2022年5月30日月曜日

掲示板過去ログ 2006年~2022年


2001年~2022年運営していた掲示板の投稿を保存します。
(管理人の恥ずかしい発言から、皆様の有難いご意見ご感想まで)

※過去ログ上の文章・画像は、元来それぞれの投稿者が権利を有します。ログが消えないように、管理人としてこれを保存するものです。

※12年間にわたる投稿のテキストをただコピーしただけですので閲覧性が悪いですが、ctrl+Fやブラウザの検索機能を利用して、調べたいキーワードで情報収集すると便利かもしれません。

※画像はGoogleフォトのアルバム「掲示板画像 2006年~2022年」内に保管・共有しています。各投稿に配置整列する余裕がなく申し訳ありません。

Googleフォトのアルバム「掲示板画像 2006年~2022年」https://photos.app.goo.gl/wupQjEMD2FZbCkQg8





掲示板サービス終了のお知らせ 投稿者:MURY(吉川) 投稿日:2022年 3月13日(日)21時13分58秒 返信・引用

本掲示板の運営会社であるteacup.から、2022年8月1日(月)13:00をもって掲示板サービスが終了されるとの告知がありました。




これに伴い、この掲示板の運用も終了いたします。

掲示板の投稿も重要な記録情報と考え、https://www.megalithmury.com/においてできる限りではありますがアーカイブ化いたします。




今後は、https://www.megalithmury.com/の各記事投稿欄やお問い合わせフォームをご活用いただければ幸いです。




今まで投稿、閲覧していただいた皆様へお礼申し上げます。ありがとうございました。

https://www.megalithmury.com/






Re: 迫間不動尊について 投稿者:MURY(吉川) 投稿日:2022年 2月23日(水)01時40分51秒 返信・引用

> No.1343[元記事へ]




酒井様




迫間不動尊の貴重な情報ご教示を誠にありがとうございます。管理人の吉川と申します。

堂守の選出方法の移り変わりから三ノ池摩利支天の奇譚のお話、そして白山講とも関りが強いことまで、一つ一つ興味深く拝読しました。




縁起12年に本尊が焼失の出典につきましては、私が2010年5月に参詣時にお寺でいただいた寺伝(由緒書)に書いてあったと記憶しています。

今、資料が手元に探し当てられず原文を起こせませんが、当時まとめたメモによると下記のとおりです。




「延喜12年(912年)には本尊が自然と焼失した。これは当時の人々の信仰が怠惰になっていたためと信じられ、その反省から再建時には虚飾を取り払い、改めて本尊をまつったという。」




失礼のあってはいけないことですので、もし誤読があればご指摘くださいませ。修正いたします。



迫間不動尊について 投稿者:酒井雅敏 投稿日:2022年 2月21日(月)21時00分41秒 返信・引用

迫間不動尊のある関市迫間の住民です。78歳です。お聞きしたいことと情報提供と思い投稿します。

1 迫間不動尊の縁起は、昭和40年代に当時堂守(堂守希望者は村の入札に参加、一年間の管理料)の田口さん(明治30年代のお生まれ)が作成されたと聞いております。また、関市史にも同様な内容で掲載あり。延喜12年焼失の資料は、出所はどこでしょうか。

2 三ノ池摩利支天の岩は、小生中学3年で母と不動尊へ受験祈願にお参りしました。その時のおくりさん(田口さんの妻)が今朝奥の院へ上がるとき、この場にこの岩が歩道(当時は一人が歩ける程度の歩道)にあった。廻りを見渡しても岩が抜け落ちた穴もなく、どうしたもんでしょうね。と言っておられました。その後お礼参りにきましたら、このようなお堂に岩が収まっておられました。不思議ですね。10年前に御嶽山に関わる方に此のお話をいたしましたら、その頃高山の位山で火伏の行をされた修験者がおられ、その方のお力ではないかとか。でした。

 御嶽講との関りは比較的近世の頃で、白山講との関りが強いと聞いております。

昭和40年代に法人になり昭和の終わりころからは、堂守も村の選挙で選ばれ60歳以上の男性9名が行っております。

昭和の頃は年間30万人の参拝者あるも、近年は19万人(関市調査)と減少、不動尊経営にも企業努力が必要となってきました。

貴方様の巨岩等の学会の存在を初めて知りました。会の益々のご発展をお祈り申し上げます。

Re: 明けましておめでとうございます 投稿者:MURY 投稿日:2022年 1月 1日(土)22時22分53秒 返信・引用

> No.1341[元記事へ]




新年あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い申し上げます。




弁天岩は神社の創建と関わる場所だそうで、ご教示いただいてから調べてみました。

カメラのアングルを見るかぎり、厳しい場所にあるみたいですね。




私も、自分の町をこんなに知らなかったのかと、今でも新しい岩石に出会うことで毎年思わされます。



明けましておめでとうございます 投稿者:uzi 投稿日:2022年 1月 1日(土)16時57分42秒 返信・引用

宇流冨志禰神社にある弁天岩です。

(黒っぽい木の根の下、岩盤が一部はみ出した様な岩)

名張に住んで長いですが、昨年存在を初めて知りました。




https://miniuzi0502.sakura.ne.jp/






ありがとうございます! 投稿者:岡原宣仁 投稿日:2021年 3月 9日(火)21時09分49秒 返信・引用

参考情報、お教えいただき、ありがとうございました!

 和布刈のものは、実際、なかなか大きく、迫力がありますよ。

 遺物などは出てないみたいですが、、、

日の峯のものは、たくさんの土器類など、出ていることが、

調査報告書に記録されてますが、どんな人たちの手によるものかまでは、わからないようですね。ただ、これらの場所は、神聖でありながらも立ち入り禁止ではないことが、沖ノ島と違います。なぜ、沖の島が、あれほどまでに、禁止なのか?そこから考えていけば何か見えてくるかもしれません。

Re: 初めまして! 投稿者:MURY 投稿日:2021年 3月 9日(火)01時14分18秒 返信・引用

> No.1338[元記事へ]




岡原さま、はじめまして。




和布刈神社の社殿背後の岩盤は知らなかったもので、検索して写真を何枚か見ることができました。ありがとうございます。




岩石をまつっていたものが、後に神社となったのか、

神社を建てる場所に岩石が出ている場所をポイントとして選んだのか…




これは、おっしゃるように微妙に異なりますね。

国家的祭祀と在地的祭祀の違いと共に、これらはまだ私の中では未解決課題です。




ご参考となる情報として、下記pdfリンクをご紹介します。

https://www.kyuhaku.jp/exhibition/img/dazaifu/no01-07.pdf




特に第四章の小嶋篤氏「巨岩と社殿」の論考をご一読いただければ、岡原さまの疑問と響き合う情報が含まれているのではないかと存じます。 

初めまして! 投稿者:岡原宣仁 投稿日:2021年 3月 7日(日)08時24分24秒 返信・引用

偶然、みつtけることができました。

 特に、地元、日の峯山、記事を見て驚きました!私も、ここを知ったとき、

沖ノ島を思い出しましたが、やはり、国家的な場所と、そうでない場所では、違いが出てくるのでしょうか?




 また、門司、和布刈神社の社殿の後ろも、おそらく、岩盤信仰では?詳しいことはわからないそうですが、ご神体出現などの伝承もあります。しめなわも。

 やはり、信仰の対象だったのでは?と思いますが、どうでしょうか?

また、いわゆる、神社そのものの、ご神体とは別のようです。神社建立の場所として、えらばれたのでは?という気がしますが、、、

 何か、ご存知でしたら、お教えください!

Re: 生石神社 投稿者:MURY 投稿日:2021年 1月 5日(火)16時41分26秒 返信・引用

> No.1336[元記事へ]




私も約10年前に、紀ノ川近くのビジネスホテルに宿を借りてあの辺りを周遊したのを思い出します。




生石神社、ぜひ行かれてみてください。

生石高原の上にありますが、車で(やや幅狭ですが)神社手前まで行けます。立地的には、こんなところにあるんだと少し不思議な感想も抱きました。

この高原でガソリン表示灯が点灯したのに気づいて、焦って下り坂をほぼ慣性で返ってガソスタを探したにも懐かしい思い出です。




八雲神社の位置も地図検索で見た時に、予想と反して国道23号の海岸側なんだと意外に思いました。

山がないところの山ノ神の習俗もよく見ますが、たしかに興味深いですね。

生石神社 投稿者:uzi 投稿日:2021年 1月 4日(月)21時12分23秒 返信・引用

兵庫県高砂市の生石【おうしこ】神社です。

和歌山県の有田にも生石【せうせき】神社があったんですね。知りませんでした。

しかもオオナムチ、スクナヒコナと同じ御祭神。

有田といえば20年ほど前、和歌山の日前神宮・國懸神宮、伊太祁曾神社等を廻った折、有田川のそばのビジネスホテルに泊まったのを思い出しました。

有田市千田の須佐神社にも近いし、また同じコースをたどって生石神社にも行きたくなりました。




北斗さんが八雲神社に集められたのは昭和60年頃だそうです。

いつ頃から祀られていたのか、資料などが無く不明のようです。

旧三雲村には、山ノ神も方々で祀られています。

名張と違い山が無いのに興味深いです。

https://miniuzi0502.sakura.ne.jp/index.html






Re: 岩石祭祀巡り 投稿者:MURY 投稿日:2021年 1月 3日(日)10時41分22秒 返信・引用

> No.1334[元記事へ]




新年あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いします。




岩石祭祀巡りということで、ご投稿を楽しく読ませていただきました。

生石神社は兵庫県高砂市の有名な石の宝殿のところでしょうか。和歌山県の有田にも巨岩をまつる生石神社があるもので。

https://www.megalithmury.com/2017/08/blog-post_20.html




松阪市笠松町の「北斗さん」「七つ石」は、類例を知りませんが、大変珍しい石の風習と感じます。

町全体に北斗七星の形に置かれるとなると、一部流行りのレイライン的な発想も思い出しますが、笠松町の例はいつ始まったものか興味深いです。



岩石祭祀巡り 投稿者:uzi 投稿日:2021年 1月 3日(日)08時36分12秒 返信・引用

明けましておめでとうございます。

昨年は、生石神社と松阪(旧三雲村)の山ノ神巡りでした。

松阪市笠松町の八雲神社へ山ノ神碑を見に行ったおり、「北斗さん」「七つ石」と呼ばれているものがありました。

(添付写真。北斗七星の形に置かれているもの)(手前は山ノ神碑)

その石には北斗七星の個々の星の名(中国名)が刻まれています。

元々は町全体に北斗七星の形に置かれていたものだそうです。




https://miniuzi0502.sakura.ne.jp/index.html






Re: 沖縄の祭祀 投稿者:MURY 投稿日:2020年 1月 6日(月)21時23分18秒 返信・引用

> No.1332[元記事へ]




他にも霊石が採集されていて、一つ一つ名前が違うんですね。




ヒヌカンの佇まいが好きです。



沖縄の祭祀 投稿者:uzi 投稿日:2020年 1月 4日(土)07時57分0秒 返信・引用

一枚目は「ビジル」という名前がついていて宮古島の霊石だそうです。

1979年に複製したものと書かれていました。

二枚目は「ヒヌカン」(沖縄県竹富町)で火の神だそうです。山の神と同じような命名の仕方ですね。

1978年収集だそうです。

「ヒヌカン(火の神)・ニーバ(屋敷神)

沖縄のイエでは、竈の神であるヒヌカンや、屋敷を守護する地神であるニーバなど、さまざまなイエの守護神が広く信仰された。」

そうです。







https://miniuzi0502.sakura.ne.jp/index.html






Re: あけましておめでとうございます 投稿者:MURY 投稿日:2020年 1月 4日(土)00時52分58秒 返信・引用

> No.1330[元記事へ]




uziさん、あけましておめでとうございます。




新年から素晴らしい霊石をありがとうございます。




テンジローブチで検索してもほとんど出てこないですね。




奇石と呼ぶにふさわしい、唯一無二の形状です。

インスピレーションを湧きたてられた人がいたのでしょう。

博物館に入れられると、保管性と公表性は増しますが、信仰は止まってしまったとも思ってしまいます。

あけましておめでとうございます 投稿者:uzi 投稿日:2020年 1月 2日(木)10時00分35秒 返信・引用

本年もよろしくお願い致します。




写真は、霊石「テンジローブチ」(宮古島)

千里の国立民族学博物館で撮影しました。「1954年収集」と書かれていました。




https://miniuzi0502.sakura.ne.jp/






Re: 三夜沢赤城神社 投稿者:チェリー 投稿日:2019年 4月 1日(月)02時15分8秒 返信・引用

> No.1324[元記事へ]




『古墳の方位と太陽』(同成社、2017年)を御紹介いただきまして、ありがとうございます!是非とも読んでみます!

読書のスピードがすごく遅くなってきてるので、忘れた頃にお返事すると思います!!

Re: 出水の酒舟石 投稿者:MURY 投稿日:2019年 3月23日(土)23時43分29秒 返信・引用

> No.1323[元記事へ]




uziさんへのお返事です。




飛鳥京跡苑池、復元の状態が面白そうですね。

ここ10年に史跡整備された所の情報が追い付いておらず、飛鳥資料館や亀形石造物などもまた見学しにいかないといけません。

(もう一度見たいのは益田岩舟です)




> 明日香の甘南備(神名火)有力候補ミハ山にも登りました。




飛鳥坐神社が829年まで鎮座していたという「飛鳥神奈備」ですね。

「甘橿丘」「雷岡」「ミハ山」の3ヶ所が主な候補地でよかったでしょうか。




甘南備の上の神社がありうるかという点ですが、三輪山が目立つだけで、奈良県に山の上の神社はまま見られますし、候補地はいずれも低山ですから、社殿という形で存在してもおかしくないと思います。

Re: 三夜沢赤城神社 投稿者:MURY 投稿日:2019年 3月23日(土)23時34分52秒 返信・引用

> No.1322[元記事へ]




チェリーさんへのお返事です。




> ラインを「方位線」・「太陽の運行線」・「それ以外の直線(レイライン)」にそれぞれ分けて考えることに大賛成です!




チェリーさんの太鼓判をいただけてほっとしました。

人工・自然は置いておき、結果として生じる「一つの線」を当時の人々がどう認知しえたかというところへ問題意識が移ってきています。




> 「方位線」はとんでもなく奥が深くて、頭がおかしくなってしまうような事例に遭遇することがありますので、注意が必要です…




チェリーさんには、ぜひ考古学者の北條芳隆さんが書かれた『古墳の方位と太陽』(同成社、2017年)をお読みになって、ご講評いただきたいです。

https://www.amazon.co.jp/dp/4886217648/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_hcKLCbRXAYBVK




私には素養がなく読むのが難しく、頁をめくりながら、チェリーさんならどう思われるだろうか、と思いを巡らせていました。

お値段が高い本ですが、ご検討いただけないでしょうか。




> 三重県鈴鹿市の「入道ヶ岳」の写真を載せますね!頂上の鳥居からの写真なのですが、奥の宮は、その背後に覗く山を意識して建てられているように思います。この山が、鈴鹿山脈第二の高峰「雨乞岳」なのです!この場合は方位の角度はありません。




昔、『東アジアの古代文化』28号で辰巳雅之氏が書かれた「山と巨石と太陽祭祀」の一節を思い出しました。以下に引用します。




「京都の松尾大社の背後には、近江の日吉神社の神体山、八王子山に似た秀麗な小峰がある。ところがふだんはまったく見えず、白いもやなどのかかった時だけ見えるのだ。もやは、わずかな遠近感をあざやかに浮きだたせる作用を持つ。」




こちらは「もや」を手がかりにした現地体感的な「山のさらに奥の山」を評価する話ですが、上から俯瞰して考える視点とはまた異なり、印象に残っていました。

出水の酒舟石 投稿者:uzi 投稿日:2019年 3月23日(土)21時12分6秒 返信・引用

「飛鳥の石造物と岩石信仰」を拝見いたしました。

私は、松本清張の小説「火の路」で、出水の酒舟石の存在を知りました。

ずっと後に、飛鳥資料館でそのレプリカを見て、形状を知りました。

今年2月飛鳥京跡苑池に行きましたが、休憩室だったかに苑池に関する文書、写真とともに、苑池のレプリカ(添付写真)があり、出水の酒舟石がこの地で発見されたことを知りました。

明日香の甘南備(神名火)有力候補ミハ山にも登りました。

こちらの掲示板に頂上付近の磐座?の写真をアップしようかと思っていたら、MURYさんがちゃんとアップされていました。




https://miniuzi0502.sakura.ne.jp/index.html






Re: 三夜沢赤城神社 投稿者:チェリー 投稿日:2019年 3月23日(土)02時43分46秒 返信・引用

> No.1321[元記事へ]




MURYさん、ありがとうございます!




群馬県教育委員会の埋蔵文化財マップ「マッピングぐんま」を開くことができました。

櫃石・西大室丸山遺跡とも、径100mくらいの範囲で表示されていました。

それぞれの中心あたりを直線でつなぐと、産泰神社の社殿の奥から40mくらい東を通りました。石山からだともっと近いことになります。レイラインの可能性は十分あると思います!




ラインを「方位線」・「太陽の運行線」・「それ以外の直線(レイライン)」にそれぞれ分けて考えることに大賛成です!「太陽の運行線」・「それ以外の直線(レイライン)」は直感的に理解しやすいのですが、「方位線」はとんでもなく奥が深くて、頭がおかしくなってしまうような事例に遭遇することがありますので、注意が必要です…




三重県鈴鹿市の「入道ヶ岳」の写真を載せますね!頂上の鳥居からの写真なのですが、奥の宮は、その背後に覗く山を意識して建てられているように思います。この山が、鈴鹿山脈第二の高峰「雨乞岳」なのです!この場合は方位の角度はありません。




鳥居の右側は、鎌ヶ岳と、その奥に御在所岳です。雨乞岳も、御在所岳も、その西は京都御所になります。この方位のラインが御在所岳の名前の由来候補にならないかなぁ…と秘かに思っているのですが…















Re: 三夜沢赤城神社 投稿者:MURY 投稿日:2019年 3月17日(日)21時34分38秒 返信・引用

> No.1320[元記事へ]




ご教示ありがとうございます。




ラインを「方位線」と「太陽の運行線」と「それ以外の直線(レイライン)」にそれぞれ頭を分けて考えたいと思っていまして、そうすれば自分なりの理解が進むかと勉強中です。




> 産泰神社の石山は、社殿のすぐ後ろでしょうか?




社殿のすぐ後ろです。




櫃石と西大室丸山遺跡については、私のgoogleマップにもおおよその位置を載せていますが、せっかくなので正確な位置を調べてみました。

奈良文化財研究所の「遺跡データベース」には座標データもあったのですが、なぜか両遺跡とも登録されていませんでした。昔あったような気がするのは気のせいか・・・。




そこで今度は群馬県教育委員会の埋蔵文化財マップが「マッピングぐんま」(https://www2.wagmap.jp/pref-gunma-iseki/Portal)として公開されていますので、こちらで調べてみました。




櫃石

https://www2.wagmap.jp/pref-gunma-iseki/detail?fid=799-270&frp=true




西大室丸山遺跡

https://www2.wagmap.jp/pref-gunma-iseki/detail?fid=261-270&frp=true




リンク先はURLコピペですか見られますでしょうか?

極めて残念なことに座標データが掲載されていませんね。残念!



Re: 三夜沢赤城神社 投稿者:チェリー 投稿日:2019年 3月17日(日)15時42分50秒 返信・引用

> No.1318[元記事へ]




> 櫃石はどう思われますか?

> 櫃石・産泰神社・西大室丸山遺跡の3点でむすぶと直線に近いラインができるのですが、南北線からはずれていきます。




方位の角度で測っていなくても、太陽の動きに関係なくても、直線性を持ったラインはもちろんありです!もともとレイラインはそういったもでは?と思います。とりあえず、私は100m幅の帯に入ればOKとしています。




産泰神社の石山は、社殿のすぐ後ろでしょうか?

櫃石・西大室丸山遺跡とも正確な位置が拾えていないのですが、その3点は多分100m幅に入ると思います。




MURYさんのおっしゃるように、現地の景観が始めの一歩だと思います。ですから、櫃石から見て、または櫃石を目指して直線に並ぶ自然石をポイントとして祀るようになった可能性は十分あると思います。




三輪山周辺も、飛鳥周辺もすごいボリュームで!ゆっくり拝見させていただきます!



大峰山の御亀石 投稿者:チェリー 投稿日:2019年 3月17日(日)13時29分52秒 返信・引用

写真を整理していて気が付いたのですが…

2年前に大峰山に登りました。

五番関から南に進んだのですが、「鐘掛岩」からすぐ南に「御亀石」がありました。

亀といった感じはなくて、なだらかな何かの背中が覗いているといった風情なのですが、今思うと、玉置神社の「玉石社」の石と似てるなぁ…

陀羅尼助丸のお店のホームページの中に、役行者が「お亀石」の場所で33回目の座禅の時に悟りを開かれたとありました。石の上だったのかなぁ…そのままでは傾斜があって座りにくいと思うけど…玉石社の石も、ひょっとして、その上で座禅を組んだのかもしれない…と思いました。












Re: 三夜沢赤城神社 投稿者:MURY 投稿日:2019年 3月17日(日)13時20分37秒 返信・引用

> No.1317[元記事へ]




地図つきありがとうございます。




> 産泰神社から三夜沢赤城神社まで 359.86°でした




神社と神社同士ですから、有意性を認めたくなります。

三夜沢赤城神社の参道と富士山もなるほどなあと思います。




櫃石はどう思われますか?

櫃石・産泰神社・西大室丸山遺跡の3点でむすぶと直線に近いラインができるのですが、南北線からはずれていきます。




神社も石も同一の線上で真北線上に並べられれば良いと思っていたのか、流れ山同士は自然地形だから、地理上の制約が優先されたのでしょうか。



三夜沢赤城神社 投稿者:チェリー 投稿日:2019年 3月12日(火)22時51分13秒 返信・引用

400×300ピクセル以下ならば、出所を明示すれば申請の必要がないとのことですので、地図を掲示させていただきますね!

少しだけ調べてみたのですが、産泰神社から三夜沢赤城神社まで 359.86°でした(北を0°として時計回り)。これは真北と言っていいと思います。産泰神社の巨石群・大室丸山遺跡の遺物集中範囲の正確な位置がわからないのですが、これらの場所から真北の位置に三夜沢赤城神社を建立した可能性はあると思います。

三夜沢赤城神社の参道を真っ直ぐ延ばすと富士山でした!この神社が、こういった直線を重要視するのであれば、巨石群から真北というラインも、あったのかもしれません。

櫃石から真南が荒砥荒子遺跡のような気がしますが、これも両者の位置がはっきりわからないので、何とも言えないです…









金生山 投稿者:MURY 投稿日:2019年 2月13日(水)00時25分35秒 返信・引用

金生山!

石山寺を彷彿とさせる、有名な奇岩のお寺として存じております。

大垣市なんですよね。近いのに、行っていませんが、行きたくなりました。




お堂内で岩肌を見せるやり方、全国にいくつかありますよね。

岩巣という名前、静岡県や瀬戸市にもその名前を見かけたことがあります。

だいたい、岩が群れている場所に名付けられている印象です。

虚空蔵(こくぞう)さん(続) 投稿者:チェリー 投稿日:2019年 2月11日(月)21時15分22秒 返信・引用

上の写真は本堂の奥です。岩を祀っていると思います。

真ん中の写真は本堂の左上方で、岩巣公園という名前が付いているようです。よく見ると牛の頭部の像が見えます。

下の写真はどのお堂だったのか…慌ててたのでしっかり写真が撮れなかったのを思い出しました。

また行かなきゃ…












虚空蔵(こくぞう)さん 投稿者:チェリー 投稿日:2019年 2月11日(月)20時38分44秒 返信・引用

岐阜県大垣市赤坂の金生山明星輪寺です。

2014年の撮影なんで、古い情報で恐縮なんですけど…

金生山というのは石灰の採掘で大きく山が削られちゃっているんですが、東面にかろうじて残っている部分にこのお寺があります。












Re: 玉置神社の白山社 投稿者:MURY 投稿日:2019年 1月20日(日)22時09分26秒 返信・引用

> No.1312[元記事へ]




チェリーさん、ありがとうございます。




> 尾鷲から北山村役場まで1時間くらいかなぁ…北山村役場から玉置神社駐車場まで1.5時間で行ってます。




なるほど、さすがに覚悟しないといけない距離ですね。

しかし、車である程度行けそうな様子なのと、チェリーさんの感想を聞いて、次回熊野に足を運ぶときはお参りしたいと思いました。




> 玉石社の玉石が印象的だったのは、杉の巨木に囲まれて少しだけ丸い頭を出している風情だったのかなぁ…この石が何故、聖なる石となったのかと考えさせられます。




少しだけ丸い石が見えることに惹かれるというのは、巨石信仰とはまた異なる風合いを感じるメッセージと受け取りました。

この石が何故、聖なる石となったか・・・まだまだわからないことばかりです。




白山社の乳岩というものもあるんですね。

白い岩肌が乳とむすびつく事例のひとつとして覚えておきたいと思います。

興福寺の礎石との関係性も含めて・・・。




礎石は単なる石材ではなく心礎であり、磐座にむすびつく奉献対象にもなっている例がありますので、礎石をベースにした分析は大いに勉強になります。

玉置神社の白山社 投稿者:チェリー 投稿日:2019年 1月19日(土)00時13分15秒 返信・引用

玉置神社駐車場からしばらく歩くと参道は下るのですが、そのまま水平に進む道を辿ると「白山社」に至ります、天然記念物「枕状溶岩堆積地」の一番東になるようです。案内板には「乳岩」と記してあります。真ん中の写真は白山社の東側側面の写真を合成したものです。

下の写真は興福寺中金堂。一般公開初日平成30年10月20日の撮影でした。












Re: 玉置神社 投稿者:チェリー 投稿日:2019年 1月17日(木)01時51分24秒 返信・引用

> No.1310[元記事へ]




> 麓からどれくらいかかりますか?




尾鷲から北山村役場まで1時間くらいかなぁ…北山村役場から玉置神社駐車場まで1.5時間で行ってます。

軽自動車だったのですが、まあ、離合を待たなきゃいけないだろう所もありますが、快適な舗装路です。




玉置神社から玉置山山頂まで含めて、とても良いです。霧の中の雰囲気が相応しいかもしれませんが、やはり快晴の日に山頂まで歩きたいです!海が見えます。




玉石社の玉石が印象的だったのは、杉の巨木に囲まれて少しだけ丸い頭を出している風情だったのかなぁ…この石が何故、聖なる石となったのかと考えさせられます。




独り言なんですが…また変な話をして恐縮なのですが…実は、航空写真で奈良の興福寺の礎石から南への参道を見つけて、どこを向いているんだろう?とたどってみたら玉置神社だったんです…翌朝の新聞で礎石の上には中金堂が建立された事を知りました。その日は落慶だったのです。これも何かの御縁と思いまして、多治見の自宅から玉置神社まで7時間、更に興福寺まで4時間、帰宅に3時間という日帰り巡礼を強行したのでした…

興福寺から真南の玉置神社などと、狂ったようなお話なのですが、直線上に桜井市の山田寺跡がありますので、まあ、それもいいかな…









玉置神社 投稿者:MURY 投稿日:2019年 1月16日(水)00時49分39秒 返信・引用

チェリーさん、今年もよろしくお願いします。




玉置神社に行かれたのですね。

麓からどれくらいかかりますか?

遠そうで、なかなか足をのばすところまで至らないのです。




玉石社は存じておりますが、隣接する三ッ石神祠は陰に隠れ気味かもしれませんね。

印象深かったというコメントを見て、やはり参るだけの価値はあるんだ、と思いを新たにしています。

霊石三ッ石神祠 投稿者:チェリー 投稿日:2019年 1月15日(火)01時19分18秒 返信・引用

玉石社のすぐ上に隣接してありました。

イハサクノカミ・イハサクネノカミ・カグツチノカミを祀ります。

イザナギがカグツチノカミを斬った時に生まれたイワサクノカミ・ネサクノカミの事だと思いますが…

玉石社が祀るのはオオナムチノミコトでした。あまりに近接しているので、合わせて考えた方がよさそうですが、関連がわかりませんでした。












玉石社 投稿者:チェリー 投稿日:2019年 1月14日(月)02時26分9秒 返信・引用

玉置神社から玉置山へ少し登ったところにあります。多分、皆さんご存知の石なのでしょうが、印象深かったので…

周りに白い石を敷いてみえますので、とてもよくわかりました。真ん中の写真が正面から、その下の写真が右上からです。

本殿より前に、ここをお参りしなければいけなかったみたいです。




ご挨拶が遅れてしまいました。本年もよろしくお願いいたします。

相変わらず、こんな感じでボツボツと投稿させていただければと…












Re: 五所御前 投稿者:MURY 投稿日:2019年 1月 4日(金)01時07分32秒 返信・引用

> No.1306[元記事へ]




ホームページ移転のご連絡ありがとうございます。




ジオシティーズも、いよいよですね。




昔からのホームページが淘汰され、貴重な情報(まとめサイトなどではお目にかかれない情報量)が参照できなくなっているのはweb界大きな損失と思いますがどうでしょう。




誕生石ときくと、奈良の明日香村の月の誕生石や、佐賀県巨石パークの誕生石を思い出します。

これで誕生石ネーミングは3例目です。




住吉大社には近くに「おもかる石」などもあるようで、住吉七石(?)も目指せそうです。

五所御前 投稿者:uzi 投稿日:2019年 1月 2日(水)15時39分14秒 返信・引用

「住吉信仰」(真弓恒忠 著)によりますと、五所御前は御阿礼所【みあれしょ】だそうです。

写真には写っていませんが、玉垣内には杉の木が一本あります。

伊勢神宮外宮の四至神【みやのめぐりのかみ】を連想します。




二枚目の写真は、住吉大社神池東側にある「誕生石」です。




ジオシティーズが3月いっぱいでサービスを終了します。

「uziの神社参拝記」は下記に引っ越します。

https://miniuzi0502.sakura.ne.jp/







https://miniuzi0502.sakura.ne.jp/






新年のご挨拶 投稿者:MURY 投稿日:2019年 1月 1日(火)23時44分39秒 返信・引用

新年あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。




>チェリーさん




方位角と天体運行線は、時代・地域ごとの要請によって目的が異なるのでしょうが、文字記録が残っていないので、間接的に証明していくことになると思います。技術的には違いはあるものでしょうか。




伊勢神宮と富士山は同じ属性かというと、よくわかりません。

アプローチは二つあると思います。

ひとつは人工物・自然物。自然物同士は疑問符ですが、ひとつは不変の山で、それを人工的な施設で調整することで両者を意味づけるという点では、属性を同じものとして扱えます。




もうひとつは、時代的に交差する存在同士か。これは、伊勢神宮の担い手が富士山を認識していたかの問題で、往々にして歴史学的な問題となります。

まだ証明されていませんが、伊勢神宮創始を古墳時代、ヤマト王権によるものと仮定して、ヤマト王権が前方後円墳体制を中央集権的に確立したという仮定も是とするなら、前方後円墳体制は古墳時代に東国まで到達していたので、情報共有度にもよりますが古墳時代の伊勢-富士の情報共有は肯定できます。

あ、どちらのアプローチで行っても、属性はOKできますね。




>ウージーさん




情報提供いつもありがとうございます。

「住吉大社 五所御前」で調べてみました。




すでに字の書かれている石を探すのが新鮮です。

石を倍返しにするのは安定してみられる祭祀ですが、字の書いた石を返礼するわけですから、確率的にどんどん見つけやすくなる、前向きでハッピーな祭祀だと思います。




神域の石がどんどん増えていくことは、なぜ祭神にとってお礼となるのか、ここが解釈の分かれどころになるので興味深いです。

五所御前 投稿者:uzi 投稿日:2019年 1月 1日(火)16時21分28秒 返信・引用

あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い申し上げます。




写真は住吉大社内の五所御前と呼ばれる場所にありました。










http://www.geocities.jp/miniuzi0502/index.html






Re: 亀岩白龍大権現 投稿者:チェリー 投稿日:2018年12月31日(月)02時00分9秒 返信・引用

> No.1302[元記事へ]




> 同じ属性の地点同士が天体運行の線と重なった場合、すべてがすべて偶然ではないと、最近この手の符合が気になっています。




私は主に方位角を扱っているのですが、北東-南西の場合は天体運行ではなくなってしまうと思っています。でも、二至二分の日の出入りにも、もちろん注目しています。




伊勢神宮と富士山は同じ属性と思っていいのでしょうか?自分のブログで取り上げていますが、相変わらず空想物語のトンデモサイトなので、ものすごくお暇な時に、画像だけチラッと見ていただくのもよろしいかと…




地図でつなぐ聖地の旅 志摩の日の入り・伊勢の日の出 その3

http://sakurasaku0911.blog.fc2.com/blog-entry-163.html

Re: 亀岩白龍大権現 投稿者:MURY 投稿日:2018年12月30日(日)23時31分35秒 返信・引用

> No.1301[元記事へ]




チェリーさんへのお返事です。




亀岩白龍大権現、ですか。

これはハッとさせられるインパクトがある岩です。




道に突き出ているのは、後から落ちてきた岩をまつったのか、岩が先なのか…。

白龍大権現のネーミングは近世を遡らない感じですが、亀岩の名前は別系統かもしれませんね。




> 熊野大社の大斎原から正確に北東になる




同じ属性の地点同士が天体運行の線と重なった場合、すべてがすべて偶然ではないと、最近この手の符合が気になっています。

亀岩白龍大権現 投稿者:チェリー 投稿日:2018年12月27日(木)01時41分42秒 返信・引用

MURYさん、すっかり遅くなってしまいましたが、昔の「磐座磐境」の写真をありがとうございました。この写真の方が趣があって良いかも!随分と新しいものだと思っていたのです。




秋に玉置神社に行ってきました!往路は南から車で登ったのですが、途中三重県から奈良県に入るあたりでこの巨石がありました。不思議なことに、熊野大社の大斎原から正確に北東になるのですが、何でだろう?

すぐ隣に「玉置龍神水」が祀られていました。









Re: 生島足島神社 投稿者:MURY 投稿日:2018年11月27日(火)00時07分48秒 返信・引用

> No.1298[元記事へ]




チェリーさんこんにちは。




> 本社の前に、すごくきれいな「磐座磐境」がありました。磐座か磐境かどっちなんだろう…




このネーミングに聞き覚えがあり、この掲示板の過去を探ってみたところ、2007.10.29にkunittiさんが投稿された記事に同じ石の写真がありました。

kunittiさんがupされた写真をここに再掲載します。




こう見ると、10年前は白い玉砂利を周囲に敷かず、土のままにしていたことが分かります。

他社でも、ここ最近は霊石の周りに玉砂利を敷くところを見かけました。

姫路城が回収されて白くなった時の気持ちに似ています。




磐座磐境については、磐座でもあり磐境でもあるよという意味での標示かと思います。

これには二つの場合があります。




1.磐座と磐境の用語は同義(辞典的定義)という意味合いで書いている。

2.磐境の役割もあり、磐座の役割も帯びているという意味合いで書いている。




チェリーさんが挙げられたもう一つの写真の、祠の後ろの列石は磐境感ありますね。






Re: 熱田神宮 神楽殿 投稿者:酔石亭主 投稿日:2018年11月25日(日)20時11分17秒 返信・引用

> No.1297[元記事へ]




チェリーさん




こんばんは。




お手数おかけします。嶋戸物部は多分瀬戸内海を通り、紀伊半島をぐるっと回って伊勢湾に入り、高座結御子神社鎮座地に至ったのではないかと推定しています。これがご参考になればいいのですが……。



生島足島神社 投稿者:チェリー 投稿日:2018年11月24日(土)01時45分3秒 返信・引用

長野県上田市下之郷に鎮座します。

本社(上宮)は池の中にあって、生島大神・足島大神を祀ります。すぐ北側に下宮があって、諏訪神社です。

本社の前に、すごくきれいな「磐座磐境」がありました。磐座か磐境かどっちなんだろう…

本社から南西側の池をまたいだところに「御歳代(みとしろ)」があって、稲が植えてありました。建御名方命が二神に米粥を煮て献ぜられたという伝承があるのだそうです。

ここにも岩が祀られていました。これは磐境だと思います。

赤いお社は「御歳代御仮殿」だそうです。




諏訪大社との御縁ということになるのでしょうか、ここは諏訪大社上社 御射山神社(長野県諏訪郡富士見町原村)の真北になるのです!(お互いの境内の南北関係であれば、全くズレがないという…)












Re: 熱田神宮 神楽殿 投稿者:チェリー 投稿日:2018年11月24日(土)00時50分8秒 返信・引用

> No.1293[元記事へ]




酔石亭主さん、こんばんは。




> チェリーさんの得意分野で高座結御子神社と嶋戸(遠賀川の河口近くで、遠賀町島津)を結べないでしょうか?




遠賀町島津には島津丸山古墳というポイントがあるのですが、残念ながら高座結御子神社とつなぐラインは見つかっていません。距離が長いので、もちろん直接という訳にはいかないのですが、中継するラインもまだ見つけていません。

何かわかりましたら、また御報告いたしますね!






Re: 大磐石 投稿者:MURY 投稿日:2018年11月15日(木)01時26分15秒 返信・引用

> No.1295[元記事へ]




> ただ、実際裏手に磐座はなく、一方社殿に向かって左手奥の社叢の中に古墳がありますので、古文書はこの古墳を大盤石と称したのかもしれません。古墳の石組が少し露出していればそう称される可能性はあります。




私もその可能性に一票投じたいです。

裏手にかつてそういう古墳があったのかもしれませんし、石室石材の一部が動かされたのかもしれません。




あとはどれだけ伝承が事実を忠実に伝えているかですね。

大磐石 投稿者:酔石亭主 投稿日:2018年11月13日(火)20時33分28秒 返信・引用

MURYさん




すみません。私の早とちりでした。

高座結御子神社は何回か行っており、社殿の裏までくまなく見ていますし、高座山も行っているので、社殿の裏手に磐座のようなものはないとの先入観が強すぎて読み違えたようです。




ただ、実際裏手に磐座はなく、一方社殿に向かって左手奥の社叢の中に古墳がありますので、古文書はこの古墳を大盤石と称したのかもしれません。古墳の石組が少し露出していればそう称される可能性はあります。神社側にもさっそく問い合わせ内容を説明しましたが、初耳とのことでした。




やや理解に苦しむのは、高座結御子神社も東に少し下れば古代は海でしたから、条件的には熱田神宮とほぼ同じで、ご神体を避難させるなら白鳥古墳か断夫山古墳の方が近いし海抜も高いので、高座結御子神社に持っていく必然性が感じられません。色々不明確な点は残りそうです。



Re: 熱田神宮 神楽殿 投稿者:MURY 投稿日:2018年11月12日(月)23時08分34秒 返信・引用

> No.1293[元記事へ]




酔石亭主さんこんにちは。




『高蔵寺町誌』の該当の記述を掲載します。




「名古屋権現坊古文書に曰く、昔シ熱田ノ蓬ゲ原即チ島山ノ時海シヨウノ上ル時ハ熱田神宮御神体ヲ高蔵神社(○この高蔵神社は熱田の高蔵神社ならん。)ノ裏ニアル大磐石ニ御移シ給ヒシト之レヲ高御座ト称セリ。 註 本村高蔵社の裏亦大磐石存せり。」




熱田神宮御神体を移した「この高蔵神社は熱田の高蔵神社ならん。」と記しています。

高蔵寺村の高蔵社は「註 本村高蔵社の裏亦大磐石存せり」と註で「亦」と記しているので、『高蔵寺町誌』(名古屋権現坊古文書)は両方に大磐石があると述べていることになります。






Re: 熱田神宮 神楽殿 投稿者:酔石亭主 投稿日:2018年11月12日(月)19時26分43秒 返信・引用

> No.1287[元記事へ]




MURYさん チェリーさん







> 高座結御子神社の大磐石は誰も見たことがないようなので、伝承上の脚色か、はたまた、社殿の内に秘匿されているか。







ご無沙汰しております。




大磐石は高蔵寺町誌の記事にあるもので、本村高蔵社とあることから本村は旧高蔵寺村を意味し、大盤石は高座山頂付近にある磐座となります。なので、高座結御子神社の裏手ではありません。




高座結御子神社の鎮座地では弥生時代を通して遺跡(高蔵遺跡)が営まれており、遠賀川式土器も出土し北九州との関係を示しています。実は饒速日が北九州から大和方面へ東遷した際、25部の物部が同行しているのですが、その中で嶋戸物部と贄田(にえた)物部=新北(にぎた)物部の行き先が不明となっています。




嶋戸物部は大倉主命を奉斎しており、大倉主命は高倉下ですから嶋戸物部は現在の高座結御子神社付近に至ったと考えられます。高蔵遺跡に遠賀川式土器があるのはその証明にもなりそうです。また贄田(にえた)物部は贄田(にえた)=新北(にぎた)=熟田(にぎた)=熱田となりますので、彼らは熱田付近に至ったと考えられます。名古屋市内に物部氏系の神社が何社かあるのはその影響かなとも思われます。




チェリーさんの得意分野で高座結御子神社と嶋戸(遠賀川の河口近くで、遠賀町島津)を結べないでしょうか?




Re: おぼこさま 投稿者:MURY 投稿日:2018年10月28日(日)00時43分13秒 返信・引用

> No.1291[元記事へ]




一見、要石のような佇まいに見受けられます。




看板に「磐座」と書いてあるんですね。




鉾を石の上に立てるわけですので、鉾が依代であるなら、下の石は依代の台座ですね。




磐座は依代ではなく、依代の滞留する目印("御形")という説が近年ありますが、その一例として語ることもできそうです。











おぼこさま 投稿者:チェリー 投稿日:2018年10月25日(木)22時34分15秒 返信・引用

「小野神社」の境内にあります。お隣の「弥彦神社」と合わせて信濃国二宮です。

真ん中の丸い石の下に縦穴が空いていると思うんですが、ここに鉾を立てるようです。

金属製の鉾だと思っていたんですが、そうではなくて、飾りを付けた木の柱のようなのです。

境内の資料館にあったようです。紹介して見えるサイトがありました。

http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/jinja/onosiryou.htm

これは異様な力を感じますね~












Re: 熱田神宮 神楽殿 投稿者:チェリー 投稿日:2018年10月25日(木)21時53分38秒 返信・引用

> No.1289[元記事へ]




> 見えないから、逆に方位や直線的なつながりを込めたのかもしれませんし、意味の込めかたは多数考えられます。




そうですねぇ~何か、直接見えない方が、尾根ひとつ超えた方がいい、と思われているような気がします。そういった例が多いですね…




> 多度山中の磐座は行きづらいので、私のGoogleマップもご参考にどうぞ。




ありがとうございます。これはどこから入ったらいいものか…また訪れる時に御相談するかもしれません。












Re: 熱田神宮 神楽殿 投稿者:MURY 投稿日:2018年10月21日(日)11時09分9秒 返信・引用

> No.1288[元記事へ]




直接目視できなくても意味があったと、1つ1つ事例を重ねて推測していくのですね。




見えないから、逆に方位や直線的なつながりを込めたのかもしれませんし、意味の込めかたは多数考えられます。




多度山中の磐座は行きづらいので、私のGoogleマップもご参考にどうぞ。

https://drive.google.com/open?id=1K96yw4IorBpm68hSeqFs4iwyHGk&usp=sharing

Re: 熱田神宮 神楽殿 投稿者:チェリー 投稿日:2018年10月19日(金)23時36分47秒 返信・引用

> No.1287[元記事へ]




多度山中の磐座 まだ行けてないんですよ~

ここ3年近く、北部九州に翻弄され続けているんです…地図上のことですが…




東西関係にあるのは多賀大社の社殿です。




別宮一目連神社 → 高座結御子神社 89.95° 距離 25.647km 真東との誤差22m

本宮多賀神社  → 高座結御子神社 89.93° 距離 25.675km 真東との誤差31m




高座結御子神社 → 別宮一目連神社 270.11° 距離 25.647km 真西との誤差49m

高座結御子神社 → 本宮多賀神社  270.09° 距離 25.675km 真西との誤差40m




お互いに直接見ることはできません。









Re: 熱田神宮 神楽殿 投稿者:MURY 投稿日:2018年10月19日(金)00時26分43秒 返信・引用

> No.1286[元記事へ]




多度大社との東西関係、高座結御子神社からだと多度山中の磐座と良い感じになれそうですか。




高座結御子神社の大磐石は誰も見たことがないようなので、伝承上の脚色か、はたまた、社殿の内に秘匿されているか。



Re: 熱田神宮 神楽殿 投稿者:チェリー 投稿日:2018年10月17日(水)00時37分18秒 返信・引用

> No.1285[元記事へ]




MURYさん、ありがとうございました。見てみました!

「熱田神宮古墳」は熱田神宮社殿のほぼ真後になると思います。

もともとはここを祀っていたんだよ…というような位置になるんですけど…

でも、毎年5月の御陵墓祭でお祀りするのは断夫山古墳と白鳥古墳なんです。

それに、あんなに真ん中に大きな通路を造っちゃったら、全部発掘されちゃうと思うんだけど…

そのあたりがやっぱり、謎になると思いました。




> 熱田神宮の奥の院といわれる高座結御子神社にも古墳群が分布しているのが興味深い。ここに大磐石があるという話も聞きましたが・・・。




高座結御子神社は何年か前に一度訪れたことがあります。古墳らしき高まりがたくさんあったと記憶しています。熱田神宮古墳に似てたと思います。一連と考えるのがいいかもしれません。

大きな石は見なかったと思います。今度訪れたら探してみますね!

またしても書いてしまうんですが、多度神社と明確な(例によってわたし的にはなんですが…)東西関係があると思います!



Re: 熱田神宮 神楽殿 投稿者:MURY 投稿日:2018年10月15日(月)12時31分56秒 返信・引用

> No.1284[元記事へ]




リンク先のページを見ました。よく見つけましたね。




河村硝子の設計の方が主導したのか、熱田神宮側の意向を受けて取り入れたのか、どちらとも読み取れます。




現代風の庭園と考えれば、石を立てる発想も受け入れられます。

人工の木(神楽殿)と自然の木(社叢)の間に横たわる垣根をつないだのが石の塀だったというのは、社殿建築の石の玉垣の現代版解釈とも言えそうです。

その源流は、庭園の中での石の位置付けが、人工的に自然を表現するものだったことに由来していると考えれば、この建築物の融合性の根拠は相当趣深いです。




>古墳のような土盛がありました。中心部への通路があったようなのですが、暗くて写真撮ってないです!

>新しい通路だったので、防空壕なのかなぁ…真清田神社のうしろ側の土壇を連想しました!




チェリーさんドンピシャです。

リンク先をご覧ください。

https://ameblo.jp/sunhideshi/entry-12261640499.html




私は熱田神宮に詳しくないですが、ここが古代において島のようになっていた場所で、古墳がある地理的環境であることは事実です。

熱田神宮の奥の院といわれる高座結御子神社にも古墳群が分布しているのが興味深い。ここに大磐石があるという話も聞きましたが・・・。

Re: 熱田神宮 神楽殿 投稿者:チェリー 投稿日:2018年10月10日(水)22時43分45秒 返信・引用

> No.1283[元記事へ]




河村硝子株式会社の実績紹介のページに内側から見た写真がありました。

http://www.kawamura-glass.jp/results.html

自然との調和を目指したデザインなのかな?でも、岩を立て掛けるというのは、やはり異様ですよね…

はっきりした意図があるような…神楽殿の裏ではあるのですが、ここは境内社の密集地帯なんです。

「こころの小径」は、皆さんお目当ての一之御前神社から神宮本殿のうしろ側をめぐるのですが、古墳のような土盛がありました。中心部への通路があったようなのですが、暗くて写真撮ってないです!

新しい通路だったので、防空壕なのかなぁ…真清田神社のうしろ側の土壇を連想しました!

Re: 熱田神宮 神楽殿 投稿者:MURY 投稿日:2018年10月 7日(日)08時08分11秒 返信・引用

> No.1282[元記事へ]




溢れ出る五平餅感・・・。

インスタ映えしますね(謎)




この石の意味を検索してみましたが、なかなかそれらしき情報に出会いません。




石もどことなく扁平になるよう整形されているように見えます。

力学的な理由によるものなのか、デザイン面での調和を目指したのか?




わたしも熱田神宮に久々に参拝したくなりました。

神社の方に聞いてみたいです。

おもしろいものをありがとうございます。

熱田神宮 神楽殿 投稿者:チェリー 投稿日:2018年10月 2日(火)23時56分51秒 返信・引用

石垣ではないのですが、これはどういう発想なんでしょう?

熱田神宮のうしろ側を巡る「こころの小径」を初めて歩いたのですが、真新しい「神楽殿」の裏側を覗いた時の写真です。

この部分は、自然の樹木を取り込んだ前衛的な建築になっているようですが、岩を立て掛けるなんて初めて見ました。この岩の並びの奥に、自立した岩があるようなのですが、今度はしっかりと撮影してこようと思います。

先日、高句麗の将軍塚の写真を初めて見て、仰天したのですが、同じ発想かも!









Re: 須須岐水神社 投稿者:MURY 投稿日:2018年 9月23日(日)22時05分10秒 返信・引用

> No.1280[元記事へ]




森将軍塚古墳の近くなんですね。古墳は15年ほど前に行きました。

名前を見て、ふと当時を思い出しました。懐かしい。




小牧山の石垣のように、山の古墳の葺石も、そういう「見せる意図」をもって築かれたのではないかという説は、考古学の研究の中でも見たことがありますね。

なかなか証明しにくいんですけどね。



須須岐水神社 投稿者:チェリー 投稿日:2018年 9月23日(日)01時09分5秒 返信・引用

間が空いてしまいましたが、須須岐水神社(千曲市)の続きです。

本殿のすぐ脇に「烏帽子岩」がありました。

岩の左側の看板には、次のように書かれています。

「烏帽子岩 当社社殿が創建される以前、そこに神を招いて祭祀を行った石(磐座)と考えられる。一般には降臨石、影向石などと言われている。」

周辺のお宮のことは全くわからないのですが、この神社は石を大切にしているんだなぁ…と思いました。




須須岐水神社は「五里ヶ峯」という長い尾根が尽きた平地にあるのですが、やはり尾根の先端近くの中腹に「森将軍塚古墳」があります(下の写真)。直接の岩石祭祀にはならないと思いますが、石に覆われたこの古墳は、遠くからも光輝いて見えたと思います。麓の古墳館に再現された石室があったのですが、実に巨大なものでした。石への強い思い入れを感じました。

信長が小牧山の頂上に築いた城が、日本最初の本格的な石垣を持った城郭なのだそうですが、同じように「光る石垣」を周辺に見せる為という説を記憶しています。















Re: 須須岐水神社の境内社 投稿者:MURY 投稿日:2018年 9月 9日(日)01時42分22秒 返信・引用

> No.1278[元記事へ]




こんにちは。お返事が遅くなりすみませんでした。




チェリーさんも継続的に調査されているようでうれしく思います。




お写真を拝見しました。




このような岩は大好物です。

境内にこんなに集結して、ぜいたく盛りです。




他の場所でも分散して見られるものなのか、ここだけの"珍現象"なのか・・・




玄松子さんの執筆された神社ページが多岐にわたり、すべてに目を通すことは能わずですが、一つ一つを見るとこのように私にとっても新発見の連続なのでしょうね。



須須岐水神社の境内社 投稿者:チェリー 投稿日:2018年 9月 5日(水)22時54分16秒 返信・引用

随分と御無沙汰してしまいました。MURYさん、お元気そうで何よりです。




この夏、長野県千曲市にある「須須岐水神社(すすきみずじんじゃ)」に偶然立ち寄りました。

写真はその境内社です。社殿が岩の上に乗っかっているのです。




玄松子さんのサイトが詳しかったのですが(玄松子の記憶 須須岐水神社)、その中で「移動自由の置く形が本来の社殿の姿なのだ」と書かれていました。

なるほど!!深く感じ入りました!




写真は上から「祝神社」「養蚕神社」「高見社」です。















Re: 難転石 投稿者:MURY 投稿日:2018年 7月15日(日)22時03分42秒 返信・引用

> No.1276[元記事へ]




情報ご提供ありがとうございます。




おもしろいですね~

高速回転しているらしいじゃないですか。

実際に見てみたいです。




石も2個あって、色がそれぞれ違うのも人に当たる影響が違うのではと、石の観点からは心に留めたい事実です。



難転石 投稿者:uzi 投稿日:2018年 7月15日(日)07時17分17秒 返信・引用

JR大阪駅から少し歩いた所にあるお初天神(露天神社)にありました。

ボーリングの玉位あろうかと思われる大きさです。

水圧で浮き上がって回転しています。

歴史もアイデアも新しいものと思われます。




http://www.geocities.jp/miniuzi0502/index.html






Re: 六甲山の岩石祭祀 投稿者:MURY 投稿日:2018年 6月14日(木)20時27分40秒 返信・引用

> No.1274[元記事へ]




発刊おめでとうございます。




「岩のもつ多面的な姿」という視点は、岩石が祭祀・信仰にとどまらないということだと思います。

生活全般の中での山や石を掘り下げることで、一般的な「イワクラ」に収まらない岩論を提示されたのだと拝察します。




石工など、石材を生業とされている方々にも広く読まれたい内容ですね。




六甲山系には数々の文脈による人間の痕跡が残っていますので、ひとつひとつを浮き彫りにするのは、大変な作業ではないかと思います。

六甲山の岩石祭祀 投稿者:yamauo 投稿日:2018年 6月11日(月)08時33分27秒 返信・引用

お久しぶりです。

このたび創元社より『六甲岩めぐりハイキング』と題する本を刊行いたしました。

書名はハイキングとなっておりますが、本書の目的は岩を単に登山とのかかわりの中で見るのではなく、岩のもつ多面的な姿を六甲山という里山を舞台にして明らかにすることにあります。紙面の関係上、どれもほんの一部の紹介にとどまっていますが、六甲山の登山史、地質、地誌、徳川採石場、山論、伝承、磐座、雨乞い、修験など、岩にまつわる様々なエピソードに触れております。

岩石祭祀については、

保久良神社の磐座(祭祀遺跡・樋口清之)

越木岩神社と北山の磐座群(三輪山・大国主西神社)

芦屋川の弁天岩(雨乞い・『磐座紀行』藤本浩一)

北山の夫婦岩(たたり石・『磐座紀行』藤本浩一)

摩耶山頂の天狗岩(六甲修験道・天上寺)

六甲山頂付近の雲が岩(六甲修験道・多聞寺)

六甲山頂付近の三国岩(六甲修験道・山論)

石の宝殿の磐座(六甲修験道・広田神社・雨乞い)

石楠花山の天狗岩(六甲修験道)

ごろごろ岳の剣岩(古神道・荒深道斉)

古寺山の修行岩(多聞寺・平清盛)

船坂谷の老ヶ石(たたり石)などを紹介しております。




https://www.sogensha.co.jp/productlist/detail?id=3852






平成三十年年頭挨拶 投稿者:MURY 投稿日:2018年 1月 4日(木)20時10分2秒 返信・引用

あけましておめでとうございます。




今年も、石の知の底上げに寄与したいと、日々勉強してまいります。



(無題) 投稿者:uzi 投稿日:2018年 1月 2日(火)21時33分49秒 返信・引用

あけまして おめでとうございます

本年もよろしくお願い致します




画像は、

墨坂神社でお祀りされていた石です。






美の呪力 投稿者:MURY 投稿日:2017年 7月 4日(火)01時53分8秒 返信・引用

wikipedia情報で見たレベルですが、2007年に作られたイヌクシュクがギネス記録の高さを持つと書いてあったので、今も現地の人々に作られ続けているものと思っていましたが、基本は途絶えている文化だったんですね。




これもwikipediaの記述ですが




――イヌクシュクの発達が、ヨーロッパの宣教師や探検家出現の以前だったのか以後だったのかについては説が分かれる




エヌクソ・ポイントのあるバフィン島と聞くと、19世紀のジョン・フランクリン隊の失踪事件を思い出します。一時期関心を持った歴史上の出来事です。




フランクリン隊はイヌクシュクを見たのでしょうか・・・。



美の呪力 投稿者:uzi 投稿日:2017年 7月 2日(日)21時48分30秒 返信・引用

イヌクシュクは、「美の呪力」によると「七、八十年前までエスキモーによって作られていた」そうですが、その目的が現在でははっきりと解らないようです。岡本太郎さんが亡くなられて20年以上経過しておりますし、本のあとがきの日付が「1971年3月」となっています。

「エヌクソ・ポイントと呼ばれる岬には今でも百以上のイヌクシュクが見られるが、ある時期には二百をこえていたという。」

「これがたとえ明らさまな人形【ひとがた】ではなくても、生活の中の神聖な像であり、呪術的役割を果たしていることは確かである。」

「昔はエスキモーの集落はキャンプを張ると必ず近くの丘に一つのイヌクシュクを建てたという伝えもある。」

「一族がながい危険な旅に出るときにも、イヌクシュクを建てたという。」

土地の言葉で「イヌクシュク」は、「人間的力で行為するもの」という意味だそうです。

「」内は「美の呪力」からの抜粋です。




http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






Re: イヌクシュク 投稿者:MURY 投稿日:2017年 7月 2日(日)15時36分50秒 返信・引用

> No.1268[元記事へ]




燃え盛る炎のような背景を見て、岡本太郎氏が縄文の火焔形土器を見てインスピレーションを受けたという話を思い出しました。




子供の頃、私も油絵を描いていたころがあるのですが、石を油絵で表現する一種独特の難しさを感じたことがあります。




石を描きたいし、イメージは頭にあるのに、キャンパスで色を載せていくと、表現できない。




単に、才能の問題とも言いますね(笑)




> イヌクシュクは、2010年バンクーバーオリンピックのシンボルにもなったそうです。




ケルンのようなものだと思っていましたが、どうやら意図が違うようですね。




現代でも作られ続けている巨石記念物、といったところでしょうか。

イヌクシュク 投稿者:uzi 投稿日:2017年 6月30日(金)20時23分26秒 返信・引用

岡本太郎さんの書かれた「美の呪力」という本でイヌクシュクを知りました。

ウィキペディアで調べたら、何体かの写真も掲載されていました。

しかし「美の呪力」に掲載されていた写真(松藤庄平氏撮影)がなんとも魅力的というか、

重量感・迫力があるというか、衝撃を感じました。

ぜひ絵に描いてみようと思いました。




イヌクシュクは、2010年バンクーバーオリンピックのシンボルにもなったそうです。

それも知りませんでした。







http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






Re: 旧・引佐町 投稿者:MURY 投稿日:2017年 5月14日(日)22時17分49秒 返信・引用

> No.1266[元記事へ]




湖西市加藤さんへのお返事です。




> 「幡教寺跡」の休憩所から南奥へ約100Mに「岩の中に岩がある」珍しい巨石が有ります。以前は岩石名を知らせる案内板が有りましたが、今は在りません。富幕山の東600M、奥山コース登山道脇にも同じ岩石があります。どなたか岩石名を知っていますか。




存じ上げません。「岩の中に岩がある」とはどんな状態なんでしょう。

私も知りたいです。

Re: 旧・引佐町 投稿者:湖西市加藤 投稿日:2017年 5月13日(土)16時31分41秒 返信・引用

PONTAさんへのお返事です。




> ・鳴岩→「岩屋観音」と呼ばれていたと思うのですが、調査中。

> ・幡教寺の巨石→「幡教寺跡」ですね。廃寺で石垣は残ってますが・・・巨石はなかったような・・・いつか行ってきます。

> ・浄居院の巨岩群→「背山という山にあるのが浄居院です」ということですが、「背山」は地名かと思います。巨岩群? お堂の背後に白岩と呼ばれる巨岩があります。裂けていて、裂け目に稲荷が祀られています。階段を登って、割れ目を真上から見ると怖いです。

> http://www.doukutu.co.jp/hikingpoint-jokyoin.html




「幡教寺跡」の休憩所から南奥へ約100Mに「岩の中に岩がある」珍しい巨石が有ります。以前は岩石名を知らせる案内板が有りましたが、今は在りません。富幕山の東600M、奥山コース登山道脇にも同じ岩石があります。どなたか岩石名を知っていますか。

鷺山古墳 投稿者:MURY 投稿日:2017年 5月 7日(日)18時44分17秒 返信・引用

写真のご投稿ありがとうございます。




直径10mの円墳。王道の後期群集墳の装いですが、壁画は特異ですね。

なぜ魚を刻んだのか?

魚の線刻の拓本や実測図など、報告書に載っているのでしょうね。



画像サイズダウンしました 投稿者:せんざき 投稿日:2017年 5月 7日(日)17時17分34秒 返信・引用

こんにちは。




画像サイズダウンにて送信させていただきます。

画質などでお気づきの点がありましたら、教えてやってください。




よろしくお願いいたします。















Re: 漢字のお勉強 投稿者:MURY 投稿日:2017年 4月10日(月)02時36分27秒 返信・引用

> No.1262[元記事へ]




面白い!

こういう勉強の着眼点、目からうろこです。新しい視点をいただきました。




石の甲骨文字の形。へえ~その1です。




石の塊を意味しない、と断言するかっこよさ。




石は、祝詞を入れる器としての石というくだりは、広げれば、宗教的なものを宿す存在が石なのだと感じられ、哲学的です。




石を用いた漢字に、神事に関連するものが多いということは、岩石信仰は中国と共通した心ということでしょうか。




山から切り離せない存在として石が成立しているのも、意味深です。



漢字のお勉強 投稿者:uzi 投稿日:2017年 4月 9日(日)12時21分47秒 返信・引用

漢字の勉強を始めました。小学一年生で習う漢字から始めております。

昔買った漢和大字典があるのですが、どうせ勉強するならと、白川静さんの「常用字解〔第二版]」(平凡社)を購入しました。(「字統」や「字通」は高価なので)

画像は、小学一年生で習う「石」に関する白川静さんの解釈です。

こういう勉強なら面白いです。




http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






Re: 巨石の地震破断に関する論文 投稿者:MURY 投稿日:2017年 3月30日(木)22時37分14秒 返信・引用

> No.1260[元記事へ]




文献のご紹介ありがとうございます。




600ページ近い大著ではないですか。大ボリューム。

ご紹介いただいたページを中心に、つまみ食い的に読んでいます。

データベースとして、事あるごとに参照したいです。




イワクラ業界の皆さんに広く読まれるといいですね。



巨石の地震破断に関する論文 投稿者:滝おやじ 投稿日:2017年 3月28日(火)00時30分0秒 返信・引用

ご参考まで。この報告書がつい最近出版されました。

花崗岩巨石の基礎文献として、永久に残る世界的文献と思います。こうゆう情報がインターネットで簡単に見られるというのは本当に現代の幸せです。




池田 碩(2017)1995.1.17 大地震と六甲山地 - 近畿地方整備局 - 国土交通省

www.kkr.mlit.go.jp/rokko/disaster/pdf/20y-from1995.pdf

阪神淡路大震災の地震動による花崗岩巨石の破断移動例です。

巨石については、p21~28、p170ごろからp273あたり。

ご参考まで。

http://chibataki.moo.jp/






Re: 安産の腰掛石 投稿者:MURY 投稿日:2017年 3月22日(水)23時27分31秒 返信・引用

> No.1258[元記事へ]




昔読んだ本を、後になって読むと気づかされるとき、私もあります。




>穴太の村の山中




また貴重な話で・・・。

検証不能なのが寂しいですが、せめて記憶にとどめることにします。




今日UPした徳島県の金丸八幡神社の列石も、最近、道路工事の細腕一部の石が削られたようで残念です。

石って、見る人から見れば、ほんとただの石ころですからねえ。




私は、それも含めて歴史と見る立場なので、それに対して怒りや非難活動をすることはありませんが、個人感情としてはあーもったいないというのが正直な気持ちです。




自然の石っころなわけですから、復元不可能ですもんね。

復元しただけで、人の造作が入ってしまう。




>安産の腰掛石




春日大社の磐座みたいな景色の石ですね。



安産の腰掛石 投稿者:uzi 投稿日:2017年 3月21日(火)17時51分13秒 返信・引用

ひさしぶりに白州正子著「近江山河抄」を手に取り最初から読み始めましたら

、以下の文章に行き当たりました。以前読んだはずなんですけど、記憶にありませんでした。




 巨石信仰といえば、日吉大社に近い穴太の村の山中で、異様なものに出会ったことがある。六畳敷ほどもある大きな石を、円形に並べただけのものだが、森閑とした雑木林の中で、突然あらわれた時は息を呑んだ。縄文人が車座になって会議でもしたのでしょうか、とは写真家の前野氏の感想だが、八百万の神々が集まった聖地だといわれても、私はきっと信じたに違いない。最近聞いた話では、道路工事のために壊されたというが、もったいないことをするものである。日本人ほど文化々々とわめきながら、文化を大切にしない国民はいない。それは自分自身を大切にしないことに通じる。高松塚古墳にしても、ジャーナリズムにのせられて騒いでいるだけのことで、考古学者が土中に埋めてしまいたい気持が、私にはよくわかるような気がする。(講談社文芸文庫P13)




末尾の年譜に、

一九七二年八月、「近江山河抄」を「芸術新潮」に一〇回にわたって連載。

とあります。




写真は石山寺にあった「安産の腰掛石」です。




http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






Re: あけましておめでとうございます 投稿者:MURY 投稿日:2017年 1月 3日(火)21時10分13秒 返信・引用

今年もよろしくお願いいたします。

マイペースでやっていきたいと思います。




写真:椿大神社の御船磐座




大木の前に三石を置き、その周りを敷石と列石で囲む。




これと違うところがあるだろうか(いやない)

と言えるぐらい、共通した機能を感じました。









あけましておめでとうございます 投稿者:uzi 投稿日:2017年 1月 2日(月)09時27分23秒 返信・引用

写真は外宮にある四至神【みやのめぐりのかみ】です。

祭神も四至神です。

中央に榊が植わっています。その前に三つの石が並んでいます。

榊は御神木で、神様をキャッチするアンテナ。

三つの石が磐座で、神様がお留まりになる。

敷き詰められた白い石と廻りを囲む石は磐境。

パーフェクトな装置だ!

と、また勝手な想像をしておりました。




http://www.geocities.jp/miniuzi0502/index.html






Re: 立石さん 投稿者:MURY 投稿日:2016年12月21日(水)00時13分39秒 返信・引用

> No.1254[元記事へ]




> 私は2008年に参拝してから、縁遠くなっております。




私も疎遠だったのですが、魚の骨が喉に刺さったような感じでもやもやしていた場所なので、とうとう戻ってまいりました。

縁も十年で一回りして戻ってきたみたいです。




> 「MURYさんが写真をアップされてからリンクをお願いしよう」

> なんて横着なことが頭をよぎりました。




(笑)

立石さんは強敵です。




> 名張図書館へ行ったら、三杉町の資料を探してみます。




ぜひ機会がございましたら、援護射撃ください(笑)




> 仏教系おもかる石「おもかる文殊」さんです。




仏教民俗学の五来重氏や大護八郎氏に言わせれば、日本古来の石信仰に仏の装いを纏わせた仏教民俗といったところですね。

立石さん 投稿者:uzi 投稿日:2016年12月19日(月)20時04分9秒 返信・引用

川上山若宮八幡神社へ行かれたのですね。

私は2008年に参拝してから、縁遠くなっております。

(名張国津地区の山ノ神も、神社の境内ではなく山の斜面に多くあるようです。

以前の様に、山に分け入り斜面を捜しまわる根性が薄れてきております。

立石さんという名前に強く引かれますが・・・)

「MURYさんが写真をアップされてからリンクをお願いしよう」

なんて横着なことが頭をよぎりました。

名張図書館へ行ったら、三杉町の資料を探してみます。




添付写真は、先日寄り道した四天王寺の元三大師堂にあった

仏教系おもかる石「おもかる文殊」さんです。

「重ければ知恵がさずかり願いがかないます」と書かれていました。










http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






Re: 御矢石 投稿者:MURY 投稿日:2016年12月11日(日)01時29分35秒 返信・引用

> No.1252[元記事へ]




辰まるさんこんばんは。




> 阿蘇大明神宮居を定めんと矢を放たれ、




こういうのありますよね。




> その矢があたった大石に矢尻の跡があり、




足跡や馬の蹄跡とかもありますよね。




> 雨降っても水たまらずと伝えられている。




これは珍しいです。

雨が降らなくても水が枯れないというのはありますが、逆ですね。




> 石の姿はときどき見かける“雨乞石”のようでもあり、




水がたまらないというのが珍しいと思います。

逆に晴れてほしい石のようにも感じました。




> 矢があたる(?)前から何か祭祀の対象であったように思えますが

> いかがでしょうか?




矢を御幣のようなものとみなす民俗例も聞いたことがあります。

矢が落ちて、そのしるしが残るというのは、神が降り立つ磐座と見ることもできそうです。

宮居とは、居座であるこの石なのかも????




*詳しく知りませんので、無責任な発言ととらえてくださいね。



御矢石 投稿者:辰まる 投稿日:2016年12月10日(土)13時43分53秒 返信・引用

こんにちは。辰まるです。

今回は熊本県阿蘇郡高森町にある“御矢石”を紹介させて

ください。




御矢石は町道の三叉路の角にあり、写真のような佇まいです。

石の長径は2mほどで、表面はゴツゴツしています。




標柱の案内には、

“史跡 御矢石

高森阿蘇神社北方にあり、阿蘇神話によると阿蘇大明神宮居を

定めんと矢を放たれ、その矢があたった大石に矢尻の跡があり、

雨降っても水たまらずと伝えられている。この地を御矢村といい

高森阿蘇神社を一名、矢村社という。”

とあります。




石の姿はときどき見かける“雨乞石”のようでもあり、

矢があたる(?)前から何か祭祀の対象であったように思えますが

いかがでしょうか?




近くの高森阿蘇神社は明治以降の社名で、その前は矢村社と

いったそうです。約400年前に現在地に奉遷され、その前は

後方の宮山山中にあったとのこと。で、結局宮居跡はどこなのか

わかりませんが、元々あった産土神、山神が健磐龍命に

乗っ取られたということなのでしょうね。




最後の写真はその高森阿蘇神社前の様子で、手前の鳥居の神額には

“乾門”とあります。正門は写真右側の石垣の切込み部分で、

古い石の神額には“矢村神社”と彫ってあります。




他にも阿蘇地域には健磐龍命が矢で射抜いたとか足跡つけた

などの岩伝説がありますが、命には岩を大切に扱って

もらいたいものです。












Re: ご無沙汰しております 投稿者:MURY 投稿日:2016年12月 5日(月)00時09分35秒 返信・引用

> No.1250[元記事へ]




拝ヶ石の一連の記事に関して勉強させていただいていました。

あの一帯、伐採されて景色も一変しているみたいですね。




「しかし、いずれにしても古代人は石に対して特別な関心を有していたことがうかがえる」




昭和51年の看板にしてこのセリフ。




各地を訪れると、説明板や博物館のパネルなどにときどきこのような記述を見ることがあります。




総数にすると結構な量を見たことがあるのですが、こういう石の関心がメジャーな共通認識として人々の話題に挙がることはありません。




不思議だなあと。




みんなの個々人の心に眠っているものだとしたら、掘り起こしたいですね。

そんな思いでやっています。またよろしくお願いします。



ご無沙汰しております 投稿者:辰まる 投稿日:2016年12月 2日(金)17時58分54秒 返信・引用

たいへんご無沙汰しております。以前HP“古代の足跡in熊本”を

開いていました辰まるです。その節はお世話になりました。




再開されたこちらのブログをときおり拝見していましたが、

投稿記事“天白遺跡”に目が止まりました。

そういえば似たものがあったと、昔撮った写真を探し出しました。




熊本県指定史跡の無田原(むたばる)遺跡といいます。

原を“ばる”と読むのは九州地名には多いです。




MURYさんが仰るように、もう空想するしかないのですが、

集石の並びがオリオンの三ツ星にも見えて、昔懐かしムーイズムが

ちょっと頭をもたげます。















Re: 天白遺跡 投稿者:MURY 投稿日:2016年11月10日(木)23時24分28秒 返信・引用

> No.1248[元記事へ]




私の甥っ子が、石を拾っては落とすのが好きだったのですが、その時の落ちた石の状態にも似ていて(スケールは違いますが)思い出しました。




縄文時代は、もう、空想するしかないですよね。




こんなに配石を何ヶ所も作って、何をしたかったのか・・・

一度に造ったではなく、数百年の開きがあるのかもしれませんけど。




土器に石で蓋している事例とか、個人的には想像の飛躍が止まりません。



天白遺跡 投稿者:uzi 投稿日:2016年11月10日(木)21時10分40秒 返信・引用

今年7月、松阪にある天白遺跡に行ってきました。

石を環状に並べたものは磐境か!?

石を円形に敷き詰めたものは磐座か!?

御饌石の可能性もあるかなぁ。

と、色々と楽しい想像をしておりました。




http://www.geocities.jp/miniuzi0502/index.html






Re: 明日香の岡寺 投稿者:MURY 投稿日:2016年11月 1日(火)01時21分26秒 返信・引用

>龍蓋池




これは初めて知りました。

私が行ったときは、この情報に接することができませんでした。




>龍を閉じ込め岩で蓋をした




鳥取県の赤猪岩神社を何となく思い出しました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%8C%AA%E5%B2%A9%E7%A5%9E%E7%A4%BE




昨日は、岐阜県関市の日龍峰寺という、美濃高野山とも美濃清水寺ともいわれる寺に参りましたが、ここも龍を退治したという伝説がありました。

斜面に露出した岩盤の上に懸け造りの堂宇を築き上げているのですが。






明日香の岡寺 投稿者:uzi 投稿日:2016年10月30日(日)18時02分38秒 返信・引用

先日、うん十年ぶりに明日香の岡寺へ参拝しました。二回目の西国三十三霊場巡りです。

まったく記憶に無かった龍蓋池をチェックしてきました。池に龍を閉じ込め岩で蓋をしたという伝説があります。

注連縄で囲まれた岩がそれです。(蓋というより栓のように見えますが。)岡寺は龍蓋寺ともいわれます。

奥の院石窟もチェックしました。こちらもまったく記憶になかったです。




http://www.geocities.jp/miniuzi0502/index.html






Re: MdN 投稿者:MURY 投稿日:2016年 9月15日(木)23時19分58秒 返信・引用

> No.1244[元記事へ]




kk458遖さん、ありがとうございます。

コラムを書いた吉川です(MURYは昔から使っているハンドルネームです)




「君の名は。」に出てきた御神体は何だったかは、作品の中でははっきりとは説明されていません。それこそ、彗星・隕石との関連性さえ。

だからこそ、想像の余地が広がって良いのだと思います。




作品の中で説明されていないだけで、水面下の設定はあったと思います。あれだけのモチーフをちりばめた内容ですし、祭祀の観点から見ても、矛盾が少ないんですよ。

裏設定なしで考えなく作ってしまったら、粗が出るものですから。




そういうことを踏まえて、読まれた方によって色々異なることを感じていただけるように文章を作ってみたつもりです。

よかったと感想をいただけて嬉しいです。




> 彗星も、石ちゃー、石だし、

> 元はチリで、その塊ですからねー、

> 地球も、石っぽいですかねー、




核心をついているかもしれませんね。

MdN 投稿者:kk458遖 投稿日:2016年 9月15日(木)13時47分7秒 返信・引用

お世話になります、

映画「君の名は。」から、こちらに、たどりつきました。映画??隕石??クレーター??御池山クレーター??隕石??神社??星宮社??祭り??MdN??ここ、

コラム、よかったです、

著作も、機会が、あれば、拝読します、

大変、勉強に、なります、

彗星も、石ちゃー、石だし、

元はチリで、その塊ですからねー、

地球も、石っぽいですかねー、

ありがとうございます。

また、



Re: 石棒と神社の神体の関係 投稿者:MURY 投稿日:2016年 7月 3日(日)23時20分43秒 返信・引用

> No.1241[元記事へ]




古墳の石室、石棒、銅鐸など、古代の遺物が、後世にその本来の用途とは別の意味合いを持って再利用されたことはいくつかの事例で見られます。




これらの事例の多くは、再利用にあたって原位置から移動されていたり、加工されていたりします。原位置や元来の状態が崩されると、考古学的には研究しにくいようです。

原位置を保ち、歴史の連続性が認められる事例に出会えると、それが解明の糸口になると思います。




Re: 石棒と神社の神体の関係 投稿者:石が好き 投稿日:2016年 7月 3日(日)12時37分12秒 返信・引用

> No.1240[元記事へ]




お返事と情報、ありがとうございます。

神社の起源を古墳時代として、

それ以前の祭祀とは断絶しているのか、

それとも何らかのつながりがあったのかを知りたいと考えております。




石棒と神社の関係が何らかのヒントになると思いましたが、

その関係は神社による石棒の秘匿などによっていまのところ難しそうですね。











Re: 石棒と神社の神体の関係 投稿者:MURY 投稿日:2016年 7月 1日(金)00時05分57秒 返信・引用

> No.1239[元記事へ]




お返事が遅くなりました。

ご投稿ありがとうございます。




神社に安置された石棒をテーマに研究された例は、今まで見たことがありませんでした。解明したい問題提起ですね。




> 江戸時代末期製作の石棒について書かれています(p85)。




埼玉県の大戸のお聖様ですね。

たとえば同じ埼玉県上里町に石神社という場所があって、ここも石棒をまつっています。

由来は




> 『風土記稿』では、烏川から引き揚げた石剣(石棒)を祀って鎮守としたことによる地名と伝える。

http://893ginger.blog55.fc2.com/blog-entry-130.html




これを読む限りですと、石棒が神社に自然発生したというよりも、後世に石棒を見つけてまつったようです。

後世に拾い上げた人は、それがいつの時代のものかは知りませんから(縄文時代という概念がない)そこに関連性は認めなくても良いでしょう。

石棒に限らず、石の矢じりなども江戸時代に石の好事家が採集していて、神の落とし物や天狗の鱗だと呼んでいたことが木内石亭の『雲根志』に書いてあったと思います。




ただ、すべてがこのパターンと思う必要はないと思います。

私は神社ごとに石棒をまつる背景は違ったのではないか?という立場ですが、各事例ごとの知識が私にはまだ足らないのと、石棒が秘匿されている神社が多い都合上、判断する情報が出回っていないのが現状です。






石棒と神社の神体の関係 投稿者:石が好き 投稿日:2016年 6月21日(火)18時29分3秒 返信・引用

はじめて投稿します。




貴書『岩石を信仰していた日本人』を面白く拝読しました。

本書には人間の手で作られた信仰対象として、

江戸時代末期製作の石棒について書かれています(p85)。

石棒と神社の神体の関係についてお伺いします。

初歩的な疑問で申し訳ありません。




貴ブログには、奈良県三輪山の磐座、福岡県沖ノ島の磐座、島根県大船山の石神など、

自然石を神の座る場所や神そのものとしてまつる遺跡が各地で見つかっていることから、

自然石への信仰時期を古墳時代前期と述べられています(2016年3月3日)。




古墳時代前期の自然石信仰が、

後の「磐座」として神社の発生につながったと考えられると思います。

「磐座」は古墳時代前期以前の、

弥生、縄文、旧石器時代と直接のつながりを現在のところは見出せないということになると思います。




そうすると、縄文遺物としての石棒が、

現在、「磐座」を起源とする神社の神体として多く祀られている理由が分からないことです。

縄文の石棒が耕作などによって、後年掘り起こされて既存の神社に祀られたのか、

それとも縄文の石棒が後年掘り起こされたために、

それを神体とする神社が建立されたのか。




縄文の石棒が掘り起こされた時期、

それが神社に祀られた時期というのは解明されているのでしょうか。

神社の起源を古墳時代とすると、なぜそこに縄文遺物としての石棒が、

神体として祀られているのかが不思議でなりません。




もうとっくに解明済みの問題なのかもしれませんが、

よろしくお願いいたします。

Re: 結界石 投稿者:MURY 投稿日:2016年 6月 5日(日)22時22分34秒 返信・引用

> No.1237[元記事へ]




ありがとうございます。




目新しい事例です。




磐境ですね。空海の聖跡つき。




わたしは、古墳の葺石も、境内の玉垣も、磐境の仲間だと思っています。




人によっては、抵抗感があるかもしれませんけど、名前にこだわらず機能で考えれば腑に落ちるかなと。

結界石 投稿者:uzi 投稿日:2016年 6月 5日(日)05時33分57秒 返信・引用

叡福寺(大阪府太子町)にあります。

聖徳太子の御廟所(円墳)を囲んでいます。

内側の列石は空海が一晩で作ったという伝説もあります。

磐境の仲間といえるでしょうか。




http://www.geocities.jp/miniuzi0502/index.html






主坐のいわくら 投稿者:MURY 投稿日:2016年 4月28日(木)21時06分36秒 返信・引用

椿大神社の拝殿向かって左手に、大きめの社務所があって、なかに誰でも入れるようになってます(休憩所的な)

赤じゅうたんが敷いてあります。その入り口に本が平積みされていて、そこにありました。

私もそこで偶然見つけました。売り切れていることはないと思いますが、今後行かれる時はご参考に。

(無題) 投稿者:チェリー 投稿日:2016年 4月27日(水)23時11分55秒 返信・引用

 購入したかったけど、わからなかったんです。残念!売り場の人に、もっとよく聞いてみればよかったなぁ…




 でも、MURYさんの昔の記事に「鈴鹿山脈/登山日記」 内「入道ヶ岳・磐座めぐり 」のページを紹介してみえたので、それは見てました。それで、天狗の遊び場から崩落地帯を覗いてみたんですが、上の方はとても見えなくて(上の写真)、「主坐のいわくら」はわかりませんでした。




 ここから道を引き返さないといけないと思っていたのですが、道が上に続いていたのです。とても新しいテープが道沿いにいくつも巻かれていたので、思い切って登ることにしました。ほどなく「境界」の印がありました(真ん中の写真)。崩壊地帯の縁を巻いていく道のようでしたが、やがて道がわからなくなって、結局南から登る登山道に合流しました。




 縁を歩いている時に谷を覗けば「主坐のいわくら」が見えたのかもしれませんが、道を拾うのに集中して、余裕が持てませんでした。また次回ということですねぇ~




 下の写真は頂上の鳥居と雨乞岳・鎌ヶ岳・御在所岳です。樹木が白っぽくなっているのは、馬酔木の花です。満開でございました。












Re: 天狗の遊び場(イシグラ) 投稿者:MURY 投稿日:2016年 4月27日(水)00時33分47秒 返信・引用

> No.1233[元記事へ]




椿大神社の社務所で売っている、遠山正雄氏の入道が岳の磐座の冊子「伊勢一宮 椿大神社 神代『いわくら』について」は買われましたか?




