰が成立したことは肯けるところだろう。
御嶽頂上は岩山となっているが、その岩山を構成する岩盤の下部に形成された岩陰。
弁慶が奥州へ逃れる時にこの穴の中で一夜を過ごしたという(山崎 1986年)。
弁慶穴 |
なお、現地看板によると弁慶穴の下東に「地蔵穴」なる別の岩穴があり地蔵石仏を安置していたらしいが、その場所は情報不足につき未確認である。
御嶽は中近世に修験道の行場となり、山名のとおりその後は木曽御嶽山信仰の影響も受けた。
御嶽の山頂には「奥宮」の石祠が設けられているが、岩山の手前には平坦地が広がり、この辺りに護摩壇が形成されていたという。
御嶽山頂の岩山 |
岩山手前に形成された平坦面と奥宮石祠 |
また、山中には今も70体余りの石仏が確認されているほか、「袖すり岩」「胎内くぐり」と呼ばれる岩場も存在するという(位置不明)。
御嶽の石仏群(一部。場所は原位置ではなく移動されている) |
現地看板。ここにしか載っていない存在が「地蔵穴」「袖すり岩」「胎内くぐり」 |
源義家が馬を繋いだ石と伝わる。金鑚神社境内にある岩石だが見逃した。
岡本一雄『金鑚神社』(2003年)には「義家橋と駒繋ぎ石(手前左)」と題された写真があり、端に向かって左手前の岩石を駒繋石と紹介する。一方で同書のp.10~11に掲載された明治35年の「官幣中社金鑚神社境内真景」絵図には、橋に向かって右手前に「駒繋石」の注記と絵が描かれる。
橋の左と右の違いがあるが、歴史の経過で場所が変遷した可能性がある。
参考文献