山頂から南東へ延びる2本の尾根の間には「オホハゲ」と呼ばれる大崩落箇所があるそうです。

この「オホハゲ」の直上に位置し、2本の尾根の合流点かつ山頂のやや下ぐらいの位置に「主坐のいわくら」があるそうです。

なにかご存知ですか?




「いしぐら」と「いしごう」の中間に位置し、なおかつ、椿大神社から仰いで真正面の最高地点に存在する点から、遠山氏はこれを「このお山全体のイハクラの主座」と思うのだそうです。

天狗の遊び場(イシグラ) 投稿者:チェリー 投稿日:2016年 4月26日(火)21時04分33秒 返信・引用

入道ヶ岳への登りに寄りました。井戸谷道の途中から分岐する道なのですが、私はGPSを持って歩いたから見当がつきましたが、分岐点を見つけるのは難しいと思うなぁ…




上がイシグラの写真、真ん中がそこから下を覗いた写真です。絶景です。

実は、そこからこの方向にラインが引けたのです。ここから東南に加佐渡神社、白鳥塚からここが北西だったのです!岩石を基準としてラインが引けるのは珍しいことです…と、相変わらずこんなことばかりやってるわけなんです…




下の写真は入道ヶ岳の頂上から見た「奥の宮」です。「奥の宮」の位置が知りたかったのです。

「奥の宮」は、背後にわずかに覗いた山を意識した位置に設けたように思えました。

その山は「雨乞岳」でした。鎌ヶ岳や御在所岳があんなに近くに立派に見えるのに、何でちょろっと見える雨乞岳なの?しかしながら雨乞岳は鈴鹿山脈第二位の高峰なのです。




ということは、椿大神社の本当の母体は「雨乞岳」かもしれない…というブログを造るつもりですけど、出来たらお知らせしますね!















沖ノ宮の立石 投稿者:山魚 投稿日:2016年 4月17日(日)09時31分17秒 返信・引用

『茨城県史料 考古資料編 古墳時代』はかなり以前にチェックしております。

私の見落としかもしれませんが、それらしき記述は見当たりませんでした。

巨石のある祭祀遺跡のデータは数少ないので、削除するのも躊躇するところです。

『神道考古学講座』祭祀遺跡地名表に敬意を表して、

詳細不明としてリストには残したいと思います。

ほ場整備? 投稿者:MURY 投稿日:2016年 4月17日(日)00時39分36秒 返信・引用

いばらぎデジタルマップの遺跡の位置と大曽根児童館はズレが出ますね。

道の走り方を見ていると、この辺りはほ場整備されたような感じです。

ほ場整備時に、古墳と祭祀遺跡が見つかって、削平あるいは埋め立てといったところでしょうか。

ちなみに、沖の宮遺跡は国立歴史民俗博物館の祭祀遺跡地名表には出てきません。




奈文献の遺跡データベースによれば、

http://mokuren.nabunken.go.jp/Iseki/index.html




大曽根沖の宮遺跡

茨城県つくば市大曽根沖の宮1704ほか

県遺跡地図2001、包含地。<現況>山林+水田+宅地。




大曽根立石古墳

茨城県つくば市大曽根沖の宮1735ほか

県遺跡地図2001、古墳。古墳-古墳。<現況>畑。




ということで、現地には残っていない可能性大です。

文献記録上で、辿って行くのが望ましいと思います。

(先日挙げた『茨城県史料』など当時の調査記録)

沖ノ宮の立石 投稿者:山魚 投稿日:2016年 4月16日(土)08時17分41秒 返信・引用

「MapFan」によれば「茨城県つくば市大曽根沖ノ宮」という地名があり

大曾根の二つ並んだ池のあたりにピンがたちます。

また「いばらきデジタルマップ」によれば、大曾根児童館のあたりは大曾根城跡H25となっています。

沖ノ宮はかつての神社の名残ではないかと思い、その線で調査をしているところです。

沖ノ宮は祭祀遺跡としてはマイナーなものかもしれませんが、岩石祭祀にとっては貴重な事例だと考えています。

続報 投稿者:MURY 投稿日:2016年 4月15日(金)00時05分48秒 返信・引用

どうでしょう。

ここのことではないでしょうか。

立石が古墳に関係する可能性もあります。沖の宮という地名も気になりますね。

現存するかどうかも不明です。






Re: 大曽根沖の宮の立石 投稿者:MURY 投稿日:2016年 4月14日(木)23時57分16秒 返信・引用

> No.1227[元記事へ]




小野真一『祭祀遺跡地名総覧』(ニュー・サイエンス社、1982年)に、同地点が掲載されていました。

それによると出典は『茨城県史料 考古資料編 古墳時代』(1974年)とのことです。

こちらに当たれるといいですね。

大曽根沖の宮の立石 投稿者:山魚 投稿日:2016年 4月14日(木)10時13分52秒 返信・引用

『神道考古学講座』祭祀遺跡地名表 第1巻 p256に

茨城県筑波郡大穂町大曽根沖の宮

 立石あり。土器出土とあります。




これについて、何かご存じの方はいらしゃらないでしょうか?

Re: 石神のイワクラ 投稿者:MURY 投稿日:2016年 4月12日(火)02時09分11秒 返信・引用

> No.1225[元記事へ]




ご無礼しております。節操なく活動再開しました。

与喜山と岩石の哲学ばかりという、興味関心丸出しのまま進んでいきます




「石神の磐座」については、石神か磐座かどっちやねんとつっこむのは私だけでしょう。

椿大神社のメルマガでも、机状の岩石に言及していますね。

http://melma.com/backnumber_153429_4085621/

石神のイワクラ 投稿者:チェリー 投稿日:2016年 4月11日(月)22時38分38秒 返信・引用

ご無沙汰しております。ブログ拝見しました!お元気そうで、何よりです。

一昨日ですが「入道ヶ岳」に登ってきました。

登山道の途中、左側斜面10mくらい登る階段の上に「富士社」があり、更に30mくらい斜面の上方正面に「石神のイワクラ」が見えました。

富士社とイワクラの間に二つの岩が横たわっていました。

「椿大神社二千年史」に「小型の机石がある。これは太古祭司の供物台とみられる。」と記載されているのでしょうか?

実は、その、この下側の岩に、不思議に心が安らいだというか、そんな感じがしてしまったのでした。まあ、気のせいでしょうけど…

この岩を上から見ると、平らな面ができるように、小さな岩が埋め込まれていました。

これは人工的だと思いました。












Re: 腰掛石 投稿者:MURY 投稿日:2016年 4月 7日(木)22時51分13秒 返信・引用

> No.1223[元記事へ]




腰掛石ブーム

七石ブーム




旧来の磐座が、変化したものもあると思いますが、上のようなブームがあったのではないか・・・今、それが混ざっているものを、私たちは見ているのではないか・・・

そう思っています。




与喜山の近くに屏風岩という岩がありますが、これも、山城を攻める時にこの岩を屏風のように立てかけたとか。

屏風の新しい使い方を感じますね。




鎌倉時代の文献に、ある場所が、遠くの場所とつながっている系の伝承を確認することができました。鎌倉時代まではこの発想は辿れると知りました。




このように、1個1個知識を仕入れて、結論はまだないですが、何かを考える材料にしているところです。

腰掛石 投稿者:uzi 投稿日:2016年 4月 6日(水)21時42分0秒 返信・引用

太郎坊宮の「義経腰掛岩」、手向山八幡宮の「菅公腰掛石」がすぐに思い浮かびますが、

こちらの石は、聖徳太子が腰を掛けて休まれた「腰掛石」と伝わっています。

奈良県磯城郡三宅町屏風の白山神社境内にあります。

屏風という地名も、太子が休まれた時、村人が屏風を建て掛けて風を防いだことに由来するとか。

神社の前の道は古代飛鳥と法隆寺を結び、太子道(筋違道)と言われています。




http://www.geocities.jp/miniuzi0502/index.html






Re: 祝 ブログ開設 投稿者:MURY 投稿日:2016年 3月 3日(木)02時54分39秒 返信・引用

> No.1221[元記事へ]




後日、ブログ上のブックマークを整備する予定です。

その折はぜひ貴サイトを改めて紹介させていただきます。

祝 ブログ開設 投稿者:山魚 投稿日:2016年 3月 2日(水)08時37分3秒 返信・引用

ブログ開設、おめでとうございます。

早速リンクさせてもらいました。

これからのご活躍を期待しております。

ブログスタート 投稿者:MURY 投稿日:2016年 3月 1日(火)01時53分55秒 返信・引用

ブログをスタートしました。




http://megalithmury.blogspot.jp/

全国遺跡報告総覧 投稿者:山魚 投稿日:2016年 2月 3日(水)08時48分38秒 返信・引用

これは便利ですね。

東北地方の磐座に関する報告書はないようですが、それ以降はかなり期待できます。

ゆっくりと進めたいと思います。どうもありがとうございました。



全国遺跡報告総覧 投稿者:MURY 投稿日:2016年 2月 3日(水)01時10分16秒 返信・引用

良い時代になりましたね。




全国遺跡報告総覧

http://sitereports.nabunken.go.jp/ja




ここの検索バーに「磐座」などのキーワードを入れると、世界が広がりますよ。

Re: 建鉾山祭祀遺跡 投稿者:MURY 投稿日:2016年 2月 3日(水)00時52分19秒 返信・引用

> No.1216[元記事へ]




山魚さんへのお返事です。




> 『岩石を信仰していた日本人』p147の中で、「御宝前」から巨岩がほとんど見えないことを強調されているが、これは「御宝前」が祭祀終了後不要になった祭祀用遺物の廃棄場所とは考えられないでしょうか。




可能性は、あると思います。

その場合は、巨岩の手前で祭祀をして、斜面下に祭祀具を廃棄したという流れになります。

祭祀集団が、どういうルートをたどって巨岩下に至ったかが気になります。

麓から直登すると、廃棄した祭祀具が集積する御宝前をまたぎながら巨岩下へ登るのがいかがなものか、気にかかります。




巨岩の直下斜面ではないわりに、御宝前に遺物が集中しているので、御宝前を意図的に廃棄場所として指定したと考えれば理屈は通ります。




巨岩下は発掘調査はされていませんが、表面採集踏査ぐらいはされたと思います。しかし遺物が現状見つかっていないことは、そこが祭祀の場ではなかったと考えるのも自然です(きれいに掃除され、御宝前で廃棄したと考えることもできます)




> また、類似例として亀居山(要石)『福島考古』7 p26に次の記述があります。

> 「甑(土製模造品)の底にあたる穴のあいた破片が要石の近くと西側斜面中腹から出土している。このことは磐座付近で祭祀を行い、その終了後祭器をまとめて西側斜面中腹にまとめて埋置したことを立証するものである」




建鉾山の遺物が、亀居山と同様に「穴のあいた土器」という廃棄後を示す痕跡を残していれば、類例と考えて良いと思います。建鉾山の遺物にその特徴があったかどうかはいま思い出せません。

建鉾山祭祀遺跡 投稿者:山魚 投稿日:2016年 2月 2日(火)09時53分38秒 返信・引用

『岩石を信仰していた日本人』p147の中で、「御宝前」から巨岩がほとんど見えないことを強調されているが、これは「御宝前」が祭祀終了後不要になった祭祀用遺物の廃棄場所とは考えられないでしょうか。

亀井正道『建鉾山』p50に「御宝前」に関する次の記述があります。

「遺物は特に安置されたり、穴を掘って埋められた等という形跡は認められず、恐らく祭祀終了後不用になったものを廃棄したのが、徐々に埋没した事実を示しているものと推測される」




また、類似例として亀居山(要石)『福島考古』7 p26に次の記述があります。

「甑(土製模造品)の底にあたる穴のあいた破片が要石の近くと西側斜面中腹から出土している。このことは磐座付近で祭祀を行い、その終了後祭器をまとめて西側斜面中腹にまとめて埋置したことを立証するものである」



石のある祭祀遺跡地名表(東北編) 投稿者:山魚 投稿日:2016年 2月 1日(月)10時57分11秒 返信・引用

建鉾山の写真どうもありがとうございました。




石のある祭祀遺跡地名表(東北編)に取り上げるものとして下記のものを検討しております。

・建鉾山高木地区(建鉾石)

・亀居山(要石)

・岩谷遺跡(岩谷観音岩)




これ以外に、発掘調査がおこなわれ重要祭祀遺跡とされている「石のある祭祀遺跡」がありますれば追加したいと思いますので、ご教授願います。

Re: 貴flickr写真アルバム 投稿者:MURY 投稿日:2016年 1月30日(土)22時54分17秒 返信・引用

> No.1213[元記事へ]




ごぶさたしております。

ご要望いただきありがとうございます。




https://www.flickr.com/photos/125436967@N05/albums/72157663958592871




のせました。どうぞご利用ください。

山魚さんの調査研究に期待しております。



貴flickr写真アルバム 投稿者:山魚 投稿日:2016年 1月24日(日)11時11分21秒 返信・引用

お久しぶりです。

現在「石のある祭祀遺跡地名表(東北編)」をまとめているところなのですが、

建鉾山遺跡の巨岩の鮮明な写真が見当りません。

つきましては、貴書『岩石を信仰していた日本人』p149のカラー写真を

貴flickr写真アルバムに掲載していただけないでしょうか。

猿岩 投稿者:MURY 投稿日:2016年 1月 2日(土)20時14分45秒 返信・引用

あけましておめでとうございます。

ナスカの地上絵の猿の絵を年賀状で送って下さった方がいました。

そういう発想が出ることに感嘆しました。

猿岩 投稿者:uzi 投稿日:2016年 1月 2日(土)11時27分19秒 返信・引用

MURY様

明けましておめでとうございます

本年もよろしくお願い致します。




添付画像は、日吉大社の猿岩です。




http://www.geocities.jp/miniuzi0502/index.html






flickrで更新していきます 投稿者:MURY 投稿日:2015年12月 7日(月)08時36分14秒 返信・引用

どこを訪れたかの忘備録として、flickrに写真をのせていきます。これくらいなら気軽に更新できそうです。




https://www.flickr.com/photos/125436967@N05/albums




写真からマッピングすることもできそうです。

愛知県岩倉市新溝神社磐座公開 投稿者:MURY 投稿日:2015年11月25日(水)01時34分56秒 返信・引用

他に書くところがないのでここで。

11/24に拝観しました。氏子総代の方からお話を伺いました。以下忘備録




・昨年の天王祭で初公開。2度目の公開。

・氏子総代の方が中心となり、地元でも知らない人がいるのでPRしようと昨年あたりから公開準備を進めてきた。

・伊勢神宮に行かれたとき、神宮の方から「磐座の石に触れることは神様の頭に直接触れるようなものだから恐れ多い」という話を聞いたので、磐座の手前にある立石を「願い石」と名付け、これに触れて磐座にお願いごとをするという作法を考案した。

・墳丘上の木々は伊勢湾台風によって枯れてしまった。

・前回の公開時に、新溝神社の御朱印はないのかと要望を受けたので、今回から新たに新溝神社の御朱印をつくった。




来年の正月3が日にも公開されるらしいので、ぜひ同好の方は拝観されることを薦めます。












Re: 栃尾の建石 投稿者:MURY 投稿日:2015年 7月 2日(木)23時17分22秒 返信・引用

> No.1207[元記事へ]




KOSHIMIYAKE様




ご無礼をしております。




栃尾の建石、拝見させていただきました。立派です。




> いつか長岡にお越しなられた時は、ぜひ地元の有志と一緒にご覧になりませんか? 実現する日を楽しみにしています。




ご縁が得られますよう、私も努力してまいりたいと思います。ありがたいお言葉に感謝します。

栃尾の建石 投稿者:KOSHIMIYAKE 投稿日:2015年 6月19日(金)16時20分29秒 返信・引用

吉川様




ブログは既に閉鎖されたとのことですが、栃尾にご縁があるということなのでご報告致します。

栃尾の建石に今春地元の有志と訪れました。茨城童子の遊び場だと言う伝承があるだけあって巨大な岩が峻立する様に圧倒されました。信仰対象の巨岩、周囲の三角錐形状の塚、鬼の伝説、地名すべてが金倉山周辺の巨石信仰と一致する感触を得ました。長岡東山一帯に鬼の伝説を持つ巨石信仰の山の民が古代に存在したのはほぼ間違いと思います。

いつか長岡にお越しなられた時は、ぜひ地元の有志と一緒にご覧になりませんか? 実現する日を楽しみにしています。












日本の巨石信仰は何処の国からの渡来人が持ち込んだのか。 投稿者:丸谷憲ニ 投稿日:2015年 3月31日(火)09時38分4秒 返信・引用

日本の巨石信仰は何処の国からの渡来人が持ち込んだのか。という視点から岡山県の熊山を研究しています。「龍蛇様(背黒海蛇)から見える出雲の神迎祭と神在月」のまとめとして、① 何故、毒性のある海蛇を神の使いとして奉納するのかが説明されていない。この答は、セグロウミヘビ(コブラ科)が出雲神の最も身近な海蛇であった。つまり、出雲神はインド洋周辺の低緯度地域からの渡来人であると推定される。② 佐太神社のみがセグロウミヘビを「龍蛇神」と呼び、神紋が「亀甲」のみである。つまり、神迎祭発祥の地である。インド洋周辺の低緯度地域にsada という地名がある。その場所が出雲神の渡来元である。として、 大野晋の「日本語はクレオールタミル語説」の補説としております。このあたりの情報があればご指導願います。

http://www.geocities.jp/ki_warabi/






Re: 上賀茂、下鴨 投稿者:MURY 投稿日:2015年 3月30日(月)00時17分22秒 返信・引用

> No.1204[元記事へ]




下賀茂、春日大社など、最近、小さい磐座がニュースで話題に上がっているようですね。

なによりです。




本音ありがとうございます。

私の勝手な思いを押し通させていただき、すみません。



上賀茂、下鴨 投稿者:ウージー 投稿日:2015年 3月12日(木)22時40分24秒 返信・引用

過去の記事を読んでおりましたら、2012年7月にMURYさんが下鴨神社の石拾神事について書かれていました。

実はその11月に私、上賀茂神社、下鴨神社へ行きました。

遅まきながらその時の画像を添付いたします。

1枚は「磐座」と看板に書かれていた下鴨神社の本殿廻りに敷きつめられていた石。

2枚目は、上賀茂神社の社家の庭にある降臨石。こちらは磐座と言えそうです。




鴨社や春日大社の聖石が、HPとしてまだまとめられておりません。

また色々とお教え願います。




(掲示板を残して頂けることが、せめてもの救いです。)

(旧HPのアップを期待していたのが本音です)







http://http://www.geocities.jp/miniuzi0502/index.html






Re: 長い道なんだから… 投稿者:MURY 投稿日:2015年 3月12日(木)00時19分14秒 返信・引用

> No.1202[元記事へ]




研究への熱は失っていないので、水面下で、時間があいたらやっていこうと思います。




とりあえず、与喜山の研究は結実させたいです。

後世のために、発表しておいた方がいいことがいくつかあるのです。ただ、7割ほどの出来。現地調査がまだ足りません。いつか、どこかで論文にできると良いなあなんて目標です。




この掲示板は残そうと思います。

というより、サイトとブログが物理的に消えてしまうだけで、私が消したいわけではないのです。掲示板のバックアップを取る間もないので、消されないかぎり残します。




真清田弘法の管理者の方から、たよりが来ると良いですね。いいアイデアだなと思います。




それでは、本日引越しでネット解約しますので、これで今のホームページを管理できなくなります。

それでは、ありがとうございました。

長い道なんだから… 投稿者:チェリー 投稿日:2015年 3月 9日(月)21時53分21秒 返信・引用

MURYさん、ずっと長い目で見たらいいんじゃないでしょうか。

WEBへの思いは、大切にしまっておいて、10年後でも20年後でも、子育てが終わってからでも、仕事を引退してからでも、またその気になったら再開すればいいんではないでしょうか。

一生かかっても終わらない類の研究なんですし…




掲示板を残して様子を見るという選択もいいかもしれないとは思います。

1月の終わり頃だったかな、日泰寺の事務所にですね、真清田弘法の管理人の方に渡してくださいと言って手紙を置いてきました。私宛のハガキを同封してあります。龍神石だったのですか?そうではないのですか?といった簡単な答えをいただけるようにしてあるのですが、返ってくるかなぁ…

そんな掲示もすることができるかもしれません。




でも、MURYさん御自身の毎日の生活を、本当に大切になさってくださいね!



Re: お疲れ様でした 投稿者:MURY 投稿日:2015年 3月 8日(日)21時11分16秒 返信・引用

> No.1200[元記事へ]




思いを汲んでいただき、ありがとうございます。




約10年前、あんでっどさんと太郎坊宮へ行って、雪なのか岩なのかわからない山頂へたどりついた思い出が、懐かしいです。

マイペースな性格なもので、ご期待に添えていなかったこともあったと思います。




この業界の中で唯一と言って良いほど、年が近いお兄さん的存在なので、頼りにしていました。

何物にも染まるようで染まっていないプレーンな性格をうらやましく思っていましたし、もちろんこれからも、奇岩巨石磐座ニュースはチェックし続けるつもりです。




こちらこそ、ありがとうございました。

お疲れ様でした 投稿者:あんでっど 投稿日:2015年 3月 7日(土)10時26分16秒 返信・引用

いろいろ思うところはあるのですが、

まずはお疲れ様でした。

年は下でも、本当に自分にとっては

師匠のような存在でした。

多分このWEBサイトが無ければ

自分はもっと怪しい方向に進んで

いたと思います。

物の考え方も大きく影響を受けました。




また時間できたらどこかでお会いしましょう。

本当にありがとうございました。

お礼 投稿者:MURY 投稿日:2015年 2月19日(木)23時54分58秒 返信・引用

皆さまありがとうございます。

ご結婚 投稿者:あんでっど 投稿日:2015年 2月 8日(日)21時54分58秒 返信・引用

驚きました。おめでとうございます!

おめでとうございます! 投稿者:チェリー 投稿日:2015年 2月 7日(土)17時53分20秒 返信・引用

MURYさん、御結婚されるとのこと、おめでとうございます!




これからは、ご家庭・お仕事・研究と、バランスが大変だと思いますが、是非ともご家庭を大切になさってください。




奥様へ、ご主人の道楽を大目に見てあげてくださいね!大変な研究なのです!未来の人々へ道しるべとなる研究だと思っています。浅学な私にもそのことはわかります。




末永いお幸せをお祈り申し上げます。

Re: 佐貫観音院「奥の院」ご開帳 投稿者:MURY 投稿日:2015年 1月16日(金)00時28分42秒 返信・引用

> No.1195[元記事へ]




秦野さん、久しぶりにお話ができてうれしいです。




ご投稿の情報は、存じ上げておりませんでした。関連の記事も拝見しました。

136年ぶり。行きたいですね。




1週間前から、副住職の方が麓の堂で断食して籠るというところに、並々ならぬ思いを感じます。




埼玉にいたころであれば、確実に行っていたでしょうが・・・。三重という土地柄が・・・。

秦野さんは行かれるのでしょうね。

無理でなければ、ぜひ、何かしらの形で様子を教えていただきたいです(求道者上で?)



佐貫観音院「奥の院」ご開帳 投稿者:秦野 秀明 投稿日:2015年 1月12日(月)10時39分44秒 返信・引用

MURYさん、ご無沙汰しております。

秦野 秀明です。

既にご存知でしたら、失礼致します。

今年の3月15日(日)に、栃木県塩谷町佐貫の国指定史跡「佐貫石仏」のある

宇都宮市篠井町東海寺別院である佐貫観音院「奥の院」の扉を、

1879(明治12)年以来、136年ぶりに開ける予定だそうです。

鬼怒川に架けかえ予定の「佐貫観音橋」の開通式の後に行われるようで、

当日は、副住職と地元住民が、「重機を使い」岩山に登って、

「奥の院」の扉を開けるとのことです。

http://www.yomiuri.co.jp/local/tochigi/feature/CO004125/20140419-OYTAT50018.html

http://www.shimotsuke.co.jp/town/region/north/shioya/news/20140606/1617576









Re: 多度大社(三重県桑名市) 投稿者:MURY 投稿日:2015年 1月 8日(木)21時40分31秒 返信・引用

> No.1193[元記事へ]




チェリーさん、本年もよろしくお願いします。




多度大社の横にある鯉料理をいつか食べたいと思っています。




冠石に行かれる際は、私にご連絡ください。

少々ルート取りが難ですので、また情報提供します。

多度大社(三重県桑名市) 投稿者:チェリー 投稿日:2015年 1月 4日(日)22時38分47秒 返信・引用 編集済

本日 1月 4日に桑名市の「多度大社」にお参りしました。すごい人でした。

上の写真が有名な「上げ馬神事」の坂を上から写した写真なんですが、露店の多さと渋滞の車列がわかるでしょうか。

予備知識を忘却して訪れたのと、人の多さで、大切な場所をほとんど見れてません!今度訪れる時は、準備して、MURYさんの発見した「冠石」も見たいと思います。

下の小さな写真は「本宮多度神社」から「別宮一目連神社」までを合成したものです。正面の、岩と岩のすき間の奥に小さな滝がありました。谷の奥に鎮座しているので、滝や水の流れを祀る神社のような印象を持ちました。

本年もよろしくお願いいたします。









Re: 謹賀新年 投稿者:MURY 投稿日:2015年 1月 2日(金)22時05分18秒 返信・引用

> No.1191[元記事へ]




ウージーさん、あけましておめでとうございます。




お描きの椿大神社が、私の今年の初詣でした。

縁を感じる年賀をいただき、ありがとうございます。本年もよろしくお願いします。




謹賀新年 投稿者:uzi 投稿日:2015年 1月 2日(金)07時42分2秒 返信・引用

本年もよろしくお願い致します







Re: ふたつの「たつ石」 投稿者:MURY 投稿日:2014年12月30日(火)15時14分28秒 返信・引用

> No.1189[元記事へ]




KOSHIMIYAKEさん、こんにちは。




事例のご紹介と、貴重な資料のご提示をありがとうございます。

絵図があるのは素晴らしいですね。




「建石」の表記を持つ立石は珍しいのではないかとお見受けします。




私が知る限りでは、「建石」表記を持つ他例は、徳島県みよし市の中庄八幡神社の列石群を「建石」と記した文献があることぐらいです(『神社寺院明細帳』1917年)




基本的には、「立石」は「たていし」と読むと理解していましたが、栃尾の「建石」の読みは「たつ」で間違いないでしょうか?

栃尾には遠戚がいて縁を感じますので、機会があれば見てみたいものです。




年末のご挨拶もありがとうございます。来年もよろしくお願いいたします。

ふたつの「たつ石」 投稿者:KOSHIMIYAKE 投稿日:2014年12月26日(金)18時23分28秒 返信・引用

ご無沙汰しております、古志三宅三宅神社研究の管理人です。




あっという間に年末大晦日ですが、

今年は地元で岩石祭祀について大きな収穫がありました。




一つは「竜石」と記載されたところで、巨岩祭祀、三角錐形の大型塚を見つけたこと、

もう一つは地元から20km位離れた栃尾という地区で同じ「建石」と呼ばれる記録を見つけたことです。

二つの「たつ石」は20km位離れていますが、地名(金蔵山・妙見・榎峠・大平山・南荷頃・北荷頃)や

伝説(鬼伝説、遊女伝説)等、民俗学的に共通する項目が大変多いです。




地元「竜石」の方はHPにまとめましたが、「建石」の方はまだまとめていません。

そこで頂いた資料だけ写真に上げますのでご覧ください。

「建石」の資料は江戸時代末に地元の人が書いた絵図だそうです。

訳文は近日中にHPにアップする予定です。

「竜石」はリンク先をご覧ください。




「たつ石」はおそらくメンヒル巨石祭祀の原型ではないかと思います。

全国に分布しているのではないかと思いますが、

ご存知のことがあればお教えください。




それでは良いお年を。



















http://koshimiyake.web.fc2.com/transmission_examine_4html.html






Re: 山姥の岩穴 投稿者:MURY 投稿日:2014年12月 4日(木)23時32分0秒 返信・引用

> No.1187[元記事へ]




>電子コンパス搭載となると、eTrex30J 60,000円クラスになっちゃう!




60,000円ですか…一気に値が上がるものなんですね。




> 何よりも「与喜山」の探索で威力を発揮するかも!と、勝手に思ってますが…




どんぴしゃです。私が買う理由は、もう、それしかありえません




> それにしても、右目の岩穴は自然のものですかね?こんなふうに穴があくのかなぁ?




わからないですねえ。人工に穿つならこの口径に開けた目的が気になります。仏像置くために?

個人的には自然でもありえると受け止めています。実際行ってみないと!というところですね。

Re: 山姥の岩穴 投稿者:チェリー 投稿日:2014年12月 1日(月)22時24分6秒 返信・引用

> No.1186[元記事へ]




MURYさんへのお返事です。




> あんまり詳しくないのでGPSの相場は知りませんが、電子コンパスは欲しいなあと思っています。




ガーミン製ハンディGPS については、iiyo.net というところが代理店のひとつですが、スペックと金額はここでわかります。電子コンパス搭載となると、eTrex30J 60,000円クラスになっちゃう!

そりゃ、いいっすよ!地図を収納できるもん!いいなぁ~

山に落としたのは、電子コンパス付いてたけど、30,000円クラスでした。もう今は売ってませんけど。防水になってたから、まだ使えるだろうなぁ~




何よりも「与喜山」の探索で威力を発揮するかも!と、勝手に思ってますが…




お話が変わりますが、「山姥の岩穴」の記事で掲載した上の写真ですが、4枚合成した写真なのですが、眺めているとですね、これが左目を失った山姥そのものではないかと思えてきました。




尾張本宮山から青塚・真清田神社・赤岩大神にラインが引かれているというお話を以前掲載しましたが、赤岩大神がある「養老山地」は隻眼(片目)の龍そのものだというお話があるようです。また、左目を矢で射られた蛇体の山姥が最後にたどり着いた「苧ヶ瀬池(おがせいけ)」には、その後片目の魚ばかりになってしまったという伝説があります。




もしかしたら、この岩こそが、「隻眼の龍」の伝説の元になっているのでは?と思ってしまいました。




それにしても、右目の岩穴は自然のものですかね?こんなふうに穴があくのかなぁ?









Re: 山姥の岩穴 投稿者:MURY 投稿日:2014年11月30日(日)21時21分21秒 返信・引用

> No.1185[元記事へ]




チェリーさん、メールで本宮山地図の添付もありがとうございました。

次回、本宮山へ行くときのルートファインディングに利用させていただきたいと思います。




GPSって使ったことなんですが、予想よりは安いなあと思いました。

いま金欠気味なのと、その前にデジカメが壊れ気味なので、購入はまだ先になりそうですが・・・

あんまり詳しくないのでGPSの相場は知りませんが、電子コンパスは欲しいなあと思っています。




登山サイトの山レコで、よくGPS記録をgoogle地図に落とし込んでいるのがありますよね。

ああいった感じで活用したい気があります。

Re: 山姥の岩穴 投稿者:チェリー 投稿日:2014年11月27日(木)23時47分17秒 返信・引用

> No.1184[元記事へ]




MURYさんへのお返事です。




GARMIN(ガーミン) ハンディ GPS eTrex10J 【日本正規品】 ¥ 21,832 でした。




価格.com で見ると最安値 19,000円 でしたが、Amazonで購入しました。まあ、慣れたところで買ったわけです。




一番安いクラスなので、地図を入力することはできません。電子コンパスがないのは少し不便です。

でも、以前は樹林帯で使い物にならなかったのですが、今度はちゃんと軌跡を拾ってくれます。もっとも、同じ道を往復しても、最大30mずれていましたけど…

見晴らしのよい三角点は正確にマークできました。誤差はなかったです。




いままでのGPS衛星に加えて、ロシアの衛星からの電波を拾えます。その効果はまだ確認できていません。




地図に落とすにはカシミール3Dを使っています。




まだまだ全然使いこなしていませんが、とりあえず、満足しています。















Re: 山姥の岩穴 投稿者:MURY 投稿日:2014年11月27日(木)21時33分15秒 返信・引用

> No.1183[元記事へ]




以前ご紹介されていた山姥の洞穴、行かれたのですね。




道なき場所ということで、私が尾張本宮山に調べた時もこの洞穴の存在は見つけられませんでしたから、貴重なご報告です。




初めてこの山姥伝説を登山者に話されたという古老の方、とてもありがたい語り部ですね、。私もこのような方に道中出会いたいものです。

語り部は、今日び、そしてこれからどんどん、誠に得がたき存在となるでしょう。




ご参考までに・・・新しいGPS、おいくら万円でしたか??



山姥の岩穴 投稿者:チェリー 投稿日:2014年11月24日(月)01時50分25秒 返信・引用

尾張本宮山には山姥の伝説があります。

山たまごさんという方のホームページ「山たまごの東海岳行」2012年2月18日に、山姥の洞穴発見の記事がありました。ここを訪れました。

記事中の「第2の洞穴」が山姥の洞穴だそうです。山道から斜面を見当をつけて登りました。道も踏み跡もありません。いくつかの岩をたどってみると、大きな岩壁と岩穴がありました(上の写真:下の青いストックは比較用)。

足場がないので、中を少ししか覗けないのですが、白い仏像があったように思えました(錯覚かもしれませんが)。真ん中の写真に顔と思われる部分が覗いていますけど…。

昔はこの洞窟の前に社があったとのことですが、現在では、ここに行くのは困難です。行き方を書くのはやめておきます。

尾張本宮山の頂上(大縣神社 本宮社)から参道を少し下ったところに「山姥青黄姫竜王社」があるのですが(下の写真)、ここと洞窟とは東西関係がありました。2m程のずれで収まるようです(166m離れています)。

実は、新しいGPSを試しに行ったわけでもあるのです。以前購入したのが11年も前なのですが、性能がUPしてる!歩いた軌跡が格段にきれいにとれてます(若干のズレはありますけど)。前は樹林帯の中ではサッパリだったのですが、これならMURYさんにもお勧めできるかもしれない!

資金に余裕があって買い換えたわけではありません。9月に登山道から転落してどこかに吹っ飛んでいってしまったのです…MURYさんの日記にある記事は他人事ではなかったのでした…












Re: ごぶさたしています。 投稿者:MURY 投稿日:2014年10月22日(水)01時21分5秒 返信・引用

> No.1181[元記事へ]




砥鹿神社・石座神社・石巻神社の記事など、岩石信仰に関わる場所が勉強になります。




石座石については、真清田神社の文献収集をしている中で、昭和の古い文献などを多少入手できましたが、まだ現地へ行けてないので、まずは見ないことには恥ずかしくて何も語れません。

Re: 石の哲学 投稿者:MURY 投稿日:2014年10月16日(木)23時14分13秒 返信・引用

> No.1179[元記事へ]




kokoroさん




激励のメッセージをくださり感謝します。




自分のやっていることに価値があるのなら、これ以上嬉しいことはありません。




岩石という素材を通して、人が生み出してきた様々な考えを、このサイトで掘り起こしていきたいと思います。

石の哲学 投稿者:kokoro 投稿日:2014年10月15日(水)20時53分22秒 返信・引用

 お久しぶりです。




 石の哲学、始まりましたね。MURYさんはいつかこういうのを始めるぞ、と期待して待っていたのですが、その甲斐がありました。




 がんばって、コンテンツを増やしてください。応援します。



Re: 真清田神宝流出記 投稿者:MURY 投稿日:2014年10月 2日(木)23時40分56秒 返信・引用

> No.1177[元記事へ]




チェリーさん、ほのぼのありがとうございます。最高です。

これでweb上に記録が残り、誰しもが後で見ることができるようになりました。




>神社から出て民間を転々としたのち、名古屋市の覚王山日泰寺に安置されることに。




真清田弘法の経緯と、やっぱり似てますよねえ・・・




>ときを経て、日泰寺を訪れた三人の女性が、龍神石のいわれを知り、御神殿の造営に東奔西走。日泰寺境内の池に浮かぶ小島に完成後、手厚く祀られてきたといいます。




この出来事がいつか、はっきりしていなかったのですね。

この三人の女性は、なぜ「訪れた」のでしょうか。

「いわれを知り」・・・どうやって現地で存在を知ったのでしょう。日泰寺の誰かが教えたのなら、そのキーパーソンとは誰だったのでしょう。




>昭和58年には、ラジオ番組で民話として龍神石が取り上げられた




先の出来事と無縁ではなく、むしろ先の出来事が影響してと考えるべきなのでしょうか。

この出来事を、ほのぼのの記事の著者(文責がないのでこれも追えません・・・)はどうやって知ったのでしょうね。記録があるのか、人から聞いたのか。




>三女性の熱意が後押しし、元宮である真清田神社への遷座が決定。同61年には境内東にある神池の厳島社と並んで御新殿が建立され、「八龍神社」と名付けられました。




「熱意を後押し」は、本当の意味で後を押した(つまり運動の当事者)のか、文学的な表現として用いた(ほのぼのの著者が時系列から勝手に結びつけただけ)のか、この文面だとどちらとも取れます。

「ラジオ番組で民話として龍神石が取り上げられたことや、三女性の熱意が」と書いてあるので、返還の理由にはラジオと三女性の熱意の2つが同列併記されています。




八龍神社の創建に関わる記録が残っていれば、そこから龍神石返還経緯が判明するかもしれません。社誌を読んだときはどちらかというと三明神社の再建部分に偏って読んでいたので、こちら経由から再読する価値はありそうです。

Re: 真清田神宝流出記 投稿者:チェリー 投稿日:2014年 9月30日(火)22時30分50秒 返信・引用

> No.1176[元記事へ]




MURYさんへ




思い出しました!「ほのぼの」のpdf ダウンロードしてたんだ!!




ほんまち界隈 歴史こばなし

真清田神社と龍神信仰

 真清田神社の御祭神は、尾張開拓の祖である「天火明命(あめのほあかりのみこと)」とされていますが、古くは数座の御祭神を祀っていたという説があり、そのなかに「大龍王神」の名があります。農耕を行ううえで重要な“水利をつかさどる龍神”への信仰が、周辺に深く根づいていたと想像でき、現在祀られている「龍神石」は御神体か、もしくはそれに類するものとして大切に扱われていたと考えられます。

 江戸時代、第三代神主・佐分清円氏が享保18年(1733)に編述した「真清探桃集」に「水精石」(長さ一尺余り、黒白相雑)と記されるものがあり、これが龍神石を指すと思われます。

 明治初年の神仏分離令によって神社から仏教に関係するものが多く放出されることになり、龍神石も例外ではありませんでした。神社から出て民間を転々としたのち、名古屋市の覚王山日泰寺に安置されることに。ときを経て、日泰寺を訪れた三人の女性が、龍神石のいわれを知り、御神殿の造営に東奔西走。日泰寺境内の池に浮かぶ小島に完成後、手厚く祀られてきたといいます。

 昭和58年には、ラジオ番組で民話として龍神石が取り上げられたことや、三女性の熱意が後押しし、元宮である真清田神社への遷座が決定。同61年には境内東にある神池の厳島社と並んで御新殿が建立され、「八龍神社」と名付けられました。

       「ほのぼの」 一宮市商店街まちかどかわら版 2011.10月号 vol.3 より




昭和58年は遷座が決定した年だと読めますねぇ。それともラジオ番組が放送された年?小島に祀られたのはそれ以前と思われます。

そして、小島に祀った三女性が、真清田神社への遷座を、熱意で後押しした模様です。同じ人達なんだ!




でも、熱意で後押しって、なんのことなんだろう??

Re: 真清田神宝流出記 投稿者:MURY 投稿日:2014年 9月28日(日)22時43分20秒 返信・引用

> No.1175[元記事へ]




>チェリーさん




龍神石は、あのスケッチの通りなら、神になるべくしてなった水晶石です。自然の妙技は人為を凌駕するといわざるをえませんね。




>日泰寺境内の池の小島に祀るべく運動をされた女性達と、真清田神社に返還する運動をされた女性達は、別と思っていたのですが(時代も)、どうなんでしょうか?




まちこん一宮の「ほのぼの」がなぜか見れなくなってしまって、残念なことです。まちこん一宮には再掲示のお願いをメールフォームから送ったのですが、1ヶ月経っても返事なし・・・。じゃあメールフォーム作らない方がいいのにと感じてしまいました。

あの記事のpdfをダウンロードしておけばよかったです。細部を忘れてしまいました。




日泰寺の小島にまつる運動をしたのが3名の女性たちだったと思います。

真清田神社に返還する運動をしたのも、女性たちでしたっけ?その辺がはっきりしていません。

年代的には両者の動きは近い(5年以内?)ので、同じ女性たちによる運動と見ることもできますが・・・。

たしか同記事には、このことの顛末がどこぞのラジオ番組で取り上げられたと書いてあった記憶があります。ラジオ番組では、後追いで私たちがたどることは難しいかな・・・




思うに、なぜこういった動きは記録に残らない(残さない)んでしょうね?

現代生きる我々も、歴史を創る当事者なわけですから、こういう動きには記録がなされてしかるべきだと、組織体である日泰寺や真清田神社に特にお願いしたいところであります。



Re: 真清田神宝流出記 投稿者:チェリー 投稿日:2014年 9月22日(月)00時42分45秒 返信・引用

> No.1174[元記事へ]




MURYさんへのお返事です。




 「龍神石」のイラスト見ました!

 これはすごい!映画の「エイリアン」ではないですか!ギーガーのデザインでしたね。

 でも、やっぱ、「神体石」ではないという印象をもちました。




 私は、3人の「信心深い女性たち」の話に引かれますね。日泰寺境内の池の小島に祀るべく運動をされた女性達と、真清田神社に返還する運動をされた女性達は、別と思っていたのですが(時代も)、どうなんでしょうか?




 少しでも調べてみたいと思います。






真清田神宝流出記 投稿者:MURY 投稿日:2014年 9月15日(月)21時44分37秒 返信・引用

本日、一宮市立中央図書館へ行ってきました。

森徳一郎氏の著作、真清田の名前がつく文献を一通り総覧してきました。

新情報があったのでここで報告します。




森徳一郎「郷土史談(三二) 真清田神宝流出記(5)」 十六 龍神石」『一宮市公報』No.180~No.181(昭和10年)




過日、チェリーさん・酔石亭主さんが紹介してくださった『真清田神社江戸時代の神宝と流出』(昭和39年)の著者・森徳一郎氏です。この本よりも、龍神石の流出経緯について詳しく書かれていました。

龍神石のスケッチも載っています。まるで水晶どくろのようです。




さらに、龍神石には2通の添状が付属しており、そこに所有者の移転ルートが記録されていたことも発覚。




明治2年4月、真清田神社の佐分一ノ権が神仏分離のため「不要之神宝」となったため、眞野博氏に譲渡。

明治24年1月、眞野博氏が眞野眞四郎氏に譲渡。

大正4年1月、眞野眞四郎氏が長谷川鍬次郎氏に譲渡。

長谷川鍬次郎氏は覚王山東北にあった八十八ヶ所開山記念堂に奉祀。

昭和5年1月、八十八ヶ所開山記念堂から本坊位牌堂に移す。

昭和5年2月、森氏が長谷川氏の好意により、位牌堂の厨子の中に納められた龍神石を拝観し、その異形ぶりに「思はず眉を伏せ、且つ身慄くを覚えた」




今回注目したい最も重要な事実は、真清田神社が日泰寺へ最初に納められた施設は位牌堂ではなく、八十八ヶ所開山記念堂であったということ。

とても残念なのは、長谷川鍬次郎氏が八十八ヶ所開山記念堂に龍神を移した年月だけがこの記事から抜け落ちていることです。

しかし、森徳一郎氏が知人から「八十八ヶ所開山記念堂に、真清田神社の神宝であった霊石がまつられているから拝観しては如何」と教えてもらった時期が、昭和4年8月初旬と明記されています。

これまでの情報では、龍神石が日泰寺に来た時期は、昭和5年2月までしか遡れませんでした(日泰寺のインタビューでも昭和5年でしたよね。日泰寺が今持っている資料はやはり表面的と言える)。

それよりも約半年、龍神石が日泰寺に写った時期は早かったことだけは間違いありません。




昭和10年の記事ですから、まだ龍神石が日泰寺に来てから日が浅い時期で記述で、信ずるに足ります。

そんなこの記事によると、日泰寺は「将来鎮守として、改めて境内適当の場所に社殿を築いて奉祀する方針である」とのこと。

位牌堂からさらに、別の場所に移す考えがあるということです。




そうなると、真清田弘法の祠が、もしかして位牌堂の次に移設された龍神石の奉祀場?とも思えてしまいます。




昭和5年2月、森氏が拝観した後、本坊位牌堂の龍神石が境内別場所の真清田弘法として改めてまつられ、その2~3年後、遠山氏が風聞した頃には真清田弘法の話として完全に上書きされたと考えれば、龍神石=真清田弘法説は成立すると言えなくもない。




しかし、冷静に考えたいことがあります。

この森氏の昭和10年の記事の中でさえも、「真清田弘法」の五文字は一度も出てきていないということ。

昭和5年~昭和8年の間に真清田弘法ができたのなら、昭和10年に記事を書いた森氏から、真清田弘法の名称ぐらい出るでしょう。むしろ昭和10年の記事で「将来鎮守として、改めて境内適当の場所に社殿を築いて奉祀する方針である」と書いているのだから、昭和10年時点では龍神石はまだ位牌堂の厨子の中ということに他なりません。

さらに言うなら、昭和39年の『真清田神社江戸時代の神宝と流出』でも、龍神石は位牌堂の中にありという記述のまま抄録しているのだから、昭和39年時点でも龍神石は本坊位牌堂内なのでは。

だからこそ、後年、信心深い女性たち(この方々の詳細情報もよく分かりませんね・・・)が、日泰寺境内の池に浮かぶ小島に、祠を設ける運動を起こしたのでしょう。







昭和10年の森氏の記事と同時期資料である、昭和8年11月に遠山正雄氏が記した「尾張地方のイハクラに就いて」の中には、真清田弘法の名称がすでに登場しており、年に一度、虫干しの折だけ開帳されるとの話を載せています。それより後の、森氏の記事に真清田弘法の名が出ないのはなぜなのか。

それと関連する疑問として、この遠山氏の論文の方には、龍神石・水精石などの名前は一度も出てきません。




これは何を意味するのか?

龍神石が現在、真清田神社境内の八龍神社に返還されたというのに、日泰寺境内に現在も真清田弘法の祠がまつられているのは、どういうことを指し示すのか。







奇遇にも、覚王山日泰寺のホームページが近日、オープンする予定らしいです。



http://www.nittaiji.jp/




周囲から取り残された真清田弘法の歴史へ、目を向けていただきたいです。

Re: 真清田神社の神体石と真清田弘法 投稿者:チェリー 投稿日:2014年 8月30日(土)23時04分56秒 返信・引用

ごめんなさい!訂正です。




>  日泰寺を訪れた三人の女性が龍神石のいわれを知って、境内の池に浮かぶ小島に神殿を造営すべく東奔西走し、完成後にそこに手厚く祀られるようになったという、その池です。

>

>  道路を通すために、大きく埋め立てられちゃった!少し残ったのですが、小島の部分は道路になっちゃったのです。(現在は残りの部分も埋められて、駐車場になっています)

>

>  その小島が無くなっちゃった…道路ができた時期がわかれば、埋め立てられた時期がわかります。

>

>  昭和39年から昭和41年の間に道路ができて、小島はなくなってしまったと思います。




と、そのように掲示しましたが、その南北の道路は、それほど大きく池を埋めたわけではないようです。




国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」が、知らないうちに、とんでもなく充実してまして、名古屋の昔の航空写真が簡単に見られるのです!




以前から池を周回するように小さな道があって、そのうちの南北の道が広がっただけのようです。

むしろ、東西の道が大きく埋めたようです。




でも、そもそも島が写ってないのです。おっかしいなぁ~




少なくとも「昭和39年から昭和41年の間に道路ができて、小島はなくなってしまった」というのは間違いだと思います!ごめんなさい!! 

Re: 真清田神社の神体石と真清田弘法 投稿者:チェリー 投稿日:2014年 8月20日(水)22時47分36秒 返信・引用

> No.1171[元記事へ]




酔石亭主さんへのお返事です。




ありがとうございます。




そういえば、あま市七宝町に伊福という地名があったなぁと思ったら、「伊福部神社」がありました。

ここから真北にたどったら、一宮市の「伊富利部神社」がありました。

もっと北に進むと高富に着きましたけど…

関係ありそうですね!




村国神社のあたりは、何度も通っているはずですが、気がつきませんでした。

大きな芝居小屋があるみたいです。裏山は古墳群のようです!

やっぱ、各務原は奥が深いです!!



Re: 真清田神社の神体石と真清田弘法 投稿者:酔石亭主 投稿日:2014年 8月19日(火)20時08分37秒 返信・引用

> No.1170[元記事へ]




チェリーさんへのお返事です。




伊福部氏は山県市高富町に最も濃密に分布するものの、ここは彼らの本拠ではないと思います。全くの推測ですが、彦坐王に率いられた伊福部氏が各務原に定着し、仁徳天皇の時代に飛騨からの侵略者(両面宿儺)に対抗するため配置転換されたと考えています。その山県市岩西にいた伊福部氏が、元の場所である各務郡の伊波乃西神社に埋葬されたと考えると筋が通りそうに思えます。




村国氏では壬申の乱において美濃湯沐邑(現在の揖斐郡池田町)の兵三千で不破道を閉塞し、大海人皇子を勝利に導いた村国男依が有名です。村国氏が関係する神社としては村国神社、村国墨田神社が各務原に鎮座しています。各務原には秦氏もいるようで、興味が尽きません。






Re: 真清田神社の神体石と真清田弘法 投稿者:チェリー 投稿日:2014年 8月18日(月)23時02分34秒 返信・引用 編集済

> No.1169[元記事へ]




酔石亭主さん




 見ていただいて、ありがとうございます。

 伊福部氏なのですね!調べてみます。伊吹山に関連して名前はよく拝見するのですが、高富町が本拠地なんですねぇ。

 岐阜市の北の方ですね。すぐ近くの大龍寺には、満天星つつじを見に行ったことがあります。




 各務原の豪族は「村国氏」というんですね。これも調べてみます。

 MURYさんが「神秘の各務原」と呼ぶように、ここは信仰の場所がとても多くて、不思議です。少し山を歩けるとよいのですが、露岩も多いです。八木山の東の麓沿いに迫間不動尊までの間も、雰囲気があっていい感じです。




 私の「とんでもサイト」は、九州北部に突入したところです。いわゆるヤマタイ国関連になりますので、少し時間がかかるのですが、合間合間に地元の記事を載せていきたいと思っています。

Re: 真清田神社の神体石と真清田弘法 投稿者:酔石亭主 投稿日:2014年 8月18日(月)20時19分31秒 返信・引用

> No.1166[元記事へ]




MURYさんへのお返事です。




ご寛容ありがとうございます。最後の手段は真清田弘法の関係者に祠を開けてもらうしかなさそうですね。




チェリーさん




「尾張氏とヤマトタケル」シリーズ拝見させていただいています。記事には色々知らない場所が出てきて、特に各務原は面白そうですが、まだ行ったことがありません。ただ、チェリーさんが取り上げた伊木山と八木山はどちらも伊福部氏に関連する山名のように思えました。




各務原には伊吹の地名があり伊木はその転訛と考えられ、伊木山の麓には八龍神社があって、伊福部氏を連想させる鍛冶遺跡もあります。八木も伊福部の別名である五百木(いほき)が養基、結城、八木に転訛したものと思われ、美濃の結城神社は伊福部氏が関係しています。揖斐郡池田町には伊福郷があり養基(やぎ)神社が鎮座し、八木大明神と呼ばれていたそうです。




MURYさんが伊波乃西神社について紹介されていましたが、神社の西側にある岩は宮内庁により彦坐王の陵墓と認定されています。ここで彦坐王の名前が出るのは大きな意味があるものの、実際の被葬者は伊福部氏だと推定します。伊福部氏は出雲、因幡、美濃に多く分布し、美濃が111例、出雲が36例、因幡が28例と美濃が飛びぬけており、美濃の中でも山県郡三井田里(山県市高富町)が87例で突出しています。さてそこで、伊波乃西神社は江戸時代岩西神と称されていました。この名前に伊福部氏が関係しないかチェックしたところ、山県市に岩西の地名があると判明。これらの状況証拠から伊福部氏の陵墓と推定したわけです。




伊福部氏の視点から各務原を見るとまた違った風景が展開するかもしれません。「尾張氏とヤマトタケル」に関連してもっと続けていただければと期待しています。それと、各務原の豪族は村国氏ですが、正倉院にある御野国山方郡三井田里戸籍(大宝2年、702年)には三井田里戸籍の五百木部君木枝と村国奥連小竜売の婚姻が記載されています。涼しくなったら現地でじっくり調べたいところです。



うーん 投稿者:あんでっど 投稿日:2014年 8月17日(日)23時29分56秒 返信・引用

例の一覧、凄いですね(笑)

全然知らないものもあるので、それはそれで興味深いのですが。

Re: 真清田神社の神体石と真清田弘法 投稿者:チェリー 投稿日:2014年 8月17日(日)23時01分39秒 返信・引用

> No.1163[元記事へ]




MURYさん・酔石亭主さん




 私もその後はSTOPです。

 真清田弘法の管理人の方を見つけるしか、方法がないような気がしています。




 MURYさん、まとめていただいて、ありがとうございました。やっぱ、すごいボリュームになりますねぇ。




 私としましては、日泰寺境内の池にも、ポイントがあると思っています。




 日泰寺を訪れた三人の女性が龍神石のいわれを知って、境内の池に浮かぶ小島に神殿を造営すべく東奔西走し、完成後にそこに手厚く祀られるようになったという、その池です。




 中経の文庫「彩色絵はがき・古地図から眺める 名古屋今昔散歩」の150・151ページに載っています。日泰寺の本殿と奉安塔・征清記念碑との間にあった池です。小島に何か乗っていると思います。

 道路を通すために、大きく埋め立てられちゃった!少し残ったのですが、小島の部分は道路になっちゃったのです。(現在は残りの部分も埋められて、駐車場になっています)




 吉田初三郎氏の鳥瞰図「観光の名古屋市とその付近」昭和8年(1933年)3月30日名古屋市役所発行が、一番よくわかります。小島(二つ?)らしきものと、(片方に)何かがその上に乗っているのがわかります。祠かもしれないです。




 その小島が無くなっちゃった…道路ができた時期がわかれば、埋め立てられた時期がわかります。




 国土地理院発行の5万分の1「名古屋北部」明治24年及び昭和12年測図 昭和22年修正測図 昭和39年資料修正(道路・鉄道行政) の地図には、道路はありません。ですが、同じく「名古屋北部」昭和37年測量 昭和41年資料修正 の地図には、道路があるのです。




 昭和39年から昭和41年の間に道路ができて、小島はなくなってしまったと思います。




 「龍神石」は、真清田神社に帰る前に、どこにあったのでしょうか?




 その謎にも、ひとつポイントがあると思います。







 

Re: 真清田神社の神体石と真清田弘法 投稿者:MURY 投稿日:2014年 8月16日(土)18時47分50秒 返信・引用

> No.1165[元記事へ]




>酔石亭主さん




いえいえ。ご覧くださりありがとうございます。

約100年前の歴史を埋める作業になります。

また何か新しく文献や情報を見つけられましたら、教えてください。

Re: 真清田神社の神体石と真清田弘法 投稿者:酔石亭主 投稿日:2014年 8月14日(木)20時26分28秒 返信・引用

> No.1163[元記事へ]




MURYさんへのお返事です。




すみません、「真清田神社江戸時代の神宝と流出」はすでにチェックされていたのですね。

暑さで頭が全く回らずお恥ずかしい次第です。

Re: 真清田神社の神体石と真清田弘法 投稿者:酔石亭主 投稿日:2014年 8月14日(木)20時17分28秒 返信・引用

> No.1163[元記事へ]




MURYさんへのお返事です。




纏めの記事は問題点がわかりやすく浮き彫りになっていますね。

この謎をさらに調査したいとも思っていますが、ほかに追及したい課題があってなかなか果たせません。




実は、「真清田神社江戸時代の神宝と流出」という本があり、一宮市図書館ホームページでチェックしたところ7階郷土資料のA177/8cに置かれています。

この本を見ればひょっとしたら最終解決になるかもしれません。




もし時間が許せば見ていただけると有難いのですが…。












真清田神社の神体石と真清田弘法 投稿者:MURY 投稿日:2014年 8月13日(水)02時10分58秒 返信・引用

真清田神社の神体石と、覚王山日泰寺の真清田弘法にまつわる一連の検討をレポートにまとめました。




http://www7b.biglobe.ne.jp/~megalith/masumida.html




チェリーさんと酔石亭主さんのご投稿も大いに参考にさせていただきました。

現状での報告になりますが、今後の新展開に向けてアンテナは引き続き張っていきたいと思います。

Re: 山姥伝説 投稿者:チェリー 投稿日:2014年 7月19日(土)10時01分39秒 返信・引用

> No.1161[元記事へ]




MURYさんへのお返事です。




いえいえ、とんでもございません。




 この方の「山たまごの東海岳行」というサイトの2014年3月12日(水)の記事「継鹿尾山」も、またおもしろい!

 どうも、この犬山周辺の低山を知り尽くしている方がみえるようです。




 このあたり、どれだけ信仰の跡があるのか、わかったものではないようです。






Re: 山姥伝説 投稿者:MURY 投稿日:2014年 7月18日(金)00時24分42秒 返信・引用

> No.1160[元記事へ]




チェリーさんありがとうございます。リンク先読みました。




とてもおもしろい、いや、凄味のある場所を知ることができ感謝します。




相澤山の山頂までは私も登り、そのまま東の尾根沿いに歩きましたが、南側斜面にあるという廃屋と岩窟は気づきませんでした。




本宮山南斜面の山姥の洞穴とやらも、これまた普通の登山者は誰もいかないような場所にあるものですね。

鷲岩・砥石・杖石の踏査も含めて、10年ぶりに本宮山・相澤山巡りを考えたくなりました。




今日UPした尾張富士も、山頂付近の鎌岩があるなんて、聞いたこともありませんでした。

数十年で人の意識は変わり、歴史は断絶するようです。

山姥伝説 投稿者:チェリー 投稿日:2014年 7月17日(木)22時20分52秒 返信・引用

 尾張本宮山の頂上には登ったことがあるのですが、MURYさんが取り上げているように、その南西に連なる「相澤山」に行ってみなければならないようです。

 この地域の「山姥伝説」を少し調べていたのですが、次のサイトを見つけました。




「本宮山伝説」www.geocities.jp/tokaigakko/page-307.hongu.okugu.html




 「山たまごの東海岳行」というサイトのページのようですが、とても、興味をそそられるというか、これは行ってみないと、思ったことでした。涼しくなってからですが…

Re: 郷土史家さんと知り合いたい! 投稿者:MURY 投稿日:2014年 7月 6日(日)23時13分54秒 返信・引用

> No.1158[元記事へ]




六所神社の話、良い話ですね、

まさに現代民話収集だと思います。

石材地が白蛇の住処というなら、すでに岩石信仰の範疇です。

昭和15年も立派な歴史です。




ネットならでは出てくる情報と、もちろん出てこない情報があります。

どれがどうと卑下したり持ち上げたりするのではなく、ネットと本と現場と聞き取りの4本柱(まだあるかな?)をどれもバランス良く摂取していくのが良いですね。



Re: 八王子山 投稿者:MURY 投稿日:2014年 7月 3日(木)23時32分35秒 返信・引用

> No.1154[元記事へ]




宗健行者の話、読ませていただきました。




http://www.town.mitake.gifu.jp/hanasi/story21/story21_13.html




御獄教太平講が育んできた民話というのがポイントだと思います。




http://kaikikou.blog135.fc2.com/blog-entry-12.html




このページによると、愛知県太平教会という組織がかつてあったようです。




御嶽教の教義に親しまないと、うかつなことは言えませんが、話の半分は地元民俗と混然しているような雰囲気です。




各地に、表舞台の歴史では語られることのない講が無数に存在していて、それぞれが独特の世界観を作っていました。

これを一般論や教科書的な知識だけで、ある意味高所から語ることは無茶であり、これを掘り起こす郷土史家・民俗学者の出番が待たれます。

Re: 八王子山 投稿者:チェリー 投稿日:2014年 6月23日(月)22時35分44秒 返信・引用

> No.1155[元記事へ]




 時空少女さん、ありがとうございます。




> 天橋立がよく見える成相山(標高569m)の山腹に成相寺(なりあいじ。京都府宮津市成相寺339)があります。ご本尊は聖観世音菩薩で、五重塔の北側に「底無の池」があり、左甚五郎が彫刻のモデルとした龍がここに住んでいると伝えられています。




 池があるのですね! 龍が住んでいるのですね! 面白いです。




 全く無茶苦茶な話ではなくて、何か元になっている事があるようですね。




 八王子山というのは、全然目立たない山で、何でここにこんなお話が伝わっているのか、不思議としか言いようがないのでした。







 






八王子山 投稿者:チェリー 投稿日:2014年 6月18日(水)22時15分59秒 返信・引用

 標高290m 岐阜県可児郡御嵩町です。ご近所です。

 山頂に八王子神社が鎮座します。山中、山麓に神社・寺院が複数あり、昔からとても気になっていました。で、行ってみたのが去年の秋でした。

 山中に露岩が多いです。上の写真は稜線の岩石です。小さな燭台が見えるでしょうか?

 真ん中の写真が「八大竜王」の場所です。少し庇のある岩壁です。私、これにそっくりな場所を見たことがあります。鳳来寺山の「利修仙人護摩所」です。それの小型版ですねぇ。庇の下に小さな石仏が見えますでしょうか?

 不思議な説明板がありました(下の写真)。長くなりますけど、記します。




宗健行者由来記

丹後の国成相山の裏山夜叉谷に天龍大蛇を以て信仰致し京都諸方坊と巡り合いこの里に参り其の時今より四七〇余年前此の里大旱魃(かんばつ)にて二年の間ものも取れず、そこへ来た行者は寺に参りその事を住職より聞きそれを行者の身を以て一心に八大龍王を信仰し二十一日断食を以て八王子権現に参拝した時里の者も二十一日間水をもって身を浄めて権現に一心ふらんに祈願をかけ心願が成就した。

それ故喜んで山を下り住職の部屋で一週間体を休めそこを八月十五日に立ち住職に申し厄介になった御礼として仏像を其の寺に残しおいた。

歳月重ねて所は上州赤城山の裏の信龍池に参り七十七歳にて其の身を其の池に沈めた、是行者は龍を心願したるに付赤城大権現となって祀ってある、この後婦人の病気が多いためこれを信仰いたせば婦人の病と腰より下の病気に守護がある命日■此の地を立った八月十五日である。

昭和二十七年八月十五日御嶽教太平講の■■書




 何が不思議かというと、文中の「丹後の国成相山の裏山夜叉谷」「赤城山の裏の信龍池」「赤城大権現」のいずれも、検索しても、なんにも出てこないのです!




 さっぱりわからないのでした。












Re: 磐座調査 投稿者:MURY 投稿日:2014年 6月10日(火)02時59分50秒 返信・引用

> No.1152[元記事へ]




もしかして、湖西市の神座古墳群でしょうか?




http://www.city.kosai.shizuoka.jp/secure/10132/%E3%83%88%E3%82%AD%E3%83%AF%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%81%A8%E7%A5%9E%E5%BA%A7%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4.pdf




岩巣という名前で呼ばれているようです。

去年、駒澤大学の方とお話しする機会があり、ここの存在を教えていただきました。




表採調査はしていると思うので、それで見つからないということは、地中に埋もれている可能性も低めではあります。

渭伊神社境内遺跡は、表採遺物から発掘調査に結びついた場所でしたからね。




“遺物が見つからないから、岩石信仰の場ではないのか”

それはイコールではありませんが、考古学的な見地で行く限りは、物質的痕跡なくして歴史を語れません。

Re: 奇岩百景 投稿者:MURY 投稿日:2014年 6月 1日(日)01時26分32秒 返信・引用

奇岩巨石磐座ニュースのヘビーユーザーである私としたことが、見逃してしまいました。




残念!

奇岩百景 投稿者:あんでっど 投稿日:2014年 5月31日(土)13時09分56秒 返信・引用

一応発信していました。仮称でしたが。

https://twitter.com/stonenews/status/422032533048406016




応募は終わったようですね。

http://geopark.jp/gupi10/

Re: 石山 投稿者:MURY 投稿日:2014年 5月30日(金)00時12分53秒 返信・引用

> No.1148[元記事へ]




西側の地山を開発で無理やり削った感じの岩肌ですね。ありがとうございます。




> 現存する古墳からラインを引いて満足してる場合ではないような気がしました。




まさにそうですね。ただし正確なポイントをおとすのは至難の業かもしれません。




「ある」古墳と「ない」古墳の視点。

「傾向に沿う古墳」と「傾向に沿わない古墳」の視点。




分析量が2倍になりますが、ぐうの音も出ない説がつくれそうです。

Re: 石山 投稿者:チェリー 投稿日:2014年 5月27日(火)23時22分26秒 返信・引用 編集済

> No.1147[元記事へ]




>それらしき平べったい露岩は見かけたでしょうか。




 それは見なかったですねぇ。西の端は、大きな岩の斜面で終わっていましたので、それのことかなぁ?(写真の岩)八畳よりはるかに大きかったですけど…




 「蘇南の創庫」というサイトを少し拝見しました。消失した古墳が多いのですねぇ。

 大須二子山古墳の位置を調べてるときにも思いましたが、現存する古墳からラインを引いて満足してる場合ではないような気がしました。






Re: 石山 投稿者:MURY 投稿日:2014年 5月27日(火)01時29分29秒 返信・引用

> No.1146[元記事へ]




『那加町史』を読むと、石山の西麓に八畳岩という岩があるそうで、名前からして広大な露岩を彷彿させます。

東が登り口で、西が体育館で行き止まりということなので、八畳岩は学校などの施設内に取りこまれているかもしれませんが、それらしき平べったい露岩は見かけたでしょうか。




別件ですが、真清田神社の「土壇」「三明神社」「地中を掘って出たもの」「古墳」といったキーワードにおいて、興味深いページを見かけました。

http://sonan.rakugan.com/bunken/ichinomiya2/ichinomiya2.htm




良いですねえ、こういう純"資料"然とした情報発信で、主観を入れないweb作り。

エバーグリーンな資料性があります。

私は、探訪レポをこういうテイストで作りたいという憧れがあります。




犬山市の岩神古墳が、古墳石室の奥壁を岩神として江戸時代にまつっていたと書かれてあります。

古墳石室石材を後世岩石信仰の場として利用した。この視点も持っておきたいものです。

石山 投稿者:チェリー 投稿日:2014年 5月27日(火)01時00分58秒 返信・引用

 岩石の話に戻りましょう!




 岐阜県各務原市那加手力町だと思います。要するに、那加手力雄神社のすぐ東です。「石山」と地図にあるので、気になって、行ってきました。といっても、3月のことです。那加第一小学校の北に沿って東西に延びた山なのですが、この小学校も、明治時代からの歴史があるようです。




 登り口は東の端にあります。少し登ると「馬頭観音」を祀っているようです。




 そのまま進むと、岩の稜線です。いい道ですねぇ。西の端は体育館で行き止まりですが、ちょっとした山歩きができます。景色もよいです。このあたり(岐阜市から各務原市)では、山の大小を問わず、こうした露岩が見られるのです。


















Re: 星石 投稿者:酔石亭主 投稿日:2014年 5月14日(水)20時52分25秒 返信・引用

> No.1142[元記事へ]




時空少女さんへのお返事です。




> やっぱり意見が合わない。




異なる意見のやりとりから新しい知見が生まれ理解も深まるのは良いことでは…。




>玉置氏が尾張氏族であることは一目瞭然!




本当に一目瞭然でしょうか?玉置氏がいたから熊野の山が玉置山と名付けられた可能性もあるので、私も玉置氏の系図は事前に見ています。しかし、石亭の話とは関係ないと思われ、前回で書きませんでした。時空少女説は天明火命が8氏族を尾張に配置して、その一つが玉置氏のようですが、その考えに沿った場合、




1.乎止与命以前に玉置氏に繋がる人物が存在する必要があるのに、系図上では尾張連の後裔でかなり後となり、しかも尾張氏からの別れが熊野の玉置氏になってしまうのは時空少女説とは真逆の動きとなる。

2.系図によれば玉置氏初代は牧夫(枚夫、熊野大神忌人=熊野大神を祀る神職)になると判断されるが、初代がなぜ尾張と関係のない熊野の神官になるのか説明が付かない。

3.牧夫の後裔に多少名前が知られた玉木庄司(「太平記」に出てくる人物)がいて十津川在住しており、彼は鎌倉後期の人物。系図上の人物から見ても、 彼らはずっと熊野周辺にいた地方豪族とするが合理的。

4.牧夫の系図は玉置神社宮司のルーツとなる平資盛(平家一門)へも繋がらない。(牧夫系と平資盛系のいずれにも何人かの玉木庄司、玉置庄司がいるので繋がるとも言える??)




いずれにしても玉置氏の系図は曖昧で判然としません。玉置家と尾張との関係は尾張徳川家の時代となりそうです。熊野の玉置氏が尾張氏の流れを汲む系図を作ったのは、高倉下が熊野で神武天皇を助けた話が元になっていると思われます。つまり、高倉下=天香山命だから尾張氏に繋げたと言うことでしょう。




などと思うのですが、古代の玉置氏の痕跡が尾張にあってその場所が玉置山と言うことなら、参考になりますので是非教えてください。



Re: 星石 投稿者:酔石亭主 投稿日:2014年 5月13日(火)21時19分28秒 返信・引用

> No.1139[元記事へ]




時空少女さんへのお返事です。




> 「玉置山」「星池」がどこなのか知りたいものです。




木内石亭とは正に水石趣味界の大先達であり、この名前が出るとつい嬉しくなります。時空少女さんなら既に玉置山に関してあらゆる可能性を調べ、最有力候補として星崎の星宮社を考えられたのでは…?




酔石亭主はズバリその星崎の星宮社が玉置山と考えます。理由は、今も時々星(隕石)がこの山に落ちるとの記述があること。熊野の玉置神社に関して玉置山にある神体石は隕石ともされ(事実関係は別の話)、玉(隕石)が置かれた山を玉置山と称したとすれば、星宮社の場合も同様のケースと考えられること。によります。




星池はわかりませんが、社の下を流れる小河川の水を引き込んだ池があったのかも…。(尾張名所図会で境内図を見た際、池はなかった記憶があります)赤星の落ちるところ、との記述から天津赤星が連想されこの神は星宮社祭神・天津甕星と同神とされる点も可能性として浮上しますが、石亭の記述の仕方からするとやや無理がありそうです。






Re: 天火明命 投稿者:酔石亭主 投稿日:2014年 5月13日(火)21時16分3秒 返信・引用

> No.1138[元記事へ]




時空少女さんへのお返事です。




> 紀元前に尾張国に稲作を伝え、神と呼ばれたのは誰でしょう?




質問の含意はわかるような気もしますが、まずは名古屋市北区に鎮座する綿神社の由緒を参照してください。その上で、由緒の内容で説明の付かない部分と不十分な部分を考えてもらえればと思います。




それと、一代を30年とするのは相当無理があります。徳川幕府の時代でさえ270年で15代ですから、一代たった18年。尾張氏系図を少し甘めに一代20年と見て75代で1500年前。尾張氏が勢力を伸ばしてきた5世紀末から6世紀初頭にかけての時代とほぼ合致しますね。この頃尾張氏は系図を作って自分たちの祖神に天火明命を繋げたのかも…。いずれにしても、尾張氏の始まりと尾張(紀元前に尾張国は存在しませんが…)における稲作の始まりを連結させるのは難しそうです。



Re: 天火明命 投稿者:酔石亭主 投稿日:2014年 5月12日(月)06時29分32秒 返信・引用

> No.1131[元記事へ]




時空少女さんへのお返事です。




> 天火明命って、天照大神の孫とか、ニギハヤヒのこととか言ってるけど・・・いつの人でしょう?




紀元前ではあり得ず、もっと遅い時代の人です。天火明命=ニギハヤヒは十種神宝(とくさのかんだから)を携えて降臨したとされます。その中に瀛都鏡(おきつかがみ)、邊都鏡(へつかがみ)があって、邊都鏡は前漢鏡、瀛都鏡は後漢(25年~220年)鏡とされています。後漢鏡が2世紀の後半から終わり頃日本に伝来したと想定すれば、天火明命=ニギハヤヒは2世紀の終わり頃から3世紀初め頃の人と時代を絞り込めます。卑弥呼(248年頃没)以前の人物と言うことですね。

Re: 田縣神社の磐境 投稿者:MURY 投稿日:2014年 5月12日(月)00時06分0秒 返信・引用

> No.1134[元記事へ]




おおっ写真ありましたね!

撮影できるんだ・・・

ダメもとでこの方々に写真利用をお願いしてみては?

Re: 田縣神社の磐境 投稿者:MURY 投稿日:2014年 5月11日(日)23時26分42秒 返信・引用

> No.1132[元記事へ]




田縣神社の磐境は聞いたことがありません。




それとも大国霊神社の磐境のことでしょうか?

ここの磐境は外からは見れないので、写真はweb上には出回っていないみたいです。

社務所で拝観を願い出れば、おそらく見せてくれそうな様子ですが、web界ではまだ誰もチャレンジしていません。私も含めて。拝観した方はいても、写真撮影は自粛しているのかもしれません。

大国霊神社のパンフレットには写真が掲載されています。

それをサイトで転載するのは△なので、やるとしたら、拝観で写真撮影をお願いしてみるといったところでしょうか。



Re: 真清田神社の陽石 投稿者:チェリー 投稿日:2014年 5月 9日(金)21時40分9秒 返信・引用

> No.1123[元記事へ]




時空少女さんへ




 写真をありがとうございました!

 よく見ないといけないですね!全然気がつかなかったです。

 聖地に掘った井戸って、どこなんでしょうね!




MURYさんへ




 はい、まだまだ謎は残りますね。楽しみです!




 日記の更新に気がつきませんでした。

 谷を100m下って、尾根を100m登ったのですね!これは大変だ。こうやって見ると、結構深い山ですねぇ… MURYさん、この山の主になりそうですねぇ!

Re: 尾張氏のこと 投稿者:酔石亭主 投稿日:2014年 5月 9日(金)19時56分41秒 返信・引用

> No.1126[元記事へ]




時空少女さんへのお返事です。







> なるほど。「八岐大蛇に乗って来た」とは、「草薙剣を持ってきた」ってことかもね。




草薙剣は難し過ぎてどうにもなりません。一応、鏡と同じに考えれば、崇神天皇の時代に宮中から出したので、代替品を作り、その試作品を天火明命(とその御子・天香山命)の後裔が尾張に持ち込み、東国版日本武尊の建稲種命が受け取って大高に置いたが大化元年に熱田に遷した。天智天皇の時代に三種の神器を定めようとするも、剣は宮中にも伊勢神宮にもなかった(物部氏のものになっていた?)ので、試作剣を尾張氏から奪い取った(道行の盗難事件)。ところが非難轟々で、天武天皇時代に尾張氏に返した。(剣は天照大神の霊代ではないので、一見筋が通りそうでもこの考え方には相当無理がある)




実は物部氏の本貫地遠賀川流域には尾張と全く同じような話や地名、神社があり、(熱田神宮の謎を解く その33~36で書いています)やはり草薙剣は出雲族→物部氏→尾張氏→一時天皇家→尾張氏なのかとも思いますが、この問題はより複雑そうで現状では酔石亭主の知見の範囲外となります。







> 「あゆち潟に定着して、そこからあちこちに行った」の証明は、あゆち潟の神社や古墳が、他の地域のそれらより古ければOKなのかな。時空少女説は、「天火明命が連れてきた8氏族が8ヶ所で開拓や治水工事をして、尾張氏と名乗った」です。




時空少女説と酔石亭主説の違いは、畿内から天火明命に率いられて来た氏族が尾張氏になった説、と、あちらこちらを船で移動していた海人族が年魚市潟に入り勢力を増して尾張氏になった説の部分ですね。時空少女説の場合、3世紀から4世紀初めに天火明命は存在していないし、天火明命(とその御子・天香山命)の後裔の尾張到来は初期大和王権の東国支配に向けての第一歩的なものであり、それに随伴する氏族が尾張氏になったとは考えにくいと思います。また、元々海人族の尾張氏がなぜ大和にいたか説明が付かないし、古墳の築造場所、年代は酔石亭主説に一定程度整合しています。




当初年魚市潟に来た海人グループは氏、姓などない海賊かボートピープルみたいなものだったと思われ、年魚市潟の神社や古墳が他地域より古いかどうか検討する必要はありません。彼らのうんと大ざっぱなイメージは以下のようなものです。

10艘の小舟に乗った海人族が伊勢湾に入った。頭領など3艘は一番地の利が良さそうな年魚市潟に入った。2艘は庄内川を遡り東谷山山麓に入った。他の2艘は木曽川を遡り小牧に入った。残りは海部郡など各地に適当に散った。彼らは相互に連絡を取り合っていた。




4世紀初頭(或いはそれ以前)、葛城山麓にいた天香山命の何代目かの後裔は天火明命の霊代である鏡を携え伊福部氏や笛吹部、鏡作部などを伴い美濃経由尾張に入った。天火明命は天孫族としての位置付けもあり、これは大和王権(豪族連合体)の東国支配の第一歩とも言い得る。




年魚市潟に入った海人グループは海運、物流、沿岸警備(日長神社など明らかに尾張氏の船舶監視所。松炬島はたいまつ島だから、夜もかがり火を設置して警備をした)などで力を蓄え、尾張南部から中部、北部へと勢力を拡大した。尾張北部は天孫系天火明命(とその御子・天香山命)の後裔やその他メンバーが開拓を終えていたので、元々どこの馬の骨とも知れない年魚市潟海人グループは天孫族である天火明命(とその御子・天香山命)を自分たちの祖神に取り込み、かつ天香山命は高尾張邑にいたので、その地名もちゃっかり頂いて尾張氏を称した。尾張は大和王権が東国や越方面へ侵攻するための政学的要衝にあり、尾張氏の協力は不可欠で、それも彼らの勢力伸長要因となった。と言ったところ…。






これで酔石亭主説に宗旨替えしてもらえるかな?




真清田弘法 投稿者:チェリー 投稿日:2014年 2月 3日(月)22時11分32秒 返信・引用

 祠がふたつあるのは、もともとこの地でお祈りされていた「難陀」「跋難陀」の二大竜王の祠なのでしょうか?真清田弘法には「竜」の信仰がぴったりと重なっているのでしょうか。




 本当に呑み込みの悪い素人なのですが、真清田神社にも、同じように「竜」の信仰がぴったりと重なっているように思えるのですが…合祀とかじゃなくて…真清田神社という場所に、出雲の神様?を祀る人々もいれば、全く性格の異なる「竜」を祀る人々もいて、それぞれの人々が「真清田神社の御神体」と呼ぶものが別々にあったのに、後にごっちゃになっちゃって…というような感じがするのですが…

 真清田神社の位置は、それほど素晴らしい場所で、それは…と説明できればよいのですが、これがさっぱりわからない!候補としては「伊吹山」と「猿投神社東之宮(猿投山の最高点)」を結んだ直線上に近いのですが、境内は通るけど、南の方になってしまうのでした。











真清田弘法 投稿者:MURY 投稿日:2014年 2月 2日(日)23時30分22秒 返信・引用

日泰寺と真清田神社へ行ってきました。真清田弘法の祠と土壇も観察してきました。




日泰寺では本堂で僧侶の方が全員納経をしていた時で詳しい人がおらず、真清田神社も巫女の方だけで、タイミングは残念でした。




真清田弘法ですが、祠が2つあるのは何でしょうね?




稲沢市中央図書館で、『高蔵寺町誌』(本日UPした高座山の資料です)の複写のついでに真清田神社史編纂委員会編『真清田神社史』(1995年)に目を通しました。




本文編と資料編の分厚い2冊構成なので精読はできていませんが、重要かと思われるところをいくつか見出しましたので複写してきました。ここに一部をまとめて参考に供したいと思います。




<龍神石について>

真清田の龍神伝説があります。干ばつにあえぐ人々を救うため、弘法大師が雨乞をしたが効果がなかった。一頭の龍が現れ、雨を降らせようとしたら龍の命が必要だと伝えた。龍の命と引き換えに、龍を真清田神社にまつることを約束したところ、激しい大雨が降りだし、黒雲の中から龍の体が切れ切れになって落ちてきたので、弘法大師は約束通り龍神として真清田神社にまつった。こういう伝説です(ちなみに本書の考察では、弘法大師は真清田神社には来ていないということになっています)。

後日、真清田神社が龍神石を手放したところ雨乞いの御利益はなくなり、龍神石を手に入れた家では不幸が相次いだので、昭和5年(1930年)に日泰寺の位牌堂にまつった。

この不幸が続くあたり、遠山正雄氏が語る真清田弘法の顛末記と酷似しています。うーむ。

また、『真清探桃集』に記された「水精石」と龍神石が同一物であることをはっきり示す記述は見つけられませんでした。




<明治の神仏分離の影響について>

真清田神社の社僧が奉仕していた西神宮寺・菩提院・光徳寺の三寺が廃寺となり、その時に本尊の仏像や堂宇・仏具などがすべて売却されたほか、真清田神社が保管していた神宝類のうち、仏教色がある経文・掛軸・仏舎利なども流出。




<三明神社について>

『真清田神社古絵図』(室町時代製作と推定)に、本宮の西側、西神宮寺の北に描かれた宝形造の寺院風の建物が三明神社であると書かれていました。この建物は享徳4年(1455年)に火災で焼失し、『真清探桃集』を著した真清田神社宮司の佐分清円が言うには、この時点で三明神社の社殿は廃絶したというそうです。

三明神社は「如意の珠」「護国の珠」「辟鬼の珠」の「三種の明玉」をまつり、宝珠の存在を秘するために三明珠の宮とは言わず三明神宮と称したと『真清田宮御縁起』巻上(室町時代製作と推定)に記されています。そして社殿焼失後は本宮の内陣に遷御したことが、江戸時代における本宮正遷座の行列からわかっています。

三明神社は「古くからの由緒に因んで、平成五年三月に本殿の真後に再建された」(687頁)

という記述がありますが、この「古くからの由緒」というのは別の頁を読むと、「古来単独の摂社として祭られてゐた」(853頁)という意味の由緒であり、土壇上が元来の鎮座地であったという意味ではないようです。土壇のことは「本殿背後北門脇の浄地に着工された」(854頁)と一言触れられているだけで、土壇の存在や選地理由は触れられておらず深読みはできません。




<『真清田神社古絵図』に描かれた本殿裏の3つの鳥居について>

『真清探桃集』巻之第一によれば、真清田神社の社殿を建てた時に、鳥居形の雲が出現して、社殿の後ろに降りたことから3つの鳥居ができたといいます。著者の佐分清円いわく、昔は社の後ろに三の鳥居があり、後世悉く亡びて今は僅かにその遺跡が残るといい、諸社が社の前に祠を持つのに対し真清田神社が社の後ろに鳥居を持つのはこの由縁によるものと言っています。遺跡というのは何でしょう。これが土壇を指すかどうかまではわかりません。

古絵図には、3つの鳥居と本宮の間に祠が描かれています。この祠に関しての記述ですが、唯一あったのはこれが「摂社」であり、かつて四別宮八十八末社あったといわれる多くの摂末社が衰微した一例だということ。しかし何の摂社までかは触れられていませんでした。三明神社は西神宮寺の北に描かれているので、三明神社でもない社であり、八十八末社の鎮まる場所からも外れているので、名が伝わっていない祠となってきます。







そして、この『真清田神社史』の本文編と資料編で一番注意して追っていた字は「真清田弘法」の5字ですが、ついぞ1つも見つけることはできませんでした。

むしろ、日泰寺の発行する由緒や書籍から、真清田弘法の記録をたどるほうが結果が出るかもしれません。

稲沢市中央図書館には日泰寺の創建について書いた書籍が1冊あるようでしたが、これもタイミング悪くどなたかが借りていました。

そもそも稲沢市で探す必要はなく、千種区のほうの図書館で資料集めしたほうがいいということでしょうね。




物部神社について、かつて移転前の旧サイトでレポートをUPしていたので、本日改めてUPしてみました。

延喜式の物部神社と呼ばれたのは明治時代からで、江戸時代までは石神堂というのが通り名だったようです。閃緑岩とされています。

戦前の話では、大隈鉄工所にある石とつながっていたという話だそうです。

この手の「小石が、地中深くで根を張っていたり、どこか遠くの場所とつながっている」伝承は全国各地にみられます。ある程度、民話としてありうる型の1つと見て良いと思います。

私の集成表からリストアップしておきます。




神石白石/しろ石 宮城県白石市

根白石 宮城県仙台市

要石 茨城県鹿嶋市 鹿島神宮

要石 千葉県佐原市 香取神宮

立石/立石様/立石祠/立石稲荷神社 東京都葛飾区立石

瑞光石 東京都荒川区南千住 素盞雄神社

蛙石/蛙石明神 神奈川県小田原市 北条稲荷

石の木塚 石川県白山市石立町174

牛石(三島七石) 静岡県三島市大宮町 三嶋大社

天の岩戸/恵利原の水穴 三重県志摩市磯部町恵利原

瓜生石 京都府京都市東山区林下町 知恩院

女夫岩 京都府北区上賀茂女夫岩町

建石/皇護石/列石/磐境/結界石 徳島県三好郡東みよし町中庄 八幡神社

三柱石 大分県宇佐市安心院町 三女神社



Re: 物部神社の磐座 投稿者:チェリー 投稿日:2014年 2月 2日(日)16時33分27秒 返信・引用

> 名古屋市東区筒井3丁目31-21に鎮座する物部神社は大石が御神体となり、社伝によれば神武天皇がこの地を平定したときに見つけた石で、これを国の鎮めにしたとのことです。残念ながら大石は社殿の下にあり見ることはできません。




物部神社は社殿の下に岩石があるのですね。無くなっちゃったんじゃないんだ!「尾張の人は…」なんてひとくくりにして悪口を言って申し訳ありませんでした。ちゃんと大切にしてるところもいっぱいありますもんね!




 日泰寺さんに電話をして「真清田弘法」について伺ってみました。とてもていねいに応対していただいて感謝しています。

 御開帳の日程は決まっている訳ではないそうです。「御開帳かなぁ?」と言ってみえました。開いて中のお姿を拝見することができるのかどうかわからないようです。世話人の方がみえて、その方の連絡によって、お経をあげに行かれるのだそうです。いつも世話人の方からの連絡によるそうですので、連絡先はすぐにはわからないようです。年に1回というわけでもなく、もう少し多かったと記憶しているとのこと。

 場所としては、真清田弘法は、ぎりぎり境内に入るとのことです。




 また、何かわかりましたら掲示します。









物部神社の磐座 投稿者:酔石亭主 投稿日:2014年 2月 1日(土)19時08分27秒 返信・引用

MURYさん、チェリーさん




磐座や神体石に関しては、今までその意味などを特に考えることなく、神社の謎解きの際、単に大きな磐座だとか、凄い巨木だと思いながら見ていただけでした。

そうした中にもこれは何だろうと思うものがあり、以下は既にご存知かもしれませんがご参考まで…。




名古屋市東区筒井3丁目31-21に鎮座する物部神社は大石が御神体となり、社伝によれば神武天皇がこの地を平定したときに見つけた石で、これを国の鎮めにしたとのことです。残念ながら大石は社殿の下にあり見ることはできません。




この大石は国の鎮めとしたので要石と称され、世に根なし石とも伝えられるとのことです。神社の清掃をされていた方にお聞きしたところ、根なし石の名前通り石の下部は巨大な岩盤となって桜通のずっと西側まであるため、地下鉄工事の妨げになって大変だったそうです。




私は尾張氏と物部氏の関係を探るためこの場所に行ったので、磐座に関しては話を聞いただけのことですが、もっと奥深いものがあるかもしれません。

そもそも名古屋市のほぼ中心部にそんな巨大岩盤が実際に存在しているとすれば、どんな地質状況(熱田層なら泥層、砂層のはず)になっているのでしょうね。

今のところ私の中では疑問が残る状態のままになっています…。




http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/






真清田弘法 投稿者:チェリー 投稿日:2014年 1月31日(金)23時27分16秒 返信・引用 編集済

 真清田弘法の説明板を読んで、よくわからなくなってしまいました。

 この小さな社の中にあるのは、尾張一宮である真清田神社の「御神体」という、とんでもない石だという事になると思います!すごい!! でも…




 真清田神社に弘法大師空海が納めたとあります。あれ?そのときに神社は建っていたのでしょうか?

 廃仏毀釈で流出したとのことですが、逆に神社の御神体は大切にされるのでは?




 うーん…わからないです。龍神石の話と混ざっちゃってるんじゃないのかなぁ。

 どちらも同じ頃に日泰寺に持ち込まれるなんて、信じられないような気がするし…




 龍神石が日泰寺で祀られたという池は「姫ヶ池」だと思います。東側に池があったと記憶しています。埋め立てられちゃったけど。片道2車線のおっきな道路が通る前は、もっと大きな池だったんだろうなぁ。




 小牧山の七つ石にしても、他にもあったと思うけど、尾張の人は石をどっかに持ってっちゃうと思います。それはいかんでしょう?石に対する「信心」が足らないと思うのです。




 真清田神社の御神体の石なのです。事は重大です。少しでも続けて調べてみようと思います。

真清田弘法 投稿者:MURY 投稿日:2014年 1月30日(木)22時57分10秒 返信・引用

>酔石亭主さん




水晶玉に関する説明ありがとうございました。

とても論立っていて納得しました。

水晶かどうかまでは断定できませんが、小さい石であることは間違いなさそうですね。




水晶玉であったとしても、神体石ということでよいかと思います。水晶玉は素材名で、神体石は機能名ということで。




静岡県榛原郡川根本町に、こだま石神社という神社があります。近くの洞穴で砂金を採掘した時に出た鉱石をこだま石と呼び、神の依代としてまつったのが起源といいます。こだま石は真綿と和紙でくるまれ秘匿されています。

「こだま」つながりですが、長野県長野市の玉依比売命神社の神宝に児玉石と呼ばれるものがあり、簡単に言えば古墳時代の勾玉類を一括して神宝にしています。年々玉の数が増減するといい、「成長する石」「満ち欠けする石」信仰の一例として取り上げられることもあります。




小さい石に神やタマが依りつく信仰は往々にしてあるので、石の大小は私はまったく気にしていません。

一般に語られるイワクラや神体石のイメージはなかなか固定観念化されており、それを脱却させたいとこのサイトを通じて活動しています。







>チェリーさん




真清田弘法の説明板を全字掲示していただき、誠にありがとうございます。お手数もおかけしました。

念仏石ではなく、念持石だったんですね。

遠山氏の話によると、年に1回開帳して虫干しするということから、やはりこの祠の中にあるんでしょう。




一度、機会を見て真清田神社と真清田弘法へ参りたいと思っていますので、日泰寺の方に真清田弘法のことを聞き取りしてみようと思います。




話は変わりますが、春日井市の高座山の高蔵神社が熱田高蔵の奥の院で熱田のほうにも「磐座」らしきものがあると記した文献、稲沢市中央図書館でコピーをかつてしたのですが、今家の中を探しているのですがどうしても見つからず、もう一度コピーしてこようと思っています。その時にでも・・・。

真清田弘法 投稿者:酔石亭主 投稿日:2014年 1月26日(日)19時31分38秒 返信・引用

チェリーさん




真清田弘法の詳しい紹介有難うございます。

この内容だけでブログの記事になりそうですね。




さて、縁起によれば弘法大師が持ち込んで崇納した念持石となり、また本地は難陀跋難陀の二大竜王と言うことなら、やはり真清田弘法は小さい石であり、また竜王の像容は水晶の宝珠を手に持っている場合がかなりあることから、水晶玉の可能性が高そうです。




また写真の祠は小さいようなので、この面からも中に安置できるサイズは決まってきます。

あくまで一般論ですが、神体石の場合サイズはメートル単位になるケースが多いと思います。




最終的には祠の中を見ないとわからないものの、状況証拠からは水晶玉の可能性が高いと思われます。

なお、縁起は必ずしも事実を伝えるものではないので、弘法大師が崇納したと断定はできません。

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/






真清田弘法(名古屋市千種区) 投稿者:チェリー 投稿日:2014年 1月26日(日)02時32分8秒 返信・引用

 真清田弘法の社は日泰寺の東側の斜面にあります。覚王山八十八ヶ所(明治時代に石造物の寄進で知られる伊藤萬蔵氏らが覚王山の境内に弘法大師八十八ヶ所を設けることを発起したことに始まるとのこと)の密集地の中にあります。




 上の写真は日泰寺、真ん中の写真が真清田弘法、下の写真が説明板です。

 説明板の記事を載せます。(■は、漢字がわからなかったところです)




 真清田弘法大師縁記

 御神殿に奉安せるは昔弘法大師巡錫の砌り尾張一の宮真清田神社に崇納し奉る念持石にして真清田神社の御神体なり

 明治維新廃仏毀釈の際神社より分離し爾来■に護持し其の縁由により真清田弘法と称すれども本地には難陀跋難陀の二大竜王也経に曰く此の二大竜王は首上に七頭竜あり通力自在にして我を念ずる者は願いに応じて衆生を利益し給う

 其の誓願に曰く

 一には命欲を離れて我を祈念する者は福を受くること佛に等し

 二には瞋恚を離れて我を念ずる者は寿を迎えて保つこと佛の如く成らむ

 三には愚■を離れて我を祈念する者は楽を受くること佛の願に等し




 この小さなお社の中に何があるのでしょうか?それが答えになるのではないでしょうか。




 日泰寺と弘法大師空海との関係も、よくわかりません。

 日泰寺(にったいじ)は明治時代に建てられたお寺です。(日本とタイの意味です。1898年に発見されたお釈迦様の遺骨を分けていただいて、祀る寺院です。日本唯一の超宗派寺院で、19宗派の管長が輪番制によって3年交代で住職を務めるのだそうです。)ただ、尾張四観音を結ぶ「四観音道」のうち、笠寺観音と龍泉寺観音を結ぶ道沿いになります。

 そういえば、龍泉寺も最澄の創建とか、空海の開基とかのようです。ここも龍に関連します。この道は更に続き、東谷山の麓を通り、尾張徳川家初代義直公の廟所(定光寺)の近くを通り、多治見に至ります。




 












神体石 投稿者:酔石亭主 投稿日:2014年 1月24日(金)21時02分24秒 返信・引用

MURYさん




詳しい情報ありがとうございました。お蔭で話の筋が少し見えてきたような気がします。

まず三明神社の三明とは三種の明珠(透明で曇りのない玉)に由来します。

『真清探桃集』の「水精石」(長さ一尺余り、黒白相雑)とは、黒と白の入り混じった水晶玉を意味すると思われます。

近年八龍神社に戻された神体石が龍神石と称せられる点も、それが水晶玉であれば、龍は玉を咥えていたり前脚で掴んでいたりする像容が多いことからすんなり納得できます。




次に、本殿裏の土壇上の神体石に関して考えてみます。

神主家の者がそっと持ち出して家で祀りたくなるようなものなら、磐座的な大きい石ではなく、小さくてそれ自体が価値のある品のはずで、水晶玉ならピタリと当てはまります。

三明とは本来仏がそなえる三つの智慧を意味していることから、仏教的な匂いがします。

真清田弘法が念仏石と称されるのもそうした背景によるものと思われます。

この神体石は空海と関連付けられ、真清田神社においては空海と龍の伝説があるため、龍神石と同様に水晶玉と考えて不合理ではありません。

古図の土壇上の祠が三明神社であるとすれば、そこに祀られているのは明珠(水晶玉)となります。




ただ問題点もあり、江戸末期から明治初期に編纂された尾張名所図会では三明神社は拝殿に向かって西側に鎮座しています。

神主家の者が持ち帰ったのは時代的に見て、土壇上ではなく拝殿西側に鎮座していた三明神社の水晶玉であるべきです。




遠山氏は「古来御本殿の後ろの森の中の土壇上に、厳重にお祀りしてあった処の御神体石」、「古図をよく見れば、壇の上のホコラの前の鳥居が三基並立して居ます」としていますが、全体の記述は真清田の神が大和国三輪明神である点に主眼を置いていると思われます。

このため、古図の時代土壇上(の祠=三明神社)にお祀りしてあった御神体石に着目し、そのホコラは明治期には拝殿西側に移っている点を見過ごした可能性があります。

以上から、古図の時代に土壇の上の祠に厳重に安置されていた神体石は三種の明珠の一つ(水晶玉)であり、磐座的な神体石ではなかったと推測されます。




三明の仏教的な意味合いからして、宮地の大神神社における三明神と真清田神社の三明神社は早くても神仏習合が広まって以降のものになると推測され、この面からも磐座とは関係なさそうです。

纏めれば、2つの神体石はいずれも明珠(水晶玉)で元は三明神社から出たものであり、どんなに早くても8世紀以降のものとなり、大物主神や磐座信仰の神体石とは関係がないと言えそうです。




ただ、三輪山の神は蛇神であり大神神社では玉子をお供えする場所もあります。

そうしたことが深源にあって、三明神社が建てられ、真清田神社の様々な龍神伝説の基になった可能性は否定できません。




チェリーさん、




愛知の数多い謎や不思議をこれからも解明したいですね。




馬引はグーグルのストリートビューで見ても特に目立ったものはありません。

秋葉神社がありますが、ごく小さな祠です。

なので、空振りにならないよう、事前に図書館で郷土史をチェックするなりしてから行かれた方がいいように思います。

もちろん、現地で地元の人に話を聞いてあっと驚く情報を得られるケースもままありますが…。

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/






(無題) 投稿者:MURY 投稿日:2014年 1月24日(金)02時18分20秒 返信・引用

補足です。




龍神石は神宮寺の所蔵物だったから神仏分離で流出し、

土壇の神体石は弘法大師所縁のいわれが付帯する石だったので流出した




龍神石は平成元年に八龍社に復したが

土壇の神体石は今も日泰寺の真清田弘法としてまつられており、真清田神社に戻ってはいない

(無題) 投稿者:MURY 投稿日:2014年 1月24日(金)02時08分16秒 返信・引用

酔石亭主さん




>遠山氏の言う本殿後方の土壇上に祀られていた「御神体石」は、真清田神社のホームページによれば近年同神社に戻されたようですね。




びっくりしたのですぐ真清田神社のHPを見に行きました。

龍神石の情報を初めて知りました。教えていただき感謝しています。




ただ、どうやら龍神石と土壇の神体石は別のようです。

いくつかのwebページで検索した情報をまとめておきます。




~~以下引用~~




「厳島社に合祀されていた八龍神御神体の龍神石が明治初年に流出し、名古屋日泰寺に祀られていたものが返還されたのを機に、平成元年八龍神社として創祀されています。」

http://www11.ocn.ne.jp/~hamy/masumida2.htm




「八龍社(はちりゅうしゃ)

平成元年(1989年)10月創建。

明治元年(1868年9当時、別当境内神宮寺所有の龍神石は該寺廃寺の為に撤去され、名古屋千種日泰寺に移転させられたが、元来は該社神石だった事から該社への返還が成立し祀った社。」

http://4travel.jp/travelogue/10770315




「江戸時代、第三代神主・佐分清円氏が享保18年(1733)に編術した『真清探桃集』に「水精石」(長さ一尺余り、黒白相雑)と記されるものがあり、これが龍神石を指すと思われます。」

「神社から出て民間を転々としたのち、名古屋市の覚王山日泰寺に安置されることに。ときを経て、日泰寺を訪れた三人の女性が、龍神石のいわれを知り、御神殿の造営に東奔西走。日泰寺境内の池に浮かぶ小島に完成後、手厚く祀られてきたといいます。」

http://machicon.or.jp/test/wp-content/uploads/2013/02/201110-03hono1.pdf




~~以上引用~~




龍神石が、真清田神社の神体石ではなく境内の八龍社の神体石で、江戸時代には「水精石」という名前で、明治の神仏分離のため今はなき境内の神宮寺に所蔵されていたこと、信仰心篤い女性たちによって返還運動があり、平成元年に八龍社として復したことがわかります。




一方、真清田弘法の縁起は、真清田神社の神体石であること、念仏石という名前があること、明治時代に神社の手を離れたことなどが読み取れます。

http://bennybebad.hatenablog.com/entry/2013/02/06/212849




石が1つではなく、土壇の神体石と八龍神の神体石の2つがあり、それが明治時代の神仏分離の中で両方とも流出したという同じ経緯をたどったようです。




また、三明神社が元来土壇上に鎮座していたかどうかまでは、まだ断定できないところです。

遠山氏の考えは、土壇の上の神体石を大物主神の神体石とみなすものです。

ただ、遠山氏は、三明神社の存在を知らなかったか注意を払っていなかったか、三明神社のことは一言も触れていません。

私が気になるのは、遠山氏の話では土壇の上に直接石がまつられているような内容であるのに対し、絵図では祠が描かれていること。少し景観に隔たりがあります。

この絵図の祠を三明神社と見るべきか、神体石を安置するための覆屋と見るべきか。本宮の荒魂を大物主の荒魂と推測を飛ばせば、両者がイコールでつながらないこともないですが・・・。

Re: 大神社 投稿者:チェリー 投稿日:2014年 1月23日(木)23時49分19秒 返信・引用

酔石亭主さんへ




> 遠山氏の言う本殿後方の土壇上に祀られていた「御神体石」は、真清田神社のホームページによれば近年同神社に戻されたようですね。




本当だ!八龍神社のところをクリックしたら、そう書いてありましたね!




 一年でこんなに調べるなんて、すごいとしか言いようがないです!私なんて何十年も住んでいて、何にも知らないです。性海寺のことも、酔石亭主さんがきっかけで見つけただけです。こちらこそ宜しくお願いいたします。

 愛知県も不思議や謎がいっぱいです。犬山市にある青塚古墳(県下第二位の大きさ)なんか、真清田神社と尾張本宮山を結んだ直線の真下になるんですよ。




 一宮市の「馬引」には、行ってみようと思います。楽しみです!!






大神社 投稿者:酔石亭主 投稿日:2014年 1月23日(木)19時43分7秒 返信・引用

チェリーさん




そうですね。簡単にギブアップすべきではないのでしょうが、なかなか難しくて…。

性海寺は知りませんでした。貴重な情報ありがとうございます。

何しろ愛知に来てまだ1年ちょっとですから、知らないことが多すぎます。

これからも宜しくお願いします。




MURYさん




遠山氏の言う本殿後方の土壇上に祀られていた「御神体石」は、真清田神社のホームページによれば近年同神社に戻されたようですね。

ただ不可解なのは、神体石の名前が龍神石になり境内社の八龍神社に収められたことです。

遠山氏の説が正しければ、三明神社に収めるべきで、そうなっていないのは真清田神社側の作為かもしれません。

神体石の由来は四つの可能性が推定されます。

1. 本殿後方の土壇上に祀られていた大物主神の神体石。

2. 天火明命が八頭八尾の大竜に乗って降臨したことにちなむ神体石。

3. 八ツ白龍神である億計王(後の仁賢天皇)にちなむ神体石。

4. 空海の龍伝説にちなむ神体石。

1のみが原初の神体石で、2~4までは龍に関係することになり、どう考えればいいのか悩ましいところではあります。

私としては最も古い1と考えたいところです。

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/






Re: 大神社 投稿者:チェリー 投稿日:2014年 1月21日(火)23時16分16秒 返信・引用

書き忘れました。「性海寺」は「大神神社(一宮市)」の真南でした。179.98°です。以上です。

Re: 大神社 投稿者:チェリー 投稿日:2014年 1月21日(火)22時40分22秒 返信・引用

酔石亭主さんへ




> とても残念ですが、当面ギブアップするしかなさそうですね。




 いえいえ、「お手上げ」とするのではなくて、一時「棚上げ」といたしましょう!




 昔真清田神社から参道を南に進んで、二宮を通過して、同じ方向に進むと三宮という文字を見た記憶があったのですが、ここだったかな? 愛知県稲沢市大塚の「性海寺(しょうかいじ)」、その境内に「三宮社」がありました。




 「性海寺」は空海の創建、境内に古墳もあります。お寺、神社、古墳、あと岩石があれば完璧なのですが…アジサイ寺として有名なようです。

 三宮社と大神社と真清田神社が直線で並ぶとよいのですが、少しずれますね(残念!)。でもここを起点とするラインを発見しました。224.98°に「野志里神社」(三重県桑名市多度町)が位置するのです。倭姫が4年間滞在した元伊勢「桑名野代宮」比定地です。ラインは「津島神社」の真上を通ります。




 というように、いろいろ手がかりが見つかると思います。




 ブログ拝見しています。面白いです!私には少々難しいのですが、わかるところだけ読んでます!




> 猿投神社に関連して、瀬戸から明智町に向かう途中に柿野温泉があって白鳥神社が三社鎮座しており祭神は倭建命(=日本武尊)です。




 「柿野」という地名も注目してみますね。




 日の出を拝むのに、山はあまり近すぎない方がよいのかもしれません。




 添付した図は奈良の「多神社」からの春分の日の日の出です。三輪山の頂上からは少しずれてしまうようです。






大神社 投稿者:酔石亭主 投稿日:2014年 1月20日(月)21時22分44秒 返信・引用

チェリーさん、MURYさん




画像まで入れて種々検討いただき有難うございます。

やはり難しいですか……。

高座山は高座結御子神社の祭神・高倉下との関係があり該当しそうにありませんし、大神社の現場から見ても日の出を遙拝するには遠すぎます。

とても残念ですが、当面ギブアップするしかなさそうですね。

それと、昨日大神社関連等をアップする予定でしたが、時間がなく今日になってしまいました。

ほとんど書き散らし状態ですが、お時間があったらご覧いただければと思います。




津島神社と猿投神社、猿投山はいずれも去年行きました。

猿投神社に関連して、瀬戸から明智町に向かう途中に柿野温泉があって白鳥神社が三社鎮座しており祭神は倭建命(=日本武尊)です。

「熱田神宮の謎を解く その39、その40」にて書いたのですが、岐阜県山県市柿野1318番地に鎮座する清瀬神社やその他の神社も同様に小碓命(日本武尊)や大碓命が出てきます。

土岐市鶴里柿野。山形市柿野。同じ柿野に同じ神が祀られているのがとても不思議です。

レイラインで何か解けるものがあればいいのですが……。




聖武天皇と行基のレイラインは面白そうです。

行基はまだ検討したことがないものの、秦氏と関係がありそうで、平安京の鬼門ラインは秦氏が事前設置したと考えています。

聖武天皇の大仏建立にも秦氏の関与があり、聖武天皇・行基に秦氏を絡めると色々出てくるかもしれませんね。

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/






大神社(愛知県一宮市) 投稿者:チェリー 投稿日:2014年 1月20日(月)02時02分58秒 返信・引用

酔石亭主さんへ




 大神社他の情報ありがとうございます。

 私がやっているのは、レイラインの範疇に入ると思いますが、限定的なもので、そんなに詳しくはないです。でも、興味を持っていただいて、うれしい限りです!




 大神社の位置についてですが、とても難しいです。なかなか有意な角度が見つかりません。




 一宮市木曽川町に「伊富利部神社」があります。大和の葛城山麓の人々が移住してみえたと伝えられているとのことですが、大和の金剛山山頂からここまでが、44.88°になります。神社は100m程遷座しているようですが、やはり、45°の方向に進んで場所を定めたと想定できます。

 私は「平行投射」と呼んでいるのですが、同じようにどこからか「大神社」に到達したと仮定すると、その出発点は「高松塚古墳」になっちゃう(44.99°)…または、「酒船石」か。うーん これは、ありそうもない話ですねぇ。




 もっと象徴的な山とかないかなと思うのですが、桜井市の「鳥見山」でもいいのですが、標高が小さすぎるしなぁ…といった具合で、まだ、見つけていません。




 あまり得意ではないのですが、「大神社」が太陽の運行から定められたと考えた場合、候補になるのは春分・秋分の日の出の方向で、添付した図は、今年の春分の日の「日の出」です。愛知県春日井市にある高座山頂上近くにある「高蔵神社」の近くから昇りますが、どうなんでしょうか?




 「大神社」は、地図で見ると「真清田神社」からの参道を南の方につたった道沿いになるようですので、こことは関連があると思います。




 ここまでくらいしかわからないです。でも、今後わかってくるかもしれないです。次回のブログに載せますが、津島神社と猿投神社もやっと最近有力候補が見つかったところです。大神社についても、この先もっとよい直線が見つかったら報告しますね。




MURYさんへ




 私はとてもではありませんが、尊敬に値するような者ではないんです。でも、応援していただいたことを力にして長く続けていきます。本当にありがとうございます。




 文献に何も残っていないことについてですが、やはり、表には出さないことになっているのだと思います。聖武天皇が朝敵ともいえる行基さんと手を携えたことや、大僧正に抜擢したこと、また、都を何度も移ったことなど、謎とされています。これもすべて隠されているのだと思っています。このお二人がなんと、日本最大の「レイハンター」だったという説明をしていくのですが、やっぱり「トンデモ話」になるんじゃないかなぁ…




 最後に、「大神社」を始点として逆に南西の方向にラインを延ばすと、何と、そこは「与喜山天神社」だったのです(224.99°)!!でも、いくら何でもこれはないでしょう。「どんなに精度があっても偶然に過ぎないことがある」といった例になってしまいました。

 






真清田神社 投稿者:MURY 投稿日:2014年 1月19日(日)16時30分27秒 返信・引用

チェリーさんのブログの、大神神社(愛知県)と三輪山の45度ラインは有意性があると思っています。チェリーさんがおっしゃられるように、こうした歴史的に関係性を持ったラインをたくさん出てくると良いなと思っています。




何年か前にこの掲示板で書きましたが、天文学・測量学は私も専門外で、私のフィールドである歴史学の視点から見ても、説得されるようなラインの登場を待っているのです。

なので、チェリーさんの謙虚で玉石関わらずデータを蓄積し続ける姿勢を尊敬しています。




私が歴史学的な問題意識から長年抱き続けている疑問は、なぜ聖地選定をラインで結ぶという当時の人々にとって緻密な下準備がされたのに、文献記録にはそのようにしたという事績の記述がないのか、あるいはそれをにおわせる記述がないのかです。

もちろん、書かれていないから=ラインは偶然という等式は成り立たないです。記録に残さないことに意味があったかもしれませんし、古い時代の聖地選定なら文字記録がないこともあるでしょう。

中近世以降のポイント選定なら、莫大な文字記録がこの国には残っているので、触れられてしかるべきという考えを持っているのですが・・・。

真清田神社 投稿者:酔石亭主 投稿日:2014年 1月18日(土)19時18分11秒 返信・引用

チェリーさん、MURYさん




チェリーさんの大神神社と三輪山のレイライン記事を拝読させていただきました。

チェリーさんの記事はトンデモ話などではありませんし、それどころか記事に関連しそうな以下の問題を何とか解明できないかと思案しています。




一宮市大和町於保郷中2311には大神社(おおじんじゃ)が鎮座しており、多氏などの祖神である八井耳命が主祭神となっています。

一方、多氏が祀る多神社は奈良県磯城郡田原本町に鎮座し、その鎮座位置が三輪山山頂の真西となり、三輪山の春分、秋分の日の出を多神社から拝することができます。

多氏は三輪山の太陽祭祀に関与し、三輪氏との関係が想定され、彼らと共に尾張に移住したと考えられます。

だとすれば、三輪氏と多氏は尾張において大和と同様に太陽を祭祀していた可能性が浮上します。

さらに、一宮市大和町馬引にはなぜか乾出(いぬいで、北西)、郷戌亥(いぬい)、郷辰巳(たつみ、南東)、郷丑寅(うしとら、北東)、郷未申(ひつじさる、南西)などの方位地名が存在します。

上記したような方位地名は全国でほとんど一宮市と稲沢市のみに集中しています。旧海部郡美和町にも同様に戌亥の地名あることから、三輪氏と方位地名が関係するようにも思えてきます。




これらを総合的に太陽祭祀やレイラインで説明・解読できれば実に面白いと思うものの、残念ながら私の手には負えません。

レイラインに詳しいチェリーさんにお助けいただけないものかと…。

なお、大神社やその他の問題に関して明日にでも詳しくブログに書こうかと思っています。

厚かましい話で恐縮ですが、もし時間があればで結構ですから、ご意見等宜しくお願いします。

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/






真清田神社 投稿者:チェリー 投稿日:2014年 1月17日(金)23時03分21秒 返信・引用

酔石亭主さん・MURYさん




 奥深い話ですねぇ!半分くらいしかついていけないですけど…




 土壇の場所が、始まりの場所で、一番大切な場所なのですね!本殿の真後ろに摂社を建てるわけがないですものねぇ。逆にこの場所の前に、後から巨大な社が建っていったということなのでしょうか。それにしても三輪鳥居があったとは!見てみたかったです。




 大神神社の説明板に三明神社のことが書いてありました!自分のブログでも大神神社をとりあげているのですが、これが、その、なんというかトンデモ話のブログでして…ご紹介するのがいいのか悪いのか…




 http://sakurasaku0911.blog.fc2.com/blog-category-7.html

真清田神社 投稿者:酔石亭主 投稿日:2014年 1月17日(金)20時29分35秒 返信・引用

MURYさん。




とても面白い情報を有難うございました。

この記事を先に拝見していればもっと簡単に答えが出たことになりますね。

でも、三明神社を通じて遠山氏の見解と同じところに行き着いたのですから、それはそれで良しとしておきます。

歴史の謎解きは少ない材料であれこれ推測するところに醍醐味がありますから…。




あちこちの神社に行くと磐境を目にするケースもあります。

一応写真を撮りますが、何しろ史料のない時代の存在なのでどんな視点で見るべきか良くわかりません。

この掲示板を参考にさせていただいて、一定の視点を得られればと思っています。




http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/






Re: 真清田神社 投稿者:MURY 投稿日:2014年 1月17日(金)03時24分34秒 返信・引用

> No.1038[元記事へ]




酔石亭主さん、はじめまして。

三明神社のご情報をありがとうございます。貴ブログの記事も拝見させていただきました。

(水石趣味をお持ちとのことで、当サイトの岩石祭祀とも親近感を感じました)




真清田神社の古図の記事を追加されていましたので、そのあたりの話の参考として、私が以前触れた遠山正雄氏(大神神社神官)の記述を引用します(遠山正雄「愛知県一ノ宮国幣中社真清田神社本殿の後方にありしもの」『皇学』第3巻第3号、1935年)




~~以下引用~~




一昨昭和八年秋の頃聞いた処によれば、古来御本殿の後ろの森の中の土壇上に、厳重にお祀りしてあった処の御神体石を、神主家の者が持出して我が家に祀った処、やがて段々と不運不幸が打ち続いて仕方がないものだから、ツイ他人に譲ることとなった。

(略)

終には常に信頼する寺院に持込み、鎮安・奉斎して貰ふことになった、之が名古屋で有名な大寺院覚王山に秘蔵する処の有り難い「真清田弘法」(マスミタコウバウ)と申すもので、一年に一度の虫干の折丈けに開帳するのである云々と聞かされました。

(略)

私は昭和の七年六月九日、真清田神社に参詣いたしましたが、本殿の後方に確に土壇といふものの跡があります。只祠はありません。併しその神社々務所に伝はる古図に、祠も鳥居も具備した形容があらはされてあります。そこで此の御神体石の出所が確と伺はれました。その古図をよく見れば、壇の上のホコラの前の鳥居が三基並立して居ます。中央の分が高く大きく、左右の二基は少々低くして恰も中央の分の両袖の形であります。此の形式は大和の三輪山鎮座大物主神の大神神社特有の所謂三輪鳥居の形式であります。

(略)

今、真清田神社の明細帳によれば、御祭神は天火明命(アメノホアカリノミコト)とあります。大神神社の分身類社鈔の尾張国の郡を見れば真清田神社 大己貴命とあります。即ち大神神社の此の旧記に言はしむれば、尾張の国に分身の類社といふものが六社ある。その中の一つが真清田の神で、この大和国三輪明神が本体の神だと主張する訳なのであります。

(略)

神武天皇御東征記によりましても、已にこの命(管理人注:天火明命)が大和の北部を中心として治められて居たかが分かりますが、大国主神が、その昔天孫に国譲りをして先づ大和に落付かれましたが、やがて子々孫々は盛に又東方の美地を求めて繁殖膨張移動をする勢となりましたが為、まづ伊勢尾張方面へと進出された事は至極自然であり、之に代って大和に入ったのは饒速日命即ち天火明命の一族と見ねばなりませぬ。恰も出雲の神族が、東へ東へと進み行くその跡へ跡へと火明命の一族が進んで、一段の開拓を重ねて行った順序と云へませう。

(略)

然る処前述の通り、この本殿の真後ろに当って土壇があるのであります。高さ五六尺、正に中高で、径五間余と思はるる円形で、その南半分は破壊し尽くされ、中心より北方半分が残ったもののやうであります。周囲の風致模様等より見て如何にも祭壇の跡方かといふ感興の尽きないものがありますのが、古図を見て始めて明瞭になり篤と首肯かれました於是現在の本殿工法の土壇用の場所は、古代に於ける最初の草創的祭場であって、其の設備は岩クラ式のものであったらうし、尚ほ出雲神族の式でもあったらうと思ひます。それは近く大国霊神社の例もあることだから。而して今の本殿建築設備は、後世に至って之を前面に建て広げた処のものだといふ自信を得ました。右の古図にある処の三箇の鳥居が、大和三輪なる大神神の三輪鳥居と因縁あるものとせば、之によって大神分身類社鈔の所伝通り、御祭神は御同神なりと推断するに難くなく、又最初この処に大物主神を御鎮祭申上げて中心と仰ぎ、大に子孫一族が発展したところの出雲神族が、その内に何かの事情の為に大部分この地方を後にして一段と東遷した時、そのあとに大和方面から天火明命の神裔一群が推かけ入込んだため、その時和が租神火明命をその前面に祭ったものと判ずるには難くなさそうに思はれます。

(後略)




~~引用終わり~~




長くなるので一部略しながら紹介しました。旧字体は新字体に改めてあります。漢字の揺らぎがあるのは全部原文ママです。




遠山氏が言いたいところは、大神神社の『分身類社鈔』の記述から、真清田神社が元来大己貴命をまつり、それは本殿後方の土壇上にまつられていた「御神体石」であり、社殿祭祀以前の形態に根ざすもの。それが後に天火明命をまつる集団がこの地に移ってきたことから、「御神体石」の土壇前に社殿を設け祭神の変遷が起こったという流れです。

ここで遠山氏説の是非には触れませんが、真清田弘法の逸話を信じるのであれば、土壇にまつられていた祠の中にあったのは「御神体石」であり、それがおそらく廃仏毀釈の時期に神官が持ち出して、最終的に覚王山に安置されることになったということになります。

その本来の経緯が遠山氏の時代には尾ひれがついていて、廃仏毀釈の話は触れないことになって、人々が祟りを恐れて覚王山に持っていったという話に変化したのでは?と推測します。

真清田神社 投稿者:酔石亭主 投稿日:2014年 1月15日(水)09時49分48秒 返信・引用

はじめまして。




真清田神社と三明神社に興味があったので昨日調査結果を私のブログにアップしました。

尾張名所図会によれば、三明神社はかつて本宮の西側に鎮座しており、その近くの小丘から様々な祭具が出土したようです。

また尾張名所図会を見る限り本殿の真裏には特に何も記載ありません。

ブログでも書きましたが、真清田神社と三明神社の検討には大神神社も併せて見る必要がありそうです。

以上、ご参考まで…。

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/






Re: 真清田神社(愛知県一宮市) 投稿者:MURY 投稿日:2014年 1月 9日(木)23時27分22秒 返信・引用

> No.1036[元記事へ]




土壇の写真、ありましたか!ありがとうございます。

確かに、これは三明神社のために新しくしつらえた感じではなさそうですね。平面的に広がりがあると見受けました。

本殿の奥なので、直接入れないのですね。

と思ったら、神職の方に許可を願い出て三明神社前で参拝ができた方のブログも発見しました。




真清田神社のホームページには「境内裏山」という表現を使っているのを見つけました。

http://www.masumida.or.jp/yuisyo/




>  日泰寺は、見てきますね!由来の看板を写してきましょう。




重ね重ね、ありがとうございます。私ももう少しフットワークが軽ければいいのですけれど・・・




>  GPSで記録したの位置とか通った道筋は、カシミール3Dに落とし込むと楽ですよ!(樹木の間では、狂うことが多いですけど)




カシミール3D、名前はもう10年以上見ていますが、まだ導入に至っていません・・・。保守的になってしまったもんです。

Re: 真清田神社(愛知県一宮市) 投稿者:チェリー 投稿日:2014年 1月 9日(木)22時18分2秒 返信・引用

> No.1034[元記事へ]




 塀の隙間にレンズを突っ込んで撮ったのですが、ポンぼけです。

 あまり「盛り上がり」がよくわからないと思いますが、確かに土壇でした。ゆるい盛り上がりで、面積は大きかったと思います。高さは1mくらいで、直径10mくらいあったかなぁ?神社の基壇にするのであれば、こんなに広げて造らなかったと思いました。




 日泰寺は、見てきますね!由来の看板を写してきましょう。




 GPSで記録したの位置とか通った道筋は、カシミール3Dに落とし込むと楽ですよ!(樹木の間では、狂うことが多いですけど)




 名張市にも元伊勢比定地がありましたね。蛭子(えびす)神社だと思いました。名張だとuziさんの本拠地かな?




 また、おかしな掲示をすると思いますけど、本年もよろしくお願いいたします。






Re: 真清田神社(愛知県一宮市) 投稿者:MURY 投稿日:2014年 1月 9日(木)19時45分3秒 返信・引用

> No.1034[元記事へ]




覚王山日泰寺の真清田弘法、祠が現地にあるようです。



http://bennybebad.hatenablog.com/entry/2013/02/06/212849




由来の看板があるようですが、微妙に読めないのが歯がゆい(笑)

読めた限りでは、廃仏毀釈によって真清田神社の御神体である念仏石をこの地に移したという流れで、遠山正雄が言っている「祟りであちらこちらを放浪した」という話とはちょっと隔たりがあります。

今のところよく分かりません。






Re: 真清田神社(愛知県一宮市) 投稿者:MURY 投稿日:2014年 1月 9日(木)18時07分18秒 返信・引用

> No.1033[元記事へ]




チェリーさん、「土壇」のご報告ありがとうございます。




>この場所に建てられたのは、つい最近平成5年3月とのことです。(その前はどうなっていたんだろう?まさかそのときに土を盛ったわけではないと思うけど…)




三明神社が上に建っているということですが、その時に作った土盛りの可能性も、あるかもしれません。

「土壇」を写した写真はございますか?実際見てみないと何とも言えませんが、どんな感じの土盛りなのでしょう。




>B地点違ってたんですねぇ。ラインと少しずれてしまうのが残念です!




これは私も現地で思いました。あ、ここは太陽の道のラインに乗らなかったんだと。

ではライン上に乗るべき尾根上はどうかと見に行ったのですが、今のところでは「岩石なし」の評価です。もちろん尾根を少し外れただけで急斜面なので、巌の1つや2つありそうな可能性はまだ捨てていません。

真清田神社(愛知県一宮市) 投稿者:チェリー 投稿日:2014年 1月 6日(月)23時57分17秒 返信・引用

 MURYさん、真清田神社本殿裏の「土壇」ありました!!

 写真は本殿の裏手に造られた公園からなのですが、塀と本殿の間に(本殿の真裏に)「三明神社」がありました。それが土の高まりの上に建っているのです。写真では塀が遮ってよくわからないのですが、「土壇」と言っていいと思います。(三明神社を裏から写していることになります)

 難しくてよくわからないのですが、三明神社はもともと本殿の西側にあったらしいのですが、昔焼失したらしいのです。この場所に建てられたのは、つい最近平成5年3月とのことです。(その前はどうなっていたんだろう?まさかそのときに土を盛ったわけではないと思うけど…)

 三明神は真清田神社にとって、とても重要な神様だったらしくて、第一別宮とされていたようです。(かなり複雑そうです)

 ほとんど何もわかっていませんが、とにかく土壇がありましたという報告までです…




 与喜山調査報告、めちゃめちゃ面白いです!!やっぱ山中の現地調査は興奮しますねぇ!

 B地点違ってたんですねぇ。ラインと少しずれてしまうのが残念です!

 ⑧の地点にもうひとつ尾根があったんですね。このあたりは Google Earth で北西方向から眺めると、樹木の一本一本まで見れて、本当によくわかるのですが、その尾根がよくわからないなぁと思ったのですが、よく考えてみたら、立体画像も地形図を元にしたものにすぎませんでした。 






Re: 満足稲荷神社 投稿者:MURY 投稿日:2014年 1月 6日(月)00時59分20秒 返信・引用

> No.1031[元記事へ]




度々のお知らせありがとうございました。

三条ですか・・・京都の事例はけっこう訪ね歩いたつもりでしたが、この神社も岩神のことも知らないままでした。

これも秀吉すなわち黒田官兵衛のお導きですね(今日見ました)

満足稲荷神社 投稿者:uzi 投稿日:2014年 1月 5日(日)07時19分41秒 返信・引用

私がアップしましたのは、京都の京阪三条駅近くにある満足稲荷です。

東京都文京区にも満足稲荷があるのですね。

どちらも豊臣秀吉由来の「満足」のようですね。

http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






新年のご挨拶 投稿者:MURY 投稿日:2014年 1月 4日(土)01時30分28秒 返信・引用

遅くなりましたが、今年も岩石信仰追究をがんばりますのでよろしくお願い申し上げます。




>ウージーさん




満足稲荷神社。良い名前ですね。新年にふさわしいハッピーな感じです。

検索でかけてみたら、東京都文京区と出ました・・・同名の神社でしょうか。




>たけさん




ありがとうございました。クモの巣が張る前に登れるだけ登りましょう。

さっそく今日訪れた場所を今日UPしたんですね・・・さすがです。

そういう私も、今日やったことを今日の内に記事にしました。その日のうちにしないと、忘れるんですよね、細部を。




口伝えや、想念の世界は、1日たつだけでも曖昧になります。民俗なるもののはかなさを痛感します。聞いたまま、見たままにせず、とにかく記録保存です。

というとかっこいいですが、自分が忘れないようにするための措置です。

お疲れ様でした 投稿者:たけ 投稿日:2014年 1月 4日(土)00時08分40秒 返信・引用

今日はお疲れ様でした。




また来月か再来月あたり、今月末でもいいですけど行きましょう。

与喜山踏査も全貌解明、大変ですな。

また宜しく!

http://homepage1.nifty.com/rekisi/






岩神さん 投稿者:uzi 投稿日:2014年 1月 2日(木)10時00分18秒 返信・引用

あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い致します。




写真は京都を歩いていて、偶然出会えた満足稲荷神社の「岩神さん」です。

(背後には御神木のモチノキ。)









Re: 我田の大岩 投稿者:MURY 投稿日:2013年12月23日(月)01時20分16秒 返信・引用

> No.1026[元記事へ]




近くに古墳がまあまああるみたいですので、私が気にしている「古墳と自然石信仰の同居事例」としてカウントできるかもしれないなあと、可能性として頭に入れておきますね。

Re: 我田の大岩 投稿者:チェリー 投稿日:2013年12月22日(日)01時55分35秒 返信・引用

> No.1025[元記事へ]




 そうです、そうです。こんなに何回も見てるのに、何で岩だと気付かなかったのかと…やはり修業が足らないと…




 ありがとうございます。ここのサイトは知らなかったですねぇ。

 大岩には南側からのアプローチが簡単そうでしたが、「里山クラブ可児」さんの管理地のようでしたので、北側の太元神社奥の院から山頂を越えて到着しました。といっても30分程歩いただけですが。




 それにしても、「泳(くくり)の宮」関連の伝承が残っていてもよさそうなのにと思います。低い尾根に隠れて直接見えないからかなぁ?象徴的な存在になりそうなのにと思ったことでした。




 

Re: 我田の大岩 投稿者:MURY 投稿日:2013年12月15日(日)21時33分20秒 返信・引用

> No.1024[元記事へ]




我田の大岩情報ありがとうございます。




チェリーさんと同じように、遠くから見ると木か石なのか分からない時は、私もありました。

私は京都市嵯峨野の遍照寺山でした。




数年間近くを通っていた山ですが、中腹に見えていたモリモリした木っぽいのが、実は大きな岩だったことを知った時と、たぶん一緒の気分ですよね?




我田の大岩に話を戻しますが、おにぎりが一周する間に消えているというのはオリジナリティあふれる説話ですね。

検索してみた中に、このような話もありました。




「大岩に食べ物をお供えすると願い事がかなうという言い伝えが残っています。」

(http://www.coop-gifu.jp/report/r-index.php?no=20131021092557 より)




神様がお供え物を食べちゃうからなくなるんでしょうね。以前話をした膳貸し石のようなもので、岩石を舞台に器物が消えたり現れたりと。

そこから話が広がっておにぎり消失説になったのでは。

我田の大岩 投稿者:チェリー 投稿日:2013年12月10日(火)00時11分56秒 返信・引用 編集済

 うちの近場なのに、ずっと木だと思ってました。付近の道路を通るたびに、大きな木だなぁと…ある日ひょっとして岩かもと思って…よく見ると!




 岐阜県可児市です。「花フェスタ記念公園」のすぐ東の248mのピークの、すぐ南にあります。

 「我田(わがた)」というのは地名なのですが、その南隣には「久々利(くくり)」という大変な場所があります。景行天皇が滞在した「泳の宮(くくりのみや)」があって、八坂入彦(崇神天皇の皇子)の娘さんを妃に召されたのだそうです。成務天皇をお生みになったとのこと。

 また、人間国宝の荒川豊蔵氏の資料館もあります。志野焼の陶片をここで発見し、ここが発祥の地であることがわかったということであります。




 で、この大岩にも伝説があるのですが、それが、岩の上におむすびを一つ置いて、岩の周りを一周すると、おむすびが消えているというもので、確か地元のテレビ局が実験したという記事を見た記憶があるのですが、結論から言いますと、一周する間におなかがすいてしまい、戻った時には、それに喰らいついてですね、結果的に消えてしまうということだったと思います。












Re: (無題) 投稿者:チェリー 投稿日:2013年12月 2日(月)23時02分34秒 返信・引用 編集済

> No.1022[元記事へ]




はい 八木山の山頂にも「御嶽山大権現」と「駒岳山大権現」の立派な石碑がありました!




「駒岳」って木曽駒ヶ岳のことかなぁ?




不思議なことに、ここからだけ、迫間山に遮られて、御嶽が見えないのでした…









Re: (無題) 投稿者:MURY 投稿日:2013年11月28日(木)23時17分38秒 返信・引用

> No.1021[元記事へ]




木曽川の左岸も、尾張本宮山に尾張富士、そして桃太郎の桃山と粒ぞろいの物件が揃っています。

大縣神社の信仰、浅間神社の信仰、献石の信仰、そしてミステリアスな桃太郎の信仰、そこに御嶽信仰がまんべんなく降りかかっているイメージです。

犬山~可児の稜線に目立ったスポットがないというのは興味深いです。




右岸は、前の投稿で書いたように修験道・山岳仏教のフィールドが下地に、やっぱり御嶽信仰が上に乗っかっている印象です。

あ、桃太郎が財宝を積んだ宝積寺山があるので、桃太郎文化も入ってますね(笑)




自然物信仰、私の専門で言えば、岩石に対する信仰ありきで発生のものは、はたしてこの両岸にどれほど認められうるか。

素材として単に岩石を利用しただけなのか、宗教的聖地を設定する際に相乗りしたのか、1つ1つ表層をはがしてみていきたいです。



(無題) 投稿者:チェリー 投稿日:2013年11月27日(水)00時13分2秒 返信・引用

>MURYさんへ




 はい、愛宕山は、山中不動の上の山です。山中不動まだ行ってません。近いうちに行きます!




 鵜沼から坂祝へは、ようするに、木曽川沿いの道です。高山本線もここを通ります。




 木曽川の左岸、南側には山が連なっております。犬山の寂光院をスタートして可児の鳩吹山まで稜線を歩くことができるのですが、これが長い!友人の山のサークルに付いて行ったんですがバテバテですわ。国道から見上げると、山の斜面は全部岩石といったところが多いのですが、稜線には、これといったところはありません。(ただ、寂光院から最初の継鹿尾山までの登りに「御嶽神社」の小さな祠があります。ここから御嶽山が40.0°に見えるという、大切なポイントのようです。ここから真南が大縣神社なのです!というのは余分なお話でした。)




 木曽川の右岸、北側も山の連なりです。途中は低い山並みなのですが、坂祝寄りのピークには猿啄(さるばみ)城跡があります。ここを各務原アルプスの起点とする人もみえるようです。低い山並みの間にも、いくつか信仰のポイントがありそうです(途中蝋燭のような岩を目撃しました)。




 どうも、犬山周辺は別として、このあたりの木曽川の右岸と左岸では、信仰の密度に差があるような気がします。というか、各務原の密度が特別に濃いのかもしれませんが。




 また何か見つかったら報告しますね!






(無題) 投稿者:MURY 投稿日:2013年11月25日(月)00時11分41秒 返信・引用

>チェリーさん




愛宕山は、山中不動の上の山なんですね。

山中不動に岩屋不動と御嶽大社があります。

迫間不動や内々神社奥の院や小牧岩崎山に行った時も感じましたが、この一帯は御嶽教の影響色濃く、石碑の神名は御嶽教の霊神たちです。

それと修験道と民間信仰と旧来の自然物信仰がないまぜとなって混沌としています。神仏習合どころではない。

これがイイんです。各務原の紛れもない魅力だと思います。




鵜沼宿というぐらいですから、鵜沼の街道沿いの山々も歴史があるんじゃないでしょうか?各務原から坂祝町にかけて国道21号を通る時の風景が雰囲気良くて好きなんですが、各務原~坂祝ラインの山々も気になっています。







>あんでっどさん




ごぶさたしてます。最近動向をつかめなかったですが、今も石行かれているんですか?

どこか行かれるところあったら声かけてください!




比婆神社が風穴の上って話、知りませんでした。

平地から一段低いところって、けっこう急斜面になってますよね?あの下に降りようと思いませんでした。あそこに風穴があったとは。




以前、三重県名張市の赤岩尾神社という場所に行ったことあるんですが、そこと雰囲気が似ているんです。比婆神社の現地で声に出してしまったぐらいです。

その赤岩尾神社にも風穴がありました。いよいよシンクロニシティな感じです。




神の遊び場は、↓ですか?鞍馬寺奥の院の社殿を取っ払ったらこんな感じだなあと感想しました。






比婆神社 投稿者:あんでっど 投稿日:2013年11月24日(日)04時26分22秒 返信・引用

おっ比婆神社行かれたんですねー。

あそこは元々巨大な風穴の上に立てられた神社だとか

何とかで、社の前の平地から一段低い所から見上げると

それがよく分かりますよー。「おお、この岩穴こそが

比婆神社の元になったのかなぁ」なんて。

あとは社の右奥の神域も相当なものです。

郡司さんが「神の遊び場」と呼ばれていましたが

まさにそんな感じ!




たまにはお会いして石談義でもしましょー。

八木山三山 投稿者:チェリー 投稿日:2013年11月18日(月)23時16分26秒 返信・引用 編集済

 岐阜県各務原市の東の端、最も犬山寄りの「鵜沼」というところです。国道21号線に沿って北側に連なります。東から八木山・双子山・愛宕山です。標高は、296m・247m・269mという低山で、気軽に登れるハイキングコースとして親しまれています。やはり、露岩が多く、岩場もあります。




 八木山の頂上には岩があって、その上にいくつも大きな石碑が立っておりました。少し西へ下った岩の上にも、小さな石碑?がたくさん並べられていました(上の写真)。

 実は、このすぐ下に小さな洞窟が開いておりまして(真ん中の写真)、白い陶器の破片が落ちていましたので、もしやと思って覗いてみると、朽ちた祠が見えました。岩の上の小さな石碑群とセットになっているように思えました。




 縦走を続けて愛宕山を下る途中に、愛宕神社奥社の標識があり、ここを進むと、稜線の大きな岩の下に奥社がありました(下の写真)。洞窟が二つあり、ここがポイントかなと思いましたが、片方には掃除道具が納められていました。




 各務原の岩石祭祀は、まだまだ、いくつあるのかわかりません!

 












Re: 岩屋山薬師堂 投稿者:MURY 投稿日:2013年10月24日(木)21時43分1秒 返信・引用

> No.1016[元記事へ]




岐阜県更新へのエールありがとうございます!

各務原もう少し続きますので、また参考にしてください。

私もチェリーさんの紹介スポットを参考にしてます。この岩屋山薬師堂もそうです。




人工物なら意図的にその場所を選んでいるということになるでしょうし

自然の産物なら、山の中にぽつんとあるのも自然界ではよくあることだと思うようにしています。




当サイトの更新は日本の北から南へ順番にやってますが、近畿地方のボリュームが大きいので、まだまだ復旧できていないという感じです。気を長くしてやっていきたいと思います。



岩屋山薬師堂 投稿者:チェリー 投稿日:2013年10月22日(火)00時08分48秒 返信・引用 編集済

 愛知県瀬戸市の東部 岩巣山を中心とする山塊の麓にあります。

 8世紀、行基さんがこの地を訪れ草庵を結び、聖武天皇の病気平穏を祈念して仏像を三体彫刻したのだそうです。これを安置した石室が上の写真です。巨石の下の空間が薬師堂です。

 前から訪れてみたい場所だったのですが(山歩きを兼ねて)、後は独り言です。耳をふさいでいてください。

 象鼻山古墳からの 100°のライン、ひょっとして大発見かもしれない尾張氏の時代の重要地点をつなぐこのラインの終点がここだったのです!何で~!自然地形の洞窟じゃん!どーしてここが終点になるの?時代も全然違うし!

 山の中にぽつんとあるんだから偶然という訳にもいかないだろうし、尾根ひとつ戻ったところのライン上にお寺があったのですが(浄源寺)、ここの御本尊がその仏像なのだそうです(岩屋山薬師堂は浄源寺の奥の院なのだそうです)。

 100°のラインはこの洞窟を目がけて引かれたのでしょうか?訳がわからなくなってしまいました…

 ごめんなさい、長い独り言でした。




 MURYさん、岐阜県の中でいくつも取り上げてくださって、ありがとうございました。本当はこれが言いたかったのです!

 












(無題) 投稿者:MURY 投稿日:2013年10月17日(木)00時56分16秒 返信・引用

>チェリーさん




2300円で種類の違う日本酒が25杯と考えれば、呑み切れれば、かなり得ですね。酒好きにはたまらないですね。

私は弱いので、飲み歩きなんてしたら酔いの回りが早そうで途中から地獄の行軍になりそうですけど・・・




>この広場に再現する予定のようですが




阿久遺跡が国指定史跡になったのは昭和54年・・・。再現するのに随分な時間がかかっている感じですが、頓挫してしまった可能性も。

縄文時代は疎いのでこの遺跡を知りませんでしたが、考古学史上でもかなり重要な発見となった遺跡ということで、覚えておきます。




>MURYさん、与喜山にはもう行かれたのでしょうか?




まだです。12月、草木が枯れてから行きます。

11月に初瀬の門前町で聞き取りの機会を設けて、情報収集を終えた後に、山に入る予定にしています。そのほうが発見も多いかなと思って。

その前に、他の山で足慣らしもしておこうかなという気持ちです。




ヘッドライトのアドバイス、ありがとうございます。朝に登るかどうかですね。

与喜山では過去に一度、夕方下山時に居場所を見失って半べそをかいたことがあるので、重々気をつけたいと思います。なにせ道がないので・・・。




>PONTAさん




>霊体になってご神体(依り代)から離れれば、どこでもドアを使うより早く見に行けるはずですけどね。




ですねえ。神をまつる人々的には、見える形で移動してもらわないと納得できなかったのかもしれませんね。




>御神輿は、繁華街へ繰り出して、お賽銭目当てで参拝客を増やすデモンストレーションとしても使われたようです。




依代の役割そのものが、人が見えないものを見たいという欲求の下に成立しているものですから、神意はすべて自然現象と人の行動の結果をみて論理づけられるわけです。

Re: (無題) 投稿者:PONTA 投稿日:2013年10月16日(水)01時18分57秒 返信・引用

> No.1012[元記事へ]




MURYさんへのお返事です。




> そもそも各種の祭りに使われる依代が、人によって練り歩かされ、移動される存在




祭りの御神輿はまた別の理由ですね。氏神が、(1)氏子の生活を実際に見てみたい(町内視察)とか、(2)元いた場所がどうなってるか見てみたい(元宮、旧社地(現・お旅所)を見たい)とか言うからだそうですが、そんなの、霊体になってご神体(依り代)から離れれば、どこでもドアを使うより早く見に行けるはずですけどね。あと、江戸時代には、御神輿は、繁華街へ繰り出して、お賽銭目当てで参拝客を増やすデモンストレーションとしても使われたようです。

http://pontyan1997.blog59.fc2.com/






阿久遺跡と小袋岩 投稿者:チェリー 投稿日:2013年10月15日(火)23時28分58秒 返信・引用 編集済

 10月5日に「上諏訪街道秋の呑みあるき」というイベントがあって、参加しました。2,000円払うと小さな樹脂製の升を渡されるのですが、300円のストラップを購入してこれを首にかけるわけです。で、五つの酒蔵を巡るのです。それぞれの酒蔵は5種類のお酒を用意していて、どれだけ飲んでもよいわけです。とゆーことは合計25杯になるのですが、往復するのでこれが何杯になるかとゆーと…

 翌日諏訪郡原町の阿久遺跡を訪れました。縄文時代の広大な配石遺構というのでしょうか、これが見たかったのですが、用意されていた広場は落ち葉に埋もれておりました。どうも遺跡は中央道の下だったようです(上の写真の看板がありました)。この広場に再現する予定のようですが、そこにあったのは切り株の彫刻群でした(真ん中の写真)。うーん残念!

 続いてMURYさんの地図を頼りに、諏訪七石のひとつ、「小袋石」を見てきました。これは迫力がありました。裏側というか斜面の上方からの写真を載せますね(下の写真)。大きさがわかると思います。とても雰囲気のよい場所でした。

 MURYさん、与喜山にはもう行かれたのでしょうか?標高が小さいと記したのは周囲の山と比べてということで、これは山深いです。藪分けで登るということでしょうから、これは大変です。どうぞ、日没前に下山してくださいね。万が一のヘッドライトをお忘れなく!私は鳳来寺山のブッシュを下る時にこれを忘れて泣きそうでした。












Re: (無題) 投稿者:MURY 投稿日:2013年10月15日(火)00時20分27秒 返信・引用

> No.1011[元記事へ]




なるほど!三種の神器の話がありましたね。

こちらも腑に落ちました。




そもそも各種の祭りに使われる依代が、人によって練り歩かされ、移動される存在だと思えば納得か。

人の動作も神の采配のうちですね。



Re: (無題) 投稿者:PONTA 投稿日:2013年10月14日(月)10時59分59秒 返信・引用

> No.1010[元記事へ]




MURYさんへのお返事です。




> 自然現象は神意で腑に落ちやすいのですが、人の手で持って行かれたものも戻らないのか~と意外でした。




こういうケースはたくさんありますが、 有名な話では、草薙剣。

草薙剣は、日本武尊が東征の際に伊勢神宮に寄った時に、おばの倭姫命からあずかった剣です。

その剣を日本武尊は宮津姫にあずけて、伊吹山へでかけて殺される。

私が宮津姫なら、すぐに伊勢神宮へ返します。

普通の剣なら「夫の遺品ですから」ともらうけど、三種の神器の1つとして伊勢神宮に祀られている剣ですから、自分が持っているのは恐れ多い。

でも、姫は、伊勢神宮に戻さずに、熱田神宮を建てて保管してしまう。




そもそも伊勢神宮のご神体の八咫鏡と草薙剣は、皇居から倭姫命が持ち出したもので、伊勢に来た時に天照大神が「ここに住みたい」と倭姫命に言ったら、伊勢神宮を建てて保管していたわけで、普通は返すでしょ。(倭姫命は保管場所を求めて(今日「元伊勢」と呼ばれる)多くの場所を巡るわけで、前任者の件もあり、大変だったと思いますが、天照大神は、実は最初から自分の降臨先を決めていて、その目印にと、高天原からその場所へ、(「五十鈴川」の語源となった)50の鈴を投げ落としていたそうです。)



http://pontyan1997.blog59.fc2.com/




Re: (無題) 投稿者:MURY 投稿日:2013年10月13日(日)14時32分22秒 返信・引用

> No.1009[元記事へ]




>理由を聞くと「ご神意だから」とのこと。




自然現象は神意で腑に落ちやすいのですが、人の手で持って行かれたものも戻らないのか~と意外でした。













Re: (無題) 投稿者:PONTA 投稿日:2013年10月11日(金)17時05分47秒 返信・引用

> No.994[元記事へ]




MURYさんへのお返事です。




> どこまで本当の話かは知りません。最初の神主家の者が元の場所に戻せば良かったのでは・・・とか思ってしまいました。




ですよね~。私も神社の歴史を調べていて、こういう例にたくさん出くわしました。

たとえば、神社が洪水で倒壊して、ご神体が川下に漂着したという話。

当然、元在った場所に神社を再建して、ご神体を安置・・・と思いきや、ご神体が流れ着いた場所に、新たに神社を建てて、そこにご神体を安置します。理由を聞くと「ご神意だから」とのこと。神様がA地点からB地点に移り住みたいと考えて、洪水を起こして移動したのだから、B地点に神社を建てるのだそうです。

http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/






(無題) 投稿者:MURY 投稿日:2013年10月 7日(月)00時35分38秒 返信・引用

>チェリーさん




「磐座(いわくら)見ぃ~つけた新聞」ご紹介ありがとうございます。

与喜山に興味がわいたのは『磐座紀行』とこのサイトのおかげでした。10年前、与喜山の磐座について触れているwebページと言えば、ここぐらいだったんです。




かつて、このサイトを運営されているサン・グリーンさんに問い合わせたことがあるんですよ。山中のどこをどう行けば、この磐座が見れるのかと。

ご丁寧に、與喜天満神社の由緒書と登山口の場所を教えてもらいました。山中への行き方が分かったのはサン・グリーンさんあってこそです。




そこで紹介されている磐座は、拙著のB地点の岩群なんです。念のため、私が撮った同じアングルの写真を掲載します。

(3)の場所と思われる写真はなく、サン・グリーンさんも行っていない模様です。また別の場所にあるようです。




サン・グリーンさんは迷い迷いの末に到着したのでこのB地点を山頂と当初思っていたようですが、私がここは山腹の峰上であるとお伝えして、今の記述となっています。




『磐座紀行』に掲載された写真の1枚は、このB地点とは似て非なる景観をしています。これを特定する必要があります。

与喜山のこのあたりは急斜面なので、はたして『磐座紀行』の時のままの景観を残しているのかという懸念があります。例えば、狛犬がすでに斜面下に崩落していて特定できないのではなど。




与喜山とは岩石祭祀調査を始めた頃から10年以上の腐れ縁なので、そういう意味でフィールドにしています。












(無題) 投稿者:MURY 投稿日:2013年10月 7日(月)00時21分45秒 返信・引用

>kokoroさん




情報ありがとうございました。

初出がわかったのが大変たすかります。探してました。

新たに発見されて、名付けられた「磐境」だったということで、すこしすっきりしています。

『式内社調査報告』また読んでみます。




写真を見ました。

やはりというべきか、これでしょうか。

移転前のサイトには上げていたのですが、私も2002年に長谷山口坐神社を訪れた時、たぶん同じものを見ています(一番下の写真です)

あまりに大切にされているオーラがなくて、半信半疑だったのですが・・・。




ちなみにこの隣り合う石のすぐ右に小さい石の露頭が隠れていて、奥の木の根っこに貼りついている石を含めて、一応4個あります、ありますが・・・。

旧社地としては○ですが、なぜ磐境認定されたのか不思議なスケールです。






Re: 与喜山とラインの話 投稿者:チェリー 投稿日:2013年10月 4日(金)00時56分8秒 返信・引用

MURYさんへのお返事です。




 電子国土の地図 ありがとうございました。斎宮の神殿跡付近と箸墓後円部の間のラインですね。B地点を通る様子がよくわかります!見やすいです。




>

> しかし21.1秒線にすると、長谷寺の上は通りません。通らないものと通るものの違いとは・・・?

>

 「山の頂上以外にある聖地は、全く別の山から直線で引っ張られてきたのでは?」という考えで調べています。長谷寺も与喜天満神社もそうではないかと…。もう少し調べてみますね。




>

> 地理的条件を無視して設定するラインというもの意味とはなんなのか。これが私は気になります。

>

 地理的条件を無視して進めている場合がほとんどのようです。着地点については、やっぱり無視して決めてしまう場合と、すぐ近くの適地を選ぶ場合があるようです。熊野本宮大社の旧社地が川のすぐほとりになってしまったのが前者で、鹿児島県の神代三陵の高屋山上陵(ライン近くの丘陵)と吾平山上陵(ライン近くの洞窟)の場合が後者だと思います。




 それにしてもMURYさんをこんなにも熱くする「与喜山」はただ者ではありませんね。聖地が凝縮されているような…「何故その標高の小さな山が聖山となったのか?」不思議ですねぇ。




 そういえば、(3)の立石が10個程あったという場所について、「磐座(いわくら)見ぃ~つけた新聞」の「奈良 太陽の道の古代遺跡」という記事に似た記述がありましたけど。http://www5c.biglobe.ne.jp/izanami/iwakura.html

 やはり山中をさまよってたどり着いたというような…




 最後はやはり独り言で、与喜天満神社から90.01°で室生寺の近くの龍穴神社に至ります。ひょっとして雨乞い関係があるのかなぁ?などと、勝手に想像したものでした。




 

(無題) 投稿者:kokoro 投稿日:2013年10月 3日(木)22時26分2秒 返信・引用

 MURYさん、こんばんは。




 お探しの「長谷山口神社の本殿東の山上にあるという、4つの自然石からなる磐境」ですが、『式内社調査報告』に、




 本殿の上方、南東四〇メートルの尾根上、アカマツの巨樹の下から昭和五十三年末に 磐座が発見された。伝承では、現社殿の旧地といふ。地表にあらはれたのは大小四個の花崗岩で、最大は長径一.〇八メートル、短径一.一〇メートル、高さ五〇センチ以上のものである。




とあるものですね。




 これらしき岩群は、社殿の向かって右手から裏手の尾根に登るとわりと簡単に見つかりますよ。画像はそれを平成22年に撮影したものです。岩が2つしか映っていないですが、以前、訪れたときは画像の奥のほうにもっと小さな岩が1つ、頭を出していたのを覚えています。おそらく枯葉をどければ、最後の1つもみつかるでしょう。




 与喜山レポ、楽しみにしています。









Re: 与喜山とラインの話 投稿者:MURY 投稿日:2013年10月 3日(木)01時08分10秒 返信・引用

> No.1003[元記事へ]




電子国土で線を引いてみました。




http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/index.html?lat=34.538984&lon=135.913433&z=16&did=DJBMM&fid=drawfile_mWHx0WTn




34度32分線といっても幅が広いので、基準は「箸墓古墳の後円部」である34度32分21.1秒線でやってみました。

そうすると、与喜山の山頂にもほぼさしかかるのですが、その山頂の西に尾根が伸びていて、線上に乗ります。この尾根の現地が大変怪しいのです。

丸いポイントを打った辺りに「北ののぞき」と呼ばれる場所があり、そこに巨岩群があります。しかし、先日の投稿のとおり、北ののぞきのポイントはずれる可能性があります。




しかし21.1秒線にすると、長谷寺の上は通りません。通らないものと通るものの違いとは・・・?




>古代の人には、というか現代の私たちにも、緯線に沿って進むのは、ほぼ不可能と思われるからです。




おっしゃる通り、緯線という現代人的発想で語るラインにどこまで意味があるかという疑問はあります。

ただ、淡路島~伊勢ぐらいの距離間でなら、実際の東西を進む実感とくらべても、多少の誤差ですむのかもしれません。

当時、本当にラインを意識した人々がいたとして、その誤差を許容して良かったのかどうかもわかりませんけども。




まずこの34度32分線は、そもそも恐ろしいほどの入り組んだ山中を進む線なので、東西に進むことも至難の業です。与喜山中ですら東西に正確に進めと言われたら、泣けます。




地理的条件を無視して設定するラインというもの意味とはなんなのか。これが私は気になります。




>そもそも長谷寺は八経ヶ岳(近畿地方最高峰)の真北にあたります(359.90°)。




自然物を含めて、もし東西・南北など複数のラインとリンクさせようとすると、どうしても多少の誤差が出てくるものなのですかね?




>堝倉神社が降りてきたという素盞雄神社はちょうど、八経ヶ岳山頂直下の弥山神社から359.97°になります。




文献上で追っていくと、素盞雄神社は、与喜山を取り巻く神社群の中では後出的で、中近世の間に勧請された神社のようで、私の中ではあまり重きを置いていない場所になります。

堝倉神社ですが、最初は山頂にあり、その後すぐに素盞雄神社の境内に遷座したのではなく、與喜天満神社の少し南西にある地点に遷座したようです(江戸時代の絵図に描かれています)

素盞雄神社に移ったのは明治の神社合祀令の時です。




与喜山・長谷寺など初瀬地域の神社で歴史的に重きをなす存在は、『延喜式』神名帳に記された長谷山口神社・堝倉神社、そして伝説上、初瀬の地主神として語られている滝倉地区の瀧蔵神社でしょうか。

また、今の地主神である與喜天満神社も、場所自体は天照大神が影向した石を境内地にする場所。長谷寺本尊を造立した霊木の元宮をまつる白鬚神社も由緒があり見逃せません。

与喜山北麓の上流に目を移せば、今は初瀬ダムの底に沈んでいる落神の賀茂大明神も。そして、山中、山麓の諸々の岩石祭祀の場と目白押しです。

与喜山を語ると熱いので、つい長くなりました。どんな方向からでも良いので、この与喜山の歴史の新しい一面が見つかることを期待して調べ続けています。

Re: 与喜山とラインの話 投稿者:チェリー 投稿日:2013年10月 2日(水)23時23分50秒 返信・引用 編集済

> 今はないのですが、かつては山頂に「堝倉(なべくら)神社」が鎮座していたと鎌倉時代の文献に記されています。




山頂にあったのですねぇ。神奈備さんも、玄松子さんも触れてみえますねぇ。

うーん北隣のピークも気になるところですねぇ…。




> そして、これは以前から知っていたことではあるのですが、例の北緯34度32分の「太陽の道」は山頂ちょうどを通るわけではなく、少しずれます。




少し北にずれるのですね?

本当にこのあたりはラインが錯綜していて、どれがどれだか判らなくなってしまいます。それだけ濃密なんだと思います。でも、細かく見るときは「緯線」には少しだけご注意を。古代の人には、というか現代の私たちにも、緯線に沿って進むのは、ほぼ不可能と思われるからです。曲がってっちゃうんだもん!私も含めてみんな錯覚しちゃうんですけど、日本の東は北米ではなく、南米なのです。




ついつい独り言を言ってしまうのですが、そもそも長谷寺は八経ヶ岳(近畿地方最高峰)の真北にあたります(359.90°)。堝倉神社が降りてきたという素盞雄神社はちょうど、八経ヶ岳山頂直下の弥山神社から359.97°になります。この周辺は大峰山脈最高部の真北になりますので、そのことの意味が何かあるのかもしれません、というのは、やはり独り言でございました。



与喜山とラインの話 投稿者:MURY 投稿日:2013年 9月30日(月)00時59分7秒 返信・引用

> No.1001[元記事へ]




> でも、肝心の与喜山山頂には、祀られた跡がないみたいですねぇ?




今はないのですが、かつては山頂に「堝倉(なべくら)神社」が鎮座していたと鎌倉時代の文献に記されています。

『延喜式』にも載っている神社名です。

「なべくら」と「いわくら」の関連性を挙げる声も聞いたことがあります(「くら」の共通性でどこまで語れるかわかりませんが・・・)

山頂に神社があったのだとしたら、まつり場と言えるでしょうね。




そして、これは以前から知っていたことではあるのですが、例の北緯34度32分の「太陽の道」は山頂ちょうどを通るわけではなく、少しずれます。

その線上にとある尾根上が当たるのですが、そこにおそらく私のブログで先日触れた「北ののぞき」のまつり場が位置してくるような気がします。

なぜ断定調でないかというと「北ののぞき」が本当にそのポイント化、今思うと少し自信がないからです。

ふだんライン論には一歩置いて話をしてしまう私ですが、山頂ではなくこの尾根上をあえて通ってくる北緯34度32分線に正直一目置いています。




「春日宮天皇妃陵」の陵はどう解釈したものか・・・。



(無題) 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 9月24日(火)00時39分43秒 返信・引用 編集済

MURYさん、kunittiさん、ありがとうございます。

とてもゆっくりした更新しかできないと思います。ご容赦ください。

プロローグで、突拍子もない話が二つはでてきます。思わず引いてしまうと思いますが、少し我慢してください。

kunittiさんもあの番組を覚えてみえたのですねぇ…




MURYさんへ、ムーの情報ありがとうございます。買います!




以下は私の独り言にすぎませんが、与喜山の周辺は、やはり東西のラインが認められるようです。まず、与喜山の三角点は「斎王の森」から270.07°です。ライン上に(尾根を東にたどったところになりますが)「春日宮天皇妃陵」というポイントがあります。ここは山上ヶ岳頂上直下の「大峯山寺」から0.03°になります。ここから箸墓後円部は270.00°です。

でも、肝心の与喜山山頂には、祀られた跡がないみたいですねぇ?三角点を追っている人達が登っているようですが…。

祝!ブログ開設 投稿者:kunitti 投稿日:2013年 9月23日(月)13時19分33秒 返信・引用

チェリーさん、ブログ開設おめでとうございます。(*'∇')/゚・:*【祝】*:・゚\('∇'*)




これから、ひとつ楽しみが増えました。ありがとうございます。




NHK特集、当時、私も食い入るように見ておりました。第2弾が海外編だったので、ちょっとガッカリしたのを覚えています。




この放映の後、NHK特集版の太陽の道とその元となった小川光三氏の太陽の道の本を購入して三重~奈良へ旅に出ました。




あれから、随分と月日が経ったものだとしみじみ思います。

Re: (無題) 投稿者:MURY 投稿日:2013年 9月22日(日)16時56分38秒 返信・引用

> No.998[元記事へ]




チェリーさんへのお返事です。




ブログスタートおめでとうございます!

応援しています。根つめない程度に更新するのが長続きのコツだと思っています。




プロローグを楽しみに読ませてもらいます。

チェリーさんがどのようにして今の調査にいたっているのか、興味津々です。




学研『ムー』の来月号が、期せずして太陽の道特集ですね。

Re: (無題) 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 9月21日(土)00時01分16秒 返信・引用

> No.997[元記事へ]




MURYさんへのお返事です。




> >坂手神社

>

> 酒見神社は訪れたことがありましたが、ここも中嶋宮候補地ですか。

> 酒見神社には磐船や倭姫命の御姿石など岩石祭祀事例があるので、ついつい肩入れしてしまうのですが、中嶋宮一つとっても元伊勢伝承地系は奥が深いです。




 よく考えてみれば、酒見神社も坂手神社も実際に行ってなかったです!!真清田神社と合わせて、行ってきます!!




 元伊勢伝承地は奥が深いです。富士山との関係がいくつか認められます。それは、いつの日かブログに載せようと思います。




MURYさん、kunittiさんへ




 ということで、ブログを始めてみました。何とも危なっかしいのですが、

「地図でつなぐ聖地の旅」というタイトルです。

 http://sakurasaku0911.blog.fc2.com/

いやはやどうなる事か…やっとkunittiさんとの約束も果たせるかな…















(無題) 投稿者:MURY 投稿日:2013年 9月20日(金)00時19分14秒 返信・引用

>kunittiさん




『磐座紀行』届きました。時間の合間に読み直し始めてます。

あの場所も、この場所も収録していたのかと新鮮な気持ちで読めています。

今は別の名前で呼ばれている岩石が、『磐座紀行』では違う名前で表記されていたりすると、歴史の移り変わりの速さというか恐ろしさを感じます。




今まではコピーで済ませていましたが、これで私もいっちょまえに磐座を語れそうです(笑)初めて三輪山を登った時も、そんなことを思いました。







>チェリーさん




真清田神社の裏は公園ですか。神社の前の車道は何度か行き来したことがあるのですが、裏側を知らないんですよ。

思いっきり街中ですよね。もし行かれたらまた教えてほしいです。




>真清田神社が何故そこにあるのか




尾張の古社は古代の海岸線の関係で、等高線の地理的制約を受けた上で立地しているといわれますね。




>その中の一番大きな岩に寄り添って、祠があります(下の写真)。思い返してみると、これも岩石祭祀ですねぇ。




そうですね。高山の祭り場はだいたい岩石祭祀になっちゃいますね(笑)




>坂手神社




酒見神社は訪れたことがありましたが、ここも中嶋宮候補地ですか。

酒見神社には磐船や倭姫命の御姿石など岩石祭祀事例があるので、ついつい肩入れしてしまうのですが、中嶋宮一つとっても元伊勢伝承地系は奥が深いです。

Re: (無題) 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 9月17日(火)23時36分47秒 返信・引用 編集済

> No.994[元記事へ]




MURYさんへのお返事です。




> 真清田神社の本殿裏にかつて「土壇」があり、そこに石がまつられていたという噂が記されています。

> 古図には土壇の手前に三輪鳥居のようなものが描かれているので、国津神系の磐座と言いたそうなことが書いてありました。

> 一度、本殿裏に行って、その土壇らしきものが現存しているのかは見てみたいです。




 真清田神社の話 おもしろいですねぇ。

 本殿裏って入れたかなぁ? 公園になっているようですが、今度行ってみますね!

 真清田神社が何故そこにあるのか、よくわからないです。候補はいろいろあるのですが…




 酒見神社から宝剣岳は 60.37°になってしまうのですが、宝剣岳と木曽駒ヶ岳の間にある「中岳」が 60.09°に見えます。

 上の写真の右から宝剣岳・中岳・木曽駒ヶ岳です。

 真ん中の写真が中岳のアップです。山頂部に巨石が露出しています。

 その中の一番大きな岩に寄り添って、祠があります(下の写真)。思い返してみると、これも岩石祭祀ですねぇ。




 酒見神社の北東 2.3km程のところに「坂手神社」があるのですが、ここから「木曽駒ヶ岳」が60.11°に見えます。ここも元伊勢候補地なのだそうです。うーん、何か訳がありそうですが、なんとも言えないですねぇ。












磐座紀行 投稿者:kunitti 投稿日:2013年 9月17日(火)14時29分41秒 返信・引用

磐座紀行を読んでは、いつか行ってみたいと思いを馳せていた頃を思い出します。




昭和60年頃に買った時は、確か2700円ぐらいだったかなぁ…それでも、高いと思いつつ買った事を覚えています。

それが、今では12000円とは驚きです。




自分の磐座紀行は、色あせて波うっているのでそんなに値は付かないでしょうね^^;

といっても、売りませんが・・・

(無題) 投稿者:MURY 投稿日:2013年 9月12日(木)21時54分30秒 返信・引用

>たけさん




秋~冬に行きましょう。連絡入れます。

新天地の話もまた聞かせてください!




>チェリーさん




山は石の極大にして、砂は石の極小なり と言います。

石の祠は岩石祭祀と言って良いと思います。天然の素材を利用しつつ、小さめの石は配置し直しているところもあるでしょうか。

写真で見ていると石同士がぐらぐら動きそうな錯覚にもとらわれますが、これほどの高山、激しい自然の変化にもたえて同じ状態を保ち続けてているんだからすごいですよね。




斎神社

元伊勢伝承地である中嶋宮を倭姫命が出立した後、村人が跡地に建てた宮だそうですね。

近くにある酒見神社も元伊勢伝承地としては有名でしょうか。こちらからならどうなんでしょうね。




真清田神社が出たので、私も独り言を。

真清田神社に岩石信仰があったという情報は通常聞かれませんが、遠山正雄「『いはくら』について(第八回)」(『皇学』第3巻第3号 1935年)にそんなレア情報が載せられていましたので紹介します。




真清田神社の本殿裏にかつて「土壇」があり、そこに石がまつられていたという噂が記されています。

神主家のある者がこの石を持ち出して自分の家でまつりだしたところ、家で不幸が続出。たまらず他の人に譲ったところ、そこでも災いが起こる。

このように数多の人の間を転々とし、最後には千種区の覚王山日泰寺に持ち込まれ、「真清田弘法」という名で秘蔵されているとのことです。

年に一度、虫干しの時に開帳されるといいます。遠山正雄自身見たことはないが、確かにあるという。




どこまで本当の話かは知りません。最初の神主家の者が元の場所に戻せば良かったのでは・・・とか思ってしまいました。




遠山が推測するには、神体石ではないかと。根拠は不明。

古図には土壇の手前に三輪鳥居のようなものが描かれているので、国津神系の磐座と言いたそうなことが書いてありました。




一度、本殿裏に行って、その土壇らしきものが現存しているのかは見てみたいです。

宝剣岳 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 9月 7日(土)23時13分25秒 返信・引用 編集済

 これが「岩石祭祀」なのか微妙なところがあるのですが、あまりのその異様な姿に、写真を掲示してしまいます。中央アルプスの北部、千畳敷カールの最高点になります(標高2931m)。

 中央アルプス北部には、遠くからであれば木曽駒ヶ岳・中岳・宝剣岳と三つのピークがよく見えるのですが、近くで見れば前者の二つはボリュームを持った山であるのに対して、宝剣岳は氷河が削ったカールの、岩石の縁なのです。つまり、遠くから見れば山岳祭祀、でも近づいて見ると岩石祭祀となるのではないでしょうか?何といってもこの姿です!岩石の鎧を纏ったようなこの迫力は、岩石への畏れを呼ぶものではないでしょうか!!

 上の写真は千畳敷から南に回り込みながら稜線へ登って北上する登山路からのものです。 真ん中はその拡大写真、中央下部に登山者が写っていますね。 頂上の岩を挟んで小さな祠がふたつありました(下の写真)。祭祀ですよね?

 あとは独り言ですが、尾張一宮「真清田神社」の400m程北西に「斎神社」という小さな神社がありまして、ここが元伊勢候補地のひとつなのだそうです。ここから60.00°に宝剣岳が見えるはずです。ここからは山に見えるから山岳祭祀かな?逆に宝剣岳から239.99°に位置するのが岐阜県海津市の行基寺です。宝剣岳の地で方位を決めたのだから岩石祭祀かな?まあ、位置だけの話なんですけど…












Re: お久しゅう 投稿者:たけ 投稿日:2013年 9月 7日(土)22時40分43秒 返信・引用

> No.991[元記事へ]




MURYさんへのお返事です。




> >たけさん

>

> こんにちは。こちらこそご無沙汰してます。

> お仕事さらに高みを目指されるのですか?




高みというか、また転職したわ(笑)

そもそも最初でつまづいたんでね。高みを目指ざさざるを得ないわけです。

今迄では一番規模がでかい会社です。一度はそういう会社も経験しとかないとね。




> 近況を知らなかったのでびっくりです。

> また寒いシーズンに山城巡りしましょう。

> 最近のネタなら、彦根の比婆神社の裏に怪しげで壮大な山城があるらしいですが、どうでしょうか。

>




本当に行こうや。

基本、土日祝日は大丈夫です。

連休とか休み合えば行きましょう。




> >研究発表って、そちら方面に進出ですか?

>

> いえいえ(笑)学生の皆さんと、学問と就職の討論会をしてきたぐらいなんです。

>

> 貴サイトも最近更新が活発でなによりです。

> どっちが多く更新できるか競争しましょう(笑)




そこが微妙w

まぁとりあえず、もう少し身辺が落ち着いたら頑張ります。

Re: お久しゅう 投稿者:MURY 投稿日:2013年 8月25日(日)23時20分31秒 返信・引用

> No.989[元記事へ]




>たけさん




こんにちは。こちらこそご無沙汰してます。

お仕事さらに高みを目指されるのですか?

近況を知らなかったのでびっくりです。

また寒いシーズンに山城巡りしましょう。

最近のネタなら、彦根の比婆神社の裏に怪しげで壮大な山城があるらしいですが、どうでしょうか。




>研究発表って、そちら方面に進出ですか?




いえいえ(笑)学生の皆さんと、学問と就職の討論会をしてきたぐらいなんです。




貴サイトも最近更新が活発でなによりです。

どっちが多く更新できるか競争しましょう(笑)



Re: (無題) 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 8月21日(水)21時40分52秒 返信・引用

> No.987[元記事へ]




MURYさんへのお返事です。




> がんばってみました。鼻が見えますね。これがベストショットでしょうか?




はい!ベストショットです!!

お久しゅう 投稿者:たけ@転職厨 投稿日:2013年 8月21日(水)18時00分4秒 返信・引用

お久しぶりです。

お元気ですか?暑いですが。

ブログ見ましたが研究発表って、そちら方面に進出ですか?




また良い季節になったら会いましょうや。

http://homepage1.nifty.com/rekisi






天狗岩再掲 投稿者:MURY 投稿日:2013年 8月18日(日)18時20分54秒 返信・引用

ストリートビューのURL、うまくいきませんでしたね。

スクリーンショットを貼っておきます。






(無題) 投稿者:MURY 投稿日:2013年 8月18日(日)18時17分11秒 返信・引用

>長塚村上神社は那可手力雄神社の西隣の神社ですね?




はい。神社の西と東の2か所に出入り口があります。が、車を停める場所がなく苦労しました(意外と交通量も多いです)




>しかし、短時間にどうやってあんなに調べることができるのですか!




おほめくださり光栄です(笑)

私は、知らない土地に行くときですが、その町の博物館に行って文献を調べることがあります。歴史系がベストですが、総合博物館でもOKです(かかみがはら航空宇宙科学博物館は×)民俗資料館・郷土資料館と名のつく施設も見逃せません。

そういうのがなければ、図書館の郷土資料コーナーに行って、そこでしか見られないような郷土資料、自治体史を片っ端からめくっていきます。

そうすると、地元の情報はやはり地元が一番持っているんですね。あれよという間に情報が氾濫し、さばききれなくなります。だいたいそんな感じです。

頑張るときは、学芸員の方や教育委員会や観光課に問い合わせたりすることもあります。




各務原市立中央図書館の2Fに郷土資料コーナーがあり、そこに『那加町史』という本があります。そこに真幣岩、土山の七名石をはじめとした石のオンパレードが詳しく載っているので、ぜひ旅のお供にどうぞ。駐車場も2時間無料です。




>土山というのは那可手力雄神社の800m程北の丘ですね。地図で見ると全部住宅地になっているように見えます。




そうです、地図で見ると完全アウトの気配なのですが、

土山の東と西の端っこだけは生き残っています。感動しました。

七名石のうち、子安石以外はまだ存否不明です。見つけられたらぜひ教えてください!

柄山・琴塚も今回はパスしたので、また次の機会があれば見に行きたいですね。




>静岡県の渭伊神社も行ってみたいです!




ぜひぜひ。一般の方でも喜んでいただけるオススメスポットです。

真幣岩の3.5倍大きい規模と思っておいてください。

あの引佐~細江のあたりにも岩石信仰の事例が多いので、併せて巡られると良いかもです。




>なんと、Googleマップのストリートビューで天狗岩を見ることができました!お試しあれ!!




がんばってみました。鼻が見えますね。これがベストショットでしょうか?




https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=216706538967953220963.0004808f72949d036c544&msa=0&ll=35.325257,137.060991&spn=0.000004,0.002124




珍しく、最初に投稿した文章が投稿エラーで灰燼に帰しました。。

投稿前に、文章を念のためにコピーしておくと良いかもしれませんね

内々神社の天狗岩 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 8月18日(日)01時09分11秒 返信・引用 編集済

 愛知県春日井市の内々神社の北側に横たわる岩稜、そこに天狗岩があるといいます。以前PONTAさんに教えていただいたとおり、見ることができました。

 上の写真は神社入り口の西側の駐車場からです。双眼鏡があるといいですね。

 真ん中の写真は、天狗岩のすぐ横の岩にへばりついて片手で撮ったものです。※とても危険ですから絶対に真似しないでくださいね。

 下の写真は天狗岩を含む岩峰のてっぺんから撮った景色です(この上方に更に別の岩があるのですが、そこからは眺望がなさそうでした。この山陵のピークは更に上にあります)。

 ここからの景色は不思議なもので、山の合間にちょうど伊吹山が見えました(上の画像で頂上が雲に隠れている山がそれです)。もうひとつの合間に名古屋城が見えるのです(下の画像で3本の高層ビル群の、右の二つがJR名古屋駅ツインタワーなのですが、二つのうち右側のビルの足元にごちゃごちゃっとしてるのが名古屋城です。う~んわかるかなぁ)。※この撮影場所もかなり危険ですから登らないでくださいね。

 やはり尾張氏と伊吹山には特別な関係があるのかもしれないと思ったことでした。




 なんと、Googleマップのストリートビューで天狗岩を見ることができました!お試しあれ!!












Re: 那加総社 手力雄神社 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 8月17日(土)23時34分10秒 返信・引用

> No.984[元記事へ]




MURYさんへのお返事です。




 神秘の各務原!なんて素敵な響きでしょう!!




 ブログ拝見しました。長塚村上神社は那可手力雄神社の西隣の神社ですね?稜線の岩を東にはたどったのですが、西は見てなかったです!やはり修業が足らないです!




 しかし、短時間にどうやってあんなに調べることができるのですか!MURYさん神業じゃないですか!本当にびっくりです!




 土山というのは那可手力雄神社の800m程北の丘ですね。地図で見ると全部住宅地になっているように見えます。この丘のすぐ北側に琴塚古墳群が広がっていまして、正に岩石群と古墳群が隣接している訳ですね。

 丘の北東には全長82mの柄山古墳があり、北西には全長115m(岐阜県第3位)の琴塚があります。二つの古墳の間にも同規模の古墳があったらしいのですが、消失してしまったようです。




 私的にいうと、柄山古墳から伊吹山へは270.03°、琴塚から伊吹山へは270.05°なのです。どちらも伊吹山が真西に見える場所に築かれたようです。




 神秘の各務原!私も土山を見に行ってみます。静岡県の渭伊神社も行ってみたいです!



Re: 那加総社 手力雄神社 投稿者:MURY 投稿日:2013年 8月16日(金)18時10分59秒 返信・引用

> No.980[元記事へ]




>チェリーさん




ということで、私も手力雄神社へ行ってきました。




真幣岩、立入禁止っぽくはなかったので、そのまま拝ませていただきました。神職さんも見かけなかったので。




ロープは古墳の墳丘の周りを張って保護している様子でした。




各務原の謎が一層深くなりました。ブログにすこし書きました。

(無題) 投稿者:MURY 投稿日:2013年 8月13日(火)00時08分3秒 返信・引用

>チェリーさん




手力雄神社

穴場スポットを見つけられましたね。さすが“神秘の各務原”(私が勝手に命名)なだけはあります。面白い場所だと思います。私も行きたくなってしまいました。




古墳を神社としてまつりといい、天岩戸といい、岩石の写真といい、滋賀県高島市の白鬚神社をとても彷彿とさせました。




※下の写真は、白鬚神社にある岩戸社です。古墳の石室を背後にまつります。その右隣に、地元の人が新たにまつったという三角形の岩塊があります。元来は石室石材の一部だともいわれています。







>KOSHIMIYAKEさん




こちらこそサイトの更新が滞っており恐縮です。




御説のとおり、磐座が多い、少ないという議論はある意味ナンセンスだと私は以前から感じていて、その地域に意識している人がいるかいないかだけの一点で、表に現れてこないものだと思っています。

磐座のメッカなどと呼ばれているところは、たまたま先人が注目したりものの本に取り上げられたりなどの理由で多くの耳目に触れたから知れ渡っているものであり、実際は列島各地にあまねく岩石信仰は潜在していると思います。




私はこの10年のあいだで、奈良県山添村の例や埼玉県飯能市の例を見てきたのでそう実感しています。

新潟の原初的信仰史の再照射、心強いです。私も貴サイトを通じて新潟の事例を勉強させていただきたいと思っています。






御礼 投稿者:KOSHIMIYAKE 投稿日:2013年 8月 6日(火)17時29分53秒 返信・引用

リンクの承認有り難うございました。

回答に気がつかず御礼が遅れました。

少しずつですが内容を充実させるつもりですのでよろしくお願いします。




新潟県内の磐座信仰については、未調査の部分が多過ぎて表に現れないだけだと思われます。

それだけ従来の研究者が伝承や祭祀に否定的で無頓着な傾向が強いためとだと思います。

少なくても、式内社の論社ついてくらいは詳細な祭祀の調査があってしかるべきだとは思います。




越後一宮の弥彦神社は山岳祭祀の典型ですし、式内社の五十嵐神社の子抱き杉は有名な岩石信仰だと思います。

当地の三宅神社の「鎮窟」は八犬伝にも登場する聖地ですが、祭祀が途切れているためその認識がありません。

唯一祭祀が継続するのは「目の神」の磐座岩石信仰のみです。

その辺の所、ぼちぼちと調査探求するつもりです。今後ともよろしくお願いします。



那加総社 手力雄神社 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 8月 2日(金)00時05分20秒 返信・引用

 岐阜県各務原市 標高30m程の丘陵の南麓に鎮座します。これが不思議な場所で、写真は拝殿ですが、その後の本殿の、左右それぞれ20m程のところに古墳があるのです。真ん中の写真の上が左側にある直径18mの円墳、下が右側にある直径12mの円墳です。更に、本殿のやや左後方20m程のところに真幣岩(みてぐらいわ)が祀られていました(立入禁止でした)。磐座祭祀として神様を祭ったのが始まりなのだそうです。美濃國神明帳に、真幣明神(みてぐらみょうじん)とあるのがここだそうです。

 とゆーことは、これが天の岩戸ということになるのでしょうか? 丘陵の稜線には岩石が連続していました。












Re: 筥石神社 投稿者:MURY 投稿日:2013年 7月28日(日)22時21分33秒 返信・引用

> No.978[元記事へ]




>kunittiさん




いえいえ、ありがとうございます。




筥石神社では、手前の川の景色ばかり見ていて、後ろの山は見ていませんでした。立派な巨石群が奥にあったんですね。




盃状穴は当サイトでも紹介している通り、形がシンプルなだけに想像の膨らむ産物だと思っています。



筥石神社 投稿者:kunitti 投稿日:2013年 7月24日(水)19時48分30秒 返信・引用

興味ないかも…ですが…




一応、盃状穴の岩と巨石群の一部を…









Re: お膳岩 投稿者:MURY 投稿日:2013年 7月24日(水)01時02分52秒 返信・引用

> No.976[元記事へ]




お膳岩のご紹介ありがとうございます。




椀貸し(膳貸し)伝説という種類の、似たような話が全国各地であります。だいたい内容は一緒で、最後に誰かが返さないというオチまでついています。




昔の人たちが切実に困っていたこと、望んでいたこと、助けてほしかったことを感じ取れる良い伝説だなと思っています。




私が見た「膳貸し岩」はこちらです。

山梨県北杜市の鳴石。別名「膳貸し岩」。









お膳岩 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 7月22日(月)23時03分20秒 返信・引用

 吉備中山は大変なところですねぇ。この山全部が聖地なのでしょうねぇ。どうしてこの標高の低い山が聖山になったのか、理由はなんなのでしょうか…




 分杭峠には高遠を通って行ったのですが、白山トンネルを出た脇に「お膳岩」がありました。

お祈りすると、お膳やお椀を必要な数だけ貸してくれるのだそうです。これはテレポーテーションということなのでしょうか?どこかの時代のどこかの家から運んできたのかな?後でその家では「あれ?誰かお膳をさわった?」ということになるのでしょうか!うちも法事で困ったことがありました。なんて便利な岩なのでしょう!









(無題) 投稿者:MURY 投稿日:2013年 7月21日(日)22時37分42秒 返信・引用

ごぶさたしております。最近更新しておらずすみません。




>チェリーさん

>三角点とアンテナと手作りの素敵な休憩所でした…




こんな例もございますので、ご参考に・・・。




薬師寺慎一さんの『「吉備の中山」と古代吉備』(吉備人出版、2001年)に載っていた話なのですが、岡山県の吉備の中山には内宮石という石があったらしいですが、そのほぼ真南の無名峰に露岩があったそうです。後年、鉄塔が峰上に建設された時に露岩は破壊されましたが、その際に弥生時代の分銅形土製品・石剣・弥生土器片などが見つかったといわれています。

この遺物出土の出典が書かれていなかったので、真偽は定かではありませんが・・・。




>kunittiさん




お久しぶりです。




>そのすぐ脇に花崗岩の岩の上に盃状穴があるのご存じでしたか?

>更に、その背後の山中には、見事な(自分的には)巨石群があるのです。。




神社に満足して、そこまで見ていませんでした。盃状穴があるんですね。




近くの豊丘村にも磐座らしきものが1~2か所あるという情報を聞きました。



(無題) 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 7月17日(水)23時28分49秒 返信・引用

> No.973[元記事へ]




分杭峠には4年前に行ったことがあります!

かなり山奥なのですが、人がたくさんいて、賑やかでした。今はどうなのでしょう?

いくつかポイントがあるようで、ベンチが作ってあったりして、皆さん座ってみえました。

南アルプスの大自然の中ですので、気分が悪かろうはずがないのですが、それ以外の肝心な何かは、よくわからなかったですねぇ…私では一度行ったくらいでは感じないのかもしれません…

沢で水を汲んでた人もたくさんみえました。売ってたりもしてたので、一本買って帰りました。









筥石神社 投稿者:kunitti 投稿日:2013年 7月13日(土)20時43分40秒 返信・引用

MURYさん、お久しぶりです^^

筥石神社へ行って来たんですね…私も、訪ねたことが何度かあります。。。調べても、中々場所が分からず苦労した覚えがあります。




筥石神社のすぐ上に道路がありますよね、そのすぐ脇に花崗岩の岩の上に盃状穴があるのご存じでしたか?

この神社の情報があまりに少ないので、現地に行って見つけたんですけどね^^;;




更に、その背後の山中には、見事な(自分的には)巨石群があるのです。。




更にその背後の山の向こうには、【ゼロ磁場】で有名な分杭峠があるんですよねぇ~~…でも、まだ分杭峠あるのに気づいたの最近なので、まだ行ってないですが・・・




それにしても、あの辺は心ときめく場所だと思います^^



何もなかった~2 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 6月28日(金)00時23分36秒 返信・引用 編集済

 更に、二つの手力雄神社を直線で結ぶと、その先は芥見権現山(岐阜権現山)に至るのでした。頂上にピンポイントです!しかもこの頂上から真北に直線を延ばすと、12km程で大矢田神社という立派な神社に至るのです。(天王山という山の南麓にあり、祭神は建速須佐之男命・天若日子命・阿遅志貴高日子根命だそうです)

 芥見権現山は標高316.5mの低山ではありますが、大変な山であるに違いない!その頂上に何があるのだろう!!

 それが上の写真です。何ということでしょう!何もありませんでした~ あったのは三角点とアンテナと手作りの素敵な休憩所でした…山そのものは岩石が多く露出する魅力的な山でしたけど(真ん中の写真)。

 でもすぐ南隣の蘇原権現山(各務原権現山)の稜線に「二ツ岩」がありました(下の写真)。各務原の民話で有名と札に書いてあります。「旱魃のときは各務山、天王山、稲田山、権現山と雨乞い納めの山です。どんな日照りでもこの山に雨乞い祈祷をすれば七日以内に雨が降ると言われて来ました。」とありました。












何もなかった~1 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 6月27日(木)00時20分18秒 返信・引用 編集済

 岐阜市と各務原市に二つの手力雄神社があります。お互いあまり関係がないようですが、何と言ってもどちらも手力雄神社なのです。天岩戸をこじ開けたという神様を祀ることに違いはありません。金華山岐阜城の南の麓に「長森岩戸」という地域があります。この地からそれぞれの神社に何と、150°と 120°ちょうどになるポイントを発見したのです!(上の図)わおぅ、いったいそこに何があるのだろう!!

 それが真ん中の写真です。何ということでしょう!何もありませんでした~

 でも80m程北には「岩戸観音」がありました。それが下の写真でございました。

 この地域には他に「弘峰寺(本堂が広い岩窟の中にあり)」・「猿田彦岩戸神社(岩盤の上に建立)」・「岩戸八幡神社(参道に担石があり、社殿の裏の斜面には岩石の露出が繋がり、登っていったら稜線にでてしまった)」がありました。

 各務原の手力雄神社は、背後に古墳や巨石があるようなので、また見に行きます。

 












Re: (無題) 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 6月 3日(月)23時01分25秒 返信・引用

> No.969[元記事へ]




MURYさんへのお返事です。




> 岩盤をくりぬいたらそれはイコール墓なのか。




 そうですよねぇ!そもそも蓋らしきものがなかったですものねぇ。あのままでは鳥葬になってしまうと思います。でも、骨が出土したと書いてあるのは見なかったです。人が横たわるのには、ちょうどよい大きさでしたけど、全然お墓らしくはありませんでした。ここで横になることに意味があるのかも!




 いっしょにというか、東隣の尾根の東側にある「長森岩戸」という場所を探りに行ったのですが、また、まとめます。よい場所でした。



(無題) 投稿者:MURY 投稿日:2013年 6月 2日(日)22時22分42秒 返信・引用

>KOSHIMIYAKEさん




はじめまして。拙著をお読みくださりありがとうございます。

恥ずかしながら、新潟県の岩石祭祀事例は長らく不明といたしていましたが、当然ながら新潟にもありましたか。やはり地元の方が一番ご存じですね。

ご紹介くださった場所はいずれも初見の事例です。今後のコンテンツ拡充を楽しみにしております。

次回更新時にリンクさせていただきますね。




>チェリーさん

瑞龍寺山の露岩は、以前は巨岩祭祀の遺跡説もあったんですよ。

今は、墳墓説が有力のようですが・・・というよりこの看板では言い切っていますね。

出土遺物は鏡・玉類・土器ということで、これらを副葬品とみるか奉献品とみるかで判断が分かれます。人骨・棺が検出されているという話も聞いたことはありません。

岩盤をくりぬいたらそれはイコール墓なのか。類例がなかなか見当たらないだけに、私は判断保留としていましたが、墳墓説が現在優勢であるなら、その根拠を詳しく調べていきたいところですね。

最近の研究は存じ上げていないので何か新しい知見があったのでしょう。



瑞龍寺山山上墳 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 5月27日(月)23時59分33秒 返信・引用

 岐阜城金華山から南西に延びる尾根の先端部のピークが瑞龍寺山(標高156m)です。西隣のピークが展望台になっていて、その駐車場から10分も登れば着いてしまいます。

 ここに来る前に東隣の尾根を歩いていたのですが、岩の露出が連続していて、どうやら金華山全体が岩石のようなのです。もともと南半球の海底に堆積してできたチャートという岩石なのだそうです。

 瑞龍寺山の頂上もそんな岩石が露出した場所なのですが、驚いたことに、それを直接くりぬいてお墓にしてしまったようなのです。強引というか、力技というか、なんというか… 山頂に石を組んだり土を盛ったりするのであれは、山と一体になるような感じがするのですが、こんな風に直接そこの岩をうがってしまうのは、正に岩石と一体になってしまうような感じです。岩に溶け込んでしまうようです。金華山全体の岩石に溶け込んで繋がっているのでしょうか。

 集落から独立した大型墳丘墓としては東日本最古なのだそうです(赤塚次郎氏による)。西暦100年頃だそうです。

 象鼻山からあんなに引っ張れたラインが、ここからはほとんど引けません!ラインの発生時期にも関わってくるのかなぁと思ったことでした。






Re: 象鼻山から南宮山 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 5月27日(月)23時06分33秒 返信・引用 編集済

> No.965[元記事へ]




 象鼻山3号墳と同時期の「八王子遺跡」は、やはり110°ライン上にあったのですが!!遺跡中の、長方形に区切った平面上にただひとつそびえる「大型建物跡」は、ラインから100m以上離れてしまいました。NGです。残念なことでした。

 象鼻山1号墳からの眺めはすばらしく、濃尾平野が一望です。もうひとつ、ここは新幹線の絶好の展望台なのです。写真の真ん中、大垣市の角が二本はえたビル(ソフトピアジャパンセンター)が見えますが、その下のひものような白い線が、新幹線なのです!(ビルの左のとがったピークは金華山。)

 でも、ここだけ訪れるのでは、少し物足りないかもしれませんねぇ。次に御紹介するのは、金華山の、もっと古い遺跡なのだそうですが、少し離れていますので、合わせて行くのは少し無理だなぁ…










 






はじめまして 投稿者:KOSHIMIYAKE 投稿日:2013年 5月24日(金)18時41分13秒 返信・引用

新潟県にある地元の神社を調べているものです。

この度、少しずつですが調べた物をサイトにアップ致しました。

サイトの名前は「古志 三宅神社二座 研究」

http://koshimiyake.web.fc2.com/

宜しければ、相互リンクをお願い致します。




尚、地元の図書館で「岩石を信仰していた日本人」を拝見し、参考にさせて頂きました。

当ホームページでも今後当地の磐座についての研究を掲載する予定です。

僅かですが、今回、地域伝承の項目に鎮窟、大石、目の神の考察を入れました。

まだまだ勉強が足らない若輩者ですが、ご覧頂ければ幸いです。












Re: 象鼻山から南宮山 投稿者:MURY 投稿日:2013年 5月19日(日)23時00分1秒 返信・引用

> No.964[元記事へ]




「象鼻山古墳群における地中レーダー探査の成果」を読んでみました。ご紹介ありがとうございます。

うーむ、すごい古墳群だなあと感嘆してしまいました。

まず築造時期の古さが貴重。

そして山中地形の大規模な改変が認められたことも貴重。

勉強になりました。見に行きたくなってしまいましたね。

弥生時代の遺構という意味では古墳と呼ぶより墳墓という言葉のほうがイメージが正しいかもしれませんね。




1号墳は前方後方墳で、これはいわゆる古墳時代の「古墳」ですね。これも十分古いですが、報告書を読むと、他の墳墓を「上書き」するような別系統の所産のようです。




>「栗原九十九坊記念塔」




こことは事情が違いますが、廃仏毀釈の時などに捨て置かれた石仏などを後世一か所に集めて保存したというものは各地で見ますね。




>「境」と彫られたものが4つ、「山神」と彫られたものが1つでした。南宮大社に至る谷の最上部を囲むように配置されていました。




「境」は神社の社域を示す標石だと思います。松尾大社の松尾山や多度大社の多度山でも見たことがあります。

南宮大社の神体山ですので、こういう性質の山と古墳の関連性がどうあるのかは私も関心があります。




>  更に進むのですが、明確な尾根道というものがありません!地形を見ながら迷いながら歩きます。これは人には勧められません!




楽しそうですね(笑)私も等高線地図見ながら道のない道を開拓するのが好きです。

といっても自分の身の程を知っているので、よほどの事前準備で担保しておかないとやりませんけれどね。最近は夏の藪漕ぎとかも嫌になってきました。



象鼻山から南宮山 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 5月19日(日)01時40分14秒 返信・引用 編集済

 象鼻山は名神高速道路養老サービスエリアのすぐ北側に見えます。標高130m程ですので、楽に登れます。頂上部には、いくつ古墳があるのかわからない程でした。

 最も古いとされる3号墳(西暦150年頃:「象鼻山古墳群における地中レーダー探査の成果」というレポートが詳しいです)をGPSで位置特定できたのですが、やはり氷上姉子神社元宮と伊吹山の直線上になるようでした。ただ、上に祀っている社の向きとは一致しませんでした(上の写真:10°程ずれてしまいます)。

 地図上の「象鼻山」は4号墳のすぐ南隣の古墳?上にある三角点(129.9m)のことでしたが、3号墳の方が標高も高いし、古いし、どちらかというと3号墳の方が重要な場所のようでした。(4号墳にも社の跡と古い三角点(130.3m)がありましたけれど。)

 1号墳が一番標高が高く大きいのですが、年代が100年程後になりますし、少し離れた場所になることもあって、どうも他の古墳とは異なる理由で造られた気がしました。

 さて、ここから南宮山(419.2m)に向かう訳ですが、300m程も進むと夥しい五輪塔や石仏が斜面を覆い尽くしておりました(真ん中の写真)。山中にあったものを地元の方が集められたとのこと。「栗原九十九坊記念塔」というのだそうです。このあたり、奈良時代から鎌倉時代まで、多くの僧坊があったそうです。古くから信仰の地だったようです。

 更に進むのですが、明確な尾根道というものがありません!地形を見ながら迷いながら歩きます。これは人には勧められません!2時間もかかって、やっと標高350m程に達しましたのですが、ここで尾根に沿っていくつかの石をみつけました(下の写真)。「境」と彫られたものが4つ、「山神」と彫られたものが1つでした。南宮大社に至る谷の最上部を囲むように配置されていました。それほど古いものではなさそうです。

 ここから「毛利秀元陣跡」を通過して40分程かけてやっと南宮山頂上でした。下りは道に迷うだろうなぁと思ったら、やっぱり迷いっぱなしでした。急な斜面をトラバースしていて、枯れ木をバキッと踏み割った時に、大きな動物がどこかを駆け下りていく音が聞こえました。後でその仲間の巨体を見ることになるのですが、この山は鹿の天国のようなのです!

 結局は見知らぬ集落に降り立ってしまったのですが、総じてこの山塊は、南部と北部で別物のような印象でした。それぞれのポイントには里から道が通じているようです。私にはとても印象深い山行でしたが、一般の方には縦走するのは全くお勧めできませんといったことでした。

 












Re: 東谷山頂上部の磐座? 投稿者:MURY 投稿日:2013年 4月29日(月)17時41分10秒 返信・引用

> No.962[元記事へ]




> あんなに正確に位置にこだわって古墳を造営しているのに、その向きを適当に決めている訳がないという思いがあります。ましてや埋葬部の向きも、ということになると思います。そこまで視野を広げていければいいのですが。




私が以前研究していた古墳は、それこそ百基を超える群集墳でしたが、埋葬部の向きはぐちゃぐちゃでした。よく見ていくと、尾根の向きに沿っているんですね。複数の尾根筋があるので、ある意味一貫性はあるのですが、自然の地形の前に頭位がひれ伏している感じでしょうか。

山に造られた古墳と、平野部に造られた古墳では古墳の築造の方法も違ったりするので、山は自然地形の制約が加わっているというのも加味したほうが良いのかもしれません。




> あれっ、でも祭神の「宮簀媛命」は日本武尊の奥さんで、御主人は伊吹山で戦って致命傷を負ってしまったのでは?なんでその伊吹山とラインを結ぶんだろう??




伊吹山の荒ぶる神を鎮める意味合いで結んでみたと考えればいけるかも(てきとうですけど)

社殿の向きとかも重要ですね。

Re: 東谷山頂上部の磐座? 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 4月21日(日)03時04分32秒 返信・引用

MURYさんへのお返事です。




> たしかに残念ですね。山頂や神社でなく「磐座」ならどうかと思ったのですが、なかなか実際はうまくかみ合わないものです。




 はい、かみ合わないですねぇ。以前MURYさんがあげてくださった、いくつかの例も調べてみたのですが、いずれも直接結びつけることができなかったです。でも、どこか別の地点を経由して関連性が見いだせるかもしれませんので、すべて保留でございます。




> ちょうど真ん中あたりの岩肌が ⊃ の形になっているのが見えますか?これがイル・ガ・ガという意味「らしい」です。シュメール文字で「水を我らにと祈る」の意味だそうですが、根拠はよく分かりません。私は懐疑的です。




 うーん、見えないことはないのかもしれないけれども、どーかなぁ…ちょっと苦しいかなぁ。でも、「イル・ガ・ガ」はおもしろいですねぇ。シュメール文字なんですねぇ。




 さて、古墳の主軸と埋葬部の向きのお話ですが、本当に難しいですねぇ。主軸はラインと一致することもあるのですが、一致しないことの方が多いです。埋葬部の向きと一致することがあるのか、まだ調べていません。でも、あんなに正確に位置にこだわって古墳を造営しているのに、その向きを適当に決めている訳がないという思いがあります。ましてや埋葬部の向きも、ということになると思います。そこまで視野を広げていければいいのですが。




 最後に、象鼻山灯台図の追加です。やはり尾張氏に関係の深い「氷上姉子神社元宮(名古屋市緑区)」から310.04°に伊吹山が位置するのですが、そのライン上に象鼻山古墳群がありました。ラインは山頂の35m程北を通るようで、ひょっとして最も古い3号墳を通るのではないかと期待できます。つまり、南宮山に連なるこの山塊の中で、何故この場所に古墳群を造ったかというと、そもそも伊吹山が310°(メジャーなのは315°なのですが)に見える位置に氷上姉子神社元宮を祀って、そのライン上に古墳群を造営したのではないかと、あれっ、でも祭神の「宮簀媛命」は日本武尊の奥さんで、御主人は伊吹山で戦って致命傷を負ってしまったのでは?なんでその伊吹山とラインを結ぶんだろう??ということで、やっぱり訳がわからなくなってしまうのでした。以上独り言でございました。






Re: 東谷山頂上部の磐座? 投稿者:MURY 投稿日:2013年 4月18日(木)23時49分22秒 返信・引用

> No.960[元記事へ]




チェリーさん、ご報告ありがとうございました。

久しぶりに、この岩石群を見ることができました。




>  高座山の高蔵神社の岩からここへは 178.17° 南北からは 50m 程ずれています。残念ながら、南北関係にあるとは言い難い結果でした。うーん、残念!




たしかに残念ですね。山頂や神社でなく「磐座」ならどうかと思ったのですが、なかなか実際はうまくかみ合わないものです。




>  この左上の小さな石だけ、他の石と異なって、白黒が混じり合った石でした。少しキラキラしてるかなぁ、花崗岩なのかなぁ?




直方体状の要の石が花崗岩だと、たしか鈴木旭さんの本に書いてあった記憶があります。




投稿された写真の2名目ですが、ここにペトログリフが刻まれているという立場があります。

ちょうど真ん中あたりの岩肌が ⊃ の形になっているのが見えますか?これがイル・ガ・ガという意味「らしい」です。シュメール文字で「水を我らにと祈る」の意味だそうですが、根拠はよく分かりません。私は懐疑的です。




イル・ガ・ガの良い画像がなかなか見つかりませんでしたが、下記リンク先などをご参考にどうぞ。

http://www.kit.hi-ho.ne.jp/iraracs/kan_01/report.htm

本やページによって、記号がよく変わるんですよね・・・。

東谷山頂上部の磐座? 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 4月14日(日)22時05分36秒 返信・引用 編集済

 東谷山頂上部の磐座とよばれる石組について。頂上の尾張戸神社古墳から北東に50mのところにありました(上の写真 ペットボトルは大きさを比較する為に置いてあります GPSも置いてあります)。テーブルストーン(3号墳の天井石)が置かれている場所から15m程奥に入ったところです。




 高座山の高蔵神社の岩からここへは 178.17° 南北からは 50m 程ずれています。残念ながら、南北関係にあるとは言い難い結果でした。うーん、残念!




 でも、人工的な石組のように思えて、要の位置にある大きな石は、直方体に近くなるように割ってあるように見えます。その前面は、垂直方向に立ちあがって、南に面するように、立ててあるようです。下に小さな石をかませているようでした。真ん中の写真のGPSは、北に合わせて置いてあります。

 この左上の小さな石だけ、他の石と異なって、白黒が混じり合った石でした。少しキラキラしてるかなぁ、花崗岩なのかなぁ?

 下の写真は横から撮った写真です。



 この石組が開いている角度を測ってくるのを忘れました。また次の機会にあたってみます。以上です。




Re: 象鼻山灯台図 投稿者:MURY 投稿日:2013年 4月12日(金)00時24分27秒 返信・引用

> No.958[元記事へ]




>PONTAさん




佐々木高明さん、亡くなったんですね…。ご連絡ありがとうございました。




私も、学生のころは時間はあるけど金はない状態でした。

これが社会に出ると、金は(多少?)あるけど時間はない状態になります。時間がない時間がないとブーブー言い出します。

うまくいかないもんですね。

大学生だけはバイトと自由時間のバランスがとれます。楽しみはまだまだこれからじゃないですか!後にとっておきましょう。




>チェリーさん




古墳の主軸の話を出しましたが、埋葬部の被葬者の頭の向きという観点もあります。

ちょうど青塚の話も出たので、下記リンクも参照してみてください。




http://higashinomiya.com/ziro/index.php?itemid=142




墳丘の向きと、埋葬部の向きって意外とカオスだったりするんですよね。











Re: 象鼻山灯台図 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 4月11日(木)00時36分8秒 返信・引用

> No.956[元記事へ]




PONTAさんへのお返事です。




> ちなみに、今の編集部員は第16代目PONTA(2013/04/01~2014/03/31)です。




すごい!としか言いようがありません!!永遠に継承される一族なのですね。

ごめんなさいね、自己紹介させてしまって。でも、これを読んで、私も元気が出てきました!




尾張氏については、私も勉強しようと思います!















尾張氏 投稿者:PONTA 投稿日:2013年 4月10日(水)02時04分43秒 返信・引用

PONTAの説明だけでは申し訳ないので、尾張氏について。




尾張氏については、PONTAでは、

伊服部氏と共に葛城からやってきて、

尾張神社→尾張戸神社→氷上姉子神社→熱田神宮

とその本拠地を移し、日本武の義理の兄の建稲種が、

尾張国のもう1つの勢力の丹羽氏の娘と結婚して尾張国を統一し、

さらにその妹が日本武=大和政権と結びついて、その勢力を拡大したと考えています。

http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/






Re: 象鼻山灯台図 投稿者:PONTA 投稿日:2013年 4月10日(水)01時53分41秒 返信・引用

> No.955[元記事へ]




チェリーさんへのお返事です。




>  それよりも何よりも、一番驚いたのは、PONTAさんって、学生さんなんですか?あの驚異の知識量から考えると、とても信じられません!!




単なる歴女隊(神社&城跡ウオッチャー集団)です。

知識は、先輩方が残してくれた資料やフィールドノートのコピーから得ています。あと、メンバーに春日井市の神社ウォッチャーさんが去年の夏に入ってくれたので、神社については、その子(この4月から高2)にも教えてもらってます。

サイトも私たちではなく、先輩たちが作ったもので、新事実が分かると、現・PONTA編集部員がちょこちょこ訂正しています。15年かけて出来たサイトです。ですから、雑誌に無断で丸写しされると腹が立つ!

ちなみに、今の編集部員は第16代目PONTA(2013/04/01~2014/03/31)です。

http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/






Re: 象鼻山灯台図 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 4月10日(水)00時51分53秒 返信・引用

> No.953[元記事へ]




MURYさんへのお返事です。




> 今回は尾張氏と古墳つながりですね。




 そうなんですよ。今回のねらいはそれでした。




> それぞれの古墳の築造年代と、主軸の向きを比較して、ラインに乗らなかった古墳となにが違うかなど比較もしてみたいですね。




 はい。築造年代がポイントになるようです。去年「尾張氏 志段味古墳群をときあかす」という展示会のシンポジウムを偶然聴講したのですが、最初に白鳥塚古墳が突然そこに造られたという話があって、すごく印象に残りました。古墳群の中で最初にできた古墳が注目かなぁ。

 主軸の向きはすごく難しいです。例えば、真清田神社と尾張本宮山を結んだ直線上に「青塚」があるのですが、この主軸がどこをねらって向いているのか、さっぱりわからないです。でも、おもしろいです。

 象鼻山古墳群のうち、どれがラインと関わってくるのか、一度登って調べてみようと思います。ここも、東之宮古墳も、更には東谷山も、似たような標高の山であることも、興味深いです。

 いろんな位置関係の、案外、大縣神社がポイントかもしれないなという気もします。




 それよりも何よりも、一番驚いたのは、PONTAさんって、学生さんなんですか?あの驚異の知識量から考えると、とても信じられません!!



Re: 妄想OKです 投稿者:PONTA 投稿日:2013年 4月 8日(月)18時17分59秒 返信・引用

> No.892[元記事へ]




MURYさんへのお返事です。




> 山の神信仰と言うと、稲作民の田の神-山の神信仰と、山の民の山の神信仰の二種類で語られることが多いです。

> しかし、佐々木高明氏『山の神と日本人』(2006年)が述べるような焼畑民による「山の神から土地を借り受けるための山の神信仰」もけっこうあったということで、二種類の構図で語るほど単純ではなかったようです。

> 全国画一的に山の神信仰を語るよりかは、地域ごと・時期ごとで個別に見ていったほうが間違いがないのでしょうね。南大河原の山の神信仰にみられる独自性も、そういうことなんだと思います。

>

> それと同じように、縄文時代が~的で、弥生時代が~的という話も、たぶん日本列島ひとくくりにして語ることは難しいのだろうなと。

> 弥生時代はまだ、私もある程度妄想でイメージを持つ部分がありますが、縄文時代についてはお手上げです。遺跡・遺物にいろんな特徴がありますが、そこから浮かび上がるものがなく、確固として言い切れることがないのです。母性社会だったのか、平和だったのか、太陽信仰だったのか、どれも否定肯定できないなあと。







寄付金が無く、活動費不足で、春休み中に内々神社も東谷山も行けませんでした><

一応、進学校なので、校則でバイト禁止><

貧乏人はつらいです。




http://pontyan1997.blog59.fc2.com/blog-entry-366.html

http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/






Re: 象鼻山灯台図 投稿者:MURY 投稿日:2013年 4月 8日(月)01時01分8秒 返信・引用

> No.952[元記事へ]




>象鼻山は岐阜県養老郡養老町にあって、2~3世紀から始まる古墳群があります。




かなり古い古墳群なのでびっくりしました。3世紀台ですか。これは古いですよ。

場所を見て、南宮大社の南宮山の近くということを見て、さらに驚きました。




今回は尾張氏と古墳つながりですね。

それぞれの古墳の築造年代と、主軸の向きを比較して、ラインに乗らなかった古墳となにが違うかなど比較もしてみたいですね。

象鼻山灯台図 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 4月 7日(日)03時05分5秒 返信・引用

 象鼻山は岐阜県養老郡養老町にあって、2~3世紀から始まる古墳群があります。直線が到達したのは三角点のあるピークで、4号墳があるようですが、このすぐ北にもう少し高い142mのピークがあって、古墳群最大の1号墳があります。全長約40m、3世紀末頃の前方後方墳とのこと。

 実際に訪れていませんので、ポイントしたのが1号墳のどの部分かわからないのですが、この1号墳から白鳥塚古墳へは、100.00°でした。愛知県犬山市の白山平という山の頂上部に3~4世紀の前方後方墳(墳長72m)があります。多くの副葬品が出土した「東之宮古墳」というのですが、ここから象鼻山1号墳は260.05°でした。やはり犬山市ですが、尾張二宮である「大縣神社」から象鼻山1号墳は270.00°でした。真西というわけです。

 調子に乗って書いたのが下の図です。

 でも、調子に乗り過ぎのようです。

 すみません、ほとんど岩石と関係ない話でした。独り言がすぎましたです。ごめんなさい。









尾張神社交差点 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 4月 7日(日)00時31分19秒 返信・引用 編集済

 今日も明日も春の嵐で、東谷山に行けません!!

 間があいてしまいますので、独り言を載せます! MURYさん、耳を塞いでくださいね。

 さて、尾張氏の祖といわれる建稲種命を祀る「巌屋神社(内津神社の奥の院)」を探ってみると、気になる直線が引けました。小牧山の南の方にある「尾張神社」から 64.99°です。尾張神社は尾張氏発祥の地ともいわれるのですが、65°はあまりメジャーじゃないし、ここから岩壁の頂上はなんとか見えるらしいけど、巌屋神社そのものは見えないし、どうだかなぁ~と思ったことでした。

 でも、せっかくだから尾張神社を探ってみると、今度は尾張一宮の「真清田神社」から、小牧の「宇都宮神社古墳」を通って、尾張神社を通って、「猿投神社西の宮」に至る 110.04°の直線が引けました。実は、猿投神社西の宮は、近畿地方の最高峰である八経ヶ岳から 45.03°の地点で、とっても大事な場所と思われるのです。ここから 299.83°で、「深川神社古墳」を通って、「白鳥塚古墳」に至ります。深川神社は瀬戸市の中心的な神社で、古墳は境内にあります。白鳥塚古墳は東谷山の西の麓にあって、4世紀に造られた、全長115mの前方後円墳です。

 更に、真清田神社から高座山の「高蔵神社」へは 100.20°でした。110°も100°も、あまりメジャーではないし、どーしたものかなぁと思っていたら、もうひとつの尾張一宮である「大神神社」から尾張神社を通って白鳥塚古墳が 99.96°でした。やっぱり 100°です。大神神社は、奈良の三輪山から44.99°の地点で、大和の人々が移住したといわれます。もひとつ、宇都宮神社古墳のすぐ隣にある「浄音寺古墳」から99.99°で東谷山の「尾張戸神社」でした。

 そして、大神神社-尾張神社-白鳥塚古墳のラインを逆に延ばすと、そこは象鼻山だったのです。(つづく)






Re: 高座山の高蔵神社の岩 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 3月27日(水)00時11分24秒 返信・引用

> No.949[元記事へ]




MURYさん、ありがとうございます。




やはり、頂上部にあるようですね。今度の週末は無理なので、もう少し先になりますが、調べてきます!とっても楽しみです!






Re: 高座山の高蔵神社の岩 投稿者:MURY 投稿日:2013年 3月25日(月)01時42分37秒 返信・引用

> No.948[元記事へ]




これ↓です

超古代系の本では有名な存在です。東谷山でとれない石種だとかペトログリフが刻まれているとか・・・

神社がまつっていたり文献記録があったりするわけではないです。






Re: 高座山の高蔵神社の岩 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 3月25日(月)00時41分59秒 返信・引用 編集済

> No.946[元記事へ]




MURYさんへのお返事です。




「磐座(とみんなに呼ばれているもの)」はストーンテーブル(東谷山3号墳の天井石)のことでしょうか?それだとすると、移設されていますので、意味がないかもしれませんけど?




 と思ったのですが、検索すると、頂上近くの林の中に何かあるようですね!一度行ってみます!!

Re: 続・巌屋神社(内津神社の奥の院) 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 3月25日(月)00時12分29秒 返信・引用

> No.944[元記事へ]




MURYさんへのお返事です。




はい、人が集まり始めていましたねぇ。怪しい人が写真撮っていたら、私だったかもしれません!

天狗岩の情報ありがとうございました。PONTAさんがおっしゃるように、少し離れた場所にあるようですねぇ。撮影ポイントを探してみます。

国道19号線の休憩所から見た、巌屋神社岩壁の写真を載せます。社は見えませんが、頂上にあった柱と石柱がかろうじて見えますでしょうか。






Re: 高座山の高蔵神社の岩 投稿者:MURY 投稿日:2013年 3月24日(日)23時43分47秒 返信・引用

> No.945[元記事へ]




> 岩から庄内川を挟んで東谷山頂上の尾張戸神社古墳までは、179.56°でした。




古墳ではなく、神社から少し外れたところにある「磐座(とみんなに呼ばれているもの)」までならどうなるんでしょうか?

高座山の高蔵神社の岩 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 3月24日(日)23時01分27秒 返信・引用 編集済

高座山の高蔵神社の岩の位置をGPSで測ってきました。測定誤差は5mだと表示されていました。これはかなりよい状態です。でも、GPSの電波は水分に弱いようで、森の中の測定の場合、木々の葉っぱの中の水分で、大きく狂いが生じていることがあります。

しかしながら、前回の測定と比較しても、そんなに悪くないようなので、一応この測定結果そのままを使いますと、

岩から庄内川を挟んで東谷山頂上の尾張戸神社古墳までは、179.56°でした。距離は1.599kmですので、真南からは12mずれていることになります。

う~ん…この数字そのままを考えると、微妙なところですが、南北関係にあるとは、ちょっと苦しいかな?



Re: 続・巌屋神社(内津神社の奥の院) 投稿者:MURY 投稿日:2013年 3月24日(日)22時41分0秒 返信・引用

> No.943[元記事へ]




>kokoroさん




春分の日に登りました。朝7:00に登りました。曇り空の日でしたが、唯一、高座山の山頂から下っている時だけ陽光が差し込みました。

御来迎の碑のあたりで、高座山と東谷山の合間(正確には高座山寄りですけど)から差し込む陽光に出会うことができ、なるほどご来光の山とはかくなるものかと体感できた気分です。




お写真もありがとうございます。このハシゴ登りたかったです(笑)

去年は、社殿がなく石祠だけが岩の亀裂に控えている状態もあったそうですね。この原初状態で見てみたかったです。




>チェリーさん




おお、ニアミスですね。思いついたら吉日、すぐ行くもので・・・

当日、神社も祭礼日だったと思うので朝からたくさん人がいました。庭園の写真撮っている人もいましたが、チェリーさんではなかったですか?(笑)




天狗岩については、下記のブログが詳しいです。

http://blogs.yahoo.co.jp/area19192003/32826079.html

なんとトイレの横の道路上からしか見れないらしいです。私は庭園の奥にある岩肌がそれかなと思っていたのですが、帰ってきてからこのブログを見つけ、まさかの残念です。トイレは使ったのですが。




古事記岩というネーミング、特異だな(≒名付け方としてらしくないな)と私は感じました。

以下の愛知県造園建設業協会のサイトによると、庭園の北に巨石が散在し、それを「こしき岩」と呼ぶとのこと。

http://www.aizoukyo.or.jp/midori_nihonteien01.html

どうやら元来は「こしき岩」で、それを当て字っぽくしたのが古事記岩ではないでしょうか。

古事記岩は岩石同士が重なり合う状態ですので、こしきの構造とだぶらせたのかもしれません。



Re: 続・巌屋神社(内津神社の奥の院) 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 3月24日(日)21時32分31秒 返信・引用

> No.942[元記事へ]




PONTAさん、ありがとうございます。




馬蹄石は案内板のすぐ前にあるのですね。岩盤の中を探していました!また見に行くことにします。




天狗岩は、また探してみますね!






Re: 続・巌屋神社(内津神社の奥の院) 投稿者:PONTA 投稿日:2013年 3月23日(土)01時32分58秒 返信・引用

> No.941[元記事へ]




チェリーさんへのお返事です。




>天狗岩はどれなんだろう…と思ったのですが、よくわかりませんでした。




遠くからでないと分かりません。

撮影には望遠レンズが必要です。




>  すぐ近くの西尾の地にある安祥寺の「馬蹄石」も見に行ったのですが、それもよくわかりませんでした。安祥寺の入口の岩盤は魅力的だったのですが…




入り口の岩盤の右側です。

案内板があるのですぐに分かると思うのですが・・・。

http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/






Re: 続・巌屋神社(内津神社の奥の院) 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 3月22日(金)23時51分1秒 返信・引用

 え!MURYさん、いらしてたんですか!

 私も20日の朝は内津神社を少しだけ訪れました。「内津神社の三大巨石」という言い方があるみたいで、それはどこなんだろうと…天狗岩はどれなんだろう…と思ったのですが、よくわかりませんでした。

 奥の院については、kokoroさんの写真にあるように、以前の姿も見たかったですねぇ。階段も迫力ありますねぇ。




 すぐ近くの西尾の地にある安祥寺の「馬蹄石」も見に行ったのですが、それもよくわかりませんでした。安祥寺の入口の岩盤は魅力的だったのですが…

 いずれにせよ、少しでもお役にたててよかったです!




 高座山の岩もまた訪れるつもりでいます。東谷山頂上の尾張戸神社から真北に位置するかもしれないからです。もう一度GPSを持って、位置決めしたいと思っています。

Re: 続・巌屋神社(内津神社の奥の院) 投稿者:kokoro 投稿日:2013年 3月22日(金)00時32分40秒 返信・引用

 上から見下ろした時の画像も追加します。







http://blog.goo.ne.jp/familyplot1976/e/1bb88fdf42709933a6b33223600d6918






Re: 続・巌屋神社(内津神社の奥の院) 投稿者:kokoro 投稿日:2013年 3月22日(金)00時29分0秒 返信・引用

MURYさんへのお返事です。




 こんばんは。




 もしかすると高蔵山に登ったのは春分の日ですか。古代人もその日にあの磐座で太陽の祀っていたかもしれないですね。




 それはそうと、




> 内々神社の奥の院は、去年ぐらいに新しく建て替えたんですね。まだ新築の木のにおいがしました。

> 個人的には、前の姿を見ておきたかったです。




 下は私が2011年の9月に参拝した時の画像です。




 今は階段になったようですが、当時はゆらゆらする頼りない梯子を登って上に上がりました。鉄骨は古びているし、床板はかなり痛んでいるしで、いつ崩れてもおかしくないような感じでした。もちろん、上でのんびり休憩する気分にはなれなかったです(笑)。













http://blog.goo.ne.jp/familyplot1976/e/1bb88fdf42709933a6b33223600d6918






Re: 続・巌屋神社(内津神社の奥の院) 投稿者:MURY 投稿日:2013年 3月21日(木)20時58分42秒 返信・引用

> No.937[元記事へ]




昨日、高座山と内々神社に行ってきました。




高座山の山頂は、写真で見るより実物のほうが存在感があります。5割増ぐらい。




内々神社の奥の院は、去年ぐらいに新しく建て替えたんですね。まだ新築の木のにおいがしました。

個人的には、前の姿を見ておきたかったです。




チェリーさんの投稿を全面的に参考としました。ありがとうございました。









Re: 続・巌屋神社(内津神社の奥の院) 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 3月15日(金)22時27分5秒 返信・引用

> No.936[元記事へ]




PONTAさんへのお返事です。




> 今回の調査は前に書いたことの繰り返しになりますが、メインは高座神社の磐座調査で、時間があれば、東谷山ピラミッド説(東谷山=ピラミッド、高蔵山=遥拝所)の証明です。




はい。是非読ませていただきます。山にも春の息吹が感じられます。穏やかな晴れた日に歩けるとよいですね!

Re: 続・巌屋神社(内津神社の奥の院) 投稿者:PONTA 投稿日:2013年 3月15日(金)01時52分16秒 返信・引用

> No.935[元記事へ]




チェリーさんへのお返事です。




今回の調査は前に書いたことの繰り返しになりますが、メインは高座神社の磐座調査で、時間があれば、東谷山ピラミッド説(東谷山=ピラミッド、高蔵山=遥拝所)の証明です。

1.内々神社は行ったし、離れているので今回は無理。

2.高座山の山麓までは行ったけど磐座までは行けないと思って前回は行っていない。

3.尾張戸神社は北の道を登って行ったことあるけど、磐座は未調査。

が現状です。




調査結果はPONTAの公式ブログ「PONTA活動日誌」

http://pontyan1997.blog59.fc2.com/

に書きますので、コメントしていただけたらと思います。




http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/






続・巌屋神社(内津神社の奥の院) 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 3月14日(木)23時50分8秒 返信・引用

 PONTAさん ありがとうございました。今度、天狗岩を探してみます。




 誰か行かれる方がみえたらということで、地図を載せます。

 内津神社から北へ車道を600~700m程登って行くと、巌屋神社へ向かう道が右に下ります。「旧妙見宮 奥の院」という大きな看板があります。このあたりは砕石場ばかりで、車道はトラックが走りますので、要注意です。そのまま参道を登って登って一汗かくと、巌屋神社です。鉄の階段を登れば、真新しい社殿に到着します。とても気持ちがよいです。

 さて、巌屋神社をお参りして階段を降りると、右上方に踏み跡が続いていました。もともと稜線まで出るつもりでしたのでここを進んで行くと、30m程登ったところに社がありました。岩の窪みに祀った社で、巌屋神社を小さくしたような感じです。「金正尊」と書いてあるようです(下の写真)。奥の院の奥の院なのでしょうか。不思議な感じがしました。

 ここから道らしい道はないのですが、少し登ると稜線の遊歩道に出ました。この道は整備された道で、NTTの電波塔の横の展望台に続きます(ここに三角点があります)。

 帰りは、遊歩道に出たあたりから少し下って、見当をつけて左にそれると、岩壁の頂上部に出ました。昔何かあったのでしょうか、朽ちた木の柱が立っていました。その脇に、50~60cm程の高さの石柱がたてられていました。「妙法 四生六道法界萬霊」と彫られていました。ここからの眺望が一番です。この日は雨の直前で、残念でしたが。

 ここでこんなことを言うのはおこがましいのですが、写真を撮るときは、ファインダーを覗いたまま後ずさりすることは、是非ともおやめください。クレヨンしんちゃんの作者の方のことがありますし、遥かな昔、私は、名古屋城の石垣から落ちた方を目撃しました。カメラを構えたままでした。恐ろしいことです。

 遊歩道に戻ると、岩を回り込むように下って、参道に戻ります。少し山を歩いて運動してみようかという方にも、調度よいのではと、思いました。以上でございます。









Re: 古事記岩(内津神社) 投稿者:PONTA 投稿日:2013年 3月13日(水)18時49分38秒 返信・引用

> No.933[元記事へ]




チェリーさんへのお返事です。




> PONTAさん、ごめんなさい!9ページでした。




いえいえ。日付で見付けました。




>  上の写真が古事記岩だと思います。下の写真がその裏側(庭園側)からの写真です。




はい、この磐座です。




>  内津神社の本殿の後ろに夢想国師が造ったと伝えられる庭園があって、その後ろに大きな岩尾根が横たわっておりまして、その先っぽから2番目?の岩が古事記岩のようでした。でも、天狗岩はどれだったんだろう?




内々神社は、社標より庭園の案内の方が大きい(下の写真参照)

天狗岩は、鼻のような突起がある岩壁です。

寺社の撮影には広角レンズをよく使いますが、天狗岩は望遠レンズでないと撮れないかと。




>  東谷山へは東側の十軒町からまっすぐ伸びる参道から登りました。昔は東谷橋のすぐ東から車で登れたのですが、確か通行止めになってしまったと思います。歩いてなら行けると思いますが、よくわかりません。山頂の尾張戸神社から中社・南社への道は遊歩道といってよいくらい整備されています。そのまま南へ別の参道が続いているようです。途中「東谷山フルーツパーク」へ降りる道があるようで、こちらから登る人が一番多いんじゃないかなぁと思います。




前は北から登った記憶があります。




http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/






古事記岩(内津神社) 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 3月13日(水)01時21分22秒 返信・引用

PONTAさん、ごめんなさい!9ページでした。

 上の写真が古事記岩だと思います。下の写真がその裏側(庭園側)からの写真です。

 内津神社の本殿の後ろに夢想国師が造ったと伝えられる庭園があって、その後ろに大きな岩尾根が横たわっておりまして、その先っぽから2番目?の岩が古事記岩のようでした。でも、天狗岩はどれだったんだろう?

 東谷山へは東側の十軒町からまっすぐ伸びる参道から登りました。昔は東谷橋のすぐ東から車で登れたのですが、確か通行止めになってしまったと思います。歩いてなら行けると思いますが、よくわかりません。山頂の尾張戸神社から中社・南社への道は遊歩道といってよいくらい整備されています。そのまま南へ別の参道が続いているようです。途中「東谷山フルーツパーク」へ降りる道があるようで、こちらから登る人が一番多いんじゃないかなぁと思います。









Re: 巌屋神社(内津神社の奥の院) 投稿者:PONTA 投稿日:2013年 3月12日(火)03時24分25秒 返信・引用

> No.931[元記事へ]




チェリーさんへのお返事です。




>  高座山を登るには、2011年8月8日に掲示した記事が参考になるかと思います。今ですと、ページの5番をクリックすると開きます。




9でした。参考にさせていただきます。現地ガイドもいるのでなんとかなるかと。




>そこにも載せていますが、定光寺の徳川義直公廟所もいいですよ。すぐ近くの展望台からの眺めもとてもよかったです。




定光寺は先輩の話によると「現地ガイドさんと会う前に行った。朝だったので、湖面を流れる朝霧が幻想的だった。日が昇ると霧が晴れて紅葉が真っ赤に光った」とのこと。




>  東谷山の近くの白鳥塚古墳にも行ったことがあります。でも林の中でしたねぇ。東谷山に登るには、東側からの参道が実に幽玄で、よろしかったことでした。




東谷山は地図で見ると東の工場から登みたいですね。山頂の円墳の上に尾張戸神社があって、そこから南に向かって、中社(白山菊理媛命)・南社(イザナギ・イザナミ)があるのですが、この2社は地図には載っていますが、道が書かれていません。多分、尾根伝いにけもの道を行くのかと。白山菊理媛命、イザナギ・イザナミといえば白山神社、白山神社といえば菊理姫、菊理姫といえば千引き岩。

ただ東谷山は山のあちこちに古墳や磐座があるらしくて、時間的に調査は無理かもです。




添付の写真は定光寺公園の正伝池と内々神社の裏の磐座です。写真の岩の右に「古事記岩」、その右に「天狗岩」があります。どちらも写ってませんが。合成してくっつければいいのでしょうが。「古事記岩」の由来は宮司さんも知らないということですが、天の岩戸か千引き岩か。




内々神社(の奥の院)を建てたのは日本武尊で、大高に戻る時に振り返って内々神社を見た。その時に馬の尾が西を向き、蹄の跡が岩に刻まれた。これが西尾小の近くの馬蹄岩で、西尾小の校章は馬蹄にペンです。










http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/






Re: 巌屋神社(内津神社の奥の院) 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 3月11日(月)23時47分23秒 返信・引用

PONTAさんへのお返事です。




 高座山を登るには、2011年8月8日に掲示した記事が参考になるかと思います。今ですと、ページの5番をクリックすると開きます。そこにも載せていますが、定光寺の徳川義直公廟所もいいですよ。すぐ近くの展望台からの眺めもとてもよかったです。

 東谷山の近くの白鳥塚古墳にも行ったことがあります。でも林の中でしたねぇ。東谷山に登るには、東側からの参道が実に幽玄で、よろしかったことでした。

Re: 巌屋神社(内津神社の奥の院) 投稿者:PONTA 投稿日:2013年 3月11日(月)08時04分58秒 返信・引用

> No.929[元記事へ]




チェリーさんへのお返事です。




>  内津神社は家から20分程のところにあります。




いいなぁ。

春日井市には神社に超詳しい高1の女の子がいるので、春休み中に会いに行って、一緒に高座山へ行ってきます。ついでに内々神社と尾張戸神社へも行けたら再度行きたいです。でも、高座山は電車で行けるけど、内々神社はバスになるから無理かも。タクシーを貸し切れる活動費が欲しいです。

http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/






巌屋神社(内津神社の奥の院) 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 3月11日(月)00時03分40秒 返信・引用

 内津神社は家から20分程のところにあります。奥の院の岩壁が、国道19号線からチラリと見えるのですが、今の今まで訪れてなかったのです!で、今日の午前中にあわてて行ってきました。

 大きな岩壁の上の方にある窪みの前にせり出して、真新しい社が造られていて、その奥に祀られていました。せり出した部分から展望があり、大変気持ちの良い休憩がとれました。行ってよかったです!

 上の写真は岩壁の頂上部です。下の2枚も含めてすべて合成写真です。最近マイクロソフトからフリーの写真合成ソフトを入れたのですが、これがとてもよいのです。ただ、下の2枚はどちらも10枚くらいの写真を合成しているのですが、手持ちでバシャバシャ撮ったのを合わせたので、よく見ると不自然な写真になってしまいました。雰囲気だけはわかっていただけると思って掲示してしまいます!












Re: (無題) 投稿者:MURY 投稿日:2013年 3月 8日(金)01時04分23秒 返信・引用

> No.927[元記事へ]




> 春日井市と言えば、内々神社の磐座が凄いです。




国道沿いにある神社ですよね。

岩の壁があるって聞いていて、いっぺん見てみたいと思ってました。

何度か横の国道を素通りしました。

機会はあったのですが、行っておけばよかったです。



Re: (無題) 投稿者:PONTA 投稿日:2013年 2月28日(木)01時47分54秒 返信・引用

> No.926[元記事へ]




MURYさんへのお返事です。




>高座山の磐座の存在と、高座結御子神社にも磐座があって




「高座山と高座神社」「高座山と東谷山」なら分かるんですけどね。

特に「高座山と東谷山」はピラミッドとその遥拝所ではないかと考えているので。




春日井市と言えば、内々神社の磐座が凄いです。

神社裏の古事記岩とか。

奥の院は岩壁+洞窟?

http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/






(無題) 投稿者:MURY 投稿日:2013年 2月24日(日)22時50分16秒 返信・引用

高座結御子神社の磐座の話、デマを拡散していたら申し訳ないので

いつか稲沢市図書館にもう一度行ってみないといけませんね。

記憶というのは勝手なものですから。。

Re: 高蔵山の巨岩 投稿者:PONTA 投稿日:2013年 2月19日(火)01時18分4秒 返信・引用

> No.912[元記事へ]




MURYさんへのお返事です。




>高座山の磐座の存在と、高座結御子神社にも磐座があって




高座結御子神社の磐座は初耳です。

神社の境内には、昔は7つの円墳があったそうですが、今は3つしかないので、その消えた4つの円墳の石室かもですね。

近くに高蔵貝塚があることから、古代から人が住んでいたことは確かですね。ということは、古代の祭祀場もあったことでしょう。

http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/






(無題) 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 2月19日(火)00時15分12秒 返信・引用

> No.923[元記事へ]




kunittiさん

 画像にいつも「カシミール3D」と入れてあるのは、宣伝するつもりではなく、そういう約束事になっているからですが、インストールしても決して損することはありません!(何といってもフリーソフトです!)

 電子国土が使えますが、これは立体にはならないようです。三部作の解説本を購入すると5万分の1の地図がそろいますが、私は80万分の1の地図を使いたいので山旅倶楽部と契約しています(こちらなら立体になります)。

 先日、真言宗の、熱いというか心のこもったお経を聴く機会があって、ふと感じたのですが、この僧侶の方々は普段の私達と全く違った風景を見ているのではないか、と思いました。大地とか地球とかに、全く違った解釈をしているのではないか…

 同じ景色でも、いろんな解釈をしてみるのがよいのではないかと思っております。

ありがとうございました^^ 投稿者:kunitti 投稿日:2013年 2月18日(月)11時35分59秒 返信・引用

チェリーさん。どうもありがとうございました^^




私も、カシミール3D再度チャレンジしてみようと決心しました。。




24時間で自転し、365日と6時間で太陽を一周する地球のサイクルは、地球上で生活しているものに、とって影響を与え続けています。




言葉がなかなかみつかりませんが、そのなかで人間は生きていることを忘れないようにしたいと、常々思っています。






Re: 高蔵山の巨岩 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 2月18日(月)01時04分23秒 返信・引用

> No.920[元記事へ]




私も高座結御子神社の磐座を探しに行ったのですが、見当たりませんでした…残念!

Re: 善光寺の仁王門 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 2月18日(月)00時56分11秒 返信・引用

kunittiさんへのお返事です。







> たぶん、泥宮-生島足島神社-国分寺は、夏至日の出線で繋がりその先に日の出がある烏帽子岳(これも多分、山頂ではなく鞍部)があると思われます。




 上の画像が「泥宮」からの今年の夏至(2013年6月21日)の日の出、下の画像が日の入です。

 烏帽子岳の南西、標高1480mのところに「大富士神社」というところがあるじゃないですか。その上の方から日が昇るようです。ここから泥宮へ引いた直線の、10m程南に「生島足島神社」が位置しました。直線は信濃国分尼寺の金堂のすぐ北も通るようです。本当に日の出を意味した直線化もしれませんね!太陽の運行に関するラインはあまり調べてないのですが、ここはそうかもしれませんねぇ…(山宮はかなりはずれてしまうようです)

 夏至の頃は、梅雨の季節になってしまいますので、ちょうどその日の日の出を見るのは難しいと思います。でも、この頃の太陽は、一週間くらいはほとんど同じ位置から昇るようですので、その間の晴れた日を狙えば、見れるかもしれません。









Re: 高蔵山の巨岩 投稿者:kokoro 投稿日:2013年 2月17日(日)21時27分19秒 返信・引用

 MURYさん、お返事遅くなりましたが、相互リンクありがとうございます。




> kokoroさんのブログをチェックしだしたのは、伊賀市鍛冶屋の山神遺跡の記事を見てからです。こんなの聞いたことないぞ!?と興奮したものです。




 あれはたどり着くまでに苦労しましたが、その甲斐がありましたよ。機会があれば草のない時期に再チャレンジしてください。一見の価値ありです。




>高座山・高蔵山・高倉山、どれが一番古い表記でしょうね?




 地名の漢字表記は後付けが多いですからあまり気にしないですけど、強いて言えば高倉山でしょうか。高倉下命の因むものとして。




>人工かどうかはナントモ・・・というところです。




 がいして岩石がある場合、単独では見られないですよね。地質というのはかなり広い範囲にわたって連続するものですから、岩のある場所の周囲には他にも多くの岩があるものです。高蔵山というのは與喜山とか三輪山と違って、さほど山中で岩を目にすることのない場所なのですが、そこの山頂で突然、あの巨岩が横たわる姿に出会ったものですから、こっちもエライ興奮しました。「これは人為的だ!」と。(^o^)




> 正式な自治体史だったかどうかすらも忘れたのですが、確か緑色の布の装丁の本だったと思います。




 これは助かります。こういう情報提供が一番、有り難いですね。




> その本の中に、高座山の磐座の存在と、高座結御子神社にも磐座があって




 高座結御子神社に磐座があるというのは初耳です。社殿の建物の下に格納されているのかな。ただ、あそこは群集墳がある場所ですから、それこそ横穴式石室の残骸である可能性が疑われます。




http://blog.goo.ne.jp/familyplot1976/e/1bb88fdf42709933a6b33223600d6918






神体山 投稿者:uzi 投稿日:2013年 2月15日(金)22時12分9秒 返信・引用

インディー・ジョーンズシリーズ第1作「レイダース・失われたアーク」の聖櫃のようなものと解釈しました。(笑)ピントがずれておりますでしょうか?




三輪山自体がクローズアップされ、磐座の方は少し影が薄い気がしておりました。私自身も友人と話をするとき等、神体山でまとめてしまっておりました。




写真は三輪山です。




http://www.geocities.jp/miniuzi0502/index.html






Re: (無題) 投稿者:PONTA 投稿日:2013年 2月15日(金)16時43分8秒 返信・引用

> No.899[元記事へ]




MURYさんへのお返事です。




> >PONTAさん

>そもそも性別という人格神的な発想をもともと持っていたのかと思うところもありますが。




日本語では「山」で、欧州のように女性名詞や男性名詞は無いですね。

あと、他国では男神の太陽神が日本では女神です。

外人から見たら、日本は不思議な国でしょうね。




山の神の補足説明↓

http://pontyan1997.blog59.fc2.com/blog-entry-269.html

http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/






Re: 善光寺の仁王門 投稿者:kunitti 投稿日:2013年 2月14日(木)14時48分7秒 返信・引用

チェリーさん。




>夕日は近くの山の稜線に沈んでしまいますが、朝日は四阿山の山頂近くから昇るようですよ!







ありがとうございます。四阿山といえば、目立つ山ですし何といっても【白山信仰】のお山ですからね。驚きました!




カシミールは、十数年前になるでしょうか…少し使ったんですが挫折してしまいました><




チェリーさん、もしお時間がありましたら、長野県上田市にある生島足島神社の元宮といわれている泥宮から見た夏至と冬至の日の出・日の入りの状況はどうなるかカシミールで調べていただきたいのですが。。。







1994年に、当時高校教諭であった相原文哉さんが、泥宮からの日の出が烏帽子岳山頂から昇るのを確認し、夏至の日の入りを国文八幡社から見て気がついたという当時の新聞があります。

それで、夏至の日の出を見るために行ったのですが、雨降りで失敗しました。




たぶん、泥宮-生島足島神社-国分寺は、夏至日の出線で繋がりその先に日の出がある烏帽子岳(これも多分、山頂ではなく鞍部)があると思われます。

Re: 善光寺の仁王門 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 2月13日(水)23時58分18秒 返信・引用

> No.915[元記事へ]




kunittiさん




> この善光寺の仁王様に、冬至の朝日が【阿形】の仁王様に差し込み、夕日が【吽形】の仁王様に差し込みます。




いや~知りませんでした。面白いですねぇ。夕日は近くの山の稜線に沈んでしまいますが、朝日は四阿山の山頂近くから昇るようですよ!






善光寺の仁王門 投稿者:kunitti 投稿日:2013年 2月12日(火)14時35分59秒 返信・引用

チェリーさん、ほんとお久しぶりです^^




もうご存じかも知れませんが、善光寺の仁王門の仁王様なんですが、通常とは左右逆なんですよ。東大寺の仁王様も同様なんですが…




この善光寺の仁王様に、冬至の朝日が【阿形】の仁王様に差し込み、夕日が【吽形】の仁王様に差し込みます。




なので、わざと阿から吽(始まり~終わり)へと日が差し込むように左右逆に置いたのではないかということです。




そういう考え方で、いろいろな仁王門を見ていくと面白い発見があるかも知れないですね^^









高座山 投稿者:PONTA 投稿日:2013年 2月12日(火)01時47分32秒 返信・引用

登れたのか・・・知らなかった orz




http://pontyan1997.blog59.fc2.com/blog-entry-260.html

http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/






(無題) 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 2月12日(火)00時56分45秒 返信・引用

kunittiさん

 お久しぶりです。駒形駒弓神社は浅間山の北西(314.89°)にあたりました。善光寺の奥の院ともいわれるそうですね。善光寺の位置の秘密に少し近づいたかも!こうやって新しい情報を得て広げていくのが、一番楽しいところです。ありがとうございました。ちなみに、浅間山の反対側の南東には小野神社(武蔵国一宮)があります(134.99°)。

 布引観音へ行くのには、千曲川から急な谷を登るのですが、登り切ったところに釈尊寺の立派な本堂があって、ここから谷を水平に巻く道が続いて到達します。本堂の脇に駐車スペースがあったはずです。kunittiさんの行き方でよかったと思いますよ!




MURYさん

 情報をありがとうございました。順番に調べてみますね。




kokoroさん

 はじめまして。紹介していただいて、ありがとうございました。

 ブログを拝見いたしました。見事な写真がたくさんあって、本当によくわかります。私は愛用のカメラが壊れた直後でしたので、(広角で)満足な画像が撮れなかったのです。皆さんにもkokoroさんのブログを一度見られることをお勧めします!

 高蔵神社に登る道はとても良く整備されていて、地元の方達に大切にされているんだなぁと思いました。途中の「御来迎の碑」から猿投山がよく見えたのを覚えています。冬至の日の出はこのあたりから昇るようですね。

 私はとても変わった調べものをしていまして、いろんな場所を角度で調べています。河内国高安郡の天照大神高座神社は、確かに住吉大社と東西関係にあるようです。もうひとつ、不思議なことに、ここから高蔵神社は150kmくらい離れているのですが、60.11°になるようです。それから、熱田神宮のすぐ北にある高座結御子神社は三重県の多度神社の真東(90.01°)になりますねぇ。…といった具合です。以上御参考までにというか何というか…

   

Re: 高蔵山の巨岩 投稿者:MURY 投稿日:2013年 2月12日(火)00時48分37秒 返信・引用

> No.911[元記事へ]




kokoroさん、リンクのご連絡ありがとうございます。

勝手気ままにリンクしてしまうもので・・・こちらこそ失礼しました。当方も相互リンクに移動させていただきました。




kokoroさんのブログをチェックしだしたのは、伊賀市鍛冶屋の山神遺跡の記事を見てからです。こんなの聞いたことないぞ!?と興奮したものです。

いちど山神遺跡の現地の山のふもとまで足を運んだのですが・・・夏真っ盛りで道が草で消えていておっかなかったのでまだ見れてません。




高座山・高蔵山・高倉山、どれが一番古い表記でしょうね?

山頂の岩石群ですが、写真で見た感じでは、私も石室石材には見えないですね。人工かどうかはナントモ・・・というところです。




昔の記憶で勘違いがあれば申し訳ないのですが、たしか愛知県稲沢市の中央図書館の1階で高蔵寺の村か町に関する郷土資料があって手に取ったことがあります。

正式な自治体史だったかどうかすらも忘れたのですが、確か緑色の布の装丁の本だったと思います。その本の中に、高座山の磐座の存在と、高座結御子神社にも磐座があって両者を共通させているような記述が載っているのを見た記憶があります。でも、その時は問題意識が薄くざっと読み飛ばしてしまいました。記述自体は2~3行レベルだったと思います。

すでにこのことをご存じだったらすみませんが一応参考になればと思います。



高蔵山の巨岩 投稿者:kokoro 投稿日:2013年 2月11日(月)21時19分0秒 返信・引用

 MURYさん、お邪魔します。

 チェリーさん、はじめまして。kokoroと申します。




 じつは拙ブログでチェリーさんが2011年8月8日に春日井市の高蔵山にある高蔵神社という神社について投稿した記事を紹介しております。この神社が高蔵山の山頂にあることは『尾張国名所図会』で知ったのですが、何せ山の半分が航空自衛隊の高蔵寺分屯基地になっているので、もう跡形もなくなったものと半ば探訪は諦めていました。したところ、ちょうど良いタイミングであの記事が拝見できたので、例の磐座ともども尋ね当てることができました。とても感謝しています。<(_ _)>




 私のブログでは高蔵神社が、河内国高安郡の式内社、天照大神高座神社の元社で、高蔵山は古代人が春分の日に昇る太陽を祭祀した場所ではなかったかと論考しております。ご興味があればご一読ください。




★ MURYさん、拙ブログにリンクしていただいてありがとうございます。って、あまりにも遅すぎますが、遅ればせながら当方からもリンク張らせていただきます。ご一報いただければ、すぐにでもリンクさせていただいたのですが、、、




 

http://blog.goo.ne.jp/familyplot1976/e/1bb88fdf42709933a6b33223600d6918






(無題) 投稿者:MURY 投稿日:2013年 2月11日(月)00時26分8秒 返信・引用

>ウージーさん

>たしか、山の神の石碑と墓石のまつり方が、同類のようだと考察されてました。




懐かしいです。確認してみたら2004年の12月でした。もう8年以上前なんですね。。

山の神も墓石も、岩石が人の思いを滞留させるポイント地点ではあるが、ただしその実情はケースバイケースかもという課題点は、あの頃とあまり変わっていません。

そして、ウージーさんが提起された今回の疑問は、私も実に長年気になっていたテーマです。

よく「御神体」「神体石」「神体山」といった言葉が使われます。これを聞いて、実はけっこう人によって抱くイメージが違うのではないでしょうか。現代人だけでなく、昔の人々も各々使う定義が違った可能性があります。

「体」というからには、ご神体や神体石、神体山は神そのものなのか。それとも依代的なイメージなのか。結局は霊肉分離か霊肉不分離かという議論と絡む話なのですが、三輪山の古墳時代の磐座祭祀ということだけで限定すれば、この当時は「魂」の思想があったと推測される時期ですから、「体」は入れ物で、「魂」言い換えれば「神の本体」は別にあって移動できる存在だったと思われます。

時代は違いますが、仏を鏡に彫って礼拝する「御正体(懸仏)」というものがあります。礼拝対象として把握されることが多いですが、奉納品のように祭祀遺跡から出土することもあります。仏そのものなら奉納品にならないと思います。これは「体」で、仏が御正体に宿る媒体だからこそ、礼拝の道具にもなり奉納の道具にもなるのだと思います。

また、全国に「胎内くぐり」というものがあります。穴をくぐることで霊験を得る行場ですが、胎内は体であり、実際に「体内」という字をもつ胎内くぐりもあります(福島県本宮市の岩角山岩角寺)。ここでも「体」は、内部に何かを包み込む入れ物であり、人を内部に通らせる空間として機能しています。

話が遠回りになりましたが、何が言いたいかと言うと、これらの「体」は、入れ物・空間的な意味合いを持った言葉なのではないかということです。三輪山の神体山という表現も、神そのものという現代的イメージで受け止めるよりは、神が内部に宿る空間という意味合いで把握する必要があるのではないかということです。もっとざっくり言ってしまえば神域という意味と一緒です。

山は神のテリトリーであり、自然がおりなす結界であり、岩石にたとえるなら磐境のようなもの。そんな山中に点在する磐座は、神のテリトリーの中で神に会えると信じられたポイントと解すると、今回の疑問の1つの答えになるのではないか・・・そんなことを私は思いました。

スミマセン書いていたら勝手に盛り上がってしまい長くなりました。







>チェリーさん

>MURYさん、それはどこの岩なのですか?




いくつかありますよ。




・宮城県白石市に神石白石という石があって、同県仙台市に根白石という石があって、地中でつながっているらしい。

・石川県白山市の石の木塚の石の根は、能登石動山まで続いているという。

・愛知県名古屋市東区物部神社の石神(石仏サマ)を石で叩くと、西方に離れた場所にある別の石でカーンと金属音が鳴るという。

・京都府京都市北区の女夫岩は、北方に離れた柊野ダムにある岩石と地中で綱がtぅているという。




地中で深い根を張っていて、どこか遠くの場所とつながっている系の話です。別の場所への抜け道が隠されているという話なら、三重県志摩市の天の岩戸(恵利原の水穴)が伊勢神宮とつながっているという話や、京都市知恩院の瓜生石の地中に二条城への抜け道が隠されているという話などもありますね。こういう伝説上つながりがあるもの同士が、位置的にもつながりがあるということであればすごいと思います。

詳しくは私のサイトにUPしているexcelの岩石祭祀事例集成表を見てもらうと、フィルターで抽出できるようになっていますのでご参考にしてください。




>kunittiさん




私が集成したデータをざっくり紹介します。




長野県

・名前のついている岩石 61例

・祭祀・信仰に関係する岩石 うち31例

・狭義の磐座(神宿る岩石)うち5例




新潟県

・名前のついている岩石 12例

・祭祀・信仰に関係する岩石 うち7例

・狭義の磐座(神宿る岩石) うち0例




全国平均

・名前のついている岩石 48.6例

・祭祀・信仰に関係する岩石 うち24.6例

・狭義の磐座(神宿る岩石) うち7.6例




私が集成したデータも、別に微に入り細を穿つものではなく粗が多いので聞き流しレベルで良いのですが、長野県は名前のついている岩石は全国平均より多いが、磐座は全国平均より若干少なめ。でも極端なほどではない。

新潟県はたしかに少ないと言っていいかも。磐座はゼロでした。といってもおっしゃるように、たぶんまだ知らないだけだと思います。本当、知らない例が次から次に出てくるので・・・。






私は、長野県といえば諏訪七石や雨境峠祭祀遺跡で、いわゆる「磐座」と呼ばれている岩石は普通にあるかなといった印象でした。かつてイワクラ学会がイワクラサミットin茅野をしていますしね。




長野県って… 投稿者:kunitti 投稿日:2013年 2月 9日(土)14時43分56秒 返信・引用

長野県、新潟県は磐座が極端に少ない地域だと思います。。。ただ知られていないだけかもですが^^;




善光寺周辺を探し回っても、

善光寺北側にある地附山周辺に「謙信の物見岩」、善光寺奥の院といわれた、「駒形駒弓神社の磐座」

善光寺西側の旭山山頂付近にある「かぶと磐」ぐらいなもの




しかし、駒形駒弓神社以外は、ただ岩があるというだけです。




名前の付いた岩はありますが、磐座として存在するものはとても少なく、磐座の空白地帯みたいだと常々思っています。




布引観音へは、一度行ってみたのですが、裏道へ行ってしまい、車一台がやっと通れる、恐ろしく険しい道を通り山上の集落へ出てしまって断念した思い出があります。




川の方から上がっていくんですね…^^;

いつかまた行ってみたいです。











Re: (無題) 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 2月 6日(水)23時37分53秒 返信・引用

> No.906[元記事へ]




> >善光寺穴(昔、善光寺が火災にあったときに、ここから煙がでたそうです!)




> これは「遠いところ同士がつながっている」伝承ですね。穴はわかりやすいですが、岩石もあるんですよ。どこどこの石を叩けば、どこどこの石で音が響くとか・・・。




MURYさん、それはどこの岩なのですか?




善光寺については、そもそも、それ自体の位置が苦戦です!思い当たるのは、皆神山と妙高山を結んだ線上になることですねぇ…でも、何か新しい情報を得て、もう少し見つかるのかもしれません(高野山のときがそうでした)。あきらめずに気長に追ってみようと思います。




葛飾区の「立石」の祟りについて、恐ろしいですねぇ。最近、大好きなMUBOOKSの「黒又山の謎」という本を読みました。本のうしろの方で、調査隊のメンバーが次々と不幸におそわれる部分がありました!とても恐ろしかったです!!






人々の心の動き 投稿者:uzi 投稿日:2013年 2月 5日(火)23時16分38秒 返信・引用

伊勢神宮の遙拝所の石

大きな二つの石は、内宮・外宮、小さいのはその摂末社?

なんて妄想を・・・




枚岡神社の遙拝所の石

同じ様な大きさの石が、方形に並んでいるので、

私も見た時「岩境」という言葉が頭をかすめました。







私がHP「神社参拝記」を始めた頃、「山の神」で検索していて、

MURYさんの岩石祭祀学提唱地にたどり着いたのでした。

たしか、山の神の石碑と墓石のまつり方が、同類のようだと考察されてました。




大神神社の祭祀のしかたを考えた場合、三輪山はお山自体が御神体だとよく言われますが、ならば三輪山中に存在する複数の磐座はどう理解すれば良いのか。磐座の上とか前とかに社殿が建てられている場合は、磐座を神跡と考えればよいのでしょうけど。




神宮遙拝所は多数の神社で目にします。社殿形式もありますが、私が見た範囲では石碑が多い気がします。石碑の前に立てば、伊勢の方角を向くように建てられているのがほとんどですが、方角にこだわっていない遙拝所もあります。出張所と考えれば良いのだろうか?いや、出張所は御分霊をお祀りしている神明社ではないのか?

神社参拝をしておりますと、色々考えさせられます。

http://www.geocities.jp/miniuzi0502/index.html






(無題) 投稿者:MURY 投稿日:2013年 2月 3日(日)20時21分43秒 返信・引用

>チェリーさん




ありがとうございます。がんばります。




>善光寺穴(昔、善光寺が火災にあったときに、ここから煙がでたそうです!)




これは「遠いところ同士がつながっている」伝承ですね。穴はわかりやすいですが、岩石もあるんですよ。どこどこの石を叩けば、どこどこの石で音が響くとか・・・。チェリーさん、もしその2つの岩石同士に位置関係が指摘できたら面白いと思いませんか?

善光寺と布引観音も両場所とも歴史的なつながりがあるので、位置関係に相関関係があれば説得力が増しますね。




>ウージーさん




石荒神社の写真も載せておきます。

右の祠は野上神社で別の神社です。石荒神社は左の岩石そのもので祠はありません。

後ろはのどかな若草山と鹿のとりあわせ。石巡りしていてなかなか味わえない不思議な感じでした。




春日大社はこうみると伊勢神宮境内の石積みと同じような磐境風の祭祀施設が多いですね。岩石を礼拝ポイントとしているのは間違いないですが、岩石に神が来臨するのか、岩石を通して自らの思いを遠方の神に届けるのか。

かなり以前、この掲示板で墓石に対する礼拝について同様の疑問を呈したこともあるのですが、遥拝とは一言で言えど、その心の動き方は人によって違うのではないかと難しい問題を抱えているようです。






Re: (無題) 投稿者:uzi 投稿日:2013年 2月 3日(日)13時33分57秒 返信・引用

> No.903[元記事へ]




> この記述のまま引用してください。

ありがとうございます。了解致しました。




> ・赤童子出現石

> ・子授石(水谷神社の社殿向かい)

> ・水谷神社(添付の写真)

> ・石荒神社(若草山の裾)

> ・御蓋山石敷遺構(禁足地。未訪)




子授け石は、石組みの形を見た時、何故か納得しました。




>水谷神社(添付の写真)

写真ありがとうございます。




> ・石荒神社(若草山の裾)

これは知りませんでした。メモしておきます。




列記されておられないものの写真をアップ致します。




1番目の写真:龍王珠石【りゅうおうじゅせき】

2番目の写真:伊勢神宮遙拝所にあった石組み

3番目の写真:枚岡神社遙拝所にあった石組み




龍王珠石は、奈良名所絵巻(宝永二年)に出ているそうです。




uzi










http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






布引観音 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 2月 2日(土)23時38分6秒 返信・引用

 長野県小諸市 行基さんの創建です。断崖絶壁にかかる観音堂ということで、去年の夏に行きました。

 「牛に引かれて善光寺参り」という伝説の発祥地だそうです。上の写真の岩山の裏側のとても上の方にあります。よって、岩山の急斜面の谷を登ることになります。途中、馬岩や牛岩や善光寺穴(昔、善光寺が火災にあったときに、ここから煙がでたそうです!)が見られます。上まで登りきると、岩をうがった道が谷を巻きます(真ん中の写真)。迫力のある足組の上に鎮座する観音堂(下の写真)のはずでしたが、樹木が遮ってうまく写せませんでした。

 観音堂の横に穿たれた洞窟を抜けて頂上に行けるのだそうです。知りませんでした!とてつもなく残念!また行けるのかなぁ…

 善光寺との位置関係はわかりませんでした。もう少し調べてみましょう。




 MURYさんこそ、岩石祭祀研究の本流中の本流だと思いますよ!乏しい知識の私ですが、そのことはわかります。

 












(無題) 投稿者:MURY 投稿日:2013年 2月 2日(土)00時49分37秒 返信・引用

>チェリーさん




私もなかなか同志が見つからなくてですね・・・10年ぐらいホームページやっていたら同じことやっている人と出会うんじゃないかと思っていたんですけどね。

同じ石好きの中でも、派閥・・・じゃないや、けっこう趣向が人によって違うので。私が異色なのかなあ。狭い業界の中でも十人十色だということを実感しております




>ウージーさん




私のサイトで以前公開していた春日大社の事例群を列挙するとこんな感じです。




・赤童子出現石

・子授石(水谷神社の社殿向かい)

・水谷神社(添付の写真)

・石荒神社(若草山の裾)

・御蓋山石敷遺構(禁足地。未訪)




紀伊神社・牧岡神社のは知りませんでした。紀伊神社の辺りから御蓋山頂上に至る山筋に石敷遺構が隠されているらしいですが・・




>この情報、私のHP(山ノ神memo)に掲載させて頂きたいのですが?

>当然出典は明記させて頂きます。




いいですよ!といっても孫引きになってしまうので、正確を期するため野本先生の著書から、三輪の山の神祭りの該当箇所をまるまる転記します。




――以下引用――




祭場に到着し、折り掛け、洗米、餅、魚、野菜、果物、塩水などを簾の上に供え、神職が農作物の豊穣と山仕事の安全を願う祝詞をあげる。




――以上引用――

野本寛一『石の民俗』雄山閣 1975年 より




この記述のまま引用してください。

山仕事の安全を願うようになったのは、茶やみかんなど山の中で農産物を生産するようになってからで、元来は田の豊穣のみの祈願事だったと推測されています。また、神職が山の神祭りに参加するようになったのは明治時代以後といわれています。祭祀も世の移り変わりの影響を受け変遷するものですね。






春日大社の岩石祭祀 投稿者:uzi 投稿日:2013年 1月26日(土)08時09分36秒 返信・引用

>MURYさん




>春日大社の「磐座」・・・確かこれは、有料エリア内の石段途中にあるものですよね?




おっしゃる通りです。ただし、無料エリアからでも見ることが出来ます。

アップした写真は、境内の西に並んだ三つの門の内、たしか清浄門から写したものです。(内侍門ではなかったと思います。今度行ったら確認します。)

私も、有料エリアに入ったことありません。(笑)




春日大社は、南門の前にある出現石、紀伊神社横の龍王珠石(【りゅうおうじゅせき】と読むようです。)など、けっこう岩石祭祀場があり認識を新たにしました。そうそう枚岡神社等の遙拝所にも岩石が使われていました。摂社水谷神社の社殿の下にある磐座は見逃しました。

(T_T)(今度行ったら必ずチェックしなければ。)

春日大社の摂末社と岩石祭祀の情報をHPにまとめたいと思っているのですが・・・







>PONTAさんがUPされた山の神の写真は、藤枝市高草山三輪地区の山の神です。

この竹で組まれた簾はご推察のとおり神饌棚です。洗米・餅・魚・野菜・果物・塩水・折り掛けを供えるらしいです(野本寛一氏『石の民俗』より)




この情報、私のHP(山ノ神memo)に掲載させて頂きたいのですが?

当然出典は明記させて頂きます。

http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






Re: (無題) 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 1月26日(土)00時51分9秒 返信・引用

> 噂があったんですか(笑)良いですねその情報ネットワーク。

> そんな友を私も持ちたいです。




 いいえ、怪しげな本によく書いてあるとか、そんなのです。私の友人でこの手の話を理解してくれる人は皆無です!ただ、中学3年の時の副担任の先生は応援してくれてるなぁ…

 去年、たまたま最先鋭的九州王朝説の方たちの前で説明する機会があったのですが、反応は薄かったです!残念!!

 富士山の真西が出雲になるとの噂もあるのですが、それは間違いです!出雲より南にずれてしまいます。粟鹿神社(但馬国一宮)だったら真西なんですけど…






(無題) 投稿者:MURY 投稿日:2013年 1月20日(日)20時36分47秒 返信・引用

>PONTAさん




先の投稿で紹介した佐々木高明氏によれば、山の神が田の神となった時に、田の神が女神と明示する民俗例がほとんどみられないことや、田の祭りでは女性が着飾って田植えに奉仕することが、女性を忌避するとされる山の神信仰と合わない一面があることを指摘しています。

山の神に元来仕えていたのは斎女で、それが後世に斎女が山の神と混同・同一視され主客の逆転が起こったという説や、山の狩猟民による純粋なエネルギー誇示が後世に性信仰や性のタブーと織り交ざり山の神=女神になったという説を紹介していますが、結局結論はよく分からないと言っています。

山の神が男性か女性かという性別の話も奥が深いですね。そもそも性別という人格神的な発想をもともと持っていたのかと思うところもありますが。




>チェリーさん

>諏訪大社下社本宮と鹿島神宮の位置に東西関係があるとの噂があったのですが、




噂があったんですか(笑)良いですねその情報ネットワーク。

そんな友を私も持ちたいです。

Re: 小山観音 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 1月14日(月)23時03分55秒 返信・引用

> No.889[元記事へ]




今さらながらですが、みなさん あけましておめでとうございます。




MURYさん 今年も妄想をたくさん送ることになると思いますが、よろしくお願いいたします。




PONTAさん ありがとうございました。




> 川と川の合流点には神社を祀るようです。




「広瀬神社」は法隆寺の近くですね? 賀茂御祖神社・丹生神社の場所はそのものずばりですねぇ。




> 平野仁啓『日本の神々』(講談社現代新書)の「川と神社」(p.165~172)に書いてありました。




読んでみます。少しでも勉強しないと皆さんについていけないです。私の頭では、落合・川合・広瀬とくると中日ドラゴンズのOBを連想してしまいます…

ついでに鹿島もOBです。




で、やっぱり妄想なんですが、諏訪大社下社本宮と鹿島神宮の位置に東西関係があるとの噂があったのですが、やっぱりありました。諏訪大社下社本宮から90.1°で鹿島神宮です。鹿島神宮から諏訪大社下社本宮ですと271.6°と大きくずれてしまいますので、あくまで諏訪大社のほうが元になっていると思われます。以上不思議なお話でした。

話が 投稿者:PONTA 投稿日:2013年 1月14日(月)22時25分20秒 返信・引用

岩石とは関係ない方向に進んでいますので、書き込みは以上にしますね。

失礼しました m(_ _)m

http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/






Re: 妄想OKです 投稿者:PONTA 投稿日:2013年 1月14日(月)22時24分12秒 返信・引用

> No.895[元記事へ]




MURYさんへのお返事です。




「山の神」には、

(1)山麓の稲作民の田の神-山の神信仰の「山の神」

(2)山の民の「山の神」

(3)鉱山の「山の神」(「鉱山の神」の略称。金山彦&姫命)

(4)大山祇神

(5)木花咲耶姫命

があります。




(1)女神

(2)女神

(3)夫婦神

(4)男神

(5)女神




なぜ、記紀では、山の神(一般家庭では奥様の事)を男神だとしたのか不明です。(太陽神を女神とした理由も不明ですし、月神については男女のどちらかであるか書いてない。)しかも、大山祇神は山の神であると同時に海の神でもあります。ますます意味が分からない。




(1)の田の神は、田んぼの横に植えた桜の木に依るので、(5)のイメージに近いですね。

富士山の神が(5)なのは、富士山が活火山だからだそうです。噴火がイザナミ(女神)の死を連想させるから、火山の神は女神なのだとか。




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Re: 妄想OKです 投稿者:MURY 投稿日:2013年 1月14日(月)21時21分36秒 返信・引用

> No.894[元記事へ]




一般的には(1)が多いんでしょうねえ

(2)~(3)はサブ的に位置づけられることが多いような印象

(4)~(5)のつもりで語る方は神話で頭いっぱいかも。神名のままで話せばいいじゃんと思います。



Re: 妄想OKです 投稿者:PONTA 投稿日:2013年 1月14日(月)17時24分40秒 返信・引用

> No.892[元記事へ]




MURYさんへのお返事です。




「山の神」には、

(1)山麓の稲作民の田の神-山の神信仰の「山の神」

(2)山の民の「山の神」

(3)鉱山の「山の神」(「鉱山の神」の略称。金山彦&姫命)

(4)大山祇神

(5)木花咲耶姫命

があります。




他にもあるかもしれませんが、ある人が「山の神」と言った場合、上の(1)~(5)のどれかを指すことが多いです。どれを指して語られてるのか、最初に確認しておかないと、話があいません。

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式年遷宮特別参宮章! 投稿者:PONTA 投稿日:2013年 1月13日(日)23時48分37秒 返信・引用

いいなぁ。

某霊能者(某週刊誌によると、某政治家の資金源らしい)いわく、普通の人が伊勢神宮へ行っても、神の力を10%しか受け取れないそうです。これは、玉垣が霊気が漏れるのを防いでいるからだそうで、玉垣の中に入れば、90%受け取れるそうです。中に入るには寄付をして式年遷宮特別参宮章をもらえばいいです。お金の無い人は、式年遷宮特別参宮章を持っている人と同伴で入ればいいです。




【協賛員】奉賛金額1,000円~4,999円




……特別参宮章付き絵葉書(1回のみ有効、参拝位置は外玉垣南御門内)







【3級賛助会員】奉賛金額5,000円~9,999円




……白色の特別参宮章(1回のみ有効、参拝位置は外玉垣南御門内)、式年遷宮記念絵葉書セット







【2級賛助会員】奉賛金額10,000円~49,999円




……黄色の特別参宮章(平成28年まで有効、参拝位置は外玉垣南御門内)、式年遷宮記念絵葉書セット、扇子、広報誌







【1級賛助会員】奉賛金額50,000円~99,999円




……黄色の特別参宮章(平成28年まで有効、参拝位置は外玉垣南御門内)、式年遷宮記念絵葉書セット、扇子、広報誌







【3級有功会員】奉賛金額100,000円~499,999円




……青色の特別参宮章(平成30年まで有効、参拝位置は中重御鳥居際)、式年遷宮記念絵葉書セット、感謝状、卓布(小)、広報誌







【2級有功会員】奉賛金額500,000円~999,999円




……青色の特別参宮章(平成30年まで有効、参拝位置は中重御鳥居際)、式年遷宮記念絵葉書セット、感謝状、卓布(小)、広報誌







【1級有功会員】奉賛金額1,000,000円~1,999,999円




……赤色・錦ケースの特別参宮章(平成35年まで有効、参拝位置は内玉垣南御門外)、式年遷宮記念絵葉書セット、感謝状、卓布(大)、広報誌







【特別会員】奉賛金額2,000,000円~4,999,999円




……赤色・錦ケースの特別参宮章(平成35年まで有効、参拝位置は内玉垣南御門外)、式年遷宮記念絵葉書セット、感謝状、卓布(大)、広報誌







【名誉会員】奉賛金額5,000,000円~9,999,999円




……赤色・錦ケースの特別参宮章(平成40年まで有効、参拝位置は内玉垣南御門外)、式年遷宮記念絵葉書セット、感謝状、卓布(大)、広報誌







【特別名誉会員】奉賛金額10,000,000円以上




……赤色・錦ケースの特別参宮章(平成45年まで有効、参拝位置は内玉垣南御門外)、式年遷宮記念絵葉書セット、感謝状、卓布(大)、広報誌







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妄想OKです 投稿者:MURY 投稿日:2013年 1月13日(日)23時28分57秒 返信・引用

山の神信仰と言うと、稲作民の田の神-山の神信仰と、山の民の山の神信仰の二種類で語られることが多いです。

しかし、佐々木高明氏『山の神と日本人』(2006年)が述べるような焼畑民による「山の神から土地を借り受けるための山の神信仰」もけっこうあったということで、二種類の構図で語るほど単純ではなかったようです。

全国画一的に山の神信仰を語るよりかは、地域ごと・時期ごとで個別に見ていったほうが間違いがないのでしょうね。南大河原の山の神信仰にみられる独自性も、そういうことなんだと思います。




それと同じように、縄文時代が~的で、弥生時代が~的という話も、たぶん日本列島ひとくくりにして語ることは難しいのだろうなと。

弥生時代はまだ、私もある程度妄想でイメージを持つ部分がありますが、縄文時代についてはお手上げです。遺跡・遺物にいろんな特徴がありますが、そこから浮かび上がるものがなく、確固として言い切れることがないのです。母性社会だったのか、平和だったのか、太陽信仰だったのか、どれも否定肯定できないなあと。

よく神話学的な方向から縄文時代の世界観について語られる向きがありますが、私自身はどうしても考古脳なもので、考古資料ではなく形のない資料を使って縄文時代の形のない世界を語るのが腑に落ちなくて。でも、そのイメージが意外と受け入れられているんですよね。とにかく縄文時代はわからないことが多すぎるので私は思考停止で生きています。これも1つの立場です。

こんな感じで、みなさんそれぞれの主観と立場を表明されて、全然いいんじゃないかと思います。







>PONTAさん




私の手元に、式年遷宮特別参宮章なんてものがあります。式年遷宮に協賛した人がもらえる御垣内特別参拝の許可証です。

知人から、行かないからと貰ってしまいました。私が協賛したわけではないので使うのが恐れ多い(協賛した本人しか使っちゃダメでしょ)というか確実に浮くので使う機会がありません。

そんなことを思い出しました。







>ウージーさん




春日大社の「磐座」・・・確かこれは、有料エリア内の石段途中にあるものですよね?

存在は知っていましたが、私は無料エリアしか歩いていないのでこれは見ていないのです。ケチらず行けば良かったと、ここに限らずいつも思います。




PONTAさんがUPされた山の神の写真は、藤枝市高草山三輪地区の山の神です。

この竹で組まれた簾はご推察のとおり神饌棚です。洗米・餅・魚・野菜・果物・塩水・折り掛けを供えるらしいです(野本寛一氏『石の民俗』より)




あと、獣骨を供える洞窟については「珍寺大道場」さんのサイトにUPされているのでご紹介します。

http://www41.tok2.com/home/kanihei5/skeletoncave.html

ここのサイトの方がおっしゃるように、人が生み出すエネルギー、思いの重みに私は壮絶さを感じます。



m(_ _)m 投稿者:uzi 投稿日:2013年 1月13日(日)20時37分30秒 返信・引用

>PONTAさん




>どうなんでしょう?

>「縄文人=未開の野蛮人、弥生人=文化人」というイメージでしょうか?




私、縄文人が、野蛮人とは思っておりません。火炎型土器の造形なんて、すごいですもの。

先にお断りしたとおり、私の勝手な想像、いや妄想なんです。

弥生人は、神にお米(収穫物)を供える。縄文人は、鹿や猪(収穫物)を神に供え、収穫に感謝する。そんなイメージで書き込みしました。妄想を、書き込んでは駄目ですね。

PONTAさん、MURYさん、申し訳ございません。




uzi

http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






Re: 新年のご挨拶 投稿者:PONTA 投稿日:2013年 1月13日(日)18時41分38秒 返信・引用

> No.886[元記事へ]




uziさんへのお返事です。




> 諏訪大社では、昔は数十頭の鹿や猪の頭をお供えしたそうです。ウサギさんは、お尻の方から頭にかけて串刺しにして丸ごとお供えしたようです。(今は、剥製を使い数もずっと少ないようです。)

> どちらも縄文の臭いのするお祭のようですね。




どうなんでしょう?

「縄文人=未開の野蛮人、弥生人=文化人」というイメージでしょうか?




縄文人にしたら、動物が神、あるいは、山の神の使いであって、大切な存在です。

神を神にささげるって???

そもそも、神にささげるとか、生贄とかって、中国人の発想でして、中国の文化に影響された弥生人の方が残酷、残虐な行為をしているように思われます。そのさいたるものが戦争です。縄文人が好む「和」の発想とは異なります。

私には「縄文の臭いのするお祭」ではなく、「中国のお祭」に見えます。




静岡の山奥では、犬頭霊神、つまり、山犬=オオカミの頭蓋骨を家の神棚に神として祀っていたそうで、これは縄文的かも。その頭蓋骨を「神社に奉納する」というのは、神社が出来てからの時代の話であって、中国文化の影響を受けてからの話だと思いますが、このへんは詳しくないので、詳しい方によるフォローをお願いします m(_ _)m




PS.諏訪大社の話をすれば、天照大神が大国主命に国譲りするように迫った時に大国主命の次男・建御名方命は反対したものの、武甕槌命と相撲をして両手をもぎ取られ、諏訪まで命からがら逃げ、以後は諏訪から他の土地へ出ないと誓って、諏訪大社の神になったそうです。そして、御頭祭では鹿の生首を75、諏訪神=建御名方命に捧げていました。武甕槌命を祀る鹿島神宮や、鹿島神=武甕槌命が鹿に乗って赴いたという春日大社では鹿が神獣扱いされて、殺傷禁止です。もうお分かりでしょうが、鹿を殺すのは、諏訪神(建御名方命)による鹿を大切にしている神(武甕槌命)への復讐です。(憎い人を殺せないから、その人が可愛がっているペットを殺すようなもの。)75頭というのは、多分、最期は、武甕槌命軍75人:建御名方命1人で、取り囲まれて、押さえつけられ、手をもぎ取られたりして殺されたのかなと想像しています。(「諏訪の神になる」「諏訪から出ない」というのは、諏訪で殺されて、諏訪に埋められたということでしょう。)「諏訪大社七不思議」の1つに「耳裂鹿」があります。これは「生贄の鹿の中に、必ず耳が大きく裂けた鹿が1頭いる」というものです。多分、建御名方命が最期に口で武甕槌命の耳にかみついた(「誓約するから、言うから、耳を近くへ」とでも言って誘った)のでしょう。耳裂鹿=武甕槌命だと思います。だいぶ妄想部分が多くなりましたので、これまで。




http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/






Re: 小山観音 投稿者:PONTA 投稿日:2013年 1月13日(日)16時31分45秒 返信・引用

> No.879[元記事へ]




チェリーさんへのお返事です。




川と川の合流点には神社を祀るようです。

平野仁啓『日本の神々』(講談社現代新書)の「川と神社」(p.165~172)に書いてありました。

具体例は、熊野本宮、広瀬神社、広瀬神社(伊豆)、賀茂御祖神社、丹生神社(丹生川上神社摂社)。




「広瀬という地名について、菱沼男の説明がある。「河川が山間から急に平野に出たり、河川に支流が合流したりして川瀬が急に広くなったところに、広瀬の地名があり、そこに神社が鎮座している」(『式内社調査報告』第十巻)。広瀬とよばれる地形は、神をまつらねばならない場所であったらしい。」(同書p.168

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Re: 新年のご挨拶 投稿者:PONTA 投稿日:2013年 1月13日(日)16時21分16秒 返信・引用

> No.886[元記事へ]




uziさんへのお返事です。




>伊賀地方の山の神は、田の神の要素が少ないように思っております。山での作業の安全を祈るとおっしゃる方々が多いです。




では、農耕期に里に下りて桜の木に坐し、農閑期は山に還る神ではなく、ずっと山におられる神ですね。記紀では山の神は「大山祇神」という男神ですが、山で作業している人に聞くと、山の神は女神で、不猟の時は男性器を出すと喜んで、鹿とか出してくれるとか、自分より美人が嫌いなので、オコゼを奉納するとか聞いたことがあります。あと、三河にブスが多いのは、村積山の女神が、自分が美しくなるために女性から美を奪い取ってるからだそうです。

「田の神が山の神と12/8と2/8に交替」というのは、事八日行事とまとめられてしまった地域で、交替する日は、東日本では10/16と3/16、あるいは、10/10と2/10の組み合わせが多く、西日本では10月と2月の亥の日が多いようです。地域性としては、奥能登の11/5と1/9、九州北西部の11月と2月の丑の日。




> ぜひ拝見したいですね。




全国にあります。山奥のマタギしかしらない洞窟に行けば・・・詳しい場所は教えてはいけないようです。ただ九州の某洞窟については「パワースポット」として世に出てしまい、多くの人が訪問しているようです。その方々のブログを見ると、詳しい所在地・行き方を書いておられる方と、「秘密」「教えられない」という方に分かれています。




http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/






磐座 投稿者:uzi 投稿日:2013年 1月13日(日)15時29分3秒 返信・引用

昨年秋、ひさしぶりに春日大社へいってきました。

2時間ぐらいかけて境内を回りました。

記憶にない、過去に写真も撮っていない磐座がありました。

掲示は墨がにじんで分かりにくいのですが、

昔、御笠山の神をこの磐座に降臨させていたと読めます。




MURYさん、以前アップされてましたっけ?




http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






Re: 新年のご挨拶 投稿者:uzi 投稿日:2013年 1月13日(日)15時10分35秒 返信・引用

> No.885[元記事へ]




PONTAさんへのお返事です。




>PONTAさん

山の神の資料ありがとうございます。




私のかってな想像ですが、伊賀地方の山の神は、田の神の要素が少ないように思っております。山での作業の安全を祈るとおっしゃる方々が多いです。名張市は約半分が山地で、地区の山があったり、個人の山があったりします。




>マタギの山の神は、洞窟一杯、獣(特に鹿)の頭蓋骨が並べられていて・・・




ぜひ拝見したいですね。

諏訪大社では、昔は数十頭の鹿や猪の頭をお供えしたそうです。ウサギさんは、お尻の方から頭にかけて串刺しにして丸ごとお供えしたようです。(今は、剥製を使い数もずっと少ないようです。)

どちらも縄文の臭いのするお祭のようですね。




uzi

http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






Re: 新年のご挨拶 投稿者:PONTA 投稿日:2013年 1月13日(日)06時03分54秒 返信・引用

> No.884[元記事へ]




uziさんへのお返事です。




「事始め」と「事納め」の2つをあわせて「事八日」といいます。

詳しくは、「旧浜名郡神社図鑑」の「事八日行事」をご覧ください。

http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/jinjya.htm




「山の神」も「針供養」も「事八日」の1つです。(下の系統図参照)




「山の神」には数種類があり、「事八日」の「山の神」は「山の神」←→「田の神」の話で、他に「マタギ」(猟師)が信仰する「山の神」などがあります。マタギの山の神は、洞窟一杯、獣(特に鹿)の頭蓋骨が並べられていて、「神聖」な場所ですが、誠に失礼ながら、正直言って「不気味」です。







http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/






Re: 新年のご挨拶 投稿者:uzi 投稿日:2013年 1月12日(土)22時03分51秒 返信・引用

> No.883[元記事へ]




PONTAさんへのお返事です。




>PONTAさん

山ノ神の資料、ありがとうございます。

「事八日」という言葉を初めて聞きました。

手元の本では分からず、ネットで調べましたら、「事始め」とか「針供養」とかと関係がある様ですね。事始め・針供養も、私はニュースで耳にする位しか知りませんが。

私の住んでいる名張を含め、伊賀地方においては、山ノ神の祭は1月7日に行うところがほとんどです。名張では、宵鍵と言って、1月6日のところもあります。お隣の三重県津市や奈良県の山添村他においても1月7日が多いです。(私が知る範囲では)

MURYさんが言われていた、京都の南大河原は三重県の伊賀市のお隣です。

それなのに、12月10日にお祭される事、竹で台を作られることなど、地元とは異なるお祭の様子に強く引かれ、ぜひ拝見したいと思った次第です。

PONTAさんのアップされたお写真の3枚目(真横からのアングルなので、想像ですが)台と言いますか、スノコと言いますか、竹で作られておりますがお供えでも乗せられるのでしょうか?




針供養で思い出しましたが、山添村では、樫等の木で仕事の道具(のこぎり、クワ、鎌等)の模型(10cm位?)を作り、祭の日に供えます。1月7日は山仕事を休みます。




http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






Re: 新年のご挨拶 投稿者:PONTA 投稿日:2013年 1月12日(土)09時42分17秒 返信・引用

> No.877[元記事へ]




uziさんへのお返事です。




山の神というと、事八日行事でしょうか?

12/8と2/8に集中してるから、Aヵ所調査するにはA年必要ですね。

大学の先生は、学生にビデオとカメラを持たせて、「フィールドワークに行って来い」って感じでしょうけど。




静岡県はこんな感じです。

大井川の北側の3つの○を結んだ線は、大井川の旧川筋だと思われます。

古代では、大井川の河口は焼津市だったようです。













http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/






Re: 小山観音 投稿者:PONTA 投稿日:2013年 1月12日(土)09時27分4秒 返信・引用

> No.879[元記事へ]




チェリーさんへのお返事です。

>飛騨川と木曽川との合流点から、飛騨川を遡る事約1km(ちょっと遠いか?)




川って、川筋が変わるから、合流点も時代によって違いそう。

昔の濃尾平野の地図を見ると、「平野」じゃなくて「台地と島」って感じですし。

http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/






あけましておめでとうございます。 投稿者:PONTA 投稿日:2013年 1月12日(土)09時22分39秒 返信・引用

本年もよろしくお願いいたします。




今年の目標は、

・20年に1度の伊勢神宮の遷宮を見る。

・60年に1度の出雲大社の遷宮を見る。

・東京国立博物館の大神社展を見る。

ですが、どれも遠くて、交通費が足りません。

多分、どれも行けず、TVで見ることになるでしょう。

新年早々、暗い話題ですみません。

http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/






Re: 小山観音 投稿者:MURY 投稿日:2013年 1月10日(木)23時02分42秒 返信・引用

> No.879[元記事へ]




チェリーさんありがとうございます。




> 飛騨川と木曽川との合流点から、飛騨川を遡る事約1km(ちょっと遠いか?)




合流点というには確かにちょっと遠いかもしれません(笑)が、自然の御業ですからいんじゃないですかね。

現地に立って、人の意識として合流点という意味あいを感じたら、ちょっと離れていたとしてもそう思えた人にとっては合流点と同じだと思います。




> 現在は今渡ダムの水面に浮かんでいるのですが、お堂の壁にダムができる前「昭和9年」の写真が掲げられていました(真ん中の写真)。登るのが大変そうです。




一種の修行だったのかもしれませんね。

川が自然の結界で、島の岩崖もいわば自然の磐境(結界)と牽強付会できるかも。




> 「摩尼車」という石の車がありました。回して祈願成就をお祈りするのだそうです。




昔、リトルワールドでマニ車を思いっきり回したことがあります。思い出しました。

小山観音 投稿者:チェリー 投稿日:2013年 1月 6日(日)16時28分46秒 返信・引用

 飛騨川と木曽川との合流点から、飛騨川を遡る事約1km(ちょっと遠いか?)、川の中程にある島というか岩峰の上に観音堂があります(上の写真 川の突き当りが合流点です)。

 平安の末期に、木曽義仲が、この地で病死した母親(若菜御前)を供養するために訪れたとき、大波の中を「中の島」に渡ろうとしたところ、水中から馬頭観音を背にした龍神が現れて波を鎮めたそうです。これを大いに喜んだ義仲が建てたとの言い伝えが残っているそうです。

 現在は今渡ダムの水面に浮かんでいるのですが、お堂の壁にダムができる前「昭和9年」の写真が掲げられていました(真ん中の写真)。登るのが大変そうです。

 観音堂の脇に、この島の岩峰のピークがありました(下の写真)。頂上に「身代わり地蔵菩薩」、その前に「摩尼車」という石の車がありました。回して祈願成就をお祈りするのだそうです。

 合流点の近くということでは「こぶヶ谷戸遺跡」、川の真ん中ということでは「弁天岩」に似ているかもしれません。












Re: 新年のご挨拶 投稿者:MURY 投稿日:2013年 1月 3日(木)13時56分3秒 返信・引用

> No.877[元記事へ]




今年もよろしくお願いします。

ぼちぼちやっていきます。




>ウージーさん

南大河原の山ノ神見ました。貴重な記録です。

いよいよ本格的な民俗誌サイトになってきましたね。



新年のご挨拶 投稿者:uzi 投稿日:2013年 1月 2日(水)11時51分36秒 返信・引用

あけましておめでとう御座います。

本年もよろしくお願い致します。




岩石祭祀学講座聴講生

http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






Re: (無題) 投稿者:チェリー 投稿日:2012年12月11日(火)00時15分23秒 返信・引用

> No.875[元記事へ]




PONTAさんへのお返事です。




> 川岸ですから、湿地帯=じめじめしているからでしょう。




うわぁおぅ!何ともHな地名ということなんですねぇ!

Re: (無題) 投稿者:PONTA 投稿日:2012年12月10日(月)02時20分44秒 返信・引用

チェリーさんへのお返事です。




>  男性ではなく、女性の股間部の名前を当てるということは、命を生む事に繋がるのでしょうか?なかなか奥深い話になるようですねぇ。




川岸ですから、湿地帯=じめじめしているからでしょう。

(無題) 投稿者:MURY 投稿日:2012年12月 9日(日)23時09分31秒 返信・引用

>PONTA




さすがお詳しい。「合」と「俣」の視点の違いの話、おもしろいです。

先に「落合」の事例で紹介した埼玉県こぶ石は「こぶヶ谷戸(こぶがやと)」の地名があります。「谷」で「~戸」なんですよね。今、現地に立つかぎりでは谷っぷくはない地形なのですが。




>チェリーさん




広報こまき見に行きました。

信長が一から築城した居城は小牧山城と安土城だけで、それまで土の城であった状態から、なぜ石の要塞にしようと決めたのかというくだり、ストーンサークル説を取り入れれば、それとなくつながってしまうので笑ってしまいました。広報こまきで触れてくれればいいのに(笑)

城の石垣に、小牧山の岩盤を利用している部分があるという文章が印象に残りました。

Re: (無題) 投稿者:チェリー 投稿日:2012年12月 9日(日)17時48分14秒 返信・引用

> No.869[元記事へ]




MURYさん




 合流点に聖地を築くということですね。はい、他に見つけたら、報告しますね。




 小牧市役所のホームページで、やっと「広報こまき」が更新されました。皆さん一度見てやってください。

 「信長ストーンサークルの拡大バージョンを造ってしまったのではないか」おお、なんということでしょう!その着想はすごい!

 石垣の上にどんな建物があったのかも注目されます。そして今のコンクリート造りの天守閣を建てる為に爆破してしまった「頂上部の巨石」とどういう関係だったのかが知りたいです。そして、今でも移設先を探したりしているのですが、七つ石の謎は解けていません。




PONTAさん

 はじめまして。

 川の上流から見た場合と、下流から見た場合と名前が異なるのですね。おもしろいですねぇ。

 男性ではなく、女性の股間部の名前を当てるということは、命を生む事に繋がるのでしょうか?なかなか奥深い話になるようですねぇ。

川合と二股 投稿者:PONTA 投稿日:2012年12月 7日(金)03時23分31秒 返信・引用

個人的には、

2本の川が合流して1本の川(河口は1つ)になる場所が「川合」「落合」、

1本の川が分岐して2本の川(河口は2つ)になる場所が「二股」、

「Y字」か「人字」かってイメージなのですが、違うようです。

http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/






失敗 投稿者:PONTA 投稿日:2012年12月 7日(金)02時49分3秒 返信・引用

>割れ目岩があれば、・・・

「割れ岩」でした。

http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/






Hな(?)地名 投稿者:PONTA 投稿日:2012年12月 7日(金)02時13分13秒 返信・引用

川の合流点・分岐点に付けられる地名は、

川を上流から下流に下る人が付けると、合流点=川合、落合

川を下流から上流に遡る人が付けると、分岐点=二俣

になるようですが、変わった地名に「古戸(ふっと)」があります。

これは、「ほと(火門、陰所、女陰)」の転訛、

ようするに、女性の股間部(女性器)の意味で、

川の分岐点の地名が「古戸」で、そこに割れ目岩があれば、・・・




柳田國男によれば、「ホト、ホド」地名(保戸、保土、程など)は、女性器に似た形の地形だったり、女性器に似た特質(湿地帯)を持っていたり、陰ができるなどの特徴から名付けられた地名だそうで、谷に付けることが多く、川の分岐点に付けるのは数の上では少ないようですが、川の分岐を女性の股ととらえて地名にまでした人たちがいたことは事実です。

http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/






(無題) 投稿者:MURY 投稿日:2012年12月 7日(金)01時46分39秒 返信・引用

>チェリーさん




合流点の例はまだまだあると思います。

下に掲げたのは京都市上賀茂神社の例と奈良県山添村の天王の森です。いずれも祭祀の場が川の合流点に構えられています。

合流点に聖地を築くのは、岩石祭祀に関わらずだと思います。新しくどこかで見つけられましたら教えてください。

「広報こまき」の情報もありがとうございます。小牧山・・・思えば七つ石の話が懐かしいですね。まだ七つ石の謎は解けていません。

小牧山城が「石の要塞」ということで、小牧山ストーンサークルが本当に築城以前からあったとしたら、信長がそこから着想を得てストーンサークルの拡大バージョンを造ってしまったのではないかと、ついつい妄想が広がりまくりですね。

信長といえば、安土城に蛇石なる怪しげな巨石を運ばせて満足していたという話もありますし、岩石と微妙につながりがある人物なんですよね。




>PONTAさん




お久しぶりです。リンクのご連絡ありがとうございました。

サイト見させていただきましたが、滝沢鍾乳洞の洞穴内で石化した注連縄が見つかったという件、初めて知りました。

鍾乳洞も岩石祭祀たりうると、思いを新たにした次第です。









リンクさせていただきました。 投稿者:PONTA 投稿日:2012年12月 6日(木)00時54分8秒 返信・引用

PONTAです。

リンクさせていただきました。

http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/jinjya2/isi.htm

http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/jinjya2/ten.htm

http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/






小牧山城 投稿者:チェリー 投稿日:2012年11月28日(水)22時56分29秒 返信・引用

 MURYさん 地図をありがとうございます。

 本当に合流点の近くにありますねぇ。特に「産護石」の場所は、京都の鴨川と高野川の合流点に鎮座する(その名もズバリ)「河合神社」と同じではないですか!今後も川が出合う場所に注目して行こうと思います!

 お話は変わるのですが、うちの会社に「広報こまき 2012 12 1日号」が届きました。来年は信長が小牧山城を築城して450年になるのです。近年、その発掘調査が続けられ、その特集記事が掲載されていたのですが、これがなかなか興奮物で、仕事中に目が離せなくなってしまいました。その中から、少し紹介させていただきます。

 本丸の下に上下二段の石垣が発掘され、上段の石垣は一石が2t以上、高さが2.5~3.8mであり、「城といえば土造りであるのが常識だった時代に突如石で覆われた城が出現した」ことになるのだそうです。信長は小牧山南麓の原野に城下町を整備しましたが、石垣の導入も合わせて、安土城築城を遡り、「日本史における城のルーツが小牧山城にあったのではないか」と考察されるのだそうです。「当時の人々がそれまで見たことがない「石の要塞」ともいうべき異様な外観を備えた城であったということが明らかになりつつあります。」

 おお、何と言うことでしょう!こんなに身近に衝撃的な遺跡があるなんて!尾張はやっぱりいいなぁ~

 ※「広報こまき」は小牧市のホームページで見ることができるのですが、今はまだ先月号が掲載中でした。今しばらくお待ちください。




 

(無題) 投稿者:MURY 投稿日:2012年11月25日(日)23時59分2秒 返信・引用

>dorcusさん




記事のご紹介ありがとうございます。

写真に上げられていた雨乞い記念碑を見て、最後に日本で行われたこういう雨乞い神事はいつなんだろうと、ふと気になってしまいました。

私が知らないだけで、今でもどこかでやっているのかもしれませんね。

高合石は立派な積石状で見ものですね。神籠石は明治時代以降の学界名の借り物で、おそらく元々の当て字は高合石だと思います。




>チェリーさん




私は、水の分かれ目や合流点と祭り場の相関関係はあると思うんですよね。

下に2例ほど掲げます(群馬県の産護石と埼玉県のこぶ石)

こぶ石の場合は合流点のことを「落合」という地名で地元の人が読んでました。「川合」と通ずるものがありますね。









Re: 時間があるときにどんどん更新しよう 投稿者:チェリー 投稿日:2012年11月23日(金)01時16分1秒 返信・引用

> No.863[元記事へ]




 日光修験道というのでしょうか、今も盛んに行われているようですね。三峯五禅頂という昔のとんでもなくハードな道を辿って歩かれている方が何人もいるようです。キノミ平はそこから外れているようですが、近くに慈観滝という名前も見られることですし、このあたりも何があるかわかったものではないという気がします。日光というのは濃密な地域ですねぇ。

 水源や川が合流する地形は今まであまり注目してこなかったのですが、いいですねぇ。MURYさんが注目しているのは、裏見滝のすぐ上流の沢の分かれ目の、尾根の突き出たところの上だと想像しますが、そもそも裏見滝というのは霊場のようですよ。

 私が住んでいる近くに木曽川と飛騨川が合流する地点があって、やっぱり「川合」という地名なのですが、その豪快な景色を見ると、何と言うか、異様な感慨を覚えます。ここが祈られる場所であっても不思議ではないです。地図上では何も見当たりませんが、詳しく見てみたくなりました。



藤ヶ瀬の奇石 2 投稿者:dorcus 投稿日:2012年11月21日(水)21時55分17秒 返信・引用

高合石、雨乞碑、大神岩を尋ねました。遅くなりましたがブログにアップしました。けっこう歩きがいがありましたが自然たっぷりでいい山歩きになりました。

http://blogs.yahoo.co.jp/hero_dorcus/38934794.html






Re: 時間があるときにどんどん更新しよう 投稿者:MURY 投稿日:2012年11月19日(月)00時40分41秒 返信・引用

> No.862[元記事へ]




お返事遅くなりました。

ご紹介のブログ見に行きました。

私もこういう地名好きです。カタカナ地名は想像が広がりますね。実際にこのあたりは修験の道で祭祀の跡もあるということで、あながち無謀な話じゃなかったということですか。

水源や沢の分かれ目にもなにかあるかもしれませんね。

Re: 時間があるときにどんどん更新しよう 投稿者:チェリー 投稿日:2012年11月 5日(月)23時24分32秒 返信・引用 編集済

> No.861[元記事へ]




 MURYさん 地図をありがとうございました。

 線上の、とりあえず女峰山の真南の場所を特定しました。キノミ平を登るウリュー坂という登山道の脇になるようです。このあたり残念ながら地図上では何もなさそうです。でも、魅力的な場所ですねぇ。この不思議な地名の数々!激しい凹凸の中でぽっかり空いたような斜面。実際に行ってみるしかわからないなぁ・・・

 で、「キノミ平 ウリュー坂」で検索したら「日光修験の道をゆく」というブログを書いてみえる方がいて、これがメチャ面白い!岩石の写真もいっぱいあるのです。読んでみると、石の祠とかあちこちにあるようですねぇ。

 女峰山の真南に祈る場所があるかというと、これがあるんですが、ずーと南になってしまって、何と、鎌倉の大仏なのでありました!説得力に欠けるかなぁ・・・

 ※「日光修験の道をゆく」というのは、「降っても晴れても・・・」というブログの一部でした。

Re: 時間があるときにどんどん更新しよう 投稿者:MURY 投稿日:2012年11月 5日(月)00時07分37秒 返信・引用

> No.860[元記事へ]




なるほど。そういう考え方もありますね。

私は地形的な要素が欲しいタイプなので、地図を見てたんですが、たとえば下の地図の矢印の地点(キノミ平と書いてあるあたり)に神社や祭り場があったら納得しちゃいます。

ここは、ちょうど女峰山と男体山の両方から沢が流れてきて、それが合流する地点です。しかも男体山と東西、女峰山と南北関係です(ちょっときついか)。ここなら両山のテリトリーを融合しあえる位置かなあと。

ここに何かあったら面白いと思います。






Re: 時間があるときにどんどん更新しよう 投稿者:チェリー 投稿日:2012年11月 4日(日)23時45分32秒 返信・引用

> No.857[元記事へ]




 滝尾神社って、女峰山の山腹にあるじゃないですか。あくまでも滝尾神社は女峰山の神社なんだけど、どうも、山頂以外にお祈りする場所がある場合って、他の山からラインが入ってきて、そのふたつの山を足し算していいよって考え方をするみたいです。だから、女峰山の頂上には、男体山が足し算されているのかもしれません、というのは、想像にすぎませんけど、独り言でした。以上です。

Re: 藤ケ瀬の奇石 投稿者:MURY 投稿日:2012年11月 4日(日)23時37分43秒 返信・引用

> No.858[元記事へ]




槍立森古墳のご紹介ありがとうございます。

石室も立派な岩石祭祀です。

夏を過ぎると、どうしても外モノは草で覆われてしまいますね。






山中の史跡も、毎年山道の維持が大変になろうと思いますが、歩く人、見に来る人が増えれば自然と道は保全されるんだろうと思います。たくさんの人に知られればいいですね!




Re:藤ケ瀬の奇石 投稿者:宇部市集落支援員 投稿日:2012年10月31日(水)20時58分13秒 返信・引用

dorcusさん⇒

ブログ拝見させていただきました。

看板等もアップしていただき、設置された藤ヶ瀬集落の方も喜ばれると思います。

ネット環境が不十分ですので、コピーして持って行きたいと思います。ありがとうございました。

また、千人塚のほうは連絡お待ちしております。




MURYさん⇒

お気遣い感謝します。

こちらの掲示板、頻繁にチェックしております。

岩石祭祀学とはあまり関係無いかもしれませんが、最近宇部市東吉部、吉部八幡宮下の槍立森古墳を住民の方々と整備しました。

古墳時代後期(6世紀後半)の石室埋葬跡です。

画像は整備後、整備前です。

これからも大事に維持して欲しいと思います。







http://ubeshienin.jugem.jp/?eid=108
















時間があるときにどんどん更新しよう 投稿者:MURY 投稿日:2012年10月30日(火)23時21分52秒 返信・引用

めちゃんこ更新しました。ぜひ見てください。

最近思うことがあり、「磐座・磐境などの用語集」を検索上位にどうにかしてもっていけないかと考えています。これでも足かけ10年は続けているページです。内容も用語集として恥じないものがあると自負しています。でも磐座で検索した時・・・ぐすんという展開です。

ブログやwikipediaに勝とうとは思わないですけど・・・いいアイデアをお持ちの方は教えてほしいです。




>チェリーさん

google地図にポイントを落としているとき、私も男体山が目に入りました。でも滝尾神社と信仰上関係が強いのは女峰山のほうなんですよね。




>dorcusさん

ブログ拝見しました。整備ぐあいがとてもよく分かる写真です。とくに看板が味があっていいですね!私のところに投稿していただくのもとてもうれしいんですが、清水さんのブログにコメントされるときっと喜ばれると思いますよ。



藤ケ瀬の奇石 投稿者:dorcus 投稿日:2012年10月30日(火)11時41分30秒 返信・引用

宇部市集落支援員様

藤ケ瀬の奇石探訪ツアーに参加できなかったので龍岩を見に行きました。立派な標識がったので迷わず行くことができました。整備された方々にお礼を申し上げます。高合石方面には行っていませんが、PRをかねて写真をブログにアップしました。吉部郷土史話を参考にブログを書きましたが、誤りがありましたら教えてください。来月のツアーはまだ参加できるかわかりません。千人塚は別途連絡をしますので、その時はよろしくお願いいたします。

http://blogs.yahoo.co.jp/hero_dorcus/38899704.html






Re: 虎岩の背中 投稿者:チェリー 投稿日:2012年10月30日(火)00時21分40秒 返信・引用

> No.854[元記事へ]




 7月中旬だったのですが、すさまじい風でした。山頂のすぐ上を、雲が次々と姿を変えて流れてゆきました。まさに千変万化です。「富士山記」に白衣の美女が二人並んで、山頂から浮いて舞っていたという古老の話が記述されているようですが、私は山腹を猛スピードで巻くように走る二筋の雲を目撃しました。あれは「龍」だと思いました。(本当に龍だったのかもしれません!)

 お話変わって、日光の「滝尾神社」ですが、「男体山」の頂上部と東西関係があるような気がします。まあ、これは独り言でした。以上です。

 

Re: 虎岩の背中 投稿者:MURY 投稿日:2012年10月28日(日)18時12分5秒 返信・引用

> No.853[元記事へ]




徹夜明けの富士山、がんばられましたね!

富士山も爆発するとかどうとか最近物騒ですからね、時期的にも貴重なご報告ありがとうございます。




>  平安時代(9世紀)に登頂した「都良香(みやこのよしか)」という人の「富士山記」 に「虎岩」のことが「蹲虎(そんこ)(うずくまる虎)の如し」とあるそうです。




『富士山記』検索しました。おもしろいです。こういうのロマンですねえ。

虎岩、たしかに史上最高地点です(というより国内最高地点の事例なのでこれを更新することはないかも)

虎岩の背中 投稿者:チェリー 投稿日:2012年10月28日(日)00時05分4秒 返信・引用 編集済

 富士山頂の噴火口です(上の写真)。右下にあるのが「虎岩」なんですが、背中です。火口の反対側まで行けば正面の写真が撮れたのですが、そんな体力は残っていませんでした。シャトルバスの関係で徹夜で登り、八合目で夜が明けてしまって、体力ゼロになってしまったのです。

 それにしてもオッソロしい噴火口でした。以前から火口はいくつか見てきましたが、ここは畏怖というよりも恐怖を覚える火口で、とても信仰の対象になるとは思えなかったです(疲労のせいかもしれませんが)。下りの途中、薄れ行く意識の中で、宝永火口のなだらかな斜面に、雲間からの柔らかな日差しが流れるように模様をつくっていました。ああ、神が宿るとしたらこちらの方だなぁと思ったことでした(下の写真)。

 平安時代(9世紀)に登頂した「都良香(みやこのよしか)」という人の「富士山記」 に「虎岩」のことが「蹲虎(そんこ)(うずくまる虎)の如し」とあるそうです。岩石祭祀学提唱地史上、最高点(標高が)になるのでは?(虎岩の頭の上に石碑があるそうです。)









Re: 奇岩探訪ツアー報告としめ縄 投稿者:MURY 投稿日:2012年10月25日(木)21時33分42秒 返信・引用

> No.851[元記事へ]




ご報告ありがとうございます!

高合石も龍岩も、巨石ファンなら心惹かれる造形をしていると思います。

私個人としては、高合石が三層構造をしていることが写真から分かったのが大きな収穫です。




清水さんのブログによると、11月22日(木)のツアーは、高合石~内立山山頂雨乞紀念碑~大神岩という行程とのことです。

この掲示板をご覧の、お近くにお住まいの方は、是非参加されることをお勧めします。

奇岩探訪ツアー報告としめ縄 投稿者:宇部市集落支援員 投稿日:2012年10月16日(火)18時30分0秒 返信・引用

 MURYさん、いつもありがとうございます。

 9月27日(木)に山口県宇部市西吉部藤ヶ瀬で行われました奇岩探訪ツアー、この掲示板をお借りして告知させていただきましたが、無事大過なく終わらせることができました。

 ありがとうございました!




 最近山に入っておりませんが新しい動きとして、今年2月に集落の方が整備された龍岩にしめ縄が掛けられました。

 集落の宝として、これからも大事にしていって欲しいと思います。




 次回は11月22日(木)に奇岩を巡る登山ツアーを開催予定ですので、お近くの方は是非参加いただけたらと思います。

 










http://ubeshienin.jugem.jp/?eid=146






(無題) 投稿者:MURY 投稿日:2012年 9月23日(日)21時37分21秒 返信・引用

>チェリーさん




チェリーさんだけではありません。安心してください。私もよく分かりません。

金山巨石群は二至二分をメインにした観測ができるらしいです。岩と岩の隙間で、冬至を中間とした120日間日光が差し込むそうです。冬季120日を知ることができる装置というところでしょうか。

私の疑問は一貫していて、遺跡の出土遺物がごくわずかな土器・石器だけなんですね。集落跡というより、限られた時期だけキャンプのように使っていた地点のような遺物のボリュームなんですね。

金山巨石群の観測のしかたで天文現象の把握をしようとしたら、少なくとも数年間継続しないと見えてこないと思います。キャンプ地の遺跡という様相とそぐわないんです。

谷間で見る、なぜこの場所で?という疑問も率直にあると思います。私は人知を超えた自然のいたずらをけっこう見てしまったほうなので、この巨石群の観測のあり方は、私の中で偶然の範疇に入っている状態です。明らかな人為性が欲しいです。







>清水さん




お知らせありがとうございます。とうとうやってきましたね。

ほんとうは私が行きたいぐらいです。近ければなあと。

ツアーの大成功を祈っております。

補足 投稿者:宇部市集落支援員 投稿日:2012年 9月19日(水)18時38分26秒 返信・引用

 dorcus 様




 私の不在時に連絡を頂いたということで、申し訳ございませんでした。この度の岩巡りツアーには千人塚は場所が離れているため入っておりません。

 ツアーへの参加も大歓迎ですが、日時を指定して頂けると千人塚案内も可能ですので、宜しくお願い致します。

 二回目は11月22日(木)内立山登山と大神岩、龍岩を予定しております。




 宇部市集落支援員 清水







http://ubeshienin.jugem.jp/?eid=139






吉部藤ケ瀬の巨岩めぐり 投稿者:宇部市集落支援員 投稿日:2012年 9月19日(水)09時56分8秒 返信・引用

 お世話になります。




 山口県宇部市では、平成24年9月27日(木)に巨岩ツアーを実施しますので、この場を借りて告知させていただきます。




 以下は9月13日(木)に地元紙(宇部日報)に掲載された記事です。




 吉部藤ケ瀬の巨岩めぐり

 27日にグリーンツーリズム




 宇部市楠のグリーンツーリズム「吉部藤ケ瀬の巨岩めぐり」は9月27日午前10時半から吉部地区で開かれる。参加者を募集している。吉部ふれあいセンターからデマンドバスに乗って移動し、藤ケ瀬にある巨岩、高合岩を訪れる。近くの浄円寺で休憩後、龍岩を目指す。下山後に集会所で昼食をとり、近くの松田栄治さんの畑で芋掘りをする。

 定員は12人。参加費は食事代、バス代で1,500円。手袋、飲み物は持参し、長袖で歩きやすい服装、靴などで参加する。20日までに楠総合支所(電話0836-67-2812)へ。




 応募締切が近いですが、空きがある場合は締切後でも対応可能です。




 11月にも同じような巨岩巡りツアーを募集しますので、併せて宜しくお願い致します。




 宇部市集落支援員 清水

http://ubeshienin.jugem.jp/?eid=139






金山巨石群3 投稿者:チェリー 投稿日:2012年 9月17日(月)00時56分27秒 返信・引用

 MURYさん、地図をありがとうございました! マークの地点から東に500m程のところが東の山巨石群ですので、ちょうど直線上になると思います。

 東の山巨石群の写真を3枚載せます。こんな雰囲気のところでした。

 現地には案内板どころか、道が全くありません!地形を見ながら直登するしかありません。あるサイトに30分の所要時間がありましたが、実際迷いながら登ると1時間位はみておかないといけないと思います。山慣れない方は、やめておいた方がいい所です。

 それはそうと、金山巨石群をどう考えたらいいのでしょうか?

 仮定の話ですが、まず、御嶽山と伊吹山という両巨頭とも言えるような霊山を結んだ線上に、東の山巨石群が発見されたとしましょう。そこから真西に線刻石のある巨石群を見つけたか、運んだ?かしたとしても、そこは祀られていません。岩屋岩蔭遺跡巨石群は祀られていますが、ここでは真西にはならないのです。線刻石のある巨石群で行われたのは、祭祀ではなく、天体観測だというのです。

 何で谷の底で天体観測するのかなぁと思ってしまいます。そもそも太陽の運行から暦をつくるって、どのくらいの暦をつくるのかなぁと、いつも思ってしまいます。理科年表とかで調べると、夏至や冬至の太陽は一週間位同じ軌跡を通ってしまうようですし、春分や秋分の太陽で暦を決めようとしても、日本列島のように雲の多い場所では、とても難しい事だと思ったりします。

 で、よくわからないですねぇ。全てが自然のままで、いろんなことが偶然の一致かというと、そうでもないとも思えるし、よーするに、わからないです。












金山巨石群 投稿者:MURY 投稿日:2012年 9月13日(木)23時13分18秒 返信・引用

東の山巨石群まで行かれたんですね。

私も金山巨石群は見ましたが、東の山へのルートが分からなかったので(現地に案内なかったですよね?)私は東の山まではいきませんでした。その行動力に感服です。




私も試してみましたが、たしかに御嶽山と伊吹山の線上でしたね!

金山巨石群をものする人たちの間で、この指摘は誰もしてなかったと思いますよ。私は初耳です。




金山巨石群については、私は疑念的なのです。

保守的ですみませんが、縄文時代の遺物の様相とそぐわないのと、考古学からの分析がまだされたことがないのが痛いです。縄文時代のことを考古学の助けなしで研究するなんて私はできません。




巨石群は、自然に算出された状態から二次的な移動を受けているらしいことが理化学的な分析からわかっているらしいです。以前その分析報告を読んだことがあります。ただ、その移動が人によるのか自然の力によって動いたものなのかは不明です。

岩屋岩蔭遺跡の遺物の内容からは、この遺跡がキャンプ地的な性格を持っていたように思いますが、もしそうだとするならこれほど大がかりな人の所作が働いたとされる遺跡の規模といまいちそぐわない。天体観測説からは、私、いまいち人の意図が読めないのです。






金山巨石群2 投稿者:チェリー 投稿日:2012年 9月13日(木)00時56分18秒 返信・引用

 金山巨石群は太陽の軌跡を測量する、言わば古代の天文台の様な装置なのだそうです。本当かなぁと、半信半疑で「線刻石のある巨石群」の洞窟に入りました(前回の写真のピンクの矢印のところで、今回の上の写真)。すると、ちょうど小さな光が動いているではないですか(真ん中の写真のピンクの矢印)!あわてて光の位置にカメラを入れました(下の写真)。これは興奮しました。天空が動いていることが、実感できました!

 さて、ここからが独り言です。「東の山巨石群」の位置をGPSで記録して、帰ってから地図に落としたのですが、何とこれが「線刻石のある巨石群」の真東だったのです。どちらも範囲を持っていますので、誤差のない東西関係にあります(距離は直線で500m程)。「東の山巨石群」はかなり山を見上げなければなりませんので、春分や秋分の日がここから昇るわけではありません(日は斜めに昇りますので、大きくずれてしまいます)。太陽の運行とはあまり関係がなさそうな話になってしまいます。

 「東の山巨石群」は自然の岩の集合ですので、ここを基準にその真西に「線刻石のある巨石群」を築いたのでしょうか?こんな山奥に?にわかには信じられません。もしもそんなことがあるとしたら、「東の山巨石群」がよほど大切な場所ということになってしまいます。

 ところがそれがあったのです。この場所は重要な二つの霊山「御嶽山」と「伊吹山」を結んだ直線の真下だったのです。と、私は驚き、慄くばかりだったのです。以上独り言でした。失礼いたしました。以上です。












金山巨石群1 投稿者:チェリー 投稿日:2012年 9月13日(木)00時08分5秒 返信・引用

 岐阜県下呂市金山町の岩屋ダムのすぐ南です。

 漫画家の「美内すずえ」さんが勧めてみえたので、春に行きました。5月27日のことでした。

 金山巨石群は「岩屋岩蔭遺跡巨石群(上の写真)」と、すぐ東隣にある「線刻石のある巨石群(真ん中の写真)」と、東に山を30分程登った「東の山巨石群(下の写真)」からなります。

 「岩屋岩蔭遺跡巨石群」は谷を上る車道から、突然姿を現します。それほど深い谷ではありませんが、山の奥です。「なんでこんなところに」と驚かされます。大きな岩が組み合わさっています。岩の大きな平面が目を引きます。

 「東の山巨石群」には道がありません。小さな沢を登りつめて稜線から探しました。山腹の東西50m程の範囲に巨石が集まっています。












Re: 磐境 投稿者:MURY 投稿日:2012年 9月 3日(月)00時12分45秒 返信・引用

> No.842[元記事へ]




> 沖津宮へ行かれたのですか!!




スミマセン、辺津宮の間違いでした・・・お恥ずかしい。

沖津宮は、私は行けないでしょうねえ・・・




吉田神社末社大元宮で検索をかけたらウージーさんのサイトがトップに出ました。

社殿が珍しいつくりですね。物部文書で有名な秋田県の唐松神社天日宮とおなじく、拝観日に訪れてみたいものです。




胡宮神社の「境界」は、私も探訪当時気にしていました。

参拝道から外れるのはためらわれたのでちゃんと探索してはいませんが、

注意したかぎりでは列石も柵のようなものも見当たりませんでした。

磐境 投稿者:uzi 投稿日:2012年 9月 2日(日)09時00分20秒 返信・引用

沖津宮へ行かれたのですか!!

宗像大社は、ぜひ行きたい神社の一つです。

石で囲まれた祓い所はよく見ますね。沙沙貴神社の祓い所を思い出しました。

吉田神社末社大元宮の天津磐境なども思い浮かびます。

最近胡宮神社へ行ったのですが、境内の掲示に「磐境」の文字がありました。(添付写真)

ただし解説文は「境界」と書いて「いわき」とかながふられておりました。

列石があるのかは未調査です。




http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






Re: 列石 投稿者:MURY 投稿日:2012年 8月26日(日)21時49分13秒 返信・引用

ありがとうございます。

伊勢神宮の御簾の向こう、私も風がたなびくなか見た記憶はありますが列石状のものがあったかどうか、いま記憶に残っていません。また注視しなければ。




一番上の写真は石清水八幡宮(京都府)の御祓所です。

現代の加工による精緻な列石なので意識が向くことは少ないと思いますが、これも石で囲った聖なる磐境と言えるでしょう。




二番目の写真は宗像大社沖津宮(福岡県)の高宮です。神社自身が磐境と言っています。

これぐらいになると檜原神社のものと同じ雰囲気になりますね。

石清水八幡宮との違いは、石の角の摩耗の度合いだけではないでしょうか。




三番目の写真は件の調宮神社の列石です。ブログにあげたものとは逆方向からの撮影です。

調宮神社は石囲いが密になっておらず、内部に玉砂利を敷き詰めるような防波堤の役割は持っていませんが、車止めにはなるのと、神域の囲いであることは視覚的に伝わります。




外見上の違いはありますが、共通しているのは、すべて聖域を区画するための列石であるということです。

境内の片隅や山中に巨岩が眠っていてそれを「古代の磐座ではないか?」とそれらしく言ってしまうのは簡単ではあります。私もやりたくてしかたがないしそう思いたい時もありますが、根拠がありません。

それよりまずはこういった列石に着目したほうが実があるような気がします。地味ですが、見た目にとらわれない聖域構造の把握をしていきたいですね!

調宮神社の列石は苔むしてプリミティブな外見をしているので、この道の人たちには人気が出そうなものですが。












列石 投稿者:uzi 投稿日:2012年 8月26日(日)10時33分38秒 返信・引用

調宮神社の列石の写真拝見致しました。

写真は桧原神社です。

10年以上前のことですが、伊勢の内宮に参拝した折りのことです。

突然風が吹いて、布(御簾というのでしょうか)がまくれたので外玉垣内の景色が見え、ちょうど桧原神社の様に石が並べられているのを目にしました。

ただし、桧原神社の方は、昔からこの様に石が並べられていたのかは疑問ですが。

お写真を拝見して、桧原神社を連想し、内宮を思い出した次第です。




http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






Re: 高見山 3 投稿者:MURY 投稿日:2012年 8月 5日(日)20時32分55秒 返信・引用

> No.837[元記事へ]




写真ありがとうございます。

沢というか、かなりの急斜面にあるんですね。




>今から男の子を授かるというのは生活上若干無理があるのですが・・・




(笑)

私も安産の石とかさすったりもたれてみたりするんですが、同じようなもの??ですね。とりあえずやってみる派です。




>それにしてもですねぇ、同じ山の稜線にありながら、岩の由来が何でこんなにバラバラなんでしょうか?私にはその事が一番不思議でございました。




これは難問です。

他の場所でもよくあります。

私はそのカオスさをありのまま収集して思考放棄しているところです。



高見山 3 投稿者:チェリー 投稿日:2012年 8月 1日(水)22時14分7秒 返信・引用

 息子岩は見ることができました。多分写真の岩だと思います。石を投げてみればよかったのですが、今から男の子を授かるというのは生活上若干無理があるのですが・・・

 大和郡山にも「大織冠鎌足神社」があるようですが、やはり、多武峰の談山神社を遷座したというような関係のようです。読み方を教えていただいたので、今度登ったら三度唱えてみようと思います。

 それにしてもですねぇ、同じ山の稜線にありながら、岩の由来が何でこんなにバラバラなんでしょうか?私にはその事が一番不思議でございました。






大歓迎です 投稿者:MURY 投稿日:2012年 7月29日(日)22時45分45秒 返信・引用

>宇部市集落支援員さん

>地元紙にて募集をかける予定ですが、ぜひこちらの掲示板にも投稿させていただきたいと思いますので、その時はよろしくお願い致します。




喜んで!ぜひお待ちしています。




>チェリーさん




独り言も大歓迎です。高見山のご紹介ありがとうございます。続々と岩が登場しましたね。

去年の秋、国道166号を通った時に山の下をぶった切る高見山トンネルを通りました(通っただけですが・・・)




>「多武峰 大職冠 藤原鎌足公」

「とうのみね たいしょかん ふじわらのかまたりこう」でしょうか。奈良県桜井市の多武峰に大職冠鎌足神社なる場所があったそうです。関係はわかりません。




>更に100m程下ると「息子岩」の看板がありました。「左約100米の沢の中にあり、この所より石を投げて、命中すれば男子を授かるといわれている。」と記されていました。




現地でこの看板を見たら、100m下って沢まで行くかどうか、悩みますねえ。

石を岩に投げて命中するかどうかという祭祀は、近くの飯高町(現松阪市)にある「礫石」にもありますね。ここも命中したら子宝を授かるそうですが。しかも伊勢神宮に参る人限定です。同じ伊勢参宮街道沿いとして共通性が興味深いところです。




>ところで、途中、不思議でもないのですが、石を組んで水平面を造っているところがありました(真ん中の写真)。その上に何を置いていたのでしょうか?




ずいぶん小さいですが何でしょうね。上に神像や石仏でも置いていたものが、後世に何らかの理由で失われたのか。

高見山 2 投稿者:チェリー 投稿日:2012年 7月28日(土)22時44分22秒 返信・引用

 更に100m程下ると「息子岩」の看板がありました。「左約100米の沢の中にあり、この所より石を投げて、命中すれば男子を授かるといわれている。」と記されていました。

 ここから50m程下ると「国見岩」です(上の写真)。「神代の昔、神武天皇が熊野・伊勢を経て高見山を踏破。この峻岩を天皇自らよじ登り四方を展望、兄猾の根拠地の宇陀を眼下に見て、また遠く男坂、女坂、墨坂方面の長髄彦等の敵情を視察された第1回目の軍事評定をした所であると伝えられている。」神武天皇がここから大和に入ったという説があるそうです。

 また、すぐ近くに「乳岩」の表示がありました。「約20米 沢の中にある乳房に似た岩石」とのことでしたが、よくわかりませんでした。

 ところで、途中、不思議でもないのですが、石を組んで水平面を造っているところがありました(真ん中の写真)。その上に何を置いていたのでしょうか?少し前に訪れた岐阜県瑞浪市の「刈安神社」でも同じような石組みがありましたので写真を載せます(下の写真)。

印象的ではあったのです。

 この山の位置情報はあります。この先は独り言ですので、耳を塞いでいてください。目で追っていただくことは構いませんですわ。

 さて、三輪山の頂上、三角点の近くに「高宮神社」があるじゃないですか。ここから高見山が120.02°に見えるのです。これは、高見山が120°の位置に見える場所を祀ったのかもしれません。そして高見山が120°の位置に見える山を聖山としたのかもしれません。「何故その標高の小さな山が聖山とされたのか」というテーマに沿っているのかもしれません。この直線の真下に「惣社水分神社」が位置しておりました。以上独り言でございました。




 












高見山 1 投稿者:チェリー 投稿日:2012年 7月28日(土)17時43分21秒 返信・引用

 三重県松阪市と奈良県吉野郡との県境にある標高1248mの山です。春の連休に訪れたので、すごく道が混んでいて、アプローチに5時間もかかってしまいました。山登りは1時間でした。頂上に「高角神社」の立派な祠があります(上の写真)。神武天皇を導いた「八咫烏」をお祀りしているのだそうです。この山は昔「高角山」と呼ばれていたとのことです。

 さて、頂上から西へ、稜線沿いに下って行くと300m程で「笛吹岩」に至ります(真ん中の写真)。「高見山の開祖聖人が月夜にこの岩頭にて笛を吹けば、両谷より雌雄の大蛇が駆け上がり、笛の音を陶然として聞き入ったといわれている。また、笛の音が山すそまで聞こえると、次の日は必ず雨になったと伝わる。」と表示されていました。

 そこから更に300mも下ると「揺岩(ゆるぎいわ)」に至ります。「多武峰 大職冠 藤原鎌足公」と三度唱えれば、この岩が揺るぎだしたといわれている 別名「五郎宗岩」」と表示されています。唱える言葉の読み方が分からなくて、唱える事が出来ませんでした。そもそも、とんでもない強風と霧で、そんな余裕はありませんでした。 












岩巡り登山ツアー 投稿者:宇部市集落支援員 投稿日:2012年 7月26日(木)22時43分58秒 返信・引用

>MURYさん




大神岩は山中に急に巨岩が現れますので、見応えがあります。

徐々に山道を整備して、秋には奇岩を巡りながらの内立山登山をしたいと計画しております。

地元紙にて募集をかける予定ですが、ぜひこちらの掲示板にも投稿させていただきたいと思いますので、その時はよろしくお願い致します。




>dorcus 様




こちらはいつでも結構です。確かに今は連日恐ろしく暑いですから、秋口位が良いでしょう。

岩巡り登山のほうも、ぜひ参加されてみて下さい。

お待ちしております。

今回は、宇部市小野平原岳の観音岩の画像を添付します。

観音様に見えるそうで、下にはお賽銭箱が設置されております。







http://ubeshienin.jugem.jp/






連絡します 投稿者:dorcus 投稿日:2012年 7月23日(月)05時27分47秒 返信・引用

>宇部市集落支援員 様

HPでみましたが、今は暑いので少し涼しくなったら支所にこちらから連絡したいと思います。案内していただけるようであればお願いいたします。

Re: ありがとうございます。 投稿者:MURY 投稿日:2012年 7月22日(日)23時57分8秒 返信・引用

> No.830[元記事へ]




>宇部市集落支援員さん




お忙しい中、ご丁寧にありがとうございました。

千人塚は思っていたより危ない雰囲気なんですね。最後に挙げられた大神岩もサラッと出されましたが、大層な巨岩です。




>dorcusさん




ぜひ宇部市集落支援員さんや、地元の方と一緒に見に行かれると良いかと思います。見に行かれたらまた写真でも投稿してください(笑)



ありがとうございます。 投稿者:宇部市集落支援員 投稿日:2012年 7月17日(火)23時13分53秒 返信・引用

>MURYさん

お久しぶりです。

ブログまでご連絡いただき、ありがとうございます。

梅雨時期に入りまして奇岩探索は一休みしておりました。




>dorcusさん

宇部市西吉部の龍岩、千人塚に興味を持って頂けたということで、ありがとうございます。




 まず龍岩の場所ですが、宇部市西吉部藤ヶ瀬集落の荒人社のすぐ上にあります。近くで分かり易い建物は、浄円寺(山口県宇部市大字西吉部藤ケ瀬794)という浄土真宗のお寺があります。そのお寺の門から東の方向に頭を巡らせると、龍岩を見上げる形になります。荒人社から約5分で登ることができますが、かなり傾斜がありますので注意が必要です。

 千人塚につきましては、場所が曖昧ですが、山口県宇部市大字奥万倉字城南辺り(信田ノ丸城という山城の登山道入口看板附近)から山道に入った所にあります。

分かりにくい場合は、吉部ふれあいセンターで聞かれるか、宇部市集落支援員まで連絡頂ければ、ご案内することも可能です。宇部市楠総合支所か企画課中山間地域振興班まで、メールか電話を頂けたらと思います。もちろん集落の方々も快く教えてくれます。

 龍岩は非常に分かり易いですが、千人塚のほうは地元の方も良く知らないと思います。

山道で、しかもお墓(と言われている)ですので一人で行くことはおすすめできません。私も冬に一人で行ってみたのですが、あまりに恐ろしかったために五基あるうちの一基しか確認せず、飛んで帰りました。後に元猟師の方の案内で行ってみて、言われて初めて複数あることが確認できました。

 是非山口県宇部市の山里へお越しください。

 画像は大神岩と呼ばれる巨岩と、大神岩附近の山頂にある雨乞紀念碑です。







http://www.city.ube.yamaguchi.jp/shisei/keikaku/chiikisaisei/shienin.html






(無題) 投稿者:MURY 投稿日:2012年 7月16日(月)22時41分25秒 返信・引用

>dorcusさんへ




宇部市集落支援員さんがこの投稿に気付かれないかもしれませんので

念のため先様のブログにお知らせしておきました。

Re: 千人塚 投稿者:dorcus 投稿日:2012年 7月14日(土)14時04分59秒 返信・引用

宇部市集落支援員さんへのお返事です。




昔の史跡を整備されているようで頭が下がります。ご苦労さまです。

私も自分の目で見てみたいです。

龍岩、千人塚はどのあたりにあるのでしょうか?







> お久しぶりです。

> 宇部市西吉部藤ヶ瀬で集落の方が巨石の整備をしました。

> http://ubenippo.co.jp/2012/04/post-2732.html

> 他にも、千人塚と呼ばれる古戦場跡?にある石積みを見つけました。

>

> これは墓ということですが、四角の石積みが5ヶ所並んでおり、興味深いです。

> 宇部市からの情報提供でした。

>

Re: 糺の森の祭祀遺跡 投稿者:MURY 投稿日:2012年 7月10日(火)01時43分19秒 返信・引用

> No.826[元記事へ]




ありがとうございます。

下鴨神社は最近、石拾神事の復活でニュースになりましたね。

各種プレスでは、本殿の周りに敷き詰められた小石を磐座と表現していました。その表現はどうかと思いますが・・・

むしろ、拙著で取り上げた桑名の石取祭と相通ずるものを感じます。

糺の森の祭祀遺跡 投稿者:uzi 投稿日:2012年 7月 7日(土)09時35分31秒 返信・引用

胡宮神社の寿命石・枕石を調べて頂きありがとうございます。




下鴨神社にこんなのがありました。




http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






Re: 胡宮神社 投稿者:MURY 投稿日:2012年 7月 5日(木)22時08分0秒 返信・引用

> No.823[元記事へ]




玉垣の中の写真ありがとうございます。

ちょっと検索にかけてみました。

そうすると、下のページが参考になりました。

胡宮神社の寿命石・枕石を見に行った方です。



http://homepage1.nifty.com/rekisi-iv/kikou-kokunai/59konomiya/konomiya-main.htm




このページを読む限りでは、確定はできませんが、寿命石はウージーさんが掲げた赤っぽい石で、枕石は玉垣の中の30cmほどの石だそうです。

(添付写真の赤丸の中の石? ウージーさんの写真お借りしました、すみません)




枕石といえば、人が亡くなった時に故人の枕元に供養で捧げる石のことをそう呼びます。

ちょうど玉垣内の丸石が、まるで捧げている枕石のように見えるので、そう呼ぶのかとも思ってしまいました。ちょうど寿命石という、人の生き死にに関わる石ですし。




寿命石が玉垣の外というのがちょっと引っかかる話でしたが、今のところこんな結果です。






Re: 胡宮神社 投稿者:uzi 投稿日:2012年 7月 3日(火)20時31分5秒 返信・引用

> No.822[元記事へ]




多賀大社は掲示に「寿命石と祈願の白石」とあり、

20Lポリタンよりやや大きな石と、

車折神社にあるような、祈願文が書かれた平たく丸い白石が

多数ありました。

胡宮神社の石の玉垣内は、写真の様になってます。

玉垣の西側には青っぽい石、東側には赤っぽい石がありました。

氏子の方らしき人が数人、何かの準備しておられたので、

聞いてみたのですが、寿命石も枕石も玉垣内にあるとの認識でした。

小さな多数の石に埋もれているのでしょうか。




調宮は杉坂に有る神木とセットで回ろうと思い、

結局、未だに行けてないんです。

磐境かもしれないですね。

いい情報ありがとうございます。

参拝しましたら必ずご報告致します。










http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






Re: 胡宮神社 投稿者:MURY 投稿日:2012年 7月 1日(日)20時47分53秒 返信・引用

ありがとうございます。

多賀大社は確か寿命石だけでしたよね?枕石ってなんだろうと思って。

写真はなぜか遠目に1枚しか撮っていなくて、玉垣の中の岩石の写真を写してないんです。

ですので記録と記憶が断片的。




ウージーさんは調宮神社には行かれましたか?これも記憶があいまいなんですが、あの神社は境内と境外を自然石を並べて区画していたような気が。これも写真に残してないんですよね~。

また多賀一帯は訪れ直さないといけません。

Re: 胡宮神社 投稿者:uzi 投稿日:2012年 7月 1日(日)13時27分41秒 返信・引用

> No.820[元記事へ]




以下の掲示が、ありました。

『寿命石・枕石 八百年前の昔双俊乗坊重源は、後白河法皇の宣旨をうけ、

奈良東大寺の造営勧進を当社に参籠し延命祈願をされた。』




少し離れた多賀大社にも、重源が長寿を祈念した寿命石がありました。

MURYさんアップされていた気がするのですが。

胡宮神社の寿命石もご存知だったんですね。

http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






Re: 胡宮神社 投稿者:MURY 投稿日:2012年 6月30日(土)22時04分35秒 返信・引用

> No.819[元記事へ]




> 10年ぶりに滋賀県の胡宮神社に参拝、さらに青龍山の磐座に行ってきました。

> そしたら添付写真(2001年10月撮影)の大きな木が無くなってました。




これ↓ですね。

私も2001年に参拝したので、写真の左下に写ってました。

はたから見ると似た者同士ですが、

巨木ファンの方は、その儚さや「生き物」感に惹かれるのかもしれませんね。




> 胡宮神社にも重源にまつわる寿命石がありました。




私が撮った写真に、寿命石と併記して「枕石」と書いてありました。

どんないわれの石だったか記憶が出てきません・・・。









胡宮神社 投稿者:uzi 投稿日:2012年 6月24日(日)14時08分6秒 返信・引用

10年ぶりに滋賀県の胡宮神社に参拝、さらに青龍山の磐座に行ってきました。

そしたら添付写真(2001年10月撮影)の大きな木が無くなってました。

御神木だと、落雷や台風などで一生を終わることもあるかもしれませんが、

その点磐座は・・・と思いかけて、いや人間様が何をしでかすか・・・




胡宮神社にも重源にまつわる寿命石がありました。




http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






オーカミ谷 投稿者:MURY 投稿日:2012年 6月17日(日)23時07分7秒 返信・引用

オーカミ谷はおそらく「拝み谷」の意味と思います。

玄賓庵というお寺の奥に広がる谷です。

江戸時代、玄賓庵は三輪山の中腹にあったそうで、具体的にどのあたりかは知らないんですが、もしかしたらオーカミ谷の人工的な磐座は、そういった寺院の遺構じゃないのかとも思ったり。

学生社発行の『大神神社』によれば、オーカミ谷の中に鏡石という地名か石の名前があるようです。

Re: 大湫(おおくて)の二つ岩 投稿者:チェリー 投稿日:2012年 6月17日(日)01時03分52秒 返信・引用

> No.816[元記事へ]




 はい。鬼岩と書いてあるのは、あるサイトの方だけですが、二つ岩から西へ直線距離で8km程のところが鬼岩公園なりますので、そうなると思います。富山県は実際に義経一行が通ったところになるのでしょうが、美濃の山奥に義経伝説というか、弁慶の話が誇張されて伝わったのか興味深いです。

 ところで、「オーカミ谷」というのは三輪山の西側にあるのですね?心魅かれる谷のようですが、禁足地なんですねぇ。



Re: 大湫(おおくて)の二つ岩 投稿者:MURY 投稿日:2012年 6月14日(木)22時56分53秒 返信・引用

> No.815[元記事へ]




鬼岩というと、あの御嵩町と瑞浪市の間にある鬼岩公園のことですか?

確かに、鬼岩公園はこの2つの岩みたいなタマネギ形の巨岩がたくさんありました。




弁慶ですが、あちこちで岩石と触れ合ってますね。手形・足形の数が半端ないです。

弁慶自身、生前に大切にしていた石(京都市の弁慶石の伝説)があるらしいですし、もしかして本邦最初の石マニアなのかも?




おもしろいのは、富山県南砺市の弁慶岩は、弁慶が担いできた岩らしくて、岩に赤みを帯びた部分があるんですが、それは弁慶が担いだ時についた血だそうです。

富山では、軽々とお手玉をした弁慶さんとはちょっと違うキャラクターにうつったようです。



大湫(おおくて)の二つ岩 投稿者:チェリー 投稿日:2012年 6月11日(月)22時46分49秒 返信・引用

 岐阜県瑞浪市大湫町 旧中山道大湫宿の500m位西の道沿いにあります。

 夫婦岩、陰陽岩とも呼ばれるそうです。それぞれに名前があって。上の写真で手前が母衣(ほろ)岩(真ん中の写真が正面からのもの)、奥が烏帽子岩(下の写真が正面からのもの)です。

 弁慶が旅の途中、鬼岩から取って、お手玉をしながら歩いて、ここに置き忘れちゃったという、とてつもないスケールの伝説があるそうです。弁慶岩と呼ぶこともあるそうです。

 となりの土岐市にあった「稚児岩」も弁慶が運んできたという伝説がありました。

 一体、この地方の人は、弁慶を何だと思っていたのでしょうか。ウルトラマンクラスの巨人じゃないと無理なんじゃないのかなぁ。

 安藤広重の木曽街道六十九次「大久手」にあるのがこの岩だとも言われますが、あまりに形が違いますので、描かれているのは他の岩だと思います。

 今回も位置情報はありませんです。












Re: 奇縁万歳 投稿者:MURY 投稿日:2012年 6月11日(月)00時35分8秒 返信・引用

> No.813[元記事へ]




阿弥さん、こちらこそはじめまして。

それだけ共通項があると、こちらもびっくりです。




ここでチャゲアスの話題が出るのっていつぶりですかね。10年ぶりぐらい?

DOUBLEのライブに参加したぐらいには好きです。

昔、ちょっとしたサイトを作っていたぐらいにも好きです。

(このサイトより、そっちのサイトのほうがレスポンスは激しかったなあ・・・掲示板すらなかったのに。チャゲアスファンの熱い気持ちを感じました)

はやく活動再開してくれるといいですよね




ブログ拝見しました。プロの山伏様なんですね。

山を開くの感覚、深く共感します。

山を分け入っていると、道を作ることの偉大さがわかります。




とはいえすっかり私もインドアになってしまい、語っていることは昔取った杵柄、もとい机上の生兵法状態です。

私の500倍アクティブな活動をされておられると思います。

ブログでいろいろ勉強させていただきたいと思います。




本のご意見もくださいね!

奇縁万歳 投稿者:阿弥 投稿日:2012年 6月 9日(土)22時42分5秒 返信・引用

管理人様、はじめまして。

今日、図書館で御著書を見つけました。

私も磐座を研究しているものです。

著者略歴を見て吃驚、私と同い年&同郷。

しかもブログを拝見すると、チャゲアス好きなのですか?

私もチャゲアスマニアです。

すごく驚いています。

これからご本を熟読させて頂きます。




私は専門が東洋哲学でして、管理人様とはアプローチが違います。

とりわけ神道を研究していますので、神と石の関係について考察しています。

節理ですね、あの岩の割れ目から神が飛び出して来るのではないかなと夢想しています。

天の磐座押し放ち、って祝詞によく出てくる文言ですね。

トンデモ系で恐れ入りますが。

ブログも書いてます。




今後ともよろしくお願いします。

http://yamabushi4913.blog.fc2.com/






Re: 刈安神社 投稿者:MURY 投稿日:2012年 5月27日(日)21時49分47秒 返信・引用

> No.811[元記事へ]




いつも情報ありがとうございます。

そして返事が遅くなり申し訳ありません・・・。




社殿裏の巨岩、かなり目立ちますね。

しかも山頂ということで、信仰の山としてこれ以上おあつらえ向きの素材はないですね。だから神社も山頂に作られたのでしょうか。




参道途中の石祠の岩壁ですが、これはご神体のようなものかもしれませんし、借景のような感覚かもしれませんね。

さしずめ、岩の露出する妙景こそ、神祠を鎮める神域にふさわしいという感覚。発想としてはアリですよね。岩がなければ別の場所にまつったかもしれませんし、祠ができる前には、もしかしたら今はなき伝説が付帯していたかも。

http://www7b.biglobe.ne.jp/~megalith/






刈安神社 投稿者:チェリー 投稿日:2012年 5月13日(日)14時19分14秒 返信・引用

 岐阜県瑞浪市釜戸町の北部、「権現山(標高592m)」の頂上に鎮座します。旧中山道沿いの大井宿と大湫宿の間に入口があり、巨石が点在する斜面を登ること約20分で到着です。神殿の背後に巨石が密着しておりました(上の写真)。この岩の頂が山頂という事になるようです。

 参道の途中、石の祠が二つ並んでおりました(真ん中の写真)。左が「稲荷大明神」、右が「金毘羅神社」です。正面に小さな谷を挟んでラグビーボール型の巨石が位置します。この岩を祀っているようです。この岩を西の端として東方向に岩壁が続いています(下の写真)。ここはとても雰囲気のある空間でした。

 今回は位置情報はありません。












Re: 千人塚 投稿者:MURY 投稿日:2012年 4月11日(水)02時10分57秒 返信・引用

> No.809[元記事へ]




>宇部市集落支援員さん




リンク先の記事、見させていただきました。

着々と、地元で隠れていた岩や石の存在が再び注目されて、整備も進んできましたね。




たまたま先ほど自分のブログに発掘に関しての記事をあげましたが(ブログにあげたのは別の場所の話です)もし雑木を伐採している最中に、根っこなどから土器などが出てきたら、触らずに教育委員会の文化財課に連絡してあげてください。意外とこういう作業の時に出てきます。




みんなの記憶の中から存在が抹消されてしまうのなら、伐採して整備するのはぜひ進めてほしいことだと思います。

岩石の改変や地中の掘り込みだけは気をつけてくださいね。




> これは墓ということですが、四角の石積みが5ヶ所並んでおり、興味深いです。




岩石の利用に事欠かない場所ですね。忘れられた歴史がたくさんある山なんでしょう。大事にしてほしいと思います。



千人塚 投稿者:宇部市集落支援員 投稿日:2012年 4月10日(火)23時41分40秒 返信・引用

お久しぶりです。

宇部市西吉部藤ヶ瀬で集落の方が巨石の整備をしました。

http://ubenippo.co.jp/2012/04/post-2732.html

他にも、千人塚と呼ばれる古戦場跡?にある石積みを見つけました。




これは墓ということですが、四角の石積みが5ヶ所並んでおり、興味深いです。

宇部市からの情報提供でした。




http://ubeshienin.jugem.jp/?eid=69






元伊勢 ほんの少し 投稿者:チェリー 投稿日:2012年 3月 4日(日)16時21分13秒 返信・引用

 尊敬なんてとんでもない、とてもありがたいのですが、私などは俗な輩にすぎません。この手の話はやたら暴走する場合が多いので、注意しているだけなのです。ノートから拾うラインは多分3000本位になると思いますが、半分程は偶然の一致ですぐ消えると思います。これはと思うものは、更に半分、何らかの形で繋がりが説明できるものはほんの一部です。MURYさんの分類のとおり、<頭の中の世界を読み取る手段>歴史性・意図性が少しでもあれば、説得力が一気に上がるのですが‥。でも、なんでも記録するつもりです。解析は後世の人達に任せましょう。

 一番好きなのは、kunittiさんのおっしゃるとおりで、夢のある不思議な話です。

去年、三重県多気郡にある「斎宮跡」を訪ねました。車のトラブルで歴史博物館には間に合わなかったのですが、「斎王の森」を見ることができました。ここから朝熊ヶ岳の頂上が120.01°に見えるからです。朝熊ヶ岳の頂上から500m程南東には、伊勢神宮の奥の院とも言われる「金剛証寺」があって、ここから富士山が60.00°なのです(もっとも直接見えるのはすぐ近くの山頂売店の駐車場のようですが)。

 斎王の森から西、270.03°で最初の元伊勢である笠縫邑の候補地のひとつ、「檜原神社」に至ります。

 朝熊ヶ岳の沖合いにある「神島」からも富士山が見えて、島の頂上から富士山は59.99°です。

 神島の頂上から西、270.05°でやはり笠縫邑の候補地のひとつ、「笠縫神社」に至ります。

 これらの地点は富士山との関係を西方に伝えるものではないかという幻想でした。

 ところが、笠縫神社から真東90.01°が斎王の森になるのです。これではジグザグになってしまいますなぁ‥。

 という調子ですわ。やっぱり俗っぽい話になっちゃいますねぇ。でもがんばってまとめていきます!

 あまり岩石の話から離れたくないので、このあたりで、お後がよろしいようで。






Re: 雨乞山(岐阜県瑞浪市) 投稿者:MURYメール 投稿日:2012年 3月 1日(木)23時33分56秒 返信・引用

> No.806[元記事へ]




>チェリーさん




ここはそんなに堅苦しい場所でもないので、何でも気軽にどうぞ(笑)

むしろたくさんの情報をネット上に残して頂けているので、私としては大歓迎です。そもそもチェリーさんの真摯な姿勢と、自己批判をしっかりなされた考えには私も尊敬しています。見習わないといけません。




ライン研究は私自身、専門にやったことがないのと、地球の丸みを考慮した上での調査方法(ただ地図の上で線を引っ張るのではない)に疎いこともあるので、いつも大したコメントができていなくて申し訳ないなあと思っています。

ということで、気にせず書いてくださいね。




直線も1100本になりましたか!

私も、ぜひそのデータを何らかの形で公開されるべきだと思います。

元伊勢関係の話は私も興味津々なので、資料参考にしたいです。




> MURYさんの分類で「A以前. 幻想」という項目があればと思います。






いいですね(笑)それ使わせてもらいます。




Re: 雨乞山(岐阜県瑞浪市) 投稿者:チェリー 投稿日:2012年 2月26日(日)21時25分2秒 返信・引用

> No.804[元記事へ]




kunittiさんへ。

では、トンデモ話を始めますが、「何でも気軽に」って書いてあるので、書いちゃうんだけど、いいかなぁ~?ここは学問の場だし、都合のいい解釈としか思えない話だし、今のところ「幻想」なんですけど。

MURYさん、ごめんなさい。掲示板とは言え、今回はあんまりなんだけど、一度だけ目をつぶってやってください。

◎本州中部の山岳地帯からラインを引いてお祈りする場所を決めた事があったと想像するのですが、あくまで真っ直ぐに延ばすこともあるし、途中で改めて角度を測って繋いで行く場合もあるという話。

 美内すずえさんの「アマテラス 倭姫幻想まほろば編」に触発されて元伊勢伝承地を探っていたのですが、神奈備さんの丹生都姫伝承や大屋毘古神・五十猛命のホームページに辿り着き、出雲の日御碕神社や船通山を知りました。日御碕神社は須佐之男命と天照大神を祀ります。伊勢神宮が日本の昼を守るのに対して、日本の夜を守るのだそうです。船通山は鳥取県と島根県の県境にある標高1142mの山。須佐之男命が天下った所、八岐大蛇を退治して草薙剣を得た所とも言われるそうです。

 ここを直線で結ぶと、出雲大社と大念寺古墳が線上に位置しました。更に船通山を越えて反対側に延ばすと、備前国分寺跡に至りました。大念寺古墳は、巨大な石棺で知られるのだそうです。国分寺は聖武天皇により各国に建立が命じられた寺院ですが、その位置は方位に関係することが多いのです。そして朝廷と敵対していた行基さん。御二人は協力して、全国にまるでネットワークの様にラインを張り巡らすことを始められたようです。

 山陰地方は東西関係が多いです。出雲大社が元伊勢内宮から真西にとても近い269.92°に位置することは知っていましたが、大念寺古墳は伊吹山から270.00°でした。

そして日御碕神社は松江市と安来市の中間にある揖夜神社から270.00°でした。揖夜神社は黄泉比良坂の入口と言われる場所に鎮座しています。

更に、揖夜神社を調べてみると、伯耆国分寺跡から269.98°でした。

そして、伯耆国分寺跡は舞鶴市の円隆寺から269.96°でした。円隆寺は行基さんが開いたお寺です。

さて、円隆寺は雨乞山の三角点から269.99°になるのでした。それで調べに行ったのです。頂上の祭祀された場所からは270.01°、巨石からは270.00°でした。

でも、もっと確認したかったのは、始点がどこなんだろうということでした。南アルプスの赤石岳から雨乞山の三角点は270.07°ですが、頂上の祭祀された場所なら270.03°、巨石は270.04°でした。かなり正確になってよかったです。

つまり、出雲地方に赤石岳からのラインが繋ぎ繋ぎで届いているという幻想でございました。

MURYさんの分類で「A以前. 幻想」という項目があればと思います。皆さんごめんなさい!



















Re: 雨乞山(岐阜県瑞浪市) 投稿者:チェリー 投稿日:2012年 2月26日(日)20時59分7秒 返信・引用

> No.803[元記事へ]




MURYさんへ。

 やはり、奥深いものですね。

 Wikipediaに記事があります。これはBになるのでしょうか。でも、巨石の上に白山神社が祀られていると書いてあります。あの穴と関係あるのでしょうか?少し離れた所に同じくらいの直径の僅かな窪みがありました(上の写真)。でも、祀られていたのは東に離れた石組みだったのです。東の巨石の斜面を代表して、その一番上といった位置取りに思えましたが、巨石の上とは言えないなぁと思いました(真ん中の写真が東の斜面、下の写真が西の斜面です)。

 また、わかったことがあれば、御報告します。




kunittiさんへ。

 雨乞山の場所は岐阜県瑞浪市の最北部になります。こぶしゴルフ倶楽部と日吉ハイランド倶楽部の中間くらいに位置していて、県道366号線がすぐ北を走っています。この道沿い、山の北に瑞浪市コミュニティバス「三本松」というバス停があって、すぐ近くに斜面を登っていく林道があります。これを200m程進むと交わる林道があって、これを左に進むとすぐ墓地があります。墓地の脇を通って250m程進むと山頂です。その先50m程で石組みがあります。

 「雨乞山 瑞浪市」で検索すると、何人かの方の写真付きの道順をみることができます。中央自動車道瑞浪IC・土岐IC、東海環状自動車道可児御岳ICのどれからも20km以内の距離だと思います。

 ただ、20分程で登ってしまう山ですので、他の訪問地と組み合わせた方が良いかと思います。中山道も昔の姿で残っていて、ハイキングには絶好の地域です。岩石に関する場所も、また紹介したいと思います。近くにはMURYさんのレポートにある「鬼岩公園」があって、岩の間をくぐる道が続きます。奥様が行かれるのであれば、可児市の「花フェスタ記念公園」が花いっぱいで素敵です。お子様には瑞浪の「サイエンスワールド」が喜ばれるかも。

 さて、私自身の調査について、いつかまとめて発表しますと言ってから年数が過ぎてしまいました。継続してノートの情報をエクセルにまとめているのですが、気持ちばかりあせって、進みが遅いです。直線は1100本を越えたところで、やっと半分といったところです。kunittiさんの声を励みにしてがんばります。本当にごめんなさい。また、ありがとうございます。




 












Re: 雨乞山(岐阜県瑞浪市) 投稿者:kunitti 投稿日:2012年 2月23日(木)07時00分51秒 返信・引用

> No.802[元記事へ]




チェリーさんへ。毎回、楽しく拝見させていただいております。




雨乞山…なんか良い雰囲気醸し出していますね。。

この雨乞山の場所、岐阜にあるんですね。よろしければもう少し詳しく教えていただけないでしょうか。^^

できれば、春になったら行ってみたいと思いました。。




> もちろん位置情報を探って、ここを調べにきたのですが、誰も信じないだろうという内容ですので、今回は記するのをやめておきます。




何をもったいない事言ってるんですか^^以前、ここでで言わせていただきましたが、チェリーさんの探訪の記録、ブログなど、どんな形でも良いので、まとめていただきたいと思っています。




専門的な分析も、大変重要ですが、ストレス社会の現代において生き甲斐といいますか…荒唐無稽であったとしても、理屈無しの夢とか想像力をかき立てるものも必要だと思います。

わたしの子ども達を見ていて、毎日ゲームに夢中で、自分自身で考えたり、想像したりすることが少なくなってきていると実感しています。




いずれにしても、どういう訳かは分からなくても、『そこに在る』という事実はありますからね。




これからも、チェリーさんの活躍楽しみにしています。




失礼なこと言ってしまったかもしれませんが、お許しください<(_ _)>




 

Re: 雨乞山(岐阜県瑞浪市) 投稿者:MURYメール 投稿日:2012年 2月20日(月)01時03分25秒 返信・引用

> No.802[元記事へ]




ありがとうございます。




地味な内容なんてとんでもない。こういった場所なら、私も現地に行ったならば印象に残っただろうと思います。

悲しいかな私も素人なので「気になる」レベルのコメントしかできないのですが、そこを無理して、どうやったら「歴史の復元」に近づくのか、少し方法論について考えました。話が横道にずれますがお許しください。







<頭の中の世界を読み取る手段>

↑表層的 A.研究者、観察者の感想

     B.現代人への聞き取り(知人、地元の人)

     C.これまでの研究者の考え

     D.口承

     E.執筆年代が分からない文献

     F.執筆年代が分かる文献

↓理想的 G.本人から話を聞く




<場所から分析する方法>

↑表層的 H.現状の風景を見ての印象

     I.自然物の位置

     J.人工物の位置(露出部分の観察)

     K.人工物の位置(埋没部分の検出=考古学的調査)

     L.理化学的分析、天文学的分析

↓理想的 M.古環境復元







雨乞山のケースに置き換えると、石組み、一升瓶、茶碗、巨石の穴はJに該当し、斜面の巨石群はIでしょうか。

山名は「いつの時代から呼ばれているか」が分かればFで、突き止められないとA止まりとなります。Gのように本人(=信仰の当事者)から話が聞ければベストなのですが、歴史研究の場合、ほとんど本人は亡くなっているので、極力歴史の古い記録から間接的に推測するしかありません。




言葉や文字の世界だけでは限界がある、とは言ったところで、場所からの分析だけでも不十分なのです。




Kのように地中を掘って中から遺物や遺構が出てきても、それが何のために使っていたものかが分からないことはよくあります。祭祀考古学が抱える永久的課題です。

文系発想から離れ、理系なLも聞こえはいいですが、岩石が原位置から動いていることが分かったり、天体運行と一致することが分かっても、A~Gと突き合わせなければ歴史性・意図性の裏付けを欠きます。

岩石が動いたのは二次的な自然変動の結果だったり、信仰・祭祀とは無縁の活動の所産である可能性もあります。歴史学なしでの天文分析も同様で、偶然の範囲を出ないと言われても仕方ない所以です。




私たちがはまりがちなのは、現代的発想で昔の話をしやすいというところにあると思います。

そこで専門家の方々にお願いしたいのが、Mの古環境復元です。当時の景観、地理的状況、それだけにとどまらず、当時の知識水準・生活水準・技術水準などの「同時代情報」が出揃えば、これらを前提としてリアリティのある歴史復元トークがあちらこちらでできるのではないでしょうか。

雨乞山(岐阜県瑞浪市) 投稿者:チェリー 投稿日:2012年 2月13日(月)01時34分42秒 返信・引用

 雨乞山は瑞浪市の北、10km程の所にある標高509mの山です。

 平らな頂上部の、三角点の50m程南に、自然石を組み合わせた石組みがあり、一升瓶と茶碗が二つありました(上の写真)。お神酒をお供えしたのだと思います。山名から考えて、雨乞いの神事に関係したものと想像されます。

 20m程西に巨石が鎮座しています(真ん中の写真)。祀られてはいませんでしたが、上面に小さな穴が穿ってありました(下の写真)。何の為なんだろう?

 なだらかな山容からはわからなかったのですが、ここから東面と西面の斜面は巨石が多く見られました。

 以上、地味な内容なのですが、何故か心に残るものがあって、御報告する次第です。

 もちろん位置情報を探って、ここを調べにきたのですが、誰も信じないだろうという内容ですので、今回は記するのをやめておきます。




 












Re: 利修仙人護摩所 投稿者:MURYメール 投稿日:2012年 1月29日(日)23時57分21秒 返信・引用

> No.800[元記事へ]




岩場や岩壁、崖の上は要チェックです。

岩の上で祭祀をして、崖の下に放り投げたなんてよく聞く話です。




という割に、私は遺物を見つけるのがヘタクソというか才能がないようで、

ほとんど出会ったことがありません。

それなりの場所は歩いてきているはずなのですが(笑)

――もちろん、ふつうはそんな簡単に見つからないものなんですけど。




ただ、みなさん、遺物をもし見つけても触らず、持ち帰らずでお願いします(笑)

大切な遺物の記録・管理はプロにまかせましょう。




「家型の岩」(=つまり岩陰を持つということ)という表現も最近よく聞くので気になってきています。

Re: 利修仙人護摩所 投稿者:チェリー 投稿日:2012年 1月25日(水)02時32分34秒 返信・引用

> No.799[元記事へ]




 護摩所へ下る途中で崖の上が望めました。ここで家型の不思議な岩を目撃したのです(上の写真)。遠目で自然に削られた岩だと思ったので近くまで行かなかったのですが(近づくのが困難ではありましたが)、確認しておけばよかったです!

 真ん中の画像の地図で、黄緑色の線が途絶えたところで道を見失って尾根を間違えたのですが、実はとても魅力的な道でした。途中巨石があって、それらしい雰囲気のある隙間もあって、ここは信仰されているんじゃないかとも思ったのですが、何かの痕跡は見つかりませんでした。MURYさんの日記にあるように、これはと思う岩石でも信仰されるのかされないのか、不思議ですねぇ。

 下の写真が「高徳不動」です。「この地には、しいの大木に姿を変えた観音様が、大猪に襲われた猟師を助けたという伝説が残されています。」と表示されていました。岩の上から滴り落ちた水が小さな池を作っていました。ここもよいところです。写真の緑色が素敵です。

 「高徳不動」北緯34°58′47.05″ 東経137°34′22.04″(WGS84)

 鳥居マークの付近では、やはり何も見つけられなかったです。三河本宮山と鳳来寺山の繋がりがとれなくて残念でしたが、次のような例もありますので、まあ、聞き流しといてください。三河国一の宮である「砥鹿神社」は三河本宮山の真南に位置しますが(179.78°)、ここから鳳来寺の「奥の宮」は45.00°になります。このラインは逆方向に延ばすと境内に豊川稲荷がある「妙厳寺」に至りますので、よろしいかもしれないと思ったことでした。以上でございます。












Re: 利修仙人護摩所 投稿者:MURYメール 投稿日:2012年 1月22日(日)22時26分29秒 返信・引用

> No.798[元記事へ]




地図で調べました。山の西側にそんな場所があったんですね。

鳥居マークのところに何もなかったというのが不思議です。国土地理院が「やってしまった」可能性もありますけど、護摩所なのに鳥居マークをチョイスするというのも???です。

鳥居地点は尾根上の「良い」場所にあるので、ここに何かあってもよさそうですけどね。




岩崖がオーバーハングしているんですね。

崖下に祭祀の場が築かれていますが、最近知った長野県長野市の鶴萩七尋岩陰遺跡では、岩の上から古墳時代の祭祀遺物が見つかっています。

崖の上が見過ごせないなあと最近注目しています。



利修仙人護摩所 投稿者:チェリー 投稿日:2012年 1月20日(金)02時13分0秒 返信・引用

 鳳来寺参道二の門の手前に写真付きの表示があり、道を北に取って1km程歩くと「高徳不動」に至ります。あれっ!行き止まりじゃん!前回の反省からGPSに位置を入力していたので、それらしき踏み跡を見つけて登っていきました。地図上ですぐ北の尾根に記されている神社のマークを目指していたのです。ここが利修仙人護摩所だと見当を付けていました。

 去年の秋、鳳来寺山の最高点である「瑠璃岩」の脇からここへ下ろうとしました。赤いテープを見逃さないように進んでください、初心者は無理とのことでしたが、あたしゃ別に初心者でもないし、尾根に沿って下れば着くんだろうと思って下ったら途中で目印の赤いテープが無くなっちゃった!無理やり下っていったらどこを歩いているんだかわからなくなって、日は暮れてくるし、ヘッドライトは車に置いたままだし、前のほうでドサドサッて音がして大きな獣がグワオーって叫び声をあげるし、何とか見知らぬ土地に降りてきたのでした。

 今回は目標の位置に到着しましたが、何も見つかりません。岩が露呈した尾根でした。尾根に取り付いた時に、反対側に下る道があって、小さな表示に「くろせ 仙人さま」と矢印がありました。そうか、あっちだ!

 表示から100m程の距離で到着しました。

 上の写真は庇を写したかったので、かなりローアングルで撮っています。真ん中の写真は石像のアップ、下の写真は横から写したものです。説明の看板がありました。「鳳来寺山を開いた利修仙人は、ここで護摩を焚いて修行を積み、悟りを開いたといわれています。 やがて仙人が鳳来寺に移られてからも、地元の人はこの場所を「仙人さま」と呼び、参拝を続けました。現在も山麓の集落の人々によって祀られています。石像は元禄六年(1693)四月に建立されたものです。利修仙人は朝鮮に渡って不思議な力を身につけ、どんな病気も治し、鳥に乗って自由に空中を駆け巡ることができたといいます。」

 巨大な岩壁から箱型に岩塊が欠落しています。斜面の下方にその部分が落下しているようです。ダイナミックな空間でございました。

 利修仙人護摩所 北緯34°58′51.59″東経137°34′11.22″(WGS 84)

 神社マークの地点が三河本宮山から60.02°の地点でしたが、何も見つからなくて残念です。この護摩所は59.85°になってしまうのですが、まあ、何ともいえないです。












Re: 釣石神社 投稿者:MURYメール 投稿日:2012年 1月15日(日)21時16分24秒 返信・引用

> No.796[元記事へ]




記事のご紹介ありがとうございます。中日新聞にも出ていました。

釣石神社はTVのナニコレ珍百景で知りました。

災害にも耐え、同じ姿で未来永劫残り続ける岩石に、安心感や力強さを感じました。多くのみなさんにも伝わったんでしょうね。




私の母校(高校)の校門に、卒業生が贈った巨石があってマスコットキャラクターになってるんですが、受験する中学生がこの巨石を触ると合格するなんていう噂があることをこの前知りました。

触らにゃ損々。



釣石神社 投稿者:uzi 投稿日:2012年 1月13日(金)10時02分15秒 返信・引用

今日の朝日新聞1面に宮城県石巻市にある釣石神社の記事が出てました。

記事の内容は、下記URLで見る事が出来ます。




http://www.asahi.com/national/update/0110/TKY201201100096.html




YouTubeに動画もあります。

http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






Re: よりよい年でありますように 投稿者:MURYメール 投稿日:2012年 1月 4日(水)16時42分46秒 返信・引用

ウージーさん、あけましておめでとうございます。ご挨拶ありがとうございます。




そうですね、今年、よりよい年にしていきたいですね。気合です。




今日から平常運転で行きたいと思います。

ここをご覧の皆様も、今年一年よろしくお願いいたします。

よりよい年でありますように 投稿者:uzi 投稿日:2012年 1月 1日(日)10時55分50秒 返信・引用

本年もよろしくお願い致します。




http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






Re: 石に石で祈願する 投稿者:MURYメール 投稿日:2011年12月19日(月)00時13分47秒 返信・引用

> No.792[元記事へ]




> 「安産祈願」の文字がやはり多かったです。




教えていただきありがとうございます。

京都・滋賀は字を書く石をよく見ますねと言おうと思ったら、花の窟神社にもありましたか。私は気が付きませんでした。一字一石経からの歴史を考えれば日本全国どこでもありそうです。




そうそう、そういえば花の窟神社の手水所の横にある丸石ですが、あの石に水をかけて祈ると、病んでいる部位が治るという信仰があると野本寛一先生の『石の民俗』(雄山閣、1975年)の162頁に書いてありました。

昔のウージーさんの投稿で気にかけられていた通り、あの丸石も霊石だったんですね。




松尾山の磐座ですが、私は現在の正式登拝掟が制定される前の、違うルート経由で見た人間なのであまり何も言えないのですが、磐座はかなり急な斜面上にあり、たぶん現在の登拝道もぜいぜいするのではないかと推測します。

三輪山の登拝掟を忠実に踏襲しながらも、1000円、2名以上というのが松尾流ですね。




巨大な岩塊だと思います。私がそれ以上に興味深かったのは、磐座の手前にあった石積みらしきもの。かつての祭祀の跡だとしたら、私はそちらのほうが見る価値ありだと思います。若干記憶あいまいなので、私もいつか改めて正式に登拝しないと。

石に石で祈願する 投稿者:uzi 投稿日:2011年12月18日(日)12時36分24秒 返信・引用

>何か書いてありますね。名前・祈願事でしょうか。

「安産祈願」の文字がやはり多かったです。

女性名以外に、男女ペアで名前の書かれたものや、

男性名だけのもあり、「お父さん(未来の?)偉い!」

なんて、思いました。

月読神社の静かなたたずまいが好きです。




松尾大社の磐座は、宝物館で写真を見ました。

写真で見た限りではでかい様に思いましたが、

MURYさんはこの磐座の調査をされたと記憶しております。

時間と体力に余裕を持たせて登ってみましょうか。

しかし入山料1000円は三輪山より高い?

宝物館にある市杵島姫命他、神像がお気に入りです。




写真は花の窟神社にあったものです。




http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






ありがとうございます 投稿者:MURYメール 投稿日:2011年12月11日(日)20時32分36秒 返信・引用

>宇部市集落支援員さん




やはり「こうご石」と「やまんばのおひつ/じいとばあの箪笥」は違うものでしたか。同じ山に2種類の異なる岩石があるのですね。

清水さんがご覧になった石積みが「やまんばのおひつ/じいとばあの箪笥」であればいいなと思います。




「若宮様」の件ですが

>民家が2軒位しかない場所ですので、今後忘れられていくのではないかと思います。

ということで、大変貴重な記録になるかと思います。本当は民俗学会などが行わなければならない作業と思いますが、ぜひ1つでも多くの民話や場所を記録していってほしいです。




大岩郷も検索して写真を見ました。秋田県の鬼の隠れ里や、奈良県の鍋倉渓を思い出す光景です。




>ウージーさん







月延石、UPしてましたよ。

私は2003年に行きました。ウージーさんの2001年のものと同じ感じです。

今はお供え石が積まれているんですね。何か書いてありますね。名前・祈願事でしょうか。定期的に回収するのかも??しれません。

松尾大社の磐座は行かれましたか?立派ですよ。




下は奈良県桜井市の與喜天満神社の鵝形石です。2005年と2010年で様子が変わっています。これもビジュアル化の例です。









月延石【つきのべいし】 投稿者:uzi 投稿日:2011年12月10日(土)14時52分9秒 返信・引用

松尾大社の近く、月読神社の月延石です。

安産に霊験があるとされ、信仰されております。

1枚は2001年に撮影。

2枚目は2011年、先週撮影したものです。

信仰がよりビジュアル化されたということでしょうか。

月延石は、MURYさんUPされてましたっけ?







http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






若宮様 投稿者:宇部市集落支援員メール 投稿日:2011年12月 8日(木)17時16分28秒 返信・引用

返信いただきありがとうございます。

残念ながらまだ石を探しに行くことができないのですが、やはり以前に私たちが見たものより大きい石積みが存在するそうです。

ご指摘通りこうご石と呼ばれる石積みと『山姥のお櫃』とは違うものだそうで、地家の方の案内人がいないと山に入ることができないだろうということでした。猿の群れがしばしば現れるような山ですので、なかなか入ることができません。

また、最近では地元の方に宇部市吉部の信田丸城跡近くにある『若宮様』と呼ばれる石の祠を案内していただきました。今は何もないですが、昔(60年以上前)は小さい石のようなものが安置されていたそうです。例によってこの祠を勝手に動かしたりするなという言い伝えがあります。民家が2軒位しかない場所ですので、今後忘れられていくのではないかと思います。

宇部市吉部、美祢市には大岩郷と呼ばれる原因不明の巨石群があります。その関係で山中に巨石が多く、石神信仰が発生しやすい環境にあったのではないかと思われます。




宇部市からの情報提供でした。


















Re: 宇部市から石積み情報 投稿者:MURYメール 投稿日:2011年11月 6日(日)23時02分4秒 返信・引用

> No.787[元記事へ]




宇部市集落支援員さん、はじめまして。




まずは拙著をご覧くださりありがとうございます。

この石積みについては全く存じておりませんでした。初見になります。

宇部市、山口県については、恥ずかしながらほとんど事例未収集の状況で、拙著収録の事例集成表にも載っていますが、耳観音を含め僅か6事例しか把握しておりません。




そのような状況で、「やまんばのおひつ」あるいは「じいとばあの箪笥」と呼ばれる石積み、大変興味深いです。まず、この素朴な名前がいいですね。仰々しくなく、本当に地元の方が愛着付けて名付けたんだろうと思います。




貴ブログを拝見させていただきましたが、こうご石の名前もあるんですね。

私の知り合いの研究者の方が「神籠石リスト」というのを作られたことがあって、その表を見てみたら、しっかり西吉部のこうご石が載っておりました。

柳田國男が何かの本で言及しているようで、「コウコ石山」と、山の名前で紹介しているみたいです。




貴ブログで登場された案内人の方によれば、この石積みは神籠石ではないみたいですね?

私、気になるのですが、こうご石と「やまんばのおひつ/じいとばあの箪笥」は同一のものを指すのでしょうか?別のものを指す可能性はないのかなと思って。

この石積み、おひつ、箪笥と呼ぶにふさわしい形をしてます。こうご石とは違うとおっしゃったのなら、石積みとは別にあるのでは。『改訂 吉部郷土史話』のこうご石の紹介文にも、おひつ・箪笥の別章が書かれてないですし。

何も知らないままに書いているので、誤りがあったら申し訳ありません。




三重県でなく中国地方にでも住んでいれば、第二次こうご石探検隊にぜひ参加したいんですが、残念です。遠くから応援してます。



宇部市から石積み情報 投稿者:宇部市集落支援員メール 投稿日:2011年11月 5日(土)20時39分53秒 返信・引用

初めまして。

山口県宇部市で集落支援員をしております清水と申します。

集落支援の一環として地域の情報を収集しておりますが、宇部市西吉部藤ヶ瀬地区に『やまんばのおひつ』もしくは『じいとばあの箪笥』と呼ばれる石積みがあることを聞き、実際に山に入ってみた所、三段の石積みを見つけました。聞く所によると、昔は雨乞いをしていたとのことです。以前若い方が調査に来られ、結局迷って帰られたと地区のお年寄りが言われていました。これをきっかけに私も山中にある石積みに興味が湧き、関連書籍として貴著『岩石を信仰していた日本人』を見つけ、現在読書中です。宇部市の耳観音にも触れられており、もしかすると宇部市の岩石信仰について調べられたかと思い、連絡しました。

資料の一つとなれば幸いです。




http://ubeshienin.jugem.jp/?eid=17






ありがとうございます 投稿者:MURYメール 投稿日:2011年10月 9日(日)21時31分55秒 返信・引用

私も読売新聞を買ってきました。

予想していたよりも大きく取り上げられていて、私がビックリしました。

実は読売新聞HPの「来週の書評ラインナップ」に私の本が出ていたので事前に知ってはいたのですが、もしかしたら直前に取り消されるかも、勇み足は恥ずかしいなあ・・・ということで、黙ってました(笑)

無名で肩書きもない私を評価していただき、本当に感謝しています。




>しゃこさん




買っていただけますか(笑)ありがとうございます!

移転先ですが、広告もそうですし、容量の問題もありますし、そして何よりも、もうなるべく移転したくない(笑)

プロバイダのサービスなら閉鎖や取り止めはないだろうとタカをくくって、目下BIGLOBE押しで考えてます。




>小宮さん




天照御祖神社、まったく知らなかったので検索してみました。

http://www.ganshinsei.jp/kamaishishi/630amaterasumioyajinja.html

http://8.pro.tok2.com/~tetsuyosie/iwate/kamaisisi/amaterasu/amaterasu.html

上のサイトには、山腹に「磐座」があるという話、下のサイトには源義経の家来が奇石を神社に奉納したという話が載っています。岩石の話題に事欠かない場所みたいですね。

祭神も上のサイトは天照大御神ですが、下のサイトは布都大神三柱になっています。神社の名前については「天照の御祖(天照大神のさらに祖先)」ではなく「天照=御祖(天照大神は祖神です)」の意だと思います。

他の県にも、天照御祖神社と名乗る神社はあるようですね。




>湯畑野さん




リンクのご紹介ありがとうございます。

どこの雑誌からも書評・紹介がなかったので凹んでいましたが、今回ありがたい評価をいただいて、少し自信が出ました。

巨石・磐座業界でも意図せず独特な立ち位置にいるのですが、どうも独自路線で進んでいると自分のやっていることが変な方向に進んでいないか不安になるので、他の方に批判していただくのは一番ありがたいのです。

私も読売新聞を見ました 投稿者:湯畑野秀明(秦野秀明) 投稿日:2011年10月 9日(日)09時28分15秒 返信・引用

早起きのしゃこさんより、既に「読売新聞」の書評の紹介がされておりますが、

「読売新聞」を購読されていない方のためにご紹介致します。




「本よみうり堂:YOMIURI ONLINE」

http://www.yomiuri.co.jp/book/

「今週の書評」

http://www.yomiuri.co.jp/book/review/

です。

現在は、先週分(10月2日分)が掲載されておりますが、まもなく今週分が掲載されます。




「なぜか人は岩石に魅せられ、そっと触れてみる。」




で始まり、




「すさまじい執念とでも形容するしかない態度で岩石に向き合うが、単なるマニアでもおたくでもない。」




と形容され、




「ところが残念なことに、その有益で貴重な情報は、無料HPサイトの閉鎖により、間もなく縮小移転せざるをえないらしい。どこかに、支援してくれる組織があればいいのだが。」




で結ばれる書評は、古代文学研究者で立正大学の三浦佑之教授です。



天照御祖神社(岩手県) 投稿者:小宮メール 投稿日:2011年10月 9日(日)08時15分43秒 返信・引用

岩手県釜石市の唐丹湾。津波で被害を受けた唐丹小学校裏手の山(常龍山)に、「天照御祖神社」という場所があります。鉾が祀られ、石も祀られていました。鏡も重要なものの様子。天照の、しかも「御祖」って、どういうことでしょう。幸いなことに、山の上にある本殿や社務所は被害をまぬがれていましたので、自分で伺えばよかったのですが、なにぶん、社会福祉協議会のボランティアの一員として現地を訪れていたもので、少しぷらっとさせていただいただけで、それ以上の個人行動は出来ませんでした。天照御祖神社には、何か重要な、おもしろい情報が眠っているようで気になっています。

読売新聞みたよ 投稿者:しゃこ 投稿日:2011年10月 9日(日)07時50分58秒 返信・引用

べた褒め書評がでてます。

未だ買って無い事を思い出しました・・・絶対買うよ!




ところでライブドアの無料webサービス終了なんすねぇ

実は私も他の趣味関係のサイトをそんな感じのところに

おいてたのですが、閉鎖にともない移転しました。

---このサービス>http://www.srv7.biz/

無料だからしかたないのですが、ウルサイ広告が

あったりしてイタダケ無い感じなんですよねぇ・・・

blogはいっぱいあるんですけどね




久しぶりに石を求めて九州に行きました。報告は後ほど。ではまた




http://www.ne.jp/asahi/asamasa/shako/index.html






石の語りべ 投稿者:MURYメール 投稿日:2011年10月 4日(火)00時44分24秒 返信・引用

写真展だけでも見てこようかなあ…




以下、リンク先より引用です。




須田郡司写真展「聖なる石と出会う旅」

日程2011年10月8日(土)~30日(日)

入場料:無料

予約:不要




★初日に石の語りべ スライド&トークショー「石巡礼物語」開催!

日時:2011年10月8日(土)14:00~15:30

参加費:\1,000

予約:必要。店頭もしくはお電話(052-265-2080)で承ります。




場所は名古屋栄のナディアパーク。

東海圏の方はこの機会に。

ども 投稿者:あんでっど 投稿日:2011年10月 3日(月)12時52分48秒 返信・引用

巨石ブーム、来てますよ。

少なくとも私に……。最近久しぶりに石が楽しいです。




で、今週末はこれに行きます。

http://store.montbell.jp/search/shopinfo/indoor/?shop_no=679928




須田郡司さんが名古屋にお見えになって、「石の語りべ」を

やってくれるそうなので。

楽しみです。まだ空きがありそうなので、お近くの方はぜひ。

(無題) 投稿者:MURYメール 投稿日:2011年 9月30日(金)20時20分26秒 返信・引用

チェリーさん素晴らしいです。本当、今しか拝めない生々しい写真、ありがとうございます。

写真でこの大きさだから、実際はもっとすごいことがよく分かります。蛙薬師の天井石のせりだし具合なんて、あれ大丈夫なのかと思うレベルなんですけど。




恥ずかしながら蛙薬師の存在は知りませんでしたが、これほどのものが中津川巨石スポットの中であまり有名じゃないのも不思議です。やればやるほど、このレベルの妙景がたくさん眠っていることを知らされるから、この世界は飽きません。

なんにしても、私は管理人の役得でこうやって写真で見ることができるわけですから幸せ者です。ほかにも皆さんのお勧めの場所があったら紹介してください。




>高徳寺を含めてこの一帯を整備しているように思いました。本堂の周りを巨石のお庭にするような気がします。




やっぱり巨石ブーム来てるんですかね。

高徳寺2 投稿者:チェリー 投稿日:2011年 9月29日(木)02時36分27秒 返信・引用

 あんでっどさん怒ってなくてよかったです。

 蛙薬師(蛙観音と書いたのは間違いでした)から東は、こんな感じの遊歩道です(上の写真)。

 真ん中の写真の上のほうに弘法様が立っておられます。この写真を撮る為に乗ったのがめちゃ大きな岩だったと思います。

 下の写真は蛙薬師の横に掲示してあった「蛙薬師由緒」です。なかなか複雑です。

 高徳寺を含めてこの一帯を整備しているように思いました。本堂の周りを巨石のお庭にするような気がします。

 あんでっどさんのおかげで、よい小旅行ができました。また教えてくださいね。




 












(無題) 投稿者:あんでっど 投稿日:2011年 9月28日(水)08時59分29秒 返信・引用

チェリーさん

凄い! 気を悪くなんてしないですよ。むしろ嬉しいです。誰かが見に行ってくれたんだ、と。写真も気になってたのでほっとしました。




お堂を建て直してるんですね~。何年かに一回のことでしょうかね。見れてよかったです。




蛙薬師の奥に弘法大師の乗った巨石ですと?み、見たい。しかもそれだけ写真がない(笑)。




まだまだ知られざる石はたくさんあるんでしょうね。なんだかビギナー(?)の頃を思い出して楽しいです。

MURYさん、長々と掲示板を私物化して申し訳ありませんでした。またPCつながったら写真貼りに来ます。

高徳寺 投稿者:チェリー 投稿日:2011年 9月28日(水)02時24分15秒 返信・引用

 登山を予定した日が雨だったので、高徳寺へ行くことにしました。場所は「恵那峡ランド」のすぐ南で、自宅から1時間くらいです。

 恵那峡のシンボル「紅岩」を右目で見、恵那峡ランドを通過してすぐ左にハンドルを切ります。少し走ると正面に蛭川保養施設「紅岩山荘」があります。手前を左に入るとすぐ「高徳寺」です(上の写真)。工事をしている人に聞くと、本堂を建てているとのこと。左奥に巨石が重なっておりました。一番下にある石がすごく大きい。これは超巨石でしょう。長さ8m近くあるのではと思います。周囲の樹木も伐採されていてよく見えます(真ん中の写真)。お寺の南側に公園があり、石のモニュメントや石橋が造られています。この一帯を整備しているようです(このあたりをスタート地点として「健康リゾートふれあい街道」が設定されていました)。

 蛙観音は本堂から90m程東にあります(下の写真)。説明板がありましたが、どうやら高徳寺の第2本尊という位置付けのようです。この庇状の岩もすごく大きいです。この巨石の組み合わせを蛙に見立てたようです。

 ここから更に東に遊歩道がありました。この道も巨石を縫って進みます。ここにもとんでもなく大きな岩があります。80m程進むと弘法様の像が岩の上にありました。新しい像のようですが、ここから対岸が見渡せました。

 あんでっどさんに先んじて写真を掲示してよかったのでしょうか。どうか気を悪くなされないように。ごめんなさい。












Re: 盃状穴?? 投稿者:MURYメール 投稿日:2011年 9月28日(水)00時59分29秒 返信・引用

> No.775[元記事へ]




春宮は行かなかったですね~。こんなものがありましたか。

ぱっと見、盃状穴だと思います。中心の穴が均整とれてて力入ってますね。ほかの穴はそれに触発されたかのようです。

石畳や石段の一部だけ「踏むな」とは「いつも湿っている」など、不思議ないわれを持つ霊石も各地にあるので、大いにありえる事例じゃないでしょうか。

盃状穴?? 投稿者:kunitti 投稿日:2011年 9月26日(月)07時42分5秒 返信・引用

昨日、諏訪大社春宮に立ち寄ったのですが、この写真の石だけに穴が多数ありました。




所謂、盃状穴の類とみても良いのかどうか…この写真だけですが、ぱっと見どう思いますか??




あんでっどさんの記事を読んで、数年前に中津川の小丸山神社から苗木城周辺の道路整備?か何かの工事で周辺の木々を伐採しておりましたが、そこから覗いている無数の巨石がかなり衝撃的だったことが思い出されました^^






Re: 取り急ぎ 投稿者:MURYメール 投稿日:2011年 9月25日(日)18時56分47秒 返信・引用

> No.773[元記事へ]




速報入れていただいたのに返事遅くなってすみません。




「無数の超巨石で凄いことになっている」・・・さすが、煽るの上手いです。

正直見たいですよ。しかし中津川、行けなくはないが、うーむ、当座でそっちに行く予定がないのです。誰か行かれる方いませんか?

写真はしばらく触れないということは、撮られたことは撮られたんですよね?待つので、写真見せていただけると嬉しいです。




むかし滋賀県野洲市の田中山や安土の観音寺山で山火事があって、岩山ぶりが激しく露出していたことがあります。超巨石と呼べるほどではなかったですけど。




> MURYさん本読んだよ!三河で講演会してください。




ありがとうございます。語るネタがもうありません(笑)

お口に合ったでしょうか。

取り急ぎ 投稿者:あんでっど 投稿日:2011年 9月20日(火)01時01分49秒 返信・引用

めちゃめちゃバタバタしてるので書き逃げです。MURYさんごめんなさい!




岐阜県中津川市の蛙岩で知られている(?)高徳寺に、一昨日再訪したところ、現在工事中で、お堂とその周辺の木々をとっぱらってるのです。で、お堂の後ろに隠されていた無数の超巨石がいくつも丸見えになってて凄い事になってます。巨石ファンなら今しか無いこのチャンスにぜひ見てほしい!




私はてっきり蛙岩がお寺の創設理由に関わってると思っていたのですが、あれらの巨石こそが、そこにお寺を建てるに至った動機になったのでは、などと妄想してしまいました。




写真はしばらく触れないので文章だけですが…。




しかしなぜあんなに開いたのかな?火事でもあったのかな??




MURYさん本読んだよ!三河で講演会してください。

Re: お久しぶりです。 投稿者:MURYメール 投稿日:2011年 9月18日(日)00時47分39秒 返信・引用

> No.771[元記事へ]




KNIGHTさん、本当にお久しぶりです。

大怪我をされていたようで・・・苦労されたことと思います。

お互い様ですが、今後も事故だけは気をつけてくださいね。




私の本、図書館にありましたか!入れて頂いた方に感謝です。

情報つめこみすぎで噛み砕きにくいところもあるかと思いますが、とにかく読んでいただいて、なにか1つでも新しい発見やタメになる情報でも得て頂けたらなあと願っています。




ブログ、定期的に私まだ巡回してます。もしかしたら更新されているかも!?と

きっとそうやって待っている人、多いんじゃないかと思います。

私も含めて、なかなかリアクションという形で出てこないのでアレなんですけど・・・。

期待してます。

お久しぶりです。 投稿者:KNIGHT 投稿日:2011年 9月14日(水)19時57分11秒 返信・引用

ご無沙汰してます、KNIGHTです。

最近はすっかりブログの更新を行ってませんがチョクチョク巡っています。(サイクリングの途中でですが)




まー去年のGW前に自転車で頭蓋骨骨折の事故(被害者です。)に遭いましたがトータル的の結果論ですが「石のおかげ」で現在は既に普通に過ごしています。




それは兎も角、本、購入はしてませんが、なんと!図書館にあったので早速借りて読ませて頂きました。

凄いですね。今までの集大成という感じでした。




この本が一人でも多くの人に渡っていけば良いなあと思います。

すると、中にはこのHPに訪れる人も増えるし部分的とは故、リンクさせて頂いてる私のブログにも...となると私もブログを遊ばせておく訳にはいきませんね。なんとかせねば!




ではでは!

(無題) 投稿者:MURYメール 投稿日:2011年 8月17日(水)21時20分39秒 返信・引用

チェリーさん、ありがとうございます。

山と山(自然物と自然物)を結びつけるというのは好きではないんですが、山1つに対し人工物2つ以上、あるいは人工物と人工物という話は、ブラッシュアップすると思わぬ発見、あるかもしれないとは思っています。




ブラッシュアップの仕方は、やはり歴史モノを扱う以上歴史学的な検討をしないといけなくなるのかなと・・・。

人工物同士の創建時期が並行・重複しているか、構造物同士の建てられ方や向きにも共通性があるか、構造物同士の性格や役割に共通性や一貫性があるか、この辺をクリアできれば強いでしょうね。

熱田神宮と百済寺にも「宗教施設」以上の何か共通点があればいいですが・・・。




だから私は徳川家関係のラインというのは面白いテーマだなと思って、これからも楽しみに注目していきます。



(無題) 投稿者:チェリー 投稿日:2011年 8月16日(火)23時35分0秒 返信・引用 編集済

 はい。MURYさんのお見立てのとおりです。まあ、これは、測られたと仮定しての場合の話なのですが、「多度神社」から「高座結御子神社」が90.01°です。逆に「高座結御子神社」から「多度神社」は270.18°です。多度神社から測ったと考えるのが自然です(地球は球体ですので、赤道上以外は東西関係は角度に差が生じます)。でも、どんなに精度が高くても、偶然ということはよくある事ですので、やはり両者の結びつきが何かないと、説得力に欠けるということになると思います。現状では、私には結びつける何かはわからないです。

 「高座結御子神社」から「東谷山」は45.24°ほぼ北東に見えるようですが、これも何とも言えないところです(精度がいまいちです)。

 「熱田神宮」から西となると、鈴鹿山脈を越えて東近江市の「百済寺」になっちゃいます(270.12°)。これも何とも言えないです(そんな事はありえないと言わないところが私らしいところです)。どこかから東にたどって熱田神宮になったという場所は、今のところ、見つけていません。

 直接岩石に関係のない話ですので、このあたりにしておきます。

(無題) 投稿者:MURYメール 投稿日:2011年 8月13日(土)01時17分45秒 返信・引用

>チェリーさん




五社大明神社の碑文を読むと、高座山のほうも尾張氏に関係する祭神をまつっているんですね。東谷山と祭祀主体は一緒だったのかも。

多度大社まで行くと桑名首(おびと)の勢力なので、多度大社との関係はそう簡単には見えてこなさそうですが、いちおう尾張氏と多度大社を結びつける話もネット上で見かけました。ただ、古代氏族論(豪族論)はあまり私の得意とするところではないので、今、これ以上の推論は控えることにします。

多度大社は自然的制約の多い中に立地しているので、方位を意図的に考えて選地したとするなら、それは高座結御子神社のほうになると思います。その場合、高座結御子神社が熱田神宮の北に位置しているというのをどう考えるかですね(方位対応させるのなら、なぜ熱田神宮が選ばれなかったのか)




定光寺駅は仕事のとき何回か横の車道を行き来しました。名古屋と多治見の街の合間だというのに緑の色濃い、まるで秘境のような雰囲気のあるところですよね。岩石抜きで、普通にゆっくりと見学したい場所だなあとは思ってましたよ。機会があれば。




>湯畑野さん




こちらこそ失礼しております。

ご指摘のとおり、いま市場に出回っている分が一度出版社に返本されてしまうと、その分は以後間違いなく陽の目を見なくなるので、その前に、どうにか多くの方に存在を知ってほしいと四苦八苦しています。




そのような中で、拙著への過分な応援、誠にありがとうございます。県の文書館へ寄贈までしていただき、なんとお礼を申し上げたらいいのか、という気持ちです。

せめて、その応援に恥じないよう研究の精度をさらに研鑽していくよう心します。

私も埼玉時代は北浦和在住でしたので、慣れ親しんだ場所に蔵書され続けるというのが誇らしいというか、純粋に嬉しかったりします。湯畑野さんも、どうぞご無理をなさらないよう。




篠原氏論文の件は了解しました。もう1回読み返した上で、後日機会を設けて論文紹介をUPいたします。

石・岩に関連する書籍・論文の紹介コーナーも拡充していこうかと検討中です。同時に手を広げるとおじゃんになりやすいので、まずは探訪レポの溜まっている分から放出していきますね。ありがとうございます。

MURYさんの本を寄贈しました 投稿者:湯畑野秀明 投稿日:2011年 8月12日(金)22時04分15秒 返信・引用

MURYさん、ご無沙汰しております。湯畑野秀明です。

最近の私は、地元のNPO法人で「郷土史」の論文を書いていたりしております。




2007年に行われた「巨石サイトオーナー討論会」においてもMURYさんにお話しましたが、

MURYさんのサイト「岩石祭祀学提唱地」は、当時より全ページを印刷しておりました。

今回、MURYさんのサイト「岩石祭祀学提唱地」の成果を基本としつつさらに発展された

『岩石を信仰していた日本人―石神・磐座・磐境・奇岩・巨石と呼ばれるものの研究―』

も当然のように、発売と同時に「遊タイム出版」より購入しました。

MURYさんの今回のような素晴らしい研究成果の本でも、

現在の出版制度の下では、いつの日か入手が困難になってしまいます。




そこで、「遊タイム出版」以外でも注文出来るようになりましたのを期に2冊目を購入し、

本日、「埼玉県立文書館」埼玉県さいたま市浦和区高砂4-3-18

http://www.saimonjo.jp/01_top/Index.html

に寄贈して参りました。寄贈に関しての担当者がお盆休みで不在とのことでしたので、

T氏に受け付けて頂きました。

MURYさんの今後の更なる研究のご発展を祈念致します。




また、先日MURYさんに送付致しました

篠原祐一(2003)「石の和幣が語るものー石製模造品祭具からみた古代祭祀の展開ー」

の論評もお暇な時にでもして頂き、且つMURYさんのサイトにアップして頂けましたら幸いです。

この論文は「岩石信仰」に興味のある方々に、是非とも知って頂きたいと思っている為です。

よろしく御願い致します。

高蔵神社 その3 投稿者:チェリー 投稿日:2011年 8月12日(金)01時07分14秒 返信・引用

 愛用のカメラは18mmまで広角で写せたのですが、7月末の登山で雨水が入ってしまい、使用不能になってしまいました。高座山を訪れた時は、小さなカメラで35mmまでが精一杯なので、満足のいく全体像が写せませんでした。上の写真は岩の最上部を写したものです。

 高座山の地は古くからの歴史があるようです。真ん中の写真は「御来迎の碑」にあった掲示です。この場所からは、猿投山が印象的に覗き見られて、猿投山との関係が伺われました。

 下の写真は「五社大明神社」の石碑です。

 「多度神社」から熱田神宮北の「高座結御子神社」は 90.01°でした。真東です。偶然かもしれませんが、測って場所を選んだ可能性もあります。結構複雑そうですよ。

 高座山へおいでになる時は、定光寺も行かれると良いと思います。ここは岩石とは縁がありませんが、お勧めです。もっと涼しくなってからのほうがよいかも!












(無題) 投稿者:MURYメール 投稿日:2011年 8月11日(木)21時56分5秒 返信・引用

>チェリーさん




高座山のパーフェクト・ガイドじゃないですか。本当にありがとうございます。

春日井に行くことがあれば、私もこれを参考にして登りに行きます。




それにしても山頂の岩石の群れは、座と呼んでもおかしくない形をしているみたいですね。実際に見てみたいところ。これがくだんの磐座かどうかは置いておき、情報が全然出てこない山だったので、こんな露岩が本当にあったんだと少し感動してます。




東谷山と高座山は対のような関係だな、と私も何となく感じていました。庄内川という自然の地形を挟んで、チェリーさんの風水論もいつもの徳川家が絡んでくるので説得力があります。最後の祖山ウルトラCだけはちょっと飛んだかな(笑)と正直思ってしまいましたけど。

高座神社と尾張戸神社は徳川以前からの祭祀場なので、その頃からの関係性も気になります。対というよりかは、川を隔てると勢力圏が異なる場合も多いので違う見方もしたいところです。




図書館にまでリクエストしていただき助かります。図書館蔵書はたくさんの方の目に触れられる機会にもなるので一番ありがたいです。




>ウージーさん




そうですね。今まさに生きている岩石信仰だと思います。

私たちは、はからずも古い時代ばかりに目が行きがちですけど、ちょっと前に起こったことや今現在の物事も、すべて等しく歴史になります。特に現在進行中の出来事は、私たち自身が歴史の目撃者ですし、歴史の当事者でもあります。当事者ということは、歴史をいかようにも変えることができる立場と言えます。そう考えると、いま起こっている出来事の見方、扱い方も変わってくると思います。具体的に言うと、大切にしないといけないし、一瞬たちとも目が離せなくなる気持ちになります。歴史に軽重はないと言いますが、まさにその通りだと思います。




ぼけ封じ大石の形ですが、京都市の安井金毘羅宮にある縁切り・縁結び祈願石を思い出しました。ここは岩石の表面にでっかい穴が開いていて、山のようなおみくじに覆われています(写真は遠くからの撮影でごめんなさい。カップルがひっきりなしに来たので遠影)






新しい岩石信仰 投稿者:uzi 投稿日:2011年 8月10日(水)20時14分41秒 返信・引用

写真は長浜八幡宮にあったものです。

最近造られた様に感じました。

「岩石信仰は過去行われていただけの信仰ではない。・・・・新しく信仰が生まれるケースも見受けられる。」例でしょうか。




近くの本屋さんに7月29日に注文しましたら、昨日9日入荷しました。

なんか、わくわくします。




http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






高蔵神社 その2 投稿者:チェリー 投稿日:2011年 8月 8日(月)02時03分8秒 返信・引用

 五社大明神社の鳥居の横からの道のすぐ横から、高蔵寺の霊園に接する道が分かれているのですが、そこを進むと「高座山参道入口」の標識があります。ここから登った方が道としてはよいです。「御来迎の碑」を通ることもあり、こちらを本来の参道としていると思います。

 さて、五社大明神社の奥には「御嶽神社奥の院」があり、そこに岩石祭祀がありました。清掃されていた地元の方の話では、五社大明神社神殿西隣に御嶽神社を移したのだけれども、その岩だけは残したのだそうです。

 最後にオマケです。高座山の南を流れる庄内川を少し遡ると、定光寺があります。尾張徳川家の菩提所であり、初代徳川義直候のお墓があります。すぐ近くの展望所から眺めるとよくわかるのですが、これは地理風水を意識した場所ではないかと思うのです。私は全くの素人なのですが、墓所を「穴」とした場合、「水」は庄内川、そして、左右の「砂」が「東谷山」と「高座山」になると思います。正面の「案山」に名古屋城が位置するということになるのでしょうか。左右の「砂」のバランスも大切な事だったと思います。片方はあの「東谷山」なのです。「尾張戸神社」が頂上にあります。高座山も同じくらい重要な山だったのではないかと想像するのです。さてさて、では龍脈が流れてくる肝心の「祖山」はどこになるのでしょう?背後の山では弱すぎると思うのです。実はこの「徳川義直公廟所」は「尾張本宮山」から120.0°の位置にあるのです。「祖山」を尾張本宮山として、方位をもって墓所を定めた、しかも本来磁北を基準とする風水に、天の北極を基準とするように改めてです。これは「尾張徳川家のウルトラC」ではないかと、こういう話はダメですかねぇ~

 皆さんMURYさんの「本」を購入されてるようで、あせってきました。まだ地元の図書館にリクエストしたところです。急いで注文いたします。












高蔵神社 その1 投稿者:チェリー 投稿日:2011年 8月 8日(月)00時32分52秒 返信・引用

 JR高蔵寺駅の北東500mm程に「五社大明神社」があります。手前の鳥居の西隣に駐車場があり、車をとめます。ここは多治見の自宅から30分くらいなのです。高座山の高蔵神社へは参道の東隣の道を進むのですが、まず、五社大明神社をお参りすることにします。神殿の西に「御嶽山神社」、東に「金刀比羅社」「高蔵社」「津島神社」の小さなお社が並んでいました。「五社大明神社の謂」という石碑があり、「昔、熱田神宮の高倉明神を祀っていたので高倉地と呼ばれた。又、熱田高蔵宮の奥宮であったとも伝えられる。」との記述がありました。清掃をされていた地元の方は、山上の神社へ行くのが大変なので、ここに高蔵社を祀ったのだと言ってみえました。

 鳥居まで戻り、東隣の道を進んでいきます。程なく「水晶の取れる岩」を過ぎ、小さな祠を過ぎて山道をどんどん登ります。幅1m程もある十分手入れをされた道で、かなり歩く人がいる事がうかがわれます。ただ、蜘蛛の巣がたくさん張られていますので、木の枝を前にかざしながら歩きます。歩き始めから30分程で「高蔵神社」の石柱があり、到着します。

 祠のすぐ裏に岩石があり、岩石そのものには何も施されてはいませんでしたが、これを意識した祠であることがわかりました。












お礼 投稿者:MURYメール 投稿日:2011年 8月 7日(日)22時44分43秒 返信・引用

みなさまご投稿ありがとうございます。

みなさまのお力に支えられて助けられています。感謝しています。




>すずきさん




今となってはあのC地点(広沢町全図のドット地点)の谷間が懐かしいです。

なんで石が1つもないのか?とあの時すごく不思議でした。

花粉シーズンに無理を押して、探索していていただいたご恩は忘れておりません。

群馬東部情報、楽しみにしてます。それにかぎらず、ふだんもブログチェックしてます。

(とくにB級グルメ物の記事が好きです)




>砂女さん




赤城山の櫃石は、私が関東時代行きそびれた場所no.1です。返す返すも、あの日雨でも行っておけばよかった・・・。

愛宕山/庚申山もふくめ、ああいう岩石信仰の場というのはなぜか郷土資料にも記録されることが少ないかわいそうな存在です。

どのような歴史があったのか私たちにはわからないことばかりですが、せめて私のサイトで見たもの聞いたことはそのまま記録・公開していきたいと思ってます。




>あんでっどさん




専門書の内容は満たしつつも、基礎知識のない方でも興味さえあれば、読んで意味が分かるようにしようと思いました。本当は矛盾してるんですけど、欲張ってみました。

文章は気取らず読みやすく!を心がけて書いたので、そうご感想いただけると狙い通りでうれしいです。

まとめ、よかったですか。賛否両論あるかな~と思ってます。またよろしければご意見ご感想を聞かせてください。

読んでます 投稿者:あんでっど 投稿日:2011年 8月 7日(日)06時55分44秒 返信・引用

「岩石を信仰していた日本人」、ようやく読み始めました。遅くなってごめんなさい。




第二章の先行研究のまとめが既に面白すぎです。ドストライク。




とにかくわかりやすいですね。恣意的な表現が無いので、すっと入って来ます。




ゆっくり読み進めます。

購入いたしました ^^ 投稿者:砂女 投稿日:2011年 8月 7日(日)04時15分25秒 返信・引用

MURYさん、ご出版おめでとうございます。




「やまの町 桐生」の記事を紹介していただいてありがとうございました。

幾度もの探索行、その後の経緯、忘れられません。




赤城山の周辺にはたくさんの岩石信仰があるのだと改めて知って、山歩きがますます楽しくなりそうです。

笠懸の愛宕山/庚申山もご本を読めばまた違った眼で眺められるかもしれない。涼しくなったら早速行ってみたい。

これからもどうぞよろしくお願いします。

http://akanekopn.web.fc2.com/top.html






読ませていただいてます 投稿者:すずき@東毛 投稿日:2011年 8月 4日(木)09時12分26秒 返信・引用

まずはご出版、誠におめでとうございます。




amazonに予約したら、7月31日午前中に届きました。

小生のブログも紹介してくださってありがとうございます。

「神籠石」探索は小生の人生の中でも意義深いもののひとつです。

拙ブログでもご本を紹介させていただきました。




群馬東部の岩石信仰の場?と思われるものをいくつか知っています。

また巡ったおりには紹介しますので、その道の大家としてぜひツッこんで下さい(笑)




http://mukidouan.exblog.jp






Re: 購入しました^^ 投稿者:MURYメール 投稿日:2011年 7月24日(日)22時11分40秒 返信・引用

> No.756[元記事へ]




kunittiさん、お世話になっております。

お手に取っていただき、本当にありがとうございます。




今は力の入れ所だと思うので、もうちょっと無理をすることにします(笑)






その後も、バランスよく、定期的に情報をお届けできるよう気をつけます。




購入しました^^ 投稿者:kunitti 投稿日:2011年 7月23日(土)11時41分12秒 返信・引用

MURYさんの出された書籍、今届きましたー。

じっくり読まさせていただきます。




これからも、無理なさらずに頑張ってください。











(無題) 投稿者:まさ 投稿日:2011年 7月16日(土)02時37分36秒 返信・引用

MURYさん、ありがとうございます。

進路のことなども含めて、これからもよろしくお願いいたします。

Re: ごぶさたです 投稿者:MURYメール 投稿日:2011年 7月14日(木)20時27分21秒 返信・引用

> No.753[元記事へ]




ありがとうございます!




しゃこさんのサイト、石関係の更新が最近多くてうれしいです。

過去情報の整理、私もやったことあるのでわかるんですが、

しゃこさんの場合は量が半端ないので大変なんじゃないですか。

なんたって、もう15年ぐらいサイト運営されてますもんね




そちらの掲示板にもおじゃまさせてもらいました。

このニッチな世界、お互いぼちぼち盛り上げていきましょう。

http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/






ごぶさたです 投稿者:しゃこ 投稿日:2011年 7月12日(火)08時38分38秒 返信・引用

出版オメデトウございます!

うちのサイトの過去情報を少し整理しようかと思いつつ

暑くてPC触るのがイヤーな季節になっちましました・・・




私ももう少し頑張らねばです。

http://www.ne.jp/asahi/asamasa/shako/index.html






(無題) 投稿者:MURYメール 投稿日:2011年 7月11日(月)02時06分23秒 返信・引用

>あんでっどさん




『愛知発巨石信仰』(←名著ですよねー)を見たところ、東谷山の記事の最後に「北方の高座山は名前が怪しいが弾薬庫で入れない」という一文だけがありました。大昔、日本ピラミッド関係の本で高座山に関する記述があったような、なかったような・・・。




岩石祭祀事例集成表、楽しみ方がわかっていただけて何よりです。

類型の使い方は、あんでっどさんご指摘のとおり、左から右に絞り込んでいく形で使います。Bの中にさらにA,B,C,D・・・の細別、Cの中にA,B,Cの細別、Dの中にA,Bの細別・・・で分かれているという考え方です。

Cしか書いていない事例は「CA,CB,CCのどれにも絞り込めないが、Cの中に所属することは間違いない事例」です。情報が足らないので、絞り込めない事例は多かったです。




google地図は、200ポイント以上は地図に一度に表示できないと私勘違いしていたのですが、それはgoogleにログインしている時だけで、ログアウトするとちゃんと200ポイント以上表示できるんですね。なぜそんな処理をするのかgoogleはよく分かりませんがだまされた気分でした。

でも、ポイント数が多くなるとどうしても動作が遅くなるので、やっぱり県別に分けました。

本当は集成地図のexcel収録分を全部地図に落としたいし、さらに言うなら、excelに座標を入力してgoogle地図と連動するなんて夢が広がりましたが、考えるだけで頭が痛いので広げっぱなしにしておきます。




>まささん




定期的にご投稿いただきありがとうございます。自分のことのように祝っていただけて私は幸せ者です。

まささんは大学生だったんですね。では、最初投稿いただいたとき(2009年でしたよね)は高2でしたか。いやはや、お詳しい。

今までこのジャンルで、なかなか私の後に出てくる若い方がおりませんでしたが、やっと後継者ができてうれしいです(勝手に決めるなっての)




私がこのサイトを始めたのも大学1回生(1年生)の時でした。それから10年・・・正直、早いなあ。まささん、ここからのスピードは早いですよ~。

私は考古学専攻でしたが、歴史学という枠の中である程度似ているところがあるので、今後、大学さらにその先の進路などで悩まれることがあったら何でも相談してください。私の経験上で教えられることは教えますよ。

おめでとうございます 投稿者:まさ 投稿日:2011年 7月10日(日)22時35分34秒 返信・引用

お久しぶりです。大変、ご無沙汰しておりました。




とにもかくにも、MURYさん、本の出版、おめでとうございます。(まだ少し早いですよね‥)

勝手な様ですが、自分のことのように嬉しい思いです(笑)




私ごとで申し訳ありませんが、今年の春から大学生になりました。大学では、民俗学を学びたいと思っています。

まだまだ、至らないところは多々あるとは思いますが、これからも、ご指導のほど、よろしくお願いいたします。

(無題) 投稿者:あんでっど 投稿日:2011年 7月10日(日)19時55分56秒 返信・引用

今、「岩石祭祀事例集成表」の存在に気づき、少し眺めて見ました。




うわっこれ、スゲェっ! と言うのが正直な感想。これすごすぎでしょう。

PDF化してiPad に入れるか……いや、その前に嫁からiPad取り返すのが先か……。




いや本当すごい。久しぶりにテンション上がりました。




あと事例集のGoogle地図リンクも素晴らしい!

そう、これ、こういう整理の仕方しないと収拾つかないよ!

実に私の好み(笑)




え~……ちょっと、何こっそりこんな事してるんですか。

何か最近仕事オンリーな人生を振り返ってしまう。




MURYさんの「新刊」「事例集」「都道府県別地図リンク」発表、これは事件ですよ! 三大革命が一気に来てしまってます。そりゃ江戸幕府も終わりますて!




おいおい、本当に凄いな、これ。思わずリアル人格に戻ってまうわ。




類型の使い方がよくわかりませぬ。

これは横に読む項目でしょうか?

Cが1つだけの場合、CA,CB,CCのどれでもない、という意味でしょうか?




いや、本当に凄いな……。仕事してる場合じゃねぇ。帰ろう……。

(無題) 投稿者:あんでっど 投稿日:2011年 7月10日(日)19時27分53秒 返信・引用

> これは私の本もドキッと来るのですが・・・丁寧にやったと思いますが、はたしてスタイリッシュにできているかどうか。ご評価が恐いです。

>

いや、MURYさんの本は方向性が違うでしょう(笑)

先述のスタイリッシュうんぬんは、「内容が薄っぺらくとも見た目にスタイリッシュであれば、初心者にはむしろその方がいい」とも思っての事です。




スタイリッシュかどうかは出版社の問題で、MURYさんの岩石祭祀学論とは本来、関係ないはずです。




MURYさんの本だったら、内容はばっちりでしょう。WEBサイトでの実績から、質は保証されてます。間違いありません。




もし、もしも気に食わないところがあればこっそりメールします。




春日井市の高座山の話は最初はどこで見たのか……。

高蔵寺について調べていた時に、見かけた記憶はあります。

愛知巨石信仰かな?(←この本はスタイリッシュとは程遠いですが、名著)




あとmixiのコミュニティでの宣伝は御自由に!

個人のWEBサイトと異なり、コミュニティはオープンなものだと思っていますので。

と言うか我慢できなかったので宣伝しておきました。




本、楽しみにしてます。

Re: おめでとうございます 投稿者:MURYメール 投稿日:2011年 7月 7日(木)23時45分22秒 返信・引用

> No.747[元記事へ]




>あんでっどさん




照れます。文壇とか、そんな。

知り合いからも作家さん!とか茶化されるんですが、ほんと、そんな意識ではないので・・・ただただ、岩・石の世界をもっと多くの人に知ってほしい、それだけの思いで作った本です。

宣伝の場で、mixiの奇岩・巨石・磐座コミュをお借りしてもよろしいですか?mixiぜんぜん利用していないのに、こういう時だけずるいですか。




> アスペクト編集部 (編)『巨石巡礼―見ておきたい日本の巨石22』 (アスペクト、2011年)は購読しましたがイマイチ。




正直な感想ですね(笑)

私、買おうと思っていたのですが(笑)




> 編集もテキトーだからスタイリッシュにも感じないし……




これは私の本もドキッと来るのですが・・・丁寧にやったと思いますが、はたしてスタイリッシュにできているかどうか。ご評価が恐いです。




> 春日井市の高座山にある磐座と高倉神社は、行き方がわからず数年経過しています。本当にあるのかな?




あんでっどさんはどこでこの情報をご存知になりましたか?

私は愛知県内のどこかの図書館にあった、旧高蔵寺村(高蔵寺町)の郷土資料を読んで知りました。

写真もなかったし記述も漠然としているので、確かに本当にあるのか&今もあるのか。

自衛隊基地になっていて入れない所があるというのと、水晶が採れる山ということで破壊されてないかが不安点です。



おめでとうございます 投稿者:あんでっど 投稿日:2011年 7月 7日(木)03時58分40秒 返信・引用

MURY先輩、ついに文壇でびゅーですね。

情報、お待ちしております。




アスペクト編集部 (編)『巨石巡礼―見ておきたい日本の巨石22』 (アスペクト、2011年)は購読しましたがイマイチ。




全然理屈になってないのですが「魂がこもっていない」印象。

せっかくの労作だとは思うのですが、何か写真も文章も短期間でテキトーにやった感があるんだなぁ……。とりあえず「巡礼」というタイトルの雰囲気はゼロ。

ビギナーに読ませるにも、「何これ。石なんて見ても面白くない」と思われそうで迂闊に紹介もできない。

編集もテキトーだからスタイリッシュにも感じないし……どうしよう、これ。作った人、巨石全然好きじゃなさそう。




というのが正直な印象。




春日井市の高座山にある磐座と高倉神社は、行き方がわからず数年経過しています。本当にあるのかな?

(無題) 投稿者:MURYメール 投稿日:2011年 6月26日(日)22時09分33秒 返信・引用

>チェリーさん




リンク先の住所・祭神間違ってましたか。これは失礼しました。

田原神社の祭神は、かなり多い部類だと思います。田原神社の歴史を知らないので理由はわかりませんが、よくあるのは近隣の神社との合祀によるものだと思います。谷川健一さん編集の『日本の神々』などにそのあたりの事情が載っていればいいですが(あのシリーズは有名な神社しか掲載していないからダメかなぁ)。




与喜山については、今度の本で一考をしたためました。結論から言うと、太陽信仰と言うよりは、なぜ与喜山が元伊勢に選ばれたのかという「与喜山パワー」を探ってみたというのが主題になっています。

菅原道真-天神-天照大神の関係は、単なる名前の近似性以外に何か関係があれば、私も知りたいです。




稚児岩は、チェリーさんのおかげで知ることができました。こちらこそ感謝しております。穴観音や迫間不動もです。ここもまたUPします。また新スポットがあれば、ぜひ教えてください。







>沢田さん




ご情報ありがとうございます。

高座結御子神社といえば、あの名古屋市熱田区高蔵のですか。文献名は失念しましたが、むかし読んだ郷土資料によれば、あそこにも「高座」の語源となる岩石があり、それにあやかって春日井市の高座山にも高倉神社を建て、山中の岩石をまつったというような話がありました。かなりうろ覚えなので、若干齟齬があるかもしれませんが、完全に忘れないうちに書いておきました。




高座結御子神社・多度神社・渭伊神社は何か関連性があったのでしょうか。

虚空蔵菩薩がうなぎに乗って降臨という話は興味深いです。これは渭伊神社境内遺跡にまつわる伝説なのでしょうか。三角形の鳥居も気になります。渭伊神社に関わりのある鳥居でしょうか。ご負担にならない程度で構いませんので、ご教示いただきたいです。

浜松 渭伊神社について 投稿者:沢田メール 投稿日:2011年 6月25日(土)15時05分2秒 返信・引用

はじめまして、投稿内容は、沢山ありすぎて長くなりますので、簡単にします。

浜松 渭伊神社の云われを書かれている方として、お話します。

高座結御子神社から繋がって、多度神社、渭伊神社へ繋がりました。このHPで

天白磐座遺跡の中にある盤座について「この岩に神が降臨して祭りをしていただの、そういった言い伝えでもあればそれでOKなのですが、寡聞にしてそんな話を聞いたことがありません」と書かれていますが、虚空蔵菩薩が浜松と関係していると仮説をたて、その痕跡を探していました、虚空菩薩はうなぎに乗って降臨された伝説があり、三角形の鳥居とも関係しています。ひょっとしたら、貴方の疑問に少しでもお役に立てばと、メールしました。



葦嶽山 投稿者:チェリー 投稿日:2011年 6月21日(火)03時21分58秒 返信・引用

 はい。田原神社はここです。

 でも、住所が間違っています。「魁 神社巡拝記」さんに記してある住所はここから西北西に約2kmのところにある「艮神社」のものです。祭神の記述もこの「艮神社」のものです。神奈備さんの「神奈備の神社名鑑」の「御歳神を祀る神社一覧」がどちらも記述してみえるので、よくわかります。ここには、田原神社の祭神は次のように記してあります。「應神天皇 仲哀天皇 神功皇后 (配祀)豐磐窗神 櫛磐窗神 猿田彦命 菟道稚郎子 若日媛命 天鈿女命 保食神 迦具都智命 大雷命 高オカ神 大山祇命 綿津見神 水波女神 天水分神 國水分神 津速産靈神 興臺産靈神 市 十産靈神 天兒屋根神 伊弉那岐命 伊弉那美命 大名牟遲命 少彦名神 須佐之男命 稻田姫神 事代主神 大年神 御 年神 若年神 菅原道眞 藤原鎌足 首藤俊道 山内通資 白大夫」

 この中の「若日媛命」が「稚日女尊」ということだと思います。それにしても、祀る神様ってこんなに多いのでしょうか。直線を引いて聖地を定めるという方法は大陸に起源があると思い、その手掛かりが得られるのではと思ったのですが、こんなに多くの神様の一人であるとは・・・いずれにせよ、神奈備さんの「稚日女尊を祀る神社一覧」を全部プロットしてゆきますので、何か見つかると期待しています。

 田原神社から見た葦嶽山をカシミールで作図しました。直接見えます。方位は90.00°です。限りなく真東に見えます。でも、それほど目立ったピークに見える訳ではなく、あくまでも、「あの葦嶽山」が真東に見える特別な場所に神社を設けたという事になると想像します。MURYさんがおっしゃるとおり、葦嶽山が昔から特別な存在だったのかどうかがポイントになると思います。

 二つの「穴門山神社」とこの山を結ぶ直線上に「弥高山」という山の頂上が位置します。ズレはありません。もともとこの直線は弥高山と葦嶽山を結ぶ直線だったのではないかと思います。弥高山はきれいな円錐型もしくはお椀型で、こちらの方がピラミッドにふさわしいと思いますが、それらしい伝承が見つかりません。(二つの山はお互いに見ることができず、近接しているとはいえ二つの尾根が間に入るので、どうやって線を結べるのかは不明です)

 「元伊勢」を探ることは、「太陽信仰」を探ることになるようです。元伊勢に囲まれてしまっている「与喜山」も何か関係があるのではないでしょうか。それに、時々「菅原道真公」の名前に出くわすのですが、太陽信仰に関係あるのかなぁ?

 乱文になってしまいました。「稚児岩」をとりあげていただきまして、ありがとうございました。感激しております。



























Re: 磐座の森 投稿者:MURYメール 投稿日:2011年 6月19日(日)13時27分24秒 返信・引用

> No.742[元記事へ]




チェリーさん、ありがとうございます。お返事が遅くなりました。

延々と岩・石の話を書いた本になっています。ぜひお手に取っていただければと思います。

もうそろそろ、いろんな情報がお出しできると思います。




ハンコック氏の石碑は、もちろん私も見ました。間違いなく見どころの1つですよね。

クロマンタピラミッドや与那国海底遺跡にとどまらず、日本の超古代研究家の方々によって、いろんなところを案内してもらってるようです。

磐座の森は、栗石と賈鳴石だけ名前の付け方が独特なので、なにか昔からの情報がないかアンテナを張りつづけておこうと思います。




超古代の話題良いですよ。

私が巨石や磐座に関心を持つようになったのも、元々はそっちの出だからなんです。

葦嶽山の巨石群も、写真を見て凄いものがあるな~とドキドキしたものです。今でも一度行ってみたい場所です。




葦嶽山について調べたいのが、酒井勝軍によるとかつてここが神武天皇陵と呼ばれていたという話があるらしいんですけど、この話の起源を知りたいのです。

酒井の著作だけが情報ソースなのか、それとも、本当にそういう伝承が地誌などに記されているのか、もっと具体的ないわれがあるのかということです。これのあるなしで、葦嶽山の歴史的価値は大きく変わってくると思うのですが・・・。

宝探しで巨石群が倒された、山頂の太陽石が軍部に破壊されたという怪しい話の真偽も、それ本当なの?とはっきりさせたいところです。




田原神社、地図で探しました。この神社でしょうか。



http://websakigake.sakura.ne.jp/07-190.html




たしかに葦嶽山のほぼ真西です。

葦嶽山と田原神社の間に総水山(標高682m)というのが半ばかぶさっていますが、葦嶽山は少しは見えるんでしょうか。現地での見え方が気になります。

このページには祭神が「伊邪那岐神、須佐之男命、久那斗神、伊耶那美神 配 豐石窗神、櫛石窗神」となっており、稚日女尊がいないのが??です。昔と今で祭神が違うのかもしれません。

磐座の森 投稿者:チェリー 投稿日:2011年 6月13日(月)03時11分47秒 返信・引用

 本、購入します。情報を待ちます。楽しみです。

 磐座の森には今年の春に行きました。上の写真が祭壇石、その下の写真が神座です。いずれも祭祀されてはいないと思います。この場所は岩石祭祀の対象にはならないと思います。でも、山の散歩コースとしてはよいのではないでしょうか。展望は望めませんが、多くの巨石に触れることができて、駐車場から行って戻るまで一周2時間です。適度なアップダウンもあって、東濃地方くらいの人ならば、よいのではと思いました。

 実は、一番感銘を受けたのが「グラハムハンコック氏 来町記念」の石碑でございました(下の写真)。超古代系の話題はよかったんでしたっけ?ここのところ、元伊勢といわれる場所を探っているのですが、岡山県にある二つの穴門山神社を結んだところ、「葦嶽山」にぶつかってしまいました。日本のピラミッドです。地図で見る限り、全くズレなしです。ビックリして調べていたら、葦嶽山を真東に見る神社を見つけました。広島県にある田原神社です。この田原神社を検索したところ、神奈備さんの「稚日女尊を祀る神社一覧」に辿り着きました。「元伊勢」について、その奥の深さに畏れ、慄いたことでした。












ありがとうございます 投稿者:MURYメール 投稿日:2011年 6月 5日(日)22時18分10秒 返信・引用

>まめさん




この掲示板ではエロい話題もOKなのです。




楽しみにしてくださってありがとうございます。

期待に応えられるようにがんばって作ります。




>ウージーさん




葛城一言主神社ほどの古社ならば何かあるだろうと思っていましたが、やはりありましたか。まだまだ知らないことばかりです。

一言主大神は、一言ですべてを語るというかっこよさや、雄略天皇が平伏するような威厳のある神かと思いきや、役小角の前ではこてんぱんにされてしまうという何とも抜けたところがあり、私は好きです。

「願い石」は今度奈良に行く機会があれば神職の方にうかがっておきます。今年の夏に春日大社と奈良国立博物館に行く予定なので、その時寄ってきます。

なぜ奈良国立に行くか。それは7/16から「特別陳列 初瀬にますは与喜の神垣-與喜天満神社の秘宝と神像-」をやるからです。ぜひ見たい。



http://www.narahaku.go.jp/exhibition/2011toku/yokijinzya/yokijinzya_index.html




>あんでっどさん




心強いお言葉ありがとうございます。お力を借りたいです。

亀石の話は勉強になります。検索にかけたら、役小角が禍起こす蛇を鎮めるために置いた石ともいうそうです。石に封じられているのか、石が封じているのか、ちょっとだけニュアンスが違ってますね。




>皆神山の本




リンク先を見たら、ピラミッドの話がない真面目な本のようですね。

どこかのサイトで見ましたが、皆神山で年に一度「ピラミッド祭」なるものが開かれているらしいですが、初めはともかく現在は素朴な地元の村祭りになっていて、ピラミッド関係を期待していくと赤っ恥をかくという・・・。皆神山ピラミッド説もなかったことにされていくんでしょうか。

この掲示板は超古代系の話題もOKです。

お 投稿者:あんでっど 投稿日:2011年 6月 5日(日)18時13分28秒 返信・引用

本を出されるのですね。買います。宣伝もしときますよ。




葛城一言主神社の亀石は土蜘蛛の胴体を封じているらしいですね。

土蜘蛛は三つに寸断された、とか。

手足だか下半身だかを、鳥居脇の石に封じており、頭部は本殿奥の岩石(非公開)に封じているとか。ウロ覚えですが。




あとこんな本というかリーフレットが出るそうです。

松代・皆神山の歴史を紹介 NPOが冊子、12日に散策会

http://www.shinshu-liveon.jp/www/topics/12176




情報を拾ったはいいけど、拡散する場がない、という。

楽しみです 投稿者:uzi 投稿日:2011年 6月 2日(木)19時44分0秒 返信・引用

本、書かれていたのですね。

出版楽しみです。

装幀が立派な本は、高価で手が出ませんが。




先日葛城の一言主神社へ行ってきました。

こんなのがありました。

一枚目が亀石。何かを封じ込めた石だそうです。

二枚目は、宮司さんが「願い石」と言われたと記憶しております。

由緒に亀石の伝承が書かれてましたが、

カメラバックにつっこんどいたら紛失していまいました。







http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






Re: 男石・女石 投稿者:まめ 投稿日:2011年 5月31日(火)14時30分41秒 返信・引用

> No.737[元記事へ]




MURYさんへのお返事です。




> た、たしかに、変わってます・・・。

> 男石なんて、もう男ではないのではないでしょうか。




思わず吹きだしてしまいました。

男石も我慢しているような感じです。




本を出されるそうで、大変楽しみです。



Re: 男石・女石 投稿者:MURYメール 投稿日:2011年 5月29日(日)21時46分0秒 返信・引用

> No.736[元記事へ]




ウージーさんありがとうございます。




>男石・女石




た、たしかに、変わってます・・・。

男石なんて、もう男ではないのではないでしょうか。

なんかショックなので説を出しておきます。




(1)みんなが触りすぎてすり減った

(2)岩石は生きているので形が変わるものである(成長する石の伝説みたいな)

(3)なにか事件がらみ

(4)もう思いつきません




・・・正直なところ、再訪したら岩石のまつり方や配置が変わっていたという社寺を何回か見たことがあるので、ここもそのパターンかという思いです。

昔、ウージーさんが投稿された写真に滋賀県太郎坊宮の夢神社もそうでしたね。私が訪れた時は玉石社だったのにという。




沙沙貴神社の場合は、岩石自体を神聖視しているというよりも、岩石から岩石を目をつぶって歩くという行為自体を霊的なものとして神聖視しているのでしょう。岩石はあくまでも目標物という素材。だから、岩石自体をとっかえてもOKなのかもと感じました。




銅鐸博物館は楽しかったですか?博物館も含め、三上山周辺はゆっくり見ると時間が足りない場所です。

そこの学芸員さんにネコ岩の質問をしたら困惑されていたのを思い出します。

男石・女石 投稿者:uzi 投稿日:2011年 5月28日(土)11時34分53秒 返信・引用

御上神社、銅鐸博物館、沙沙貴神社へ行ってきました。

MURYさんが紹介されているところです。

銅鐸博物館は初めてなんですけど、結構長時間おりました。

でかい山の神碑も見てきましたよ。

沙沙貴神社も初めての参拝でした。

気になったのが男石・女石。

かたちが変わっておりました。

なぜ替える必要があったのか想像も出来ません。







http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






要石 投稿者:MURYメール 投稿日:2011年 4月22日(金)00時21分21秒 返信・引用

情報提供ありがとうございます。

改めて位置を確認してみたら、国道1号線(沼津バイパス)のすぐ近くだったんですね。

別用ですが、昔この道を通ったことがあったので、あの時知っていればなあと少しもったいない気持ちです。




静岡県には清水市の鹿島神社に要石があるそうで、いずれも地震を防いでくれる場所だそうです・・・。




ほかに要石と名前のついている事例を挙げておきます。

私の情報収集の都合上、東日本に偏りましたが、西日本にももっと要石はあると思います。




要石(福島県岩瀬郡長沼町 鉾衝神社)

要石(茨城県鹿嶋市 鹿島神宮)

要石(千葉県佐原市 香取神宮)

要石(神奈川県大和市)※現在は消失

要石(山梨県笛吹市石和町 佐久神社)

要石(山梨県山梨市下石森 山梨岡神社)

要石(長野県諏訪市 諏訪大社上社前宮)※現在所在不明

要石(三重県伊賀市阿保 大村神社)

(無題) 投稿者:S 投稿日:2011年 4月20日(水)06時07分24秒 返信・引用

初めまして




沼津市に要石ありますよ

要石神社という名で祠があります

Re: 出雲 投稿者:MURYメール 投稿日:2011年 4月10日(日)11時52分3秒 返信・引用

> No.732[元記事へ]




はじめまして。




志谷奥遺跡は、青銅器出土地点の約1.5m脇に

径3m、高さ1.5mの岩石が2体あったそうですが、

山道を作る際に爆破して現存はしていないとのことです。




遺物が出土した場所は、土地改変で見つかった場合があるので

岩石も含めた周囲の環境は一変していることが多いようです。




恋山や韓竃神社は初めて知りました。

耳寄り情報をありがとうございます。

玉日女の巨岩は迫力ありますね。




ヨモツヒラ坂は、島根県内に複数ヶ所

候補地があった記憶があります。

写真でも昔見たことがありましたが、

確かに神話で語られたほどの巨大さは・・・?な印象でした。

昔語りのタネにはうってつけの場所なんでしょうね。



出雲 投稿者:tianlouメール 投稿日:2011年 4月 7日(木)17時23分9秒 返信・引用

たいへん面白いサイトに行き当りました。

これからじっくり読ませていただきます。




さて、私は最近、出雲へ行ったばかりですが

志谷奥遺跡と言われる場所にも行ったのですが

Muryさんが書かれておられるような巨石は目にしませんでした。

私の見方が雑だったでしょうか。




現場は谷の脇を登って行く道に市が立てた説明板があり、その暫く先に、崖を背にして

ここがその場所です、という杭が立っているだけで、何もありません。

インターネットの他の人の記事で読んだ限りでは、

発掘現場に近づくことは不可能だそうです。




出雲のリストには是非、恋山(したひやま)を加えてください。

川に巨石が散乱している場所で

観光地にもなっているのですが

最下流側の山腹に巨岩が玉日女として祀られています。

(写真。左下の屋根は社殿です)




また私はまだ行っていませんが

最近ブームになっているらしい出雲市(旧平田市)の

韓竃神社はスサノヲの乗った岩船と称する巨石を祀る神社です。




揖屋駅の東に

ヨモツヒラ坂ト称する場所があり

記紀に出てくるヨミの国からの出口はここだと言っています。

まあ、近世にたいした根拠もなくこういうことを言いだしただけの場所だと思いますが。

現場は明るい里山の一角で、農業用水池二つに挟まれた狭い樹立ですが

岩が三つ並んでいます。

ヨミからの出口を塞いだ岩に見立てているようですが

それにしては小さいです。(一番大きいもので高さが2m強しかない)




どちらにしても出雲にはもっと色いろありますし

興味深い場所ですので 是非、探訪されてください。






Re: 登山で気になったことについて 投稿者:MURYメール 投稿日:2011年 3月17日(木)19時02分19秒 返信・引用

> No.730[元記事へ]




はじめまして。




ご質問をいただきありがとうございます。

私はまだ御在所岳や国見岳に登ったことがなく、現地を見ていません。

三重県出身なのにお恥ずかしいかぎりですが・・・。




なので基本的には判断保留の立場です。

ただ、各地の奇岩を見てきた上で申し上げると、自然の御業というものは人間の想像をはるかに超えていることが往々にしてあります。私は、自然がつくりだす景色は無限大に可能性が広がっていると思っています。




鈴鹿山脈は、滋賀県側と三重県側に南北に走る長大な断層に挟まれています。地殻変動で両側の断層が動いた時に、合間の陸地が計り知れないパワーで標高1000m級の山脈を押し上げて形成したとも、三重県側の断層が落ち込んだことによって形成されたともいわれています。




写真で見ていますが、特に地蔵岩などは、どこから上の岩石が乗っかかったんだろうと思いますが、現状の地形の状態で上から岩石が落ちてきたという可能性だけではなく、断層と断層の下からの突き上げや、断層の滑り落ちの時に、山が割れて岩も削られたのかもしれません。




岩石祭祀の可能性については、それぞれの岩石に祭祀の痕跡や歴史があるかを探ってみないとわかりません。現在のところ、地蔵岩がいつから地蔵岩と呼ばれているのか、近世以前の信仰の歴史を持つ場所なのかは情報収集できていません。

情報収集の際は、文献・民俗・考古資料の三本柱で調べていくことが大切だと思います。実際はどうだったとしても、もし記録や痕跡が見つからなかったら、岩石祭祀を示すものとしては認めることができないでしょうね。




ご参考になれば幸いです。

登山で気になったことについて 投稿者:松岡 投稿日:2011年 3月16日(水)13時33分8秒 返信・引用

三重県三重郡菰野町の鈴鹿山系御在所岳にある「おばれ石」や「地蔵岩」、あるいは、国見岳頂上付近にある「石門」などは、どう見ても自然の造形でできるものではないように思われますが、巨石文化の一つで岩石祭祀を示すものなのでしょうか? 教えてください。

Re: 川上山若宮八幡神社 投稿者:MURYメール 投稿日:2011年 3月 7日(月)00時26分28秒 返信・引用

> No.728[元記事へ]




神社には行きましたがこれは見逃してますね。

石灯籠?の後ろにあるのですか。

写真で見る限りは、風化が激しそうですがただの自然石ではなく

陽石のように見えますが・・・

川上山若宮八幡神社 投稿者:uzi 投稿日:2011年 3月 6日(日)07時59分41秒 返信・引用

MURYさん、アップしておられないので。。。。




http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






Re: 丹生川上神社下社 投稿者:和女布 投稿日:2011年 2月14日(月)19時44分59秒 返信・引用

> No.726[元記事へ]




MURYさんへのお返事です。




いやいや ありがとうございます




> 上社から見つかった配石遺構ですが、

> 遷座先の現在の境内に復元されているそうですよ。

> ご情報まで。




近いうちに お参りさせていただきます~ 

Re: 丹生川上神社下社 投稿者:MURYメール 投稿日:2011年 2月 1日(火)00時23分45秒 返信・引用

> No.725[元記事へ]




がっかりさせてしまってごめんなさい・・・。




上社から見つかった配石遺構ですが、

遷座先の現在の境内に復元されているそうですよ。

ご情報まで。



Re: 丹生川上神社下社 投稿者:和女布 投稿日:2011年 1月31日(月)22時10分58秒 返信・引用

> No.724[元記事へ]




MURYさんへ




情報をありがとうございました 知らないことでした

立ち入り禁止なんですネ  残念です・・・




上社情報もありがとうございます















Re: 丹生川上神社下社 投稿者:MURYメール 投稿日:2011年 1月30日(日)19時58分40秒 返信・引用

> No.723[元記事へ]




本殿および丹生山には立入禁止で、肉眼で見ることはできないようです。




(参考サイト)

http://kamnavi.jp/ny/kawasimo.htm

http://www.geocities.jp/engisiki/yamato/html/030904-03.html




3.3m×2.3mの範囲に、26個の岩石を配した遺構だそうです。

ただ、考古学的に祭祀遺跡認定はされていないと思います。

記述が具体的なので実在は確実なのと、この数値データのネタ元である文献が存在するはずです。




丹生川上神社「上社」は、ダム建設による水没のため神社が遷座しましたが、

旧鎮座地の本殿下から、おそらく平安時代と推定される5.4m×3mの配石遺構が出土しています。

こちらは宮の平遺跡と呼ばれています。




(宮の平遺跡発掘調査概要)

http://www.kashikoken.jp/from-site/miyanohira.html




下社のものと似ていますね。

たぶんご存知の範囲だったかもしれず恐縮ですが、私の知るかぎりではこのようなところになります。

丹生川上神社下社 投稿者:和女布 投稿日:2011年 1月24日(月)14時19分8秒 返信・引用

1年ほど前 奈良天理の八つ岩探索のときに サイトをみせていただき助かりました




どなたか ご存知の方がいらっしゃったら 教えていただきたいのです

丹生川上神社下社 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E7%94%9F%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E4%B8%8B%E7%A4%BE




由緒のところに

当神社背後の丹生山山頂に、祭祀遺跡と思しき矩形の石群があること

とあるのですが とても気になります

ご存知あれば 教えていただけないでしょうか

よろしくお願いします



謹賀新年 投稿者:MURYメール 投稿日:2011年 1月 9日(日)20時51分38秒 返信・引用

あけましておめでとうございます。みなさま本年もよろしくお願いします。




>チェリーさん




愛知県のあのあたりには「岩崎」「石作」など、イワサカにつうずる地名が散見されます。「石刀」という名前も何か所かにあり気になりますね。

岩があったから名前が付いたのか、どれか元の地名があってそれが各地に伝播したのかいろいろ見方はあると思います。

伊賀八幡宮(岡崎) 投稿者:チェリー 投稿日:2011年 1月 6日(木)01時20分37秒 返信・引用

 あの~新年の1番に異端の私が投稿するのはどうかと思いますが、昨年からの流れがあるので、御容赦ください。

 あけましておめでとうございます。

 写真は愛知県岡崎市にある「伊賀八幡宮」。徳川家の祖である松平家の「氏の神」です。大きな「さざれ石」が祀られていました(境内の山門の脇にもうひとつありました)。新しいものですが、とても大切に祀られていました。初詣の参拝客も多く、明るくすがすがしい気持ちになりました。で、ここのとっても真東に久能山東照宮が位置するわけです。今年もこんな調子ですが、よろしくお願いいたします。それにしても、こんなに立派なさざれ石は初めて見るなぁ。

 年末に投稿した「岩崎御嶽山」ですが、MURYさんよくわかりますねぇ。山頂のあたりを散策してて、私は怖ろしくなってしまったのです。登っていく途中の何十という区画?はとても手入れが行き届いて、落ち葉もないといった状態でした。でも、さすがに山頂近くは、樹木の中で、やはり、鬱蒼とした中、何百といった古い石碑が立ち並んで、おっかなかったです。忘れられて手入れがされていないといったことではなかったと思います。でも、怖かったなぁ。

 山を一周したのですが、岩崎という地名のゆかりとなったような岩は見なかったです。すぐ南のピークの「岩崎城」でもなかったと思います。きっと自然の大きな岩があると想像されるのですが、どこにあるんだろう?

 稲荷山の「お塚」はとても似ています。鳥居を除いたらそっくりです。位置の確認をしたい事もあるし、今年こそ是非行ってみたいと思います。















Re: 岩崎御嶽山 投稿者:MURYメール 投稿日:2010年12月30日(木)18時18分8秒 返信・引用

> No.719[元記事へ]




半年くらい前、あるフリーペーパーに岩崎御嶽山が載ってました。

岩崎という名前に惹かれて、行こうかなどうしようかなと迷い、ついに行かなかった場所です。




石碑をたくさん献ずるという行為は、なんなのでしょうね。

たくさん立て並べるという総体に意味があるのか、それとも1つ1つの石碑が独立して意味を持っているのか。石碑は神名がバラバラだから、石碑ごとでもちろん神格は違うのでしょうが・・・。




伏見稲荷のお塚と似ているのかなと思うのですが、

稲荷山のお塚は個人的にはあまりおどろおどろしさは感じませんでした。陽性のイメージなんですよね。

でも、稲荷山の隣にある大岩山にもお塚があるんですが、こっちは陰鬱な雰囲気を放ってました。あまりその場にいたくない感じでした。

違いはなんなんでしょうと考えると、やっぱりそれは、今でも1つ1つの石碑が手入れされてまつられているかまつられていないかの違いが生み出してるんだと思います。




何らかの目的や思いを込めて手間暇かけたはずの石碑が、今は顧みられていないということは、その人のせっかくの思いがまったく今に継承されていないということです。

なんというか、そこに悲しさがありますよね。ただ荒廃した景色そのものよりも、祭り場から失われた歴史の重さというか喪失感のほうが私にはキツいです。




岩崎御嶽山の場合はどうでしょうか。

けっこう手入れは行き届いているらしいですが、1つ1つの神霊碑にかけた思いが見えてくればいいですね。

岩崎御嶽山 投稿者:チェリー 投稿日:2010年12月27日(月)00時51分19秒 返信・引用

愛知県日進市にある標高131mの山です。

 尾張徳川家の菩提寺である建中寺が、名古屋城天守閣とこの山を結んだ線上にあるということで、初夏の頃に訪れました。

 頂上部に「岩崎御嶽社」があり、木曽の御嶽大神を勧請したのだそうですが、驚くべきは神霊碑というのでしょうか、その石碑の数と密集度!頂上部は覆われてしまっています。三千基以上だそうですが、私には万のオーダーに思えます。山の質量が変わってしまうのでは?

 夏に登った木曽の御嶽でも数多く見られましたが、こんなに密集してはいません。あまりのすさまじさに帰り道、頭が痛くなってしまいました。






Re: はじめまして 投稿者:MURYメール 投稿日:2010年11月24日(水)00時15分4秒 返信・引用

> No.716[元記事へ]




>gadogadojpさん




こちらこそはじめまして。

人生の先輩にご評価頂いて恐縮です。ありがとうございます。

天神山の調査は、あんなに面白い場所なのに誰もやってくれないのでその分力入れてました。

それだけに興味を持って下さると嬉しいです。gadogadojpさんのブログの記事も拝見させて頂きました。継体天皇への注目と、浄めと再生の山という性格は、今後の研究の中で私も意識的に注意して見ていきたいと思います。




天神山についてはその後、文献情報が新たにいくつか集まってきており、新局面を迎えています。

いつかページを更新したいと思っています。




山中の磐座については、今年の6月に再訪しましたが、相変わらず三の尾根への到達は困難です。斜面が急で落石の危険もあると思います。行かれることがあれば、十分注意されてください。

Re: 瀧蔵神社 投稿者:MURYメール 投稿日:2010年11月23日(火)23時55分22秒 返信・引用

> No.715[元記事へ]




>ウージーさん

>お写真は天照大神をお祀りした祠でしょうか。




天照皇大神の札が貼ってありました。

瀧蔵神社は拝殿の前にも注連縄付きの岩石があったり、観音屋敷という場所にも礎石や堂宇の石材なのか自然石の群れが目立っており、何かと意味深な場所です。




> 黄金塚




まさにその黄金塚を見に行くためにあそこまで足を伸ばしていました。どれだけ黄金なのかと思って・・・。

結果は下の写真ですが分かるでしょうか、ロープで仕切られた緑の隆起が。これが黄金塚です(下に黄金が眠っているという伝説なんでしょう)。

「中谷休憩所」と書いてある立て札の奥の茂みの中を無理やり進んでいったらありました。場所分かりにくいかもしれませんね。






はじめまして 投稿者:gadogadojp 投稿日:2010年11月21日(日)18時32分0秒 返信・引用

MURYさん、はじめまして。

わたくしgadogadoと申します。

還暦間近の単なる歴史好きとして、細々とブログ等書き散らしております。




MURYさんのサイトと出会ったのはごく最近なのですが、天神山/与喜山の項は隅々まで拝読させていただきました。

たいへんな労作ですね。感服いたしました。




いえ感服しただけではなく、たいへん参考になりましたので、私のブログ文にも反映させていただきました。

引用部分も含め、出典は明示したつもりですが、

お時間があるときに一度目を通していただいて、

万一失礼な部分、誤解の箇所などありましたら、ご連絡お願いします。

ただちに訂正の手続きをとらせていただきます。




該当記事のURLは下記の通りです。

http://sakishimasuounoki.ti-da.net/e3243105.html




今後も時折立ち寄らさせていただきます。

MURYさんのご活躍、期待しております。




gadogadojp拝

http://sakishimasuounoki.ti-da.net/






Re: 瀧蔵神社 投稿者:uzi 投稿日:2010年11月21日(日)09時04分39秒 返信・引用

> No.712[元記事へ]




追記




瀧蔵神社付近に黄金塚と呼ばれるものがあるんですけど、

散策されていて、それらしきものをMURYさん見つけられたでしょうか?

http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






Re: 瀧蔵神社 投稿者:uzi 投稿日:2010年11月21日(日)08時59分38秒 返信・引用

> No.712[元記事へ]




お写真は天照大神をお祀りした祠でしょうか。

飛鳥坐神社の場合はたしか陽石だった記憶が・・・

祠の重しではないでしょうね。(笑)




2枚目の写真は室生寺にあったものです。

根に囲まれた岩の左上、くぼみに、白っぽい岩が入れてあります。

カメラの望遠レンズを通して見ると前掛けをしている様にも見えました。







http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






Re: 瀧蔵神社 投稿者:MURYメール 投稿日:2010年11月 6日(土)21時29分53秒 返信・引用

> No.712[元記事へ]




投稿ありがとうございます。

私もこれ見ました。山の鞍部みたいな場所で、崖から切り離されたかのように岩があって、岩の亀裂から巨木が末広がりに生えていました。

岩から巨木が出ているのを神聖なものとしたんでしょうが、岩に名前が付いているのか分かりません。




瀧倉神社境内にはこのようなものもありました。

山添村の六所神社を思い出しました。六所神社は本殿が岩に座っていますが、発想が似ている気がします。






瀧蔵神社 投稿者:uzi 投稿日:2010年10月31日(日)21時25分46秒 返信・引用

2010年10月11日の日記にMURYさんは「瀧蔵神社とその周辺」と書かれています。

瀧蔵神社の境内から少し離れた所に、添付写真の岩がありました。

ぐるっと注連縄が巻かれております。




http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






Re: 台石の上に乗ってる大きいの 投稿者:MURYメール 投稿日:2010年10月11日(月)22時20分38秒 返信・引用

> No.710[元記事へ]




これ以上ない、わかりやすいご回答ありがとうございます。

1枚目の写真もよく見れば「~石」の字が見えてましたね(笑)

この大きさでも飲み込んでしまうんだから鯨というのはすごい。

台石の上に乗ってる大きいの 投稿者:uzi 投稿日:2010年10月11日(月)20時52分5秒 返信・引用

その台石に「鯨石」と彫られていました。

また、その台石にコインが数枚置かれておりました。

私から見たら、力石の様な大きさです。(笑)




http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






(無題) 投稿者:MURYメール 投稿日:2010年10月11日(月)18時47分35秒 返信・引用

>チェリーさん




兜巾の岩、標高2000m級ですね。白山を見たとき、私は三重県の石山観音をなんとなく思い出したましたが、白山も石山観音も数百m。それと比べるとスケールが段違いですね。

白山は一度知ってしまったからでしょうか、なにかこう気にかかる場所になってます。結局、三輪山信仰とは全く関係を持つことのなかった場所だったのか、昔は森でも繁っていて今のような感じではなく、特に気にもとめられてなかったのか。今あの不動寺周辺は完全に「浮いている」感がある場所なのであの山の歴史が知りたいです。

奥津磐座の感想は、わかる気がします。台風で木がなぎ倒される前は山頂も鬱蒼としていて、その頃と比べると奥津磐座の印象はがらりと変わったそうですよ。昔を知る人に聞くと、今は開放的で明るい感じだそうです。




>ウージーさん




大変興味深いのでさっそく集成に入れさせてもらいました。こういうのは大好物です。

あの台石の上に乗ってる大きいのもそうなんでしょうか。

調べると、祟りを恐れたから神社に奉納したという話も載っていました。神秘的に思ったにせよ、祟りを怖がったにせよ、最終的には神社の神様のところにお供えすれば何とかしてくれるという思いのようです。

鯨石 投稿者:uzi 投稿日:2010年10月 9日(土)06時49分22秒 返信・引用

大王崎の名切神社にありました。

鯨の腹から出た石に神秘性を感じて神社に持ち込んだとありました。

腹から出たそうなので、鯨が飲み込んだものでしょう。

結石ではないと思いますが。




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兜巾(トキン)の岩 投稿者:チェリー 投稿日:2010年10月 3日(日)20時44分34秒 返信・引用

 三輪山に登拝し、縦走路は立入禁止でしたので、一度降りてから車で白山に行きました。白山は不思議な感じがする場所で、時間が止まっているようでした。岩の色はもっと茶色いのですが、似た場所がありましたので、写真を見てやってください。八ヶ岳の北の端、蓼科山に登る林道の横にあって「兜巾の岩」というのだそうです。頂上に新しい祠がありました。こちらは眺めが良くて開放的な所でした。晴れれば蓼科山が良く見えるはずです。

 三輪山の頂上の奥津磐座はいったいどんなに恐ろしいところかと思っていたのですが、こんなこと言うと怒られそうですが、とても可愛らしい感じがしました。それはこじんまりとしたとかそういったことではなく、なんか女の子が遊んでいるような印象を受けました。晴れてて人が何人もいたからでしょうかね。でも、恵那の笠置山なんかだと、やっぱりおっかないところだと感じましたし、御嶽山なんかでは噴火口です。それに比べると、ここでテントを張るといいなぁと思ってしまいました。



 牽牛子塚古墳がシートで覆ってあったのは、今回は古墳を大きく切りかいてるからだと思います。




Re: 牽牛子塚古墳 投稿者:MURYメール 投稿日:2010年 9月26日(日)21時46分52秒 返信・引用

> No.705[元記事へ]




牽牛子塚古墳、どうしてシート被せてあったんでしょうね??

私もこの古墳は見学しましたが、その時は石槨の中をちゃんと見ることができましたよ(入口に扉はしてあるので入れませんが)。といってももう9年前の話です。




高松塚古墳や飛鳥宮はほぼ同時期の遺構ですし、牽牛子塚古墳の石槨は二上山の石材を使っているそうなので、方位学的な配置も意識している時代ですからありえると私も思います。











牽牛子塚古墳 投稿者:チェリー 投稿日:2010年 9月23日(木)22時26分48秒 返信・引用

 先日念願の三輪山登拝を果たしたのですが、その帰りに寄ってみました。休日ということもあってか、立入禁止でシートも被せてあって、ほとんど見ることができなかったのですが(上の写真)、現地に写真が掲示してありました(真ん中の写真)。ただ私は場所を知りたかったので、GPSで位置を拾うことができて満足でした。

 場所は尾根の突端で見晴らしのよい所でした。ここから正面には高松塚古墳のあたりが見渡せるようです。斉明天皇の本拠地?である飛鳥宮あたりは木立で見えなかったのですが、カシミールによれば見えるはずです(下の図)。

 まあ、小耳で聞き流していただければよいのですが、位置については、二上山雌岳から120.0°でした。八角形は南北か120°かどちらかに合わせてると想像します。なんで雄岳じゃなくて低い方の雌岳なのかと思いますが、他にも雌岳から北西に四天王寺(315.0°)というのもあります。












伊雑宮 投稿者:MURYメール 投稿日:2010年 9月22日(水)01時26分24秒 返信・引用

伊雑宮もいつかは行きたいものです。

(同じ県に住んでいるんだから早く行けばいいんですが汗)




近くには鸚鵡石などの事例を諸々聞いており、瀧原宮の近くや頭之宮四方神社にも岩石の祭りがあるそうですから、あの辺りを一度集中的に巡ることは私の中で大きな価値があるかなと思ってます。

Re: 阿智神社 投稿者:uzi 投稿日:2010年 9月21日(火)19時55分2秒 返信・引用

> No.702[元記事へ]




画像ありがとうございます。

亀石組、鶴石組しか記憶にありません。

沢山あるのですね。




写真は、伊雑宮にあった佐美長神社遙拝石です。




http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






阿智神社 投稿者:MURYメール 投稿日:2010年 9月20日(月)22時33分55秒 返信・引用

ぜひ再訪のお供にはこの地図を。

阿智神社の石庭は広範囲に散らばってます。

特に斎館横の石庭と、本殿の背後斜面の枯滝石庭は見逃しやすいです。

私は行きそびれました。









よみがえった記憶 投稿者:uzi 投稿日:2010年 9月19日(日)06時36分18秒 返信・引用

出張で岡山へ行ったおり、倉敷の美観地区をぶらつきました。

大原美術館にも行きたかったんですけど、夕方で時間的に余裕がなく、町並みウォッチングに徹しました。

偶然出会った神社に参拝したんですけど、境内に石組みがあったのを思い出しました。

ただ漠然と神社巡りをしていた10年以上前のことです。

阿智神社だったのですね。

吉備津神社、吉備津彦神社とセットで、いずれ再訪致します。

http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






日本一の石灯籠 投稿者:MURYメール 投稿日:2010年 9月12日(日)20時59分51秒 返信・引用

水月公園のも大きいですね。

そもそも日本一の石灯籠と銘打っているものは全国に色々あるようです。広島県府中市の石灯籠が高さ9mということでよく検索に引っかかりますが、福岡県八女市の石灯籠も高さ10.5mだそうでこれも日本一を謳ってます。

と思ったら岡山県吉備津彦神社の石灯籠は高さ11.5mで、さらに高い。これがNo.1なのか?




高さを基準にするだけでもこれなので、胴回りや面積基準も入れると日本一石灯籠サミットができそうな勢いです。






大灯篭 投稿者:チェリー 投稿日:2010年 9月 7日(火)00時02分5秒 返信・引用

 ところが、霧ケ峰から春宮へ下る道の途中に「水月公園」という桜の名所があるのですが、そこで見つけたのがこの大灯篭。祭祀されているわけではないのですが、大きさとしてはこちらの方が大きいかなぁ。笠石は14㎡(八畳敷)で下諏訪町萩倉上の東俣地籍、台石は山梨県の白州町釜無川から出たものと書いてあります。全体の高さは約5m、重量は約55tだそうです。わざわざ山梨県から運んでくるなんて、何か訳がありそうです。

 そもそもこの道から少し入ったところにも「御射山社」があって、とても神秘的なところでございました。切り出す前の御柱もありました(諏訪大社のものではありませんでしたが)。






ありがとうございます 投稿者:MURYメール 投稿日:2010年 9月 5日(日)20時59分28秒 返信・引用

>チェリーさん




この神社、珍しい形をしてますね。高さは置いといて、胴回りなら日本一の石灯籠じゃないですか?われわれ巨石業界の人間が見たら、ドルメン型なんて言ってしまいそうですが。

神宿る御幣を収納する岩ということで、磐座というより岩蔵と呼びたい感じです。




土地勘がないのでよく分かっていませんが、近くのカボッチョ山や旧御射山の山頂では古墳時代の玉類が見つかっていて、石で造った石檀の様なものもあると話に聞いたことがあります。高山とは言えど、遥拝するだけではなくてその当時から人が登っていたんですね。




>あんでっどさん




2007年9月に書かれたブログには、すでに癌封じの霊木の折れ曲がったショッキングな写真が貼られていました。




http://tacoseijin.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_8537.html

(ブログ「マイ・ヒッチハイカーズ・ガイド」より)




8/11の撮影は、ほんとに最後の勇姿だったんじゃないでしょうか。あんでっどさんはきっと癌にかからない。これは自信を持って言えそう。




他のブログを見てみると、天岩戸神社の御座石も台風か洪水で流出したという話が書かれているのですが、こちらは私が行った限りではそんなことなく、川を塞ぐ御座石の変わらない姿を見ることができました。

写真の手前の平たい石が神楽石だそうです。やっと特定できました。






あらら 投稿者:あんでっど 投稿日:2010年 9月 5日(日)13時49分41秒 返信・引用

日記拝見しました。元伊勢皇大神社の癌封じの霊木がなくなったとか……。

残念。




私が訪問したときには健在だったので、これがギリギリ最後の勇姿になるのかも。2007年8月11日の撮影です。






霧ケ峰薙鎌神社 投稿者:チェリー 投稿日:2010年 9月 3日(金)01時25分41秒 返信・引用

 これはゴールデンウィークの時の写真ですねぇ。諏訪湖の北東、霧ケ峰のグライダー滑走路の近い方の端近くに鎮座します(北緯36°05′28″東経138°09′22″WGS84)。高原の端に位置しますので、かねてより見晴らしが良いだろうと思っており、訪れてみました。

 石灯籠なのだと思います。真ん中に空間が穿ってあり、多分金属の御幣が祀ってありました。その表には霧ケ峰薙鎌神社とあり、その左右に諏訪大社の神器である「薙鎌」が表してありました。脇に表示があったのですが、漢文の為読めません!祭神は「建御名方大神」であり、昭和5年に御射山社の跡に建てたのだといったようなことは解りました(あってるかなぁ)。あんまりアップで撮影すると不謹慎かもしれませんが。

 訪れたのが上社本宮に御柱を立てる、ちょうどその日だったのですが、この神社にも3本まで御柱が立っておりました(5月29日の霧ケ峰開山祭に続いて4本目の御柱が立てられたようです)。

 ここからの眺めは期待した以上のもので、南東の方向には八ヶ岳と南アルプスのちょうど真ん中に富士山が望まれ、南西の方向には諏訪湖の上方に御嶽が見えるといった豪華なものでした(この日はうすく曇っており、写真にはほとんど写っておりません)。また見通しの良い日に撮影したいものです。

 さて、例によって位置情報で締めるわけですが、ここは御嶽山剣ヶ峰から70.0°でございました。以上です。












菩提樹苗差し上げます 投稿者:yama(草夢庵) 投稿日:2010年 8月22日(日)18時57分19秒 返信・引用

インドボダイジュの苗差し上げます。下記Hpからお申し込みください。

http://www.ogaki-tv.ne.jp/~yyy/newpage4.html

Re: 閑話でかんわ 投稿者:MURYメール 投稿日:2010年 8月18日(水)23時15分12秒 返信・引用

> No.693[元記事へ]




縄文時代は、地中に穴を開けて中に遺体を入れて、地表に石を並べたお墓(配石墓)を造っていました。

これもけっこう地域ごと、年代ごとで規格が共通しているそうです。

もう1つ面白いのは、地中に遺体を埋めたらその上にすぐ石のお墓を造るという対の関係ではなく、遺体を埋めた穴がある程度(~百数十基)たまってきたら、その時初めて石のお墓を造るケースが多いんだそうです。

一人一人に石があるわけではなく、ある程度人が集まった集合体の状態で1つの配石墓という感じだったそうです。配石墓もある程度造り方が決まっていたようで、そういう意味では一人一人の個性というのはあんまり墓には読み取れないのかもしれません。




そんな縄文時代からいきなり年代が離れて申し訳ないですが、静岡県牧之原市の大興寺は、代々の住職のお墓があって、それは自然石を墓標にしています。

なんでも住職が亡くなると、そのたびに裏山からひょうたん形の石が生まれてくるといい、子生まれ石と呼んでいます。これを墓標にしています。写真は下のサイトのような感じです。



http://www.shimashin.co.jp/13town/meisho/sagara/koumare/koumare.htm

(島田信用金庫のホームページです)




ひょうたん形という規格は求めているのでパット見はやっぱり似ていますが、自然石なので1個1個多少違います。住職の生前の徳で石の大きさが違ってくるという説明は面白いです。こっちは一人一人に石のお墓があるし、形も違うので個性が付いている感じですか。

閑話でかんわ 投稿者:テト店丁稚 投稿日:2010年 8月17日(火)23時18分0秒 返信・引用

お盆でお墓参り。どんどん墓苑を広げている所なんですが、一年ぶりに行ってみたら、西洋風に芝生の広場に台形の墓石が並ぶ区画ができていました。




いきなり外国に来たような。・・・それにしても、東西ともお墓は石なんですね。「死の発見」が石への関心を生んだのかなあと思いながら、眺めてました。




なんでも西洋人の真似だなあと思う反面、芝生に墓石は眺望が広がってええなあとも思いました。なだらかな丘が広がる場所なんで、周囲の自然がキレイです。




ボクは山に散骨してほしいと思っていますが、どうしてもお墓を作らなければならないのなら、自然石を置きたいです。




考えてみると、自然石のお墓が無いのが不思議。




なんで、ああ、みんな同じ規格でびしーっと統一するのでしょうか?そういうキマリが墓苑にはあるのかなあ?

http://blog.goo.ne.jp/kooponmeepon






Re: 初めまして。 投稿者:MURYメール 投稿日:2010年 7月17日(土)12時16分48秒 返信・引用

> No.691[元記事へ]




はじめまして。お役に立ててなによりです。

私もあっちこっちと行きましたが、京都の元伊勢はとてもいいところだと思いますよ。おすすめです。

私もまた写真の撮りなおしに行こうかなと予定してます。




石城山神籠石の情報もありがとうございました。

石城山には石城神社があり、山の中の列石が名前の由来になっているほどのものですから、相当大切に扱われてきたのでしょう。

石のお城と呼んでいる列石に対して、神社をまつった人達はどういう風に思っていたんでしょうね。

初めまして。 投稿者:のの 投稿日:2010年 7月14日(水)15時28分52秒 返信・引用

初めまして!こちらのサイトに記載してあった、京都の元伊勢の記事を楽しく拝見させて頂きました。ちょうど、参拝を考えていただけに、とても楽しく読むことができました。

ありがとうございます。




ところで、岩石祭祀の山口県の情報が無かったのでご参考までにどうぞ。

(岩石祭祀とは少しずれてしまうかもしれませんが。)

「石城山神籠石・石城神社」http://wasalaam.web.infoseek.co.jp/tree02/iwaki.html

(無題) 投稿者:MURYメール 投稿日:2010年 7月 7日(水)23時00分36秒 返信・引用

さっそく行かれたんですね。

「愛知縣の上代史蹟を訪ひて」はちょっと考古遺跡色強すぎでしたか?土器・貝塚なら地味かもしれません。上代史蹟という書き方から、巨石遺跡がメインかなと思ったのですが。




昔の講演録や口述筆記というのは、味があるので私も読んでいて好きです。

根拠ぶっ飛ばしのかなり踏み込んだ話とか、脱線した話とかがあって読み物として面白いんです。おっしゃる通り、その人の人となりが伝わってくるのもいいですよね。

無題 投稿者:チェリー 投稿日:2010年 7月 6日(火)00時13分46秒 返信・引用 編集済

 先週末に愛知県公文書館へ赴き、「愛知教育 第495号(昭和4年3月号)」を見て参りました。鳥居龍蔵博士の「愛知縣の上代史蹟を訪ひて」は全8ページ、講演会の概要を記者の方が文章に起こしたものでした。内容は、愛知県史の先史時代と原始時代を受け持つこととなり、渥美半島・豊橋・吉田・桜田・鳴海方面を歩いた感想を述べるとあります。皆が研究の結果発見された場所を拝見したにすぎないとのことです。土器・貝塚等に関する内容が多く、磐境については、12行の記事に留まっております(渥美半島のものです)。

 ごめんなさい、私は考古学というか学問には全く素人なので、内容がよくわかりません。でも、うっすらとしかわからないのですが、面白いです。80年も前の講演なのですが、臨場感があるのですよ。博士の人となりも感じられます。見ることができたのはマイクロフィルムでしたが、プリントできました。私が持っていても宝の持ち腐れですので、MURYさんにメールでお送りしてみようとも思ったのですが、添付はできないのですねぇ。

Re: 小牧山 投稿者:MURYメール 投稿日:2010年 6月27日(日)22時20分29秒 返信・引用

> No.687[元記事へ]




平日代休の時があるので、その時に資料調査がてら愛知県公文書館行ってきますよ。

「愛知県の上代史蹟を訪ひて」――何かありそうなタイトルじゃないですか。教えてくださってありがとうございます。




> 内田一成氏の「レイラインハンター」~MURYさんにはちょっと合わないかもしれないなぁ。




やっぱり(笑)

こんなサイトの人間なもので、おてやわらかに・・・

小牧山 投稿者:チェリー 投稿日:2010年 6月27日(日)02時58分41秒 返信・引用 編集済

 会社の帰りのわずかな時間に、小牧市立図書館に寄って、ざっと見ているだけですが、小牧山ストーンサークルの記述は、「小牧市史」には見当たりませんでした。

 昨年のことになりますが、名古屋市博物館にて「小栗鉄次郎 戦火から国宝を守った男」という企画展が開かれています。その案内のなかに、次の文章がありました。「愛知県史蹟名勝天然紀念物調査会主事となった小栗は、前記した仕事のほかに、鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう)博士の県史調査を援助しましたが、この調査は昭和5年度を最後に頓挫(とんざ)してしまいました。」そうか、県なんだ。

 愛知県史をぱらぱらと探しましたが、それらしい記述が見つかりません。ただ、資料編1「考古1旧石器 縄文」の最後に文献目録があって、次の文献名を見つけました。「鳥居龍蔵 1929 「愛知県の上代史蹟を訪ひて」『愛知教育』第495号 愛知県教育会」です。この文献は愛知県史に載っているわけではないのですが、所蔵しているところがわかりました。「愛知県公文書館」です。名古屋市役所西庁舎に隣接している「愛知県自治センター」の7階になるのだそうですが、これが平日しか開館していません。行くことが出来るとすれば、遅番の日の朝1時間程度です。うーん何とかしてみたいです。

  ただ、1929年ということは昭和4年です。小牧山に行かれた前の年になってしまいます。でも「日本一桃太郎会」の発会式の年になりますね。日本一桃太郎会は、犬山こそ桃太郎伝説発生の地であるという主張のもと、犬山の振興のため、吉田初三郎氏を会長として全国にPRしたんだそうです。発会式には児童文学者の巌谷小波氏、そして鳥居龍蔵博士が招待されたとあります。吉田初三郎氏は鳥瞰図で有名な方、私、別冊太陽の特集を持っていました。購入した当時はなんで表紙が犬山の鳥瞰図なんだろうと思いましたが、ここを製作拠点としていた時期があるのだそうです。関係はないのでしょうが、その表紙をよく見ると、犬山城の麓、木曽川の川岸に「七ツ岩」が表示されております。




 情報をありがとうございました。内田一成氏の「レイラインハンター」はちょうど今読んでいるところでございました。「レイライン・ハンティング」というWEBサイトを運営されている方で、このなかの「近畿の五芒星」に触発されて長距離の直線を探索するようになったという、いわば恩人なのです。ただ、私の探索の方法が独特なので、結果は異なってしまいます。徳川家については「江戸城と五色不動」をとりあげてみえますが、文中にもありますが、ほとんど当初の場所から移動してしまっていますので、私としては何ともなりません。著書やサイトの中には巨石の情報も多く、聖地を巡る紀行としても、とても楽しく読ませていただいています。MURYさんにはちょっと合わないかもしれないなぁ。でも、現地を探索していく姿勢は共感できるかも。




 あんでっどさん、お元気そうで何よりです。昔少し投稿してたことがあるんですよ。

(無題) 投稿者:MURYメール 投稿日:2010年 6月19日(土)23時34分37秒 返信・引用

>チェリーさん




ご指摘の通りです。愛知に限らず他の場所でも、地元の人が鳥居博士に「ここに巨石がある」と言って案内したパターンがほとんどです。西は熊本県の拝ヶ石、四国は徳島県や愛媛県大洲市などでも鳥居博士立会いの話や博士認定の巨石遺跡が残っています。

しかし、その中で鳥居博士が本にまとめられたのは宮崎県の延岡の論考のみです。

犬山市桃太郎神社の近くの桃山ストーンサークルでは、鳥居博士立会いのもと地面まで掘っているんです。こういうことが記録化されず、ぜんぶ話の中だけで終っているのだとしたら残念でなりません。




徳川家と方位学の関係は確かにあったようですね。そっちのほうの知識が乏しいので自信なさげな感じでしか語れませんが、古代からの聖地と徳川由縁の地を結びつけようとした動きがあったことは十分考えられます。

この前ムーを立ち読みしていたら、新刊紹介にレイラインの本が紹介されていました。たしか内田一成氏の『レイラインハンター 日本の地霊を探訪する』(アールズ出版)だったかと思いますが、ここでも徳川家関係のラインが登場するようです。




>あんでっどさん




石舟古墳がありましたよ。ただの古墳かと思いきや、中世には石舟の社というものがあり、桜の枝を持ち寄って温羅を鎮める花祭というのをやっていたそうです。花をもって霊を鎮めまつるというのは熊野の花の窟と同じ考え方ですね。

吉備の中山 投稿者:あんでっど 投稿日:2010年 6月19日(土)11時55分27秒 返信・引用

6年前に行きましたが、鏡岩だけ知らないです。記憶にないな……。

岩船古墳(?)とかもあったと思うのですが、夏場は毒蛇が出るとの事で退散した覚えがあります。

小牧山 投稿者:チェリー 投稿日:2010年 6月14日(月)00時01分22秒 返信・引用 編集済

 御返事が遅くなってしまいました。ごめんなさい。

 私も鳥居龍蔵全集を調べてみようと思っていましたが、そうですか。たったの二日間ですか。「大山峰」は比叡山と肩を並べたと言われる「大山廃寺跡」の事ですね。どなたかがポイントを絞って、鳥居博士をお連れしたというような印象を持ちます。そこで判断をあおいだのでしょうか。私も継続して調べてみます。当時は有名な話だったはずですから。

 七つ石 は信長が観音様を小牧山からおろした後も、残っていたと思います。徳川政権になって尾張徳川家が小牧山を立入禁止にした後、「正事記」に七つ石の記述があるからです。それが今は見当たらない。徳川家が管理している間に無くなっちゃった可能性が高いんじゃないかなぁ。何かに使っちゃったというんではなくて、大切に移動したという気がしてなりません。観音様をおろした先の「間々観音」に尾張徳川家の菩提寺である「建中寺」の門を寄進してるじゃないですか。このあたりに謎を解く鍵があるのでは?と想像しています。先日の図には載せなかったのですが、実は「建中寺」は尾張四観音のひとつ「笠寺観音」と小牧山の山頂を結んだ直線の真下にあるのです。

 徳川家は、聖地というか、祈る場所に関して、実に厳密な考えを持っていたと、改めて思いました。「日光東照宮の謎」という本を読んでいるのですが、家康は自身について「遺体は駿河国の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河国の大樹寺には位牌を納め、一周忌が過ぎてから、下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ」と指示したとあります。著者は岡崎・鳳来寺山・駿府・久能山がほぼ東西の一直線上にあると指摘しています。

 長くなっちゃったけどいいかなぁ。ここからは私の話になるので、話半分で聞いていただければいいのですが、しかも岩石と直接関係ないし。でも聞いてやってください。岡崎の大樹寺から真東に方位を取ると、駿府城に至ります。本丸の真ん中あたりへの角度は89.96°です。この直線は鳳来寺山山頂の10m程南を通過します。大樹寺から南に1.4km程のところに「伊賀八幡宮」があります。ここは徳川家の祖である松平家の守護神「氏の神」です。ここから真東に方位を取ると「久能山東照宮」に至ります。角度は89.99°です。119km離れて13mの誤差です。長く、いろんな直線を見てきましたが、これはすごい。私は徳川家の実力に驚愕するばかりです。本当にすごいです。(同緯度ではありませんので、念のために。緯線はゆっくりと曲がって東西方向から離れていってしまいますので)

 脱線してしまいましたが、七つ石の謎については、長く小牧山の管理者であった尾張徳川家が鍵を握っていると想像しています。でも調べれるかなぁ。こんな調子で脱線するばかりだし。建中寺はこのあいだ見てきました。それらしい岩石は見当たりませんでした。

小牧山 投稿者:MURYメール 投稿日:2010年 6月 6日(日)22時21分58秒 返信・引用

>チェリーさん




先日『鳥居龍蔵全集』を総当りしましたが、砕け散りました・・・。

この全集は鳥居博士の活字化されている文章なら何でも収録しているというものでありながら、小牧山の七つ石・ストーンサークルについて言及している記事はありませんでした。




最も近い内容として「尾張の二日間」と題した昭和5年の僅か1ページの日報があり「この辺はすこぶる低い土地であるに拘らず、他にもストーンサークルやメンヒルの存在するはすこぶる注意に価します。」と言っている辺りにたぶん小牧山の出来事も入っているんだと思います。




鳥居博士は他にも東谷山、中島郡三宅村、東春日井郡篠岡村の大山峰正副寺址の裏山山頂などでメンヒルやストーンサークルを見聞したとこの記事で書きとめておられます。

以上のことから、鳥居博士の巨石文化認定は基本的に現場での口頭判断が主であり、こっちの方向から七つ石の謎を解くのは無理になってしまいました。うーん。

地元の人が郷土史料で何か書き残していないか、もうすこし意識しながら本探ししてみようと思います。

小牧山 投稿者:MURYメール 投稿日:2010年 5月25日(火)11時40分6秒 返信・引用

> 鳥居龍蔵全集は、「愛蔵くん(愛知県内図書館 横断検索)」によると、愛知県立図書館・名古屋市図書館・西尾市立図書館・蒲郡市立図書館にあるようですよ(名古屋市図書館は別冊が欠けているようですが)。




ありがとうございます。

「愛蔵くん」なんてあるんですねぇ。愛知県立図書館で見てくるか、地元の三重でもう少し探してみるかします。気の向くまま、計画性のない本探しというのも好きなんです。




小牧山で自殺多いんですか。あんな街中の小山で意外です。

小牧山 投稿者:チェリー 投稿日:2010年 5月24日(月)01時06分41秒 返信・引用

 そうですね。石化する話は、日本中・世界中にあるんですよね。おもしろいですねぇ。物語が先にあったのか、石を見て物語が後からできたのか、両方あるのでしょうね。あまり関係ないかもしれませんが、昔読んだ半村良の「石の血脈」を思い出しました。あれはおもしろかったなぁ。まだ販売してるのだろうか?

 鳥居龍蔵全集は、「愛蔵くん(愛知県内図書館 横断検索)」によると、愛知県立図書館・名古屋市図書館・西尾市立図書館・蒲郡市立図書館にあるようですよ(名古屋市図書館は別冊が欠けているようですが)。「愛知発 巨石信仰」に、今の小牧山城のあったあたりに巨石があって、建設のために爆破したと記述してあったと思いますが、岩のほんの一部が写った写真が載っていたと思います。ストーンサークルの中心の岩ということだったと思います。同じ写真は小牧市立図書館で見たのですが、それ以上は見つかりませんでした。残念。ただ、中心の岩が山頂にあって、そこから多分5・6mでしょうが、低いところを取り巻くサークルというのがあるのでしょうか。ストーンサークルというと、もっと平面にあるというイメージがあるのですが‥

 小牧山というと、狐にまつわる話がたくさんあるようです。狐の嫁入りの時は、この山に御挨拶に訪れるのだそうです。「吉五郎」という狐の大親分が住んでいて、ある古い本の冒頭に、彼の独白として、「自分には信長も家康もストーンサークルも関係ないんだ」という記述がありました。小牧山のストーンサークルはかなり有名な話だったようです。

 私の会社に地元の女性がいるのですが、小牧山というと、あまりいいイメージがないそうです。といのは、首吊り自殺が多いのだそうです。山中を探索することは、やめておこうと思いました。

 以上、とりとめのない報告でした。

遅くなりまして・・・ 投稿者:MURYメール 投稿日:2010年 5月22日(土)23時00分17秒 返信・引用

すみません、最近なかなか時間が取れなくて、ちゃんと読んではいたのですがお返事が今頃になってしまいました。




「七つ石」の件は了解しました。小牧の郷土資料から情報を下さってありがとうございます。

私は『鳥居龍蔵全集』から辿ることにします。複数の文献に「鳥居竜蔵が小牧山でストーンサークル認定した」という話が載っているので、さすがに全集に何らかの記録は残っているはずだと踏んでいます。「頂上から南へ下るところ」を好意的解釈すれば観音洞とニアミスしそうですし。

ただ現状どこの図書館に全集があるか掴みきれていないので、そこからです。




動物の石化については、東日本でこんな事例がありました。




牛石(岩手県遠野市)姥の乗っていた牛が姥もろとも一緒に石化。

猫石(山形県東田川郡朝日町)言葉を話す猫が石化。

牛石(福島県二本松市)霞ヶ城築城の際、生贄として埋めた2頭の神牛が石化。

殺生石(福島県白河市)石化した九尾が飛び散った石片。

牛石(群馬県伊勢崎市)源義経が連れていた牛が洪水によって水死してしまい、それが石化。

殺生石(栃木県黒磯市 那須本温泉郷)九尾が石化。

亀岩(埼玉県飯能市)弁天が乗っていた亀が石化。

狸和尚の人面石(神奈川県相模原市)和尚に化けていた狸が首を切られ、首が石化。

猫岩(新潟県魚沼市)悪行を働いていた猫又が、神によって石化。




動物以外にも、人間や鏡・つづらなどの物品も石化してます。鹿はパット見ありませんでした。

実際石化はしないと思うのですが、これが象徴(何かの形容・比喩)かどうかは分かりません。私自身は石化の意味をまだ追いきれてないのが正直なところです。むしろ、その意味をつかむために事例をえんえんと集めることにします。

私も何か思いついたらまた投稿します。

どーせ私がやると、こんなことですわ 投稿者:チェリー 投稿日:2010年 5月17日(月)01時37分58秒 返信・引用

 機会がある度に「七つ石」を追っていますが、手掛かりがつかめません。図書館で調べても頼りになるのは結局「小牧叢書」になり、1.「こまき昔話」では、「現存していないしその位置もさだかではありません。ただ七ツ石の残骸めくものが歴史館の建てられる以前は、頂上から南へ下るところに残っていました。鳥居龍蔵博士がストーンサークルのメンヒルだろうと言って居られたものが、それらしゅう思われます。」とあります。観音洞と関係なくなっちゃう。11.「小牧のむかしむかし」(だと思いましたが)には移された先の「間々観音」について、夫をなくし赤ん坊を抱えた母親が、村の衆に届けてもらったお米を観音様に捧げたところ、乳が出るようになった。この話がまわりの村々まで広がって、間々の乳観音と呼ばれるようになった。という話が載っていました(原典 小牧町史)。間々観音とも関係なくなっちゃう。

 小牧歴史館(小牧城)を訪れた時に、日曜日ということもあって、ちょうど学芸員の方がみえましたので伺ってみたのですが、やはり七つ石は見当たらない、観音洞の岩盤は違うと思うとのことでした。

 調べれば調べるほど、希薄になってしまいます。一体、射られた鹿が変化した石はどこにあるのでしょうか。その現場はどこなのでしょうか。と、そこで思ったのですが、考えてみると鹿が石に変わることが、実際にあるのでしょうか。半村良の「妖星伝」の中で鬼道衆が用いる「白死丹」という、敵を石に変える薬(吹き矢に塗る)がありましたが、これは小説です。実際にはこういうことはないですよね?ということは「象徴」なんですよね?そうか、古来より鹿は神様の化身というではないですか。矢を射るということも、直線を発射することの象徴だとしたら、あら不思議、これは私の得意技ではないですか。直線をたくさん飛ばして神社を設けた、ひとつはお寺になったという話はどんなものでしょうか。

 直線を引くとなれば、頂上からです。まず、方位を真南にとって「尾張神社」を設けた。三国山に線を引いて、取って返して一宮に「真澄田神社」を設けた。金華山に線を引いて、取って返して「岩崎御嶽社(日進市)」を設けた。多治見の岩壁を射抜いて4社を設けた。隣の岩崎山に「熊野神社」を設けて、取って返して「十念寺(桑名市)」を設けた。おっと、このお寺は行基さん創建だけど、現地に移ったのは江戸時代ですわ。それに観音様ではありませんわ。清洲城を通るから信長繋がりにもなると思ったのに、残念!

 どうせ、私がやると、こんなことですわ。コメントは、無しでいいです。

 まじめに調べる事も継続します。ごめんなさい。






美濃三不動 投稿者:MURYメール 投稿日:2010年 5月10日(月)22時29分48秒 返信・引用

迫間不動の食堂の味噌汁がうまいという情報をつかんでいたので期待してたのですが、私が行った時はお店は閉まってました。残念。




それでも農産物直売所目当ての人達が次から次へとやって来るのには驚きました。本当どこからやって来るんでしょうね。それだけ知名度のある場所というか、ここが地元密着で愛されてて、今でも信仰が篤いんだろうなあということが伝わってなんだか良い気持ちになれました。

「ぶ」どうの森かと思ってたら「ふ」どうの森でした。山の上のほうに大岩不動があるようです。




山中不動は入口まで行って案内写真を撮りました。やっぱり岩屋不動なんて名前があり、気になります。









よかったです。 投稿者:チェリー 投稿日:2010年 5月10日(月)01時29分2秒 返信・引用 編集済

> No.676[元記事へ]




 おお、MURYさんに行っていただけるとは、感激です。気に入っていただけて、何よりです。迫間不動尊は不思議な感じのするところです。訪れる人も多いようで、売店や食堂まであるのですからびっくりです(皆どうして知っているんだろう)。この山塊は、八曾山を中心とする本宮山や尾張富士を含む山塊とは違った感じがするのですが、白山平を中心とする犬山の山塊とは呼応している感じがします。迫間山から南に下ると、日の出不動や山中不動(合わせて美濃三不動)があるそうです。更に南へ下れば、坊の塚古墳や衣装塚古墳といったこの地方を代表する古墳があります(衣装塚古墳の真南に青塚古墳があります)。とても興味深い地域です。

 多治見の不思議なラインがヒットするのが、小牧山の頂上か観音洞かというと、角度にあまり差がないので、どちらとも言えません。どちらかというと、頂上かなぁ。でも石と岩のつながりは魅力的だなぁ。これに関連する、私の狂ったようなお話は、また次号といたします。

眞徳稲荷神社 投稿者:MURYメール 投稿日:2010年 5月 9日(日)00時44分41秒 返信・引用

多治見の池田眞徳稲荷神社というのですか。小牧山というのが、またこの掲示板的には、因縁めいたものがあるというかなんといいますか。

小牧山のどの辺にぶつかるのでしょう。山頂でもいいですが、岩壁から岩石つながりということで、例の間々観音の七ッ石だとしたら凄いなあと思ってしまいます。




チェリーさんから教えてもらった土岐の稚児岩や、中津川の穴観音見てきました。各務原の迫間不動も。

特に、迫間不動も含めたあの山一帯の混沌とした修験道ぷんぷんの雰囲気には、すっかり虜になってしまいました。迫間不動以外の霊場へもまた行ってみたいなあと思ってます。

眞徳稲荷神社 投稿者:チェリー 投稿日:2010年 5月 6日(木)02時11分14秒 返信・引用

 岐阜県多治見市月見町 多治見盆地から主流である土岐川が渓谷となって流出する、その谷の入り口の(右岸の)山の中腹にあります。池田眞徳稲荷神社と呼ばれます。麓にあった神社が、JR中央線の開通の為に池田城という山城の跡に移されたのだそうで、麓の池田町は、多治見で一番古く栄えた宿場町なのです。現在の神社の奥、山道をゆっくり下った所に岩壁があり、そこが祀られています(上の写真)。麓から登る道らしき踏み跡があるので下を覗いてみるとびっくり、真下にJRの線路が見えるではないですか。ここはトンネルの入り口の真上なのです(中の写真)!これって風水的にとってもまずいんじゃないのかなぁ‥と詳しくもないのに思ってしまいました。

 さて、今回は岩に関係しているので書いてしまいますが、ここから多治見の古い町並みに向かって、三つの神社が直線上に並びます。新羅(しんら)神社だけはまま大きいのですが、いずれもローカルな、地域の神社です。私としてはメジャーな地点しか、取り上げることはしないのですが(小さな神社まで取り上げればいくらでも線が引けてしまうでしょう)、今回は地元ということと、もう一点、この直線の起点の奇妙さ故に書いてしまいます。この直線に角度の意味はありません。では、どこかの聖山とこの岩を結んだのではと、東の方を探したのですが、何も見つかりません。岩の位置から考えて西の方はありえないなと思いながらも、念のためにと探ってみると、ヒットしたのが小牧山だったのです。それはないだろうなと思いつつも、まあ独り言みたいなものだけど書いてしまいました。でも、まるで、小牧山から矢を射ったようだなぁと思ってみたりして、以下次号です。












Re: 立石様 投稿者:MURYメール 投稿日:2010年 4月20日(火)22時51分44秒 返信・引用

> No.673[元記事へ]




Double Eagle様




はじめまして。上砥→青砥の誤りのご報告ありがとうございます。

どうしてか、勘違いしていたんだろうと思います。

早速訂正させていただきました。またよろしくお願いします。

立石様 投稿者:Double Eagle @かちねっとメール 投稿日:2010年 4月20日(火)20時21分0秒 返信・引用

Double Eagle @かちねっと( 葛飾地域作りネットワーク )と申します。




葛飾区の立石様の最寄り駅として「京成線立石駅、または、上砥駅」とありますが青砥駅です。

http://kachinet.jp/profile.php?key=14486






Re: 久しぶりに覗きました 投稿者:MURYメール 投稿日:2010年 3月22日(月)01時14分44秒 返信・引用

> No.671[元記事へ]




報告書いただきました。もう忘れてるかと思ってました。ありがとうございます。

「交換畑」の報告書を興味深く読ませてもらいました。記念すべき第1号報告書になるのかな?おめでとう。




> 三輪山特集ページの奥垣内遺跡でひろった杯身片、

> 「5末~6初」は誤植で、正しくは「6末~7初」ですね。

> いまでも京都の家に大切に置きっぱなしになっています(笑)




あの杯身片、どこにやったんだろうと思ってて、てっきり元の場所に戻したのかなと思ってました。そっちに行ってたとは(笑)

ご指摘も全くもってその通り。6年間誤植のままでした。次の更新のときに直しておきます。

久しぶりに覗きました 投稿者:旧渥美町石神人 投稿日:2010年 3月16日(火)22時32分55秒 返信・引用

三輪山特集ページの奥垣内遺跡でひろった杯身片、

「5末~6初」は誤植で、正しくは「6末~7初」ですね。




いまでも京都の家に大切に置きっぱなしになっています(笑)




遅くなりましたがちょっと仕事も落ち着いてきたので、

近いうちに例の採石場調査の報告書送ります☆

地図3 投稿者:MURYメール 投稿日:2010年 3月14日(日)23時16分3秒 返信・引用

どの地図を採用するかはまだ勉強中です。

先週は電子国土をプッシュしましたが、私のサイトを更新していく上での弱点に気づきました。電子国土地図は特定のポイントにリンクを貼ることができないようです。

当サイトではレポごとに地図リンクを貼るようにしているので、電子国土では代用ができません。

地図2 投稿者:チェリー 投稿日:2010年 3月 8日(月)01時08分8秒 返信・引用

やはり、電子国土が有望なんですね。そんな気がしていました。私はカシミールを使って、山旅地図に落としてから選択範囲を指定して、Pixiaというフリーのペイントソフトを使って線や文字を入れまくっているので、とても公開できる状態ではないです。自分の資料としてはこれでいいのですが、勉強しなければなりません。

遅くなりました 投稿者:MURYメール 投稿日:2010年 3月 6日(土)11時41分42秒 返信・引用

>チェリーさん




自分の中で必要な条件を整理してみました。




・web上で誰でも見れる。特別なソフトを必要としない。

・動作や表示が速い。

・更新や編集がしやすい。

・等高線表示がある。

・ポイントを無制限に落とせる。

・無料(笑)




われながら贅沢です。カシミールは多機能そうなんですが、プラグインをインストールしないと誰でも見ることができないのが難点です。

google mapは等高線表示がない所があるのと、ポイント制限が痛かった。

そこで俄然期待なのが電子国土です。どうやらポイント無制限のようです。ポイント数が増えれば重くなるのは仕方ないとしても、ネックなのは更新のしにくそうなところ。座標データをエクセルにまとめて地図に表示させることもできるらしいですが、座標まで落とそうとなると一作業。どうするかはまだまだ検討中・勉強中です。

電子国土にポイントを落とした地図は、webはもちろん、本などにも転載できます。電子国土のQ&Aにその旨載っており、昔メールでも確認をとりました。ただしこれはあくまでも電子国土が提供している編集・加工サービスを使っての場合で、カシミールなど他のソフトで作成した地図にも適用されるのかは確認してないです。

あと、電子国土で作った地図の上に別のペイントソフトで描画したり、紙に印刷した後に上から手書きやキャプションを落とすのはアウトです。




>テームさん




私もそう聞きます。実際そうなのか、それを信じるのかは人それぞれですが。

小学校の通学路に白ヘビが時々出るといわれた場所があって、白ヘビは毒がなく見れたら幸せもんだという噂がありました。

ただ、こういったイメージが今でこそ日本全国共通の常識のようにありますが、元々どれぐらいの普遍性を持った話だったかは下調べがいるとおもいます。

ヘビは 山つかさどる とか聞きますね 投稿者:テーム 投稿日:2010年 3月 1日(月)02時31分28秒 返信・引用

白ヘビは 昔から 山の神とか

殺したら やばい とか聞きますよ

地図 投稿者:チェリー 投稿日:2010年 2月28日(日)23時02分24秒 返信・引用

 MURYさんの日記を読んでびっくりしてしまいました。これはショックでしょう。

 私は「カシミール3D」という3次元の地図ソフトを使っています。角度を測定したり、100kmを超える直線を引かなければならないので、私には最適なのです。当然地図上にポイントを印さなければならないのですが、多分1000ポイント位を載せています。どの位までの数が可能かわかりませんが、例えばアイコンも自由に作れるようですが、「いくらでも」と説明書にありました。だから、ポイントも「いくらでも」作れると思うのですが・・。とても多機能なソフトで、私自身は一割も理解していないのですが、続けます。ポイントのデータはエクセルへの出力、エクセルからの入力もできるとのことです。

 フリーソフトなのですが、私は3冊の教則本を購入しました。1冊が2000円程度です。1冊について20万分の1の全国地図と全国を3つに分割しての5万分の1の地図が収録されています。でも、使用できる地図に「ウオッちず」や「電子国土」があるので、フリーでダウンロードしただけでも使えると思います(プラグインの設定は必要かもしれません)。私は「山旅倶楽部」をプラグインして愛用しています(これは有料)。

 でも、ホームページに載せても国土地理院に叱られない地図が必要なんですよね。「電子地図」にポイントを載せた地図がそのまま使用できるのか、わからないです。自分のデータとしての地図と、公開用の地図を別に扱った方がいいのでしょうか。すみません、よくわからないままで掲示してしまいました。

Re: 礫石 投稿者:MURYメール 投稿日:2010年 2月27日(土)18時07分57秒 返信・引用

> No.663[元記事へ]




珍しい「成長する石」の例ですね。

民俗学ではよく石が成長するという例が挙げられるんですが、意外にその実例にお目にかかることが少ないので貴重です。




大己貴命が病魔退散を祈って投げた石ともいわれているそうです。

イザナギが黄泉国から逃げる時に投げた桃や、黄泉国と葦原中国を分かつために置いたヨモツヒラサカの大石を思い出しました。

礫石 投稿者:uzi 投稿日:2010年 2月27日(土)09時36分50秒 返信・引用

礫【つぶて】石とも袂【たもと】石とも呼ばれているそうです。

有馬温泉にありました。

高さ約5m、周囲約19mだそうです。

熊野久須美命が袂から取り出して投げたという伝承があります。

これを袂から取り出して投げるとは、大魔神のような神かと思いきや、

投げられた小石が成長して、この大きさになったとのことです。




http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






Re: 伏見稲荷まで 投稿者:MURYメール 投稿日:2010年 2月20日(土)20時35分44秒 返信・引用

> No.661[元記事へ]




>みぃにゃんさん




お褒めの言葉をいただきありがとうございます。

熊鷹の池はすみません書いてないです。岩石祭祀の部分だけにこだわって仕上げたとも、それ以外の知識がないともいわれております。

ぜひ宣伝してください。

伏見稲荷まで 投稿者:みぃにゃん 投稿日:2010年 2月18日(木)19時29分12秒 返信・引用

あたしは、京都に住んでいますし、伏見稲荷さんには、お参り以外にも足を運んだ事が有り、三角点などにも脚を伸ばした事もあります。

熊鷹の池のお話などは載っていないとはいえ、現地の調査を隅々まで行った上に、キチンした整理の行き届いた、写真付きのコンテンツを Websightで纏めて発表できるなんて、素敵です。

Blogでも、紹介したくなりました。

http://blogs.yahoo.co.jp/marry_kid






偏見 投稿者:テーム 投稿日:2010年 2月17日(水)04時55分5秒 返信・引用

蛇 全部が 毒蛇ではありません

これらは毒ないとやっていけないのです

Re: 巨石の上に蛇 投稿者:テーム 投稿日:2010年 2月17日(水)04時53分48秒 返信・引用

> No.241[元記事へ]




スナフキンさんへのお返事です。




> 石の上に乗ってるもの・・・蛇?

> 下記投稿がありましたが、蛇だと思います。

> 私が恵那で見たものは、蛇かな?という感じでしたが( それでも蛇石の名前があります )、山岡町にあるものは明らかに蛇だと分かります。

> このあたり蛇に託された想いを探るのも面白そうですね。

> ( 私見が無い訳でもありませんが )

白蛇は 手ださないべきです

その蛇は ほっとくに限ります

Re: 間々観音 投稿者:MURYメール 投稿日:2010年 2月 7日(日)20時59分17秒 返信・引用

> No.657[元記事へ]




詳細な調査ありがとうございます。この件についてはお世話になりっぱなしです。管理人の役得です(笑)




>猟師が八頭の鹿を七頭まで射止めたところ、七つの石になった。八頭目を射止めたところ、観音様が現れた




>小鹿は七つの石に、母鹿は観音像と化した。




>狩人が矢を射て仕留めた鹿は八つの大きな石になり、その上に光がさして観音様が現れた




微妙な違いがあるのは話者による差の違いでしょうか。同じ伝説・伝承でも、それを伝承している集団・話者など立場の違いでしばしば差があったりしますから、もしかしたらどれも正しいという結論もありえます。

「七」「八」という数字も神秘性や数の多さの形容として付く場合が多いですので、江戸時代においても「コレとソレと・・・アレで7個だ(or8個だ)」という厳密な個数確認はしていなかったかもしれません。




この前チェリーさんが掲載された観音堂の写真がありましたが、あの岩盤とごろごろ転がる礫石の総称が七ッ石(七ッ岩)の可能性もあると思います。

江戸時代には岩盤がもっとモリモリしていて、礫石も大きいのがあったのかもしれません。それが時代を経て人に触られて摩滅したり、ご利益があるとかで切り欠けされたり、持ってかれたりして今のような状態になったと・・・。

東京葛飾の立石や埼玉県美里町のこぶ石などは人に触られたりお守りとして石の破片を持ってかれたりで、往時とは想像もつかぬ小ささになってしまったという話があるので、これも可能性の1つに入れてあげてください。

間々観音 投稿者:チェリー 投稿日:2010年 2月 7日(日)03時28分5秒 返信・引用

 間々観音は小牧山の西北、国道155線を渡って少し入ったところにあります。金曜日は遅番でしたので、午前中の僅かな時間でしたが、行ってみました。山門をくぐると右手に手水所があります(上の写真)。観音洞の碑に間々乳観音とあるとおり、ここはお乳のお寺なのです。中の写真が観音堂です。御本尊は千手観世音菩薩です。観音堂に七ツ石の絵が掛けてありました(下の写真)。

 受付の上品な女性に伺ったところでは、猟師が八頭の鹿を七頭まで射止めたところ、七つの石になった。八頭目を射止めたところ、観音様が現れたとのことです。観音洞には七ツ石は、もうないかもしれませんと言っておられました。(観音洞から移ったのは信長の指示ですか?との問いに、「そうです。でも歴史的な事はあまり詳しくなくて」と、丁寧に答えていただきました。)

 改めて小牧山の中腹にある観音洞に登ってみましたところ、ちゃんと説明板がありました。「明応の頃。乳の出ない妻に食わせようと、子孕み鹿を撃ちに小牧山に登った麓の狩人が、七匹の小鹿を連れた子孕み鹿を見つけて撃つと、小鹿は七つの石に、母鹿は観音像と化した。狩人はこれを見て殺生を悔い、その地に草庵を結び観音様をねんごろに祭った。後に観音を祭る草庵は間々に乳観音として移転したが、草庵の跡地は観音洞と呼び親しまれ現在に至っている。」

 さて、小牧叢書16「小牧山城」では、狩人が矢を射て仕留めた鹿は八つの大きな石になり、その上に光がさして観音様が現れた(小牧市歴史館より)となっています。(小牧市歴史館は現在の小牧山城)石の数に混乱が見られるのは何よりもこの観音洞の地にその石がないからだと思います。江戸時代の初期に名石と言われた、鹿位の大きさの石が、やはり、一つも見あたりませんでした。いろんなサイトを見ると、観音様の移設を命じたのは信長のようです。でも、江戸時代初期に七ツ石として知られているのですから、石そのものは残っていたはずです。では、それ以降に石はすべて移されたのでしょうか。間々観音の境内にはそれらしき石はありませんでした。でも(ライン関係でよくわかるのですが)事の他「場所」を重要視する徳川家がおいそれと大切な石を移動するとは考え難いです。それに、間々観音の山門は徳川家の菩提寺である建中寺から移築されたそうで、敬意をはらわれていたのだと思います。

 もうひとつの可能性は、観音様があった七ツ石の場所が、ここではないということです。小牧山の山中のどこかに眠っているのかもしれないと思ってみたりするのですが、今回はここまででございます。












Re: 岩崎山・小牧山 投稿者:MURYメール 投稿日:2010年 2月 3日(水)01時21分56秒 返信・引用

> No.655[元記事へ]




おお、観音洞の写真があるとは完璧な踏査ですね。




そうそう、『小牧と史蹟』では狩人の矢面に立って観音が出現したとしか書いていないから、いまいち意味が分からなかったんですよ。

鹿を守って現れたと考えれば、とりあえず納得できます(鹿はしとめられた後のようですけどね・・・)




それにしてもうーむ・・・七ッ岩だと思えば八つの石となったり、洞窟かと思えば岩盤だったと、謎が謎を呼びますね。

たまたま最近になって小牧のことを調べていたんですが、このような展開になるとは想像してませんでした。




きっかけとなった環状列石については、私の全くの勘ですが言いだしっぺがいるはずです。そしてその言いだしっぺの書いた論考などがあるんじゃないかと。



その言いだしっぺはたぶん鳥居龍蔵博士あるいはその影響を受けた方だと睨んでいるのですが、その論考がどこかに眠っているのではないかと考えています。




Re: 岩崎山・小牧山 投稿者:チェリー 投稿日:2010年 2月 3日(水)00時42分32秒 返信・引用

> No.654[元記事へ]




> 『尾張名所図会 後編』(明治13年)の岩崎山の絵図には五枚岩・弘法足跡石・八尋岩の名前が載っています。




 「尾張名所図会」見てみようと思います。昔のことなので、残念ながら五枚岩以外は覚えていないのです。地元の方がたくさん表示を付けてみえたので、その中にあったのではと思います。

 小牧叢書16「小牧山城」の中に、狩人が仕留めた八匹の鹿が八つの大きな石になって、観音様が現れたという話が載っていました。その場所には「間々乳観音出霊場」という碑があって、観音洞と呼ばれています。広く岩が露出しているのですが、そんな目だった岩が見当たらなかったです。洞といっても洞窟があるわけでもないし、本当にこの場所なのかなぁ。それに、どうして数が違うんでしょうね。面白いですね。

 間々観音は、今は、山のすぐ北の平地にあります。なんでこんなに大切な、観音様出現地を放っといて山を下ってしまったのでしょう。一度行ってみようと思います。
















岩崎山・小牧山 投稿者:MURYメール 投稿日:2010年 2月 2日(火)00時12分54秒 返信・引用

『尾張名所図会 後編』(明治13年)の岩崎山の絵図には五枚岩・弘法足跡石・八尋岩の名前が載っています。

熊野社の背後の岩については特に名前が付いていないようですが、岩をひっくるめて熊野社なんでしょう。長滝町九頭神社、京都府亀岡市宮川神社、山梨の大石神社や八嶽山神社奥の院など、建物の背後を覆うような巨岩の中には特に名前が付いていないものが出てきますね。




>小牧山のストーンサークルについては、小牧市教育委員会発行の小牧叢書16「小牧山城」が少し触れています。




いい情報ありがとうございます。私も機会をつくって読んでみようと思います。

名石と呼ばれる七ツ石ですが、小牧町役場が昭和3年に編纂した『小牧と史蹟』(第二版)によれば、「(小牧)山の西腹に観音洞あり。此所は霊仏授乳観是音菩薩の霊現地と伝へらる、時は明応元年三月十八日狩人の矢面に立って霊仏忽ち観音洞七ッ岩に出現せらる」との記述があります。

私はこの観音洞七ッ岩がくだんの七ツ石のことなのではないかと思います。小牧山を訪れた折にはこの観音洞に七ッ岩らしさがあるのかどうかを観察してみたいです。

岩崎山 投稿者:チェリー 投稿日:2010年 2月 1日(月)00時50分0秒 返信・引用

 上の写真の中央からやや左奥にある黒い森が岩崎山です。先日の小牧山探索は失敗に終わりましたが、天気がよく、遠望の写真がたくさん撮れて満足だったのですが、その中の一枚です。後ろの山は右端のピークが尾張本宮山、その左が尾張富士です。

 中の写真は岩崎山熊野神社境内の五枚岩(愛知県天然記念物)です。見応えがあります。 岩崎山は名古屋城の石垣を切り出したところのひとつで、山中には巨石が多くあります。

 しかし、ポイントになるのは、長い階段を登った果てにある熊野神社神殿の裏に密着している、この岩だと思うのです(下の写真)。長滝町九頭神社の場合とそっくりだと思いました。祀っているのはこの岩だと思えます。(今回から詳しくは申し上げませんが、直線上でもこの地点が良さそうです。)

 8年程前には、さらに奥深く山中(といっても標高55m)に踏み入ったのですが、不思議な看板がたくさん掛かっていたり、古墳があったりしたことを覚えています。

 ※小牧山のストーンサークルについては、小牧市教育委員会発行の小牧叢書16「小牧山城」が少し触れています。「実際に山頂を囲むように規則的に環状に巨石が二十数個配列されている。」と書いてあります。でも、そんな風には思えなかったなぁ。「十七世紀中期、尾張初代藩主義直の最晩年の頃に側室貞松院の御賄頭になった津田房勝が記した「正事記」の拾遺のはじめに「七ツ石、五本松とて、名石、名木たり、人かけ松といふも五本の内なり」という文章が残る。しかし、これらの巨石が七ツ石と関連があるのかどうかは謎である。」と書いてありました。

 ※全くのひとりごとなのですが、御所市から南に国道24号線がまっすぐ伸びていますね。ところがJR和歌山線は少し南に下ったところで、無理やり東に山を迂回して、そこから南下してまた西に戻って24号線に合流するじゃないですか。訳あってこのあたりを調べていたのですが、なんでだろうと思いました。以上です。












Re: ありがとうございます 投稿者:MURYメール 投稿日:2010年 1月31日(日)11時10分21秒 返信・引用

> No.651[元記事へ]




>チェリーさん




白山ぜひ行ってみてください。地面がもろいので足下には気をつけて。

ああいう岩場は全国どこにでもあると思いますが、三輪山の隣という立地がポイント高いです。




私も『愛知発巨石信仰』で小牧山環状列石のことを知り、気になってはいました。小牧市立図書館で小牧城関連の資料や小牧山整備事業の資料などを流し読みしたのですが、言及はされていないようです。

ただ織田信長が小牧城築城の際に山全域に渡り大規模な築成をしたようで(城絵図などもあり)、環状列石が太古の何かだとしてもそのままの状態で残っているとは考えにくいと思いました。

小牧山の北にある岩崎山の存在も気になっています。なかなかすごい奇岩怪石ぶりだそうで。

ありがとうございます 投稿者:チェリー 投稿日:2010年 1月25日(月)00時37分9秒 返信・引用 編集済

 金曜日にやっとISO14001の定期審査が終わりました。御返事が遅れたのはそのせいなのです。私は職場の事務局もやっているのです。(もちろん兼務です!)

 MURYさん、kunittiさん、あたたかいお言葉をありがとうございました。そして厳しい言葉もありがたいです。データ収集をまとめて、分類に進もうと思います。その都度できるだけ歴史的経緯を調べて行きたいと思います。ざっとしかできませんが、その結果解ったことは、やはり重みが違います。発想の経緯も添えたいと思います。

 私も方位をもってラインを引っ張って聖地を定めた人々がいたとしても、「俯瞰」の観点は持っていなかったと思います。つまり、距離を合わせようとか図形を造ろうとかは無理があるのではないかと思います。結果として図形になることはあるでしょうが。(ただし、どうしても無視できない二等辺三角形は2箇所あります。あまりに見事なので。でも、どうやって測量したのかは、推定します。超古代文明を理由にするわけにはいきません!)

 ※白山・ダンノダイラ読みました。すごいところですね。あのあたりは「yahoo地図」の航空写真がよく見えますが、ほんとうに白山だけが真っ白ですね。奥不動寺の建物もよく見えますが、あんな山奥にこんな立派なお寺が一軒だけあるなんて不思議ですね。行ってみたくなりました。

 ※先日小牧山の頂上部に環状列石らしきものがあるということを知って、行きました。小牧山は職場から見えるのです。そこで、ハンディタイプのGPSを使ってひとつひとつの岩の位置を記録して、1/6000の「ウォッちず」に落とし込むという画期的?な試みをしたのですが、失敗に終わりました。GPSは樹木に弱く、よほど上空が開けていないと、全然使えないということがよくわかりました。まぁ三角点の位置は正確に拾えたのでよかったのですが。後日、春日井図書館で「愛知発巨石信仰」を見たら、見事な地図が載っておりました。実際のところ、石垣が崩れた岩と混じり合っているようで、よくわからなかったです。

Re: 八ツ岩 投稿者:MURYメール 投稿日:2010年 1月24日(日)23時33分7秒 返信・引用

> No.649[元記事へ]




やっぱり同じ道でしたか!状況が何となく似てるな~と思ったんですよ。

国土地理院25000分の1地図で破線のある道だから選んだんですが、してやられました。




もう三回も行ったんですか?なんだ、もう私よりも詳しいじゃないですか。気が向いたら大国見山の八龍王八箇石も見ていただいて、逆に私にルートを教えてください(笑)

励ましのお言葉ありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。

Re: 八ツ岩 投稿者:和女布メール 投稿日:2010年 1月24日(日)21時03分22秒 返信・引用

> No.647[元記事へ]




MURYさんへのお返事です。




同じ道を 辿ったようですヨ。

畳のいきあたった磐の前で 数分考えました 澤を登るか・・・やめとくか・・・




実は今週3回も 行ってしまいました

2回目にして 帰り赤ペンキの道を知りました

3回目は 赤ペンキから 分岐まで車で行き、八つ岩と 分岐から八大龍王神社に行きました




同じ思いで MURYさんも 畳のいきあたったとこまで行かれたかと思うと(私はもう必死でした) 笑けてきました。




私と同じく 参考にされている方がたくさんいらっしゃると思います

これからも レポートを 楽しみしています

Re: 5本目 投稿者:MURYメール 投稿日:2010年 1月23日(土)18時54分0秒 返信・引用

> No.645[元記事へ]




>チェリーさん




私も固くなりすぎていたようです。何でもかんでも学術研究の態度で当たってしまって。

チェリーさんのおっしゃる通り、まずは事象をひたすら集めていくというのが一番だと思います。

1つ1つのラインの各ポイントの歴史的経緯などにいちいち構っていたら、事象収集作業は遅々として進まないでしょうし、何より苦痛だと思います。




私も日本全国の事例集成作業をしていましたが、これは所在地収集だけならいざ知らずそれぞれの歴史的検証などをする作業でした。趣味研究の範囲を超えて苦痛を感じたので、途中で頓挫しています。こういうのは職業研究者のやれる範囲です。

だから途中で頓挫するぐらいなら、私のような細かい外野のツッコミに拘泥せず、ぜひ事象をまずはかき集めていってください。




>角度だけで考える場合は、測量地図までは必要ないかもしれません。それに尾根を越えて直線を延ばすことは可能なのではないかと思っています。




実はこれは私も同感です。正確な地図を持たない時代でも、人足と縄や木などの簡単な道具、狼煙や天体運行などを利用すれば可能だと思います。

ただ、こういった地道な作業で引かれる直線は日本列島全体にまたがるようなものではなく、局所的・地縁的な範囲に限られていたんじゃないか。あと、いわゆる「俯瞰」の視点ではなく、現地の天体運行や地形に根ざしたものだったんじゃないかなというのが私の“固定観念”です。




>位置を決めた人達は、その場所の地形によって、ある程度角度を選択できたのではないかという気がしています。いくつかの角度を試してみて、160°を選んだのではないかと。三稜とも鹿児島県内に納めることができるし、吾平山上稜を岩に設定する事ができるからです。




神代三陵の話は面白かったです。俯瞰の視点で図形的な聖地配置をするあたりは、神仏分離をやって厳格な国家神道を築いていく明治新政府の系譜に連なる「らしい」聖地の作り方だと感じました。

ただ地図的発想で線を引いていっても現実には現地の地形に遮られることも多々あったでしょう。チェリーさんの考える通り、角度が様々に渡って完全な統一感がないのは、現実との折り合いの賜物でしょう。




岩石祭祀で絡む話があったらまた教えてください。データ集め、私もかげながら応援しています。

Re: 八ツ岩 投稿者:MURYメール 投稿日:2010年 1月23日(土)18時07分30秒 返信・引用

> No.644[元記事へ]




>和女布さん




はじめまして。

お役に立てたようでよかったです。いつも更新してて、誰かのためになってるのかな?と自信なくやっているのですが、作った甲斐がありました。




レポでは車の通れる林道の紹介をしましたが、その入口は下に貼った写真です。送電塔と赤ペンキの塗られたガードレールが目印です。

とは言いながら、私も登り始めは違う道からなんですよ。写真の林道から北に行った桜峠の辺りからアプローチしており、最初は畳を敷き詰めたしっかりとした林道があったのですがやがて畳もなくなり踏み跡が怪しくなり・・・私も急斜面をよじ登る羽目になりましたよ。あれ、私と同じ道を通ってるんじゃないです?




登るはいいが帰りは下れないなあどうやって帰ろうと思っていたら、例の車林道を斜面下に見つけたというわけです。






5本目 投稿者:kunitti 投稿日:2010年 1月23日(土)10時38分23秒 返信・引用

チェリーさん、回答ありがとうございます。ワクワク感が戻ってまいりました。




私は真偽の程はともかく、どうしてこういう考えになったのか説明することが大事だと思っています。(何の根拠もなく、自分の発想で考えたというのも、根拠の一つだと思っています。)

ですから、チェリーさんのようにひらめきや感性を大事にしつつ事象・事例をたくさん集めながら、一方で検証していくという作業は賛成です。(何より楽しいと思いますし。)




これからも、蓄積されたデータとその経緯について公開される事を望みます。

5本目 投稿者:チェリー 投稿日:2010年 1月23日(土)02時57分53秒 返信・引用

 kunittiさん、遅れましてごめんなさい。MURYさん、ありがとうございました。あまり御期待に応えることができませんでした。申し訳ありません。

 私が追っかけている直線とかラインとかいうものは、趣味です。これは趣味だから自由でしょ、という意味ではなく、学問とか研究といったレベルにはとてもなっていないという意味です(不思議な話の段階です)。

 神社・寺院・古墳・遺跡・天守閣等々の中に、信仰された山を起点として、角度を測量されて位置決めされたものがあるのではないかと思っています。例えば、「益田の岩船」がどうしてあの位置に造られたのかという素朴な疑問を山から考えると、三輪山から225°の位置を(又は三輪山が45°の位置に見えるように)選んだのではないかと考えるわけです。そこに特異性があると許容するのは、±0.25°まで。角度については、南北線・東西線・東西から30°・45°をなす角度が多いのですが、今は5×n°まで許容して、そのデータを集めている段階です。MURYさんがおっしゃるように、江戸後期・近代以前を探るのは無意味な事かもしれません。正確な測定器・測定方法・熟練した技術者集団・資金等が前提になるからです。(角度だけで考える場合は、測量地図までは必要ないかもしれません。それに尾根を越えて直線を延ばすことは可能なのではないかと思っています。)でも、今は事象を集めてみようと思っています。数多く集めれば、何か解るかもしれないという思いです。(図は三輪山に関するものです。左図が全体図、右図が拡大図です。三輪山を選んだのはMURYさんの更新に合わせた訳ではなく、⑤のラインを説明するためです)そんな段階なのです。伝承等で結びつくものはほとんど見当たらず、関連は全く不明の事が圧倒的です。「神代三陵」の例がせいいっぱいのところだったのです。

 以下は何かを証明するわけではなく、私の想像にすぎません。

 ①新田神社の位置が雲仙普賢岳と白髪岳から決められたと考えたのは、この位置からヒットしたのがこの二つの山だったからです。角度の種類(南北方向と、東西から30°をなす方向の2種類)もよく、精度も正確でした。そして普賢岳は信仰の山でした。(白髪岳は700m程離れた稜線上に小さな社がありますが、頂上そのものは信仰の確認ができませんでした。)

 ②雲仙普賢岳から160°の角度が選ばれた訳は、わかりません。方位を風水で説明される方もみえるようですが、それでは15°の倍数になるはずと思います。この160°はそれに合致しませんし、過去に、合わない例もありました。更に、風水は磁北を基準とするようなので、これは違います。私は5×n°ならとりあえずOKとしています(今後は、もっと絞り込めると思っていますが)。それに、こう言うとまた信憑性?が下がってしまうのですが、位置を決めた人達は、その場所の地形によって、ある程度角度を選択できたのではないかという気がしています。いくつかの角度を試してみて、160°を選んだのではないかと。三稜とも鹿児島県内に納めることができるし、吾平山上稜を岩に設定する事ができるからです。

 そんな同様な例かもしれないのですが、尾張国における一宮は、「真澄田神社」が有名なのですが、実は、もうひとつあります。「大神神社」という小さな神社です(愛知県一宮市花池2丁目15-28)。大和系の人々が三輪の神を祀ったことにはじまると表示されています。隣にある「古宮公園」が元々の鎮座地だったとのことですが、どちらの場所も三輪山から45.0°にあたります。これが偶然でなければという話ですが、いくらなんでも、移住するのに三輪山から45°の方向へ闇雲に進んで平野部に達したというよりも、濃尾平野に移り住むことが決まった上で、三輪山を祈る場所を選ぶのに、45°の角度を設定できることがわかり、その場所を選択したと想像しました。まあ、偶然かもしれませんが。

 ③「神代三陵」をひとくくりに扱うのには無理があるのでは?というご質問ですが、それどころか「神武天皇陵(奈良県橿原市大久保町)」の場合もいっしょに扱えるのではないかと思っています。定められたのは幕末の1863年とのこと、宇都宮藩顧問団の谷森善臣という方の主張によるとのことですが、この位置は三輪山から240°(又は三輪山が60°の位置に見える場所)です。これが5本目のラインです。(神代三稜の治定は1874年(明治7年)とのことです。)

 ④三稜の場所が、御陵とされる以前に何かしらの信仰対象物や古墳などがあったのではないかということは、不勉強でわかりません。今のところ、なかったように思います。

 その外に、これらの不思議な話の根拠となるものは、特にありません。ほとんど自己流なのです。

 鹿児島県のホームページから鹿児島県立図書館のページが開きます。「貴重資料の紹介」のところに「三山稜(吾平、高屋、可愛)と山幸彦・海幸彦」があり、「この三山陵を考証したのが,御醍院真柱であり,田中頼庸であった。」とあります。それぞれ「神代三陵志」と「高屋山稜考」という著作があるようです。調べるならこれだ!と思っています。

  神武天皇陵(34°29′50.83″・135°47′16.70″)→三輪山 60.05°

  益田の岩船(34°28′13.99″・135°47′19.14″)→三輪山 45.09°

  三輪山→大神神社(35°17′29.42″・136°47′35.67″)  44.99°

 以上です。すごく長い文章になってしまいました。申し訳ありません。しかも、岩石と直接関係ない話です。いくらご自由にといっても、あんまりです。誰でも納得というお話が見つかるまで、私から方位やラインの話題をするのは自粛いたします。






八ツ岩 投稿者:和女布メール 投稿日:2010年 1月20日(水)21時16分9秒 返信・引用

初めまして 奈良に住んでいます和女布(わみょう)と申します。2日前に八ツ岩のことを知りました。そして MURYさんのサイトを参考にさせていただき、無事たどり着きました。

ありがとうございました。




登り始めが悪かったのか・・・ガスとかの市の施設を右手に見て行き当たったところに車をとめ、携帯のGPS機能を頼りに ところどころ木を切ったところをよじ登って 下ったら あの林道のあるところに出ました。 探しながら2時間もかかってしまいました。

あの看板らしきもの ロープをみつけたときのほうが (八つ石よりも)嬉しかったかもしれません・・・




あの林道はどの道に繋がってたんでしょうか?  私は あんなに必死で磐座到着したのは初めてでした




とにかく MURYさんのサイトを頼りに お参りさせていただけました

ありがとうございました

Re: 神代三陵(納得の4本1セット) 投稿者:MURYメール 投稿日:2010年 1月16日(土)14時15分35秒 返信・引用

> No.640[元記事へ]




丁寧なご説明ありがとうございました。おかげで分かりやすかったです。




可愛山稜と高屋山上陵が東西に並ぶのは説得力がありますね。「同じ」性質を持つ2つの場所が一直線で並ぶ、このことはライン論に必須の前提になるべきだと私は思います。

なおかつその2点は、自然物と自然物ではなく、人為物と自然物あるいは人為物と人為物を結ぶものでなければならないとも思います。可愛山稜と高屋山上陵はこの条件にも沿っており、人間の意図を感じることができます。




雲仙普賢岳がなぜほぼ真北に来ているか、これはkunittiさんも疑問を出されていますが、チェリーさんご自身も「なんで長崎県の雲仙普賢岳が起点なのでしょうか。謎は深まるばかりです」とおっしゃっていますから、事象面で結果的にそういった事実が指摘できるということをチェリーさんは指摘されただけです。歴史的な背景までは分からないということなのでしょう。




「可愛山稜の真北に雲仙普賢岳」と「吾平山上陵の真北に高千穂峰」という対比も統一感がありますね。欲を言えば、高屋山上陵の真北にも何かの山が来ればさらに規格性が強くなりますが、自然の地形との制約もありそこまでしつらえできなかったのかもしれないですね。




さて、私は歴史畑の人間なので疑問に思うのは、明治時代、このような規格性をもって神代三陵を治定したという動きがあるのならば、多くの人々を使ってこれほどの作業を実施するためにはそれを遂行するための各種文書・文献があって然るべきだと思いますが、そういったものはないのでしょうか。

そういった文献に「雲仙普賢岳がなぜほぼ真北に来ているか」などの制作者の意図が書かれてあると思いますが・・・。地図上でウーンと考えるよりも、歴史的背景がぐっと説得力出てくると思います。




明治時代や江戸後期であれば、その時代には「測量地図」が存在しているので、実は私はこの時代のライン論には全く抵抗感がありません。時代的に詳しくないのであまり申し上げられませんが、こういったことは十分ありえると思っています。

私が批判的に見ているのは、ラインを引く前提となるべき「測量地図」が存在しない、縄文時代や古墳時代などにおけるライン論です。この当時の人々の発想は、現地の地形や景観などで形成される現地体感型のものであり、それを無視して地図の上で俯瞰の視点で線を引くという発想にはしかめっ面をするのが私のスタンスです。




先史・原史時代におけるライン論が成立するためには、前提として測量地図の存在証明が必要です。

これが証明できなければ、今度は「同時代・同時期」で「同じ性質」を持つ「人為物」が複数地点で一直線につながるラインを提示できなければ、とりあえず私は肯定的に捉えられません。私が認められないということは、さらに学術的・批判的研究をしているアカデミズムでは到底受け入れられないということです。

できればライン研究をしている方に望みたいのは、「同時代・同時期」「同じ性質」「人為物」というような自分の研究基準をストイックに作って頂き(すでにこの「研究の方法」が事例ごとにばらばらで統一されていない方が多いと思っています)、各地点の検討を批判的に行なってもらいたいということです。疑いながら検討し、それをクリアした資料は自ずから万人に対して説得力が出てきます。




休日にしかなかなか時間が取れないもので、遅くなりましたがこんなところです。申し訳ありません。

横レスです 投稿者:テト店丁稚 投稿日:2010年 1月16日(土)13時15分21秒 返信・引用 編集済

>ただ、このサイトは一応歴史研究サイトのつもりです。そのために私は、自分の感覚が必ずしも当時信仰していた人の感覚と一緒だと思わないようにしています。たかだか何十年の自分の人生が培ってきた感覚で歴史を語りたくないんです。しかも私は確固とした信仰心・宗教心がないときたもんです。

そんな一個人の感覚より大切にすべきは、これまでたくさんの人々が残してきた文献・記録・民話です。これは何百年、時には千年を超えるたくさんの人間の価値観の集合体、宝の山です。ここをかき集めて、共通する心性を抽出して、それを当時の人々の感覚だと仮定するのが信仰・宗教というものに対するぎりぎり歴史学的な研究姿勢だと考えています。<




ボクが巨石祭祀に関心を持つ根本動機は、自分の信仰の獲得のためです。そういう生々しい関心を露わにしている人間にとって、「ぎりぎり歴史学的な研究姿勢」を保って崖っぷちで(笑)バランスを取ってくれている研究者は、ほんとうに「在り難い」存在です。

神代山陵 投稿者:kunittiメール 投稿日:2010年 1月13日(水)18時26分27秒 返信・引用

チェリーさんへ

>kunittiさんワクワクしましたでしょうか。




ワクワクではなく。何故?ばかりでした。(すみません。m(_ _)m)

様々わいてきた疑問を挙げさせていただきます。




①新田神社の位置が、雲仙普賢岳と白髭岳の二つの山から決められたと考えたのは何故?

②雲仙普賢岳から160°の線を引くのは何故?

③この神代三陵も、当時様々な説がありもめたあげくに決まったらしいので、この三つをひとくくりにするのは無理があるのではないでしょうか。

④これらが、御陵とされる以前に何かしらの信仰対象物や古墳などがあったのではないか。




等々…です。




個人ごとで申し訳ありませんが、素人にも分かるようにチェリーさんが決められた根拠の出所を簡単に付け加えておいていただけると、検索等して確認できますので助かります。

神代三陵(納得の4本1セット) 投稿者:チェリー 投稿日:2010年 1月11日(月)23時14分58秒 返信・引用

 あけまして おめでとう ございます。

 しかしながら、新年早々、異端の私が長々と投稿することをお許しください。

 明治新政府は、維新後草々に神代三陵(神武天皇より前の神々の御陵)を鹿児島県内に定めました。図は、その位置がどのように決められたかを推測するものです。国土地理院の許可を取っていないので、背景の地図を消してあります(左の図が全体、右の図が詳細です。実感が湧きませんなぁ)。細かい角度のお話はしないつもりだったのですが、今回は例外とさせてください。

 1. 薩摩川内市宮内町に「新田神社(薩摩国一宮)」があります。一宮とされるまでに経緯があったようで、昔は八幡宮だったそうです。歴史は900年頃まで遡るかもしれません(あの、こういった事をきちんと押さえたいのですが、なにせ歴史に疎い私です。いろんなサイトを覗きながら勉強しているところです)。神亀山という小高い岡の上に鎮座しています。この位置は、雲仙普賢岳(長崎県)と白髪岳(熊本県/宮崎県)の二つの山から決められたと考えます。

  ①雲仙普賢岳(32°45′35.42″・130°17′31.72″WGS84世界測地系)→新田神社(31°49′39.49″・130°17′33.69″)方位は天の北極を0°として、時計回りに179.97°、距離は103km。始点から終点は、もちろん見えません。

  ○白髪岳(32°09′01.64″・130°56′36.06″)→新田神社 239.97°71km

 まず、最初に新田神社に隣接して「可愛山稜」を定めます。

 2. 薩摩藩の人々は、新田神社が普賢岳を起点としていたことは知っていたようです。同じく、普賢岳を起点として、160°という珍しい角度でラインを引っ張ります。

 3. 次に可愛山稜から真東にラインを引っ張ります。二つの直線の交点、その間近にある小高い岡の上に「高屋山上陵(霧島市溝辺町)」を定めます。どの位の精度で直線を繋いでいったのか不明です。それとも伊能図上で直線が引けたのでしょうか、不勉強でわかりません。測量した結果、岡のピークに達したと考えるよりも、交点の付近のピークを優先したと思われます。

  ②雲仙普賢岳→高屋山上陵(31°49′36.48″・130°41′29.15″)159.92°110km

  ③可愛山稜→高屋山上陵 90.04°38km (②③とも、始点から終点は見えません。)

 4. 普賢岳から160°のラインを更に伸ばします。今度は霧島連山の高千穂峰(宮崎県/鹿児島県)から真南にラインを引っ張ります。二つの直線の交点、その間近にある岩壁の洞窟に「吾平山上陵(鹿屋市吾平町)」を定めます。

  ②雲仙普賢岳→吾平山上陵(31°17′21.25″・130°54′58.00″)159.96°173km

 ④高千穂峰(31°53′10.53″・130°55′08.23″)→吾平山上陵 180.24°66km

  (④については、吾平山上陵のすぐ近くからは高千穂峰がみえるようです。)

 山上陵といいながら、洞窟なのです。それに、ピークを優先するのであればもっと精度のよい角度をとれるピークも周辺にあるようです。なのに、今度は岩を選んでいる。ある程度は精度が落ちても岩を優先する法則があるのではないかと疑っています。岩石最優先の法則です。

 以上です。近年のラインということもあって、色々調べる事ができるので、とてもよいです。日本古来の伝統が薩摩藩の中で残っていたのか、江戸時代の国学で再発見されたのかよくわからないので、ある作家の方に質問しているところですが、反応がありません。

 吾平山上陵については、可愛山稜から135.10°でした。こちらのラインを採用している方がみえました。このラインも十分有意と思います。吾平山上陵の位置決めが3本の直線になってしまいます。また3本ですわ。困ったものです。

 あの、今ワードで文章を作っているのですが、こんなに長いのを掲示板に添付すると顰蹙ものになるのではないかと恐れています。さて、MURYさんは納得できましたでしょうか?Kunittiさんワクワクしましたでしょうか?それにしても、阿蘇でもなく、桜島でもなく、なんで長崎県の雲仙普賢岳が起点なのでしょうか。謎は深まるばかりです。






新年ご挨拶 投稿者:MURYメール 投稿日:2010年 1月 4日(月)17時35分43秒 返信・引用

新年あけましておめでとうございます。

富士山本宮浅間大社・八坂神社・知恩院の二社一寺が今年の初詣でした。当サイトを今年もよろしくお願いします。




>ウージーさん




国道1号沿いなんですね。横は何度も通った場所です。

路傍に置かれた感じですがどうなんでしょうか、特定の人がまつっている岩石かもしれませんね。




>チェリーさん

>誰でも納得のライン4本1セット




それはすごい。神代文字や日本ピラミッドにしてもそうですが、ぐうの音も出ないような説得力のある事例や仮説が出てこないかなあと、ここ10年ぐらい動向を見張っていますがなかなか登場しません。私も説得されるのを待ってるんです。

謹賀新年 投稿者:uzi 投稿日:2010年 1月 1日(金)09時06分53秒 返信・引用

明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い致します。




添付写真写真

滋賀県は土山町、垂水頓宮跡にほど近い川田神社の境内にありました。

山ノ神かと思い、近所でゲートボールをされていた4、5人の年輩の方々にうかがったのですが、ご存知なかった。

山ノ神は別にあると教えて頂き、収穫はありました。




http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






無知なら人に負けません! 投稿者:チェリー 投稿日:2009年12月29日(火)02時35分17秒 返信・引用 編集済

 私、サイトというものに投稿するのは初めてでございました。真摯に学問に取り組んでみえるのがわかりました。同時に、明るくて自由な雰囲気も感じたのです。皆さんの活発な投稿はもちろんですが、MURYさんのあくなき好奇心によるところが大きいのかな?

 レイライン関係のサイトもいくつか覗いてみましたが、ありゃいけません。おっかないです。自意識が強すぎるというか、分かりやすく説明するというところがないんじゃなかろうかと。興奮する気持ちはわかりますが、人に伝わらなければあんまり意味がないような気がします。

 私も直線と角度ばっかり追っかけていますが、やっぱりワクワク興奮が一番になっちゃいますねぇ。でも、そこから調べ始めるのが自分の勉強になるのだと思ってます。例えば、法隆寺の位置がちっともわからなかったのですが、八尾市の太子堂のすぐ近くにある「物部守屋の墓」と法隆寺の前身といわれる「若草伽藍跡」が東西関係にあることがわかりました。さて、物部守屋ってどういう人だったっけ?無知なら人に負けません!まあこういう基本的な事から勉強するわけです。とても何かを人に指導するような人間ではありません。

 でも、最近、誰でも納得のライン4本1セットというのを見つけました。これならMURYさんも説得できるかもしれません。岩石に関係することですし、関連する話題が出たら、また、投稿しますね。




 >kunittiさんへ




 はじめまして。興味を持っていただいて、とてもうれしいです。現在資料を集成中でございます。EXCELにデータを入れた直線が 72本になったところです。同時に地図も作っています。範囲は九州から東北までで、最終的には 300本くらいにはなるかなぁ。さて、この中の何本が本当に測量されたラインでしょうか?それとも全部偶然なのでしょうか?とにかくわかりやすくしたいと思っています。まとまったらホームページを設営するつもりでおります。いつも道草ばかりで遅々として進んでいませんでしたが、kunittiさんの一言をはげみに、がんばります。ありがとうございました。

年末の挨拶に代えて 投稿者:MURYメール 投稿日:2009年12月27日(日)23時24分40秒 返信・引用

今年の更新はこれで終わりになります。

年末の探訪計画も何とか形になりました。天気がよければ奈良県で二日間を考えています。結果はまた年明けに。




>kunittiさん




仰られる通りだと思います。私も色んな岩石祭祀の場に足を運び、美しさに感動したり、大きさにびっくりしたりして、それが日々の活力や、こんな場所をみんなにも知ってほしいという気持ちで更新の糧にもなっています。

全国各地、こんなに濃密にありふれている岩石祭祀という存在が、何で現代日本ではここまで知名度がなく、一般的に知られていないのか歯がゆいんです。昔の日本人に広く受け入れられていた感覚が現代の日本人に通用しないはずはないし、こういう文化があるんだということを少しでも広めたいと思う一心でやってます。




ただ、このサイトは一応歴史研究サイトのつもりです。そのために私は、自分の感覚が必ずしも当時信仰していた人の感覚と一緒だと思わないようにしています。たかだか何十年の自分の人生が培ってきた感覚で歴史を語りたくないんです。しかも私は確固とした信仰心・宗教心がないときたもんです。

そんな一個人の感覚より大切にすべきは、これまでたくさんの人々が残してきた文献・記録・民話です。これは何百年、時には千年を超えるたくさんの人間の価値観の集合体、宝の山です。ここをかき集めて、共通する心性を抽出して、それを当時の人々の感覚だと仮定するのが信仰・宗教というものに対するぎりぎり歴史学的な研究姿勢だと考えています。




ドライかもしれませんし、なんだか冷めた人間みたいな奴でヤですね。ま、まあ、一人ぐらいこんなひねくれ者がいたっていいじゃないですか(汗)webのイワクラ・巨石界の最もひねくれたストッパーとしてありたいと思います。

チェリーさんの資料集成を望みます。 投稿者:kunitti 投稿日:2009年12月25日(金)07時14分35秒 返信・引用

MURYさん、いつも楽しませていただいております。

学問や真偽の云々は大事なことではありますが、その前に人間の感性、岩石や地形に対して何か不思議さを感じ心を躍らせる気持ち、それが日々生きていく力になっていくことも重要だと考えています。




チェリーさんへ。チェリーさんの研究資料集成的なもの是非どこかで公開されることを望んでおります。ワクワクいたします。

三燈の嶺 投稿者:MURYメール 投稿日:2009年12月23日(水)17時57分8秒 返信・引用

こんなホームページをやっていますが、基本私は無知なんです。古文書も読めないし、民俗学のいろはも知らないようなものだし、お経も祝詞も読めません(笑)

群集墳や須恵器・埴輪あたりの知識なら少しはお役に立てるのかなというレベルですが、よく言われるように、考古人間は得てして周辺学問に疎いです。地理風水なんてとてもとても・・・。

役に立ちそうな知識は吸収したいと思ってます。まあ、確かにレイラインや直線引きは私の感覚には合いませんが(笑)・・・またご指導ください。

三燈の嶺 投稿者:チェリー 投稿日:2009年12月21日(月)01時04分35秒 返信・引用 編集済

 実家に置いてあった御堂龍児氏の「地理風水大全」を見てみました。三台は毛筆を立てかけるのに使うもので、案山の形のひとつだそうです。でも、この山の西の懐に点在する聖地を考えると「父母山」ということになるのかなぁ?よくわからなくなってしまいました。難しいです。でも、大和川の源流というのはいい着眼点になるとは思います。あーあ難解だなぁ。

 犬山周辺について、尾張富士や尾張本宮山の東の方に、八曽山というこれまた僅かなピークがあります。山頂に祠(八曽黒平神社)があるのですが、直線の立場からいうと、これがまた重要な場所のようです。何でこんなに低いピークがと思うのですが、よくわかりません。地理風水ではないようです。わからないことだらけです。ただ、この山塊全体を考えると、実は、富士山の真西にあたります。富士山頂から真西にたどってくると、最初に大きな平野に出る直前の山々になるわけです。いかん、いかん、こんなことばっかり言ってると。

 MURYさんが、私の投稿を参考にしてくださるというので、感激してしまいました。また、いい岩石の写真が撮れたら掲示しますね。

三燈の嶺 投稿者:MURYメール 投稿日:2009年12月20日(日)21時00分33秒 返信・引用

風水は私も全く詳しくないのですが、気づかなかっただけに面白いですね。確かに天神山は3つのピークがあり、それは麓からも分かります。




主山か案山かというと、弘法大師が長谷寺から笠山三宝荒神の道中、天神山の西にある見廻不動尊を「この山に入るものは心を定め清めるように」としたことを考えると、滝倉の方の大和高原を主山として天神山は初瀬の入口としての案山なのかと妄想できます。




飛鳥・藤原の都からは場所がやや遠いですし、その間に三輪山もありますからねえ、体感的にはあまりピンと来ません。ただ天神山の中腹にいた時、耳成山らしき山が見えたという事実もあります。

天神山というのは私にとって不思議な魅力を持った山なんですよ。地理風水ですか、いいことを知りました。機会があれば入門書でも読んで勉強したいと思います。

三燈の嶺 投稿者:チェリー 投稿日:2009年12月18日(金)01時29分15秒 返信・引用 編集済

 私は通常、なんでこの場所が?ということを山基準で考えて直線を引きまくる性分なのですが、なんでこの山が?と思ってしまうことも、ままあります。京都の南にある甘南備山とかそうですねぇ。標高も低いし、そんなに目立つピークでもなさそうだしとか思ってしまうのですが‥。天神山/与喜山の場合も何でだろうと思いました。確かに頂上部が三つのピークになっているけど、よくあるように山脈が平野部に飛び出した最後のピークというわけではないし、有力な聖山から導かれた線があるのかなぁと調べていたのですが、よくわかりません。

 で、地図を眺めていたのですが、桜井市から三輪山南麓を通って谷が伸びていますが、ついつい近鉄大阪線に沿ってそのままこの山の南麓を通過するように見えてしまいますが、谷を流れる川の本流は、天神山/与喜山の西麓を駆け上っていくのですね。しかもこの川は「大和川」であって、奈良盆地の主流ではないですか。はっと思ったのですが、これは「地理風水」ではないかと。

 私、全然詳しくないのですが、地理風水では、こういった場所を探して聖地とするのではなかったでしょうか?この山が「主山」か「案山」になるといったことだと思うのですが‥しかも三つのピークを持つ山は、「三台山」と呼ばれて、敬われるようです。初めて奈良盆地に入った風水師が大和川を遡り、この山を発見し、聖地とし、この谷の正面に飛鳥・藤原の都が開かれたというのは、想像するにも程があるということですねぇ。やっぱり。












(無題) 投稿者:MURYメール 投稿日:2009年12月12日(土)22時46分52秒 返信・引用

>チェリーさん




古くからの聖地で仏像作りをするという行動(伝承として語られるものであり、実際本当にやっていたかは分かりません)はあったようです。




奈良県長谷寺本尊の十一面観音菩薩は徳道上人の手によるものですが、この木像を彫った場所は長谷寺のある小初瀬山ではなく、その東隣にそびえる三燈の嶺でした。

三燈の嶺は天神山(与喜山)のことであり、長谷山口神社のまつる長谷隠口山であり、菅原道真が天神としてまつられる前に滝蔵権現が宿っていた山であり、元伊勢伝承地でもあり、太陽の道でもあり、山中にはいつの時代だか知りませんが磐座跡らしきものがあります。まあなんというか大変な山なわけです。

そういう「いわく」付きの山の中で仏を刻み、その向かいにある別の山で、新しい聖地を築き上げるということが伝承の中で語られています。




岩屋観音堂もそういう古くからの祭り場で、円空もそこで仏を刻むということに意味を感じていたのかもしれません。この場合は古くからの祭り場をそのまま仏の祭り場にしてしまうことになりますが、同じ仏教でいうと古くからの磐座祭祀の場が経塚に利用されるという事例もあるので、それと思考構造が似ている気がします。




>テト店丁稚さん

電話を切る時に、入山をお待ちしておりますといわれました。過去3回トライして入山できなかった(自分の下調べ不足のせいですが)私に、やっと入山許可が下りたような気がしました。いいかげん登りにいこうかと思います。




>天罰を恐れないと天罰が当たらないらしい

神は人間の心の中にいるというやつですね。私はせいぜいビビりながら生きていくことにします。

ありがとうございました 投稿者:テト店丁稚 投稿日:2009年12月10日(木)15時18分58秒 返信・引用 編集済

> No.627[元記事へ]




MURYさん、お返事ありがとうございます。




> にしても今回の件で三輪山登山のブログをいくつか見てみましたが、奥津磐座の写真撮られまくりの流出しまくりですね。最悪コソッと隠し持っておけばまだかわいいのにブログで公開しちゃうなんて、みんな欲望に負けちゃうんだなあ。




天罰がくだるぞ、と言っても笑われるでしょうにゃ。実際、近頃は、天罰が機能しないみたいなんで(天罰を恐れないと天罰が当たらないらしい)。まあ、それにしても、閻魔さんにはしぼられるでしょう(笑)。




何はともあれ、撮影許可出ちゃったんだなーと勝手に思い込んでいたので、本当のことがわかって、よかったです。




ありがとうございました。

不純な動機と岩屋観音堂(岐阜県美濃市) 投稿者:チェリー 投稿日:2009年12月 8日(火)23時49分7秒 返信・引用

 名古屋には二つの中心地があります。名古屋城と熱田神宮です。私には熱田神宮の位置決めが難問でございます。さっぱり解らない。そこで目を付けたのが、距離はあるけど真北にあるお寺の地図記号、調べてみれば、「岩屋観音堂」とのこと。山岳霊場として名高い高賀山から稜線を辿ること南東へ直線で7km程、ここは御嶽から240°の地点でもあり、基本的には熱田神宮から見えるはずということで、なかなか良いではありませんか。行きました。もう7~8年も前のことでしょうか。

 岐阜県美濃市片知1695(35°37′27″・136°54′30″WGS84)標高は800m程あります。板山という集落から山中を歩く事3時間、きつい登りでございました(他の人のコースタイムを見ると、皆さん半分の時間で通過しているではないですか)。当時のプリントを張り合わせて掲示いたしました。立派な岩ではありますが、それに寄り添う観音堂というのがトタン屋根の小屋で、施錠されており、円空さんの「十一面観音薬師如来像」が中にあるようでした。肝心の「場所」が鞍部から僅かに下ったところでもあり、「見栄え」も少々期待と違った様子でもあり、「どんなものかなぁ‥」と山を下ったのでありました。

 ところがでございます。後日、高賀山南麓の高賀神社を訪ねた時に、すぐ前の「円空記念館」で、ほんの少し受付の方とお話ができたのですが、何と、円空さんが岩屋観音堂に住んで、仏像を彫っていたというではありませんか。ここで、この報告は、ロマンチックなラインの話ではなく、一気に人間味を帯びてくるわけです。私も、山中での一人歩きが全く寂しくも恐ろしくもなく、むしろ木々などを賑やかに感じる事があります。しかし、住むとなると話は別です。人里離れるどころか、離れて登らなければいけない。

 円空さんという方は、遠くは北海道にも渡り、生涯12万体の仏像を彫り、最後は即身成仏となったという、その激しい精神は常人には想像もつかないわけです。観音堂があるところは少し平地があり、岩が風を防いでよかったのかもしれませんが、やはり、それよりも何よりも、この岩とともに暮らし、祈りつつ、仏像を彫る事が一番肝心だったのではないかと思いました。

 ついでのことですが、円空さんゆかりの荒子観音(尾張四観音のひとつ)は高賀山の真南になるのでした。






ちょっと 投稿者:MURYメール 投稿日:2009年12月 8日(火)00時08分4秒 返信・引用

>三輪山の撮影。解禁になったのでしょうか?




これなんですけど、解禁になったよと伝えるブログがなかなか見つからないんですよねぇ。

・・・ということで、大神神社に電話して聞いてみました。




結果から言うと「撮影は許可しておりません」という返事でした。

ネットで解禁の噂があるんですがと付け加えてみましたが、特にルールに変更はなく、従来と変わらず撮影禁止ということです。これではっきりしました。安心ですね。




にしても今回の件で三輪山登山のブログをいくつか見てみましたが、奥津磐座の写真撮られまくりの流出しまくりですね。最悪コソッと隠し持っておけばまだかわいいのにブログで公開しちゃうなんて、みんな欲望に負けちゃうんだなあ。

ちょっと 投稿者:テト店丁稚 投稿日:2009年12月 7日(月)10時51分45秒 返信・引用

「何でも気軽に」ってことで、ちょっと。




三輪山の撮影。解禁になったのでしょうか?




禁止しても撮影できるのはできる。だからこそ、禁止しても無駄と考えないで、禁止のまま頑張って欲しいなあ~と思います。




三島由紀夫が「日本の(現人神としての)天皇は、目標が福祉の完備しかない近代化の果てに世界モデルになる」という意味のことを言ってますが、近代合理主義に反する禁止も、あと、百年頑張ったら(長っ!)、「よくぞ残してくれた」と感謝されるんじゃないかと妄想、あ、いや、予想してます。

愛知発 巨石信仰の続編? 投稿者:MURYメール 投稿日:2009年12月 2日(水)21時11分22秒 返信・引用

>KNIGHTさん

ブログだと、頻繁にとはいわなくても、定期的に更新しないとというのがありますよね。

しばらく更新してないだけでTOPページに「旬」な感じがなくなり、過去の日記も辿ってもらえなくなるような。ブログ見てて大変だなと思います。

その点、いわゆる旧来のHPスタイルはカレンダー表示じゃないだけ、多少そういうのが分かりにくい(?)のが助かります。もちろんある程度更新し続けないと「死に体」のHPには見えちゃいますが、基本的には過去のコンテンツも含めたトータルでいつも勝負できるのがHPかなあと。

でも、ブログの持つ検索の優位性や、RSSとかの存在はうらやましいですよ。




イワクラ学会のHPで「続 愛知発 巨石信仰」がありますね。

私も買おう買おうと思って、まだ手に入れていません。

愛知発 巨石信仰の続編? 投稿者:KNIGHT 投稿日:2009年11月28日(土)10時32分47秒 返信・引用

HPをあっちこっち整理されてる様でリンクされてる身としては申し訳ないです。

私もブログからHPへ切り替えようか思案してる所です。




話は変わり日記を見てて調べてたのですがいつの間にか「愛知発 巨石信仰」に100頁足らずですが続編が発行されてた様ですね。




前々から購入したいと思いつつ買いそびれていたのですが写真も豊富で良い様ですね。




そろそろ購入しようかな?

稚児岩大橋 投稿者:MURYメール 投稿日:2009年11月23日(月)18時05分23秒 返信・引用

写真でこれですから、実際ここに立つと気持ちいいでしょうねえ~。

各務原→土岐→多治見→恵那・中津川・・・

チェリーさんの投稿を参考に、このプランでいつか回ってみます。稚児岩大橋の近くには道の駅もあるそうなので、そこで昼飯だな。いや、日帰りは厳しいかも。こういうのを考えてる時間が楽しかったりします。




高良山では見つかってないみたいですが、石列に柱穴列がセットで見つかる神籠石式山城もあるというので、石の段差と柵で足止めは食らうでしょうね。

稚児岩(岐阜県土岐市) 投稿者:チェリー 投稿日:2009年11月22日(日)20時04分19秒 返信・引用 編集済

 お取り込み中のような感じですが、よろしかったでしょうか?

前回、高い地点から撮った写真は、「稚児岩大橋」の歩道からの撮影です。とても見晴らしのよい橋で、晴れた日には、御嶽、中央アルプス、多分白山も一望の下です。谷には多くの岩が露呈しており、山岳修行の場であったとのことで、歴史的には明治時代までは遡れるのですが、それ以上はよくわかりません。

 「高良山の神籠石式山城」の写真を拝見しました。雷山で見た時は、あんなに低い石列で敵の進軍を防ぐ事ができるのかなぁ?という印象だった、という記憶だったのですが、改めてこの写真を見ると、やっぱりこの段差は登りにくいですねぇ。斜めの面を揃えて足掛かりをなくすところがミソですね。












その通り! 投稿者:PONTA 投稿日:2009年11月20日(金)01時45分10秒 返信・引用

>私見では藤本浩一氏の探訪と『磐座紀行』によって、「おがみ所」という現地語が「磐座」という統一用語に置き換わり、数十年の時間経過を経て「この岩群は昔から磐座と呼ばれております・・・」という新しい歴史がつくられたのではないかと推測しています。




藤本浩一氏の『磐座紀行』以降、「磐座」という言葉が地元民に広まって、今ではその言葉以外の表現はされていないようです。

http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/jinjya2.htm






(無題) 投稿者:MURYメール 投稿日:2009年11月19日(木)22時49分44秒 返信・引用

>しかし、地元民にとっては「磐座」って言葉が重要なので、絶対に欠かせられない。




問題は、この「磐座」という言葉がいつ持ち込まれたのかというところです。辰巳先生の『聖なる水の祀りと古代王権』によると、岩群はかつて「おがみ所」と呼ばれていたことが触れられています。

私見では藤本浩一氏の探訪と『磐座紀行』によって、「おがみ所」という現地語が「磐座」という統一用語に置き換わり、数十年の時間経過を経て「この岩群は昔から磐座と呼ばれております・・・」という新しい歴史がつくられたのではないかと推測しています。

「おがみ所遺跡」「天白おがみ所遺跡」でも良かったなあと思います。




三輪山の写真撮影可を伝えるブログについては、私も注意してチェックしてみることにします。

レス 投稿者:PONTA 投稿日:2009年11月19日(木)03時27分27秒 返信・引用

>せっかく時間を割いてくださった書き込み、消すなんてもったいない。

消すか消さないかは管理人様にお任せします。




>「天白遺跡」だったなら「地名+遺跡」で私も納得できるのですが・・・「磐座」は要らないなあと。

冷静な第3者の意見だとそうですね。しかし、地元民にとっては「磐座」って言葉が重要なので、絶対に欠かせられない。




>・鳴岩・幡教寺・浄居院

出典である「夢現の岩穴」の案内文には「引佐町には、古くに自然の巨岩や岩の割目を祀った巨石・立岩信仰や割れ岩信仰が存在しました。天白磐座遺跡(井伊谷)や幡教寺の巨石(富幕山)、浄居院(背山)の巨石群などがそうです」とあります。

井伊谷、背山は地名で、富幕山は山名ですね。富幕山の住所は引佐町奥山かな?

確かに、天白磐座遺跡は井伊谷、幡教寺跡は富幕山の山中、浄居院は背山にありますから間違いではないです。

幡教寺は平安時代の山岳仏教の時のお寺でとっくの昔に廃寺です。今は、平野に下りて、浜納豆で有名な大福寺になってます。幡教寺跡の石垣と供養塔は知ってるけど、巨石は知りません。

http://rebox.hamazo.tv/e1462080.html

「浄居院(背山)の巨石群」が「浄居院(背山)、などの巨石群」なのか、「浄居院の巨石群(背山)」なのか分かりませんが、浄居院の巨石は1つで、真ん中で割れたように見えました。まぁ、境内にも大きな石があるので「群」といえないこともないですが。




>鳴岩-岩屋観音という別名は知りませんでした。

今、式内・三宅神社があった場所を探しています。情報は、

1.式内・三宅神社は岩屋観音の巨石を磐座としていた。

2.渭伊神社は式内・三宅神社の論社である。

の2つだけです。

三宅神社は、今の二宮神社の北にあって、岩屋観音付近に遷座して、また元の場所に戻ってきて、二宮神社に合祀されたというので、岩屋観音ってどこかなと。城山の八柱神社の境内に巨石群があるので、岩屋観音かなと思っていたのですが、フィールドワーク中に出会った地元の方が、「岩屋観音とは鳴石のこと」と教えてくださったので、ばらばらに思えた2つの情報が1つになったと歓喜したのですが・・・確かに、鳴石は傾いているので、岩屋といえなくもないです。




>・粟ヶ岳

>蛇身鳥ですか。磐座を出入りする穴が地獄と呼ばれ、出入りする鳥は都の人間に討伐される存在ですか。深読みしたくなりますね。




「土蜘蛛」なら、反逆者でしょうけど、単なる怪鳥でしょう。PONTAではサンコウチョウだと考えているのですが、調べてみると、長者さんが輸入して、誤って逃がしてしまった孔雀だって説が有力みたいです。




>・三輪山の写真撮影

>撮影OKほんとですか。

どなたかのブログに、「撮影可能かと聞いたら、可能だと言われた。時代は変わった」という文と写真が載っていたので、そうなんだと思ったのですが、いろんなブログを見てるので、どなたのブログだったか分からなくなってしまいました。

http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/jinjya2.htm






いえいえ 投稿者:MURYメール 投稿日:2009年11月19日(木)00時59分38秒 返信・引用

>PONTAさん

せっかく時間を割いてくださった書き込み、消すなんてもったいない。

内容を見れば荒しなんて思わないですから気にしないでください。そんな堅苦しい場でもないです。ただ一呼吸置いて、まとめてから書かれるといいかと思います。




・天白磐座遺跡リンクの件

ありがとうございました。もし「天白遺跡」だったなら「地名+遺跡」で私も納得できるのですが・・・「磐座」は要らないなあと。




・鳴岩・幡教寺・浄居院

鳴岩-岩屋観音という別名は知りませんでした。幡教寺は石垣を巨石と呼んでしまったものなのでしょうか。浄居院の「背山」は地名でしたか。おそらく昔の私が勝手に山の名前だと勘違いしたようです。また後日訂正します。




・粟ヶ岳

蛇身鳥ですか。磐座を出入りする穴が地獄と呼ばれ、出入りする鳥は都の人間に討伐される存在ですか。深読みしたくなりますね。




・三輪山の写真撮影

撮影OKほんとですか。そうであれば確かに池田さんの著書の写真も合点がいきますが・・・真相知りたいですね。OKなのなら来週にでも三輪山行って写真ばしばし撮ってきちゃう勢いですよ。

なんか 投稿者:PONTA 投稿日:2009年11月18日(水)21時13分11秒 返信・引用

掲示板荒しみたいになっちゃったんで、書き込みを消しておきてください。

すみませんでした。

http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/jinjya2.htm






変だなぁ 投稿者:PONTA 投稿日:2009年11月18日(水)20時03分30秒 返信・引用

誰かのブログに「撮影可能になった」として写真が載っていましたが・・・

(誰のか思い出せない)

今、大神神社の公式HPを見たら、更新していないのか、「撮影禁止」となっていますね。

http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/jinjya2.htm






日記にも 投稿者:PONTA 投稿日:2009年11月18日(水)19時46分52秒 返信・引用

> 最後に一言。この本の表紙をめくると三輪山の奥津磐座のカラー写真がでで~んと掲載されています。え?撮影禁止でしょ?これはまずいんじゃ・・・と度肝を抜かれたファーストインパクトだったわけですが、本の中には福岡県御許山の石体が立入禁止だったり山形県湯殿山のご神体が写真撮影禁止なので泣く泣くあきらめている記述もあり、なぜ三輪山だけは「やっちゃった」のか。大神神社・狭井神社の人の許可を取ったという記述もなく(まず許可下りないでしょう。下りたらみんな撮っちゃう)、写真のキャプションにも特に注記されていないので、たぶん無許可でしょう。池田さんの真摯なスタンスと唯一矛盾する点でした。




とありますが、撮影OKになったと聞いています。

http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/jinjya2.htm






粟ヶ岳 投稿者:PONTA 投稿日:2009年11月18日(水)02時14分50秒 返信・引用

>磐座の名の通り、ここは神が降臨した祭場とされますが、地獄穴の亀裂は神が異界から出入りする通り道だったのでしょうか。




蛇身鳥というキメラの巣だと聞いています。

その蛇身鳥退治に都から来た人と、地元の長者の娘ができちゃったのが夜泣き石伝説の始まりかと。

http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/jinjya2.htm






そういえば、 投稿者:PONTA 投稿日:2009年11月18日(水)02時09分34秒 返信・引用

三輪山周辺の岩石祭祀事例

http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/miwameguri.html

に「狭井神社で登拝の許可をもらえば、数百円の入山料を納め諸々の心得を守った上で、山頂まで登ることが許されています。写真撮影などは厳禁です。」とありますが、写真撮影がOKになったと聞いていますが・・・誤情報かな?

http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/jinjya2.htm






旧・引佐町 投稿者:PONTA 投稿日:2009年11月18日(水)01時26分52秒 返信・引用

・鳴岩→「岩屋観音」と呼ばれていたと思うのですが、調査中。

・幡教寺の巨石→「幡教寺跡」ですね。廃寺で石垣は残ってますが・・・巨石はなかったような・・・いつか行ってきます。

・浄居院の巨岩群→「背山という山にあるのが浄居院です」ということですが、「背山」は地名かと思います。巨岩群? お堂の背後に白岩と呼ばれる巨岩があります。裂けていて、裂け目に稲荷が祀られています。階段を登って、割れ目を真上から見ると怖いです。

http://www.doukutu.co.jp/hikingpoint-jokyoin.html

http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/jinjya2.htm






HP更新 投稿者:PONTA 投稿日:2009年11月18日(水)01時09分12秒 返信・引用

「旧引佐郡神社図鑑」

http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/jinjya2.htm




「天白磐座遺跡」のページでリンクさせていただきました。

http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/jinjya2.htm






(無題) 投稿者:MURYメール 投稿日:2009年11月17日(火)22時11分26秒 返信・引用

>チェリーさん

稚児岩にまつわる伝説は「まつる→願いが叶う」という宗教話ですが、岩は「赤ん坊の泣き声が聞こえた場所」という位置付けであり、岩は直接信仰と結びついていません。

好意的に見れば、観音様が赤ん坊を授けてくれた場所ということで観音様のテリトリー=聖域と捉えることもできますが、現にまつられていないのであれば実際は「伝説の舞台」というところ止まりなんでしょうね。




3枚目の写真を見ると、おっしゃるように「谷底から落ちたみたい」ですね。山の斜面に露出している岩肌も相当な規模のようです。

ずいぶんと上の方から撮影されたようですが、いい撮影スポットがあるんですね。




今回投稿した写真は「高良山の神籠石式山城(正式名称「八葉の石畳」)」ですが、ご指摘の通り石列は隙間なしです。龍仙山や宮川神社はそこまで精緻ではなくワイルドな置き方です。

龍仙山(志摩)にしても宮川神社(丹波)にしても、大陸からの侵攻に備えて砦を築く場所ではなく、名前は神籠石と付いていますが、私が想像するに龍仙山のものは戦前のある時期に、九州で流行っている神籠石の名前に置き換えてそれが定着したものではないかと思います。

となると、これらの石列は朝鮮式山城からは切り離して、なおかつ一緒くたではなくケースバイケースで考えるべき構造物ということになります。とりあえずは龍仙山に一度足を運んで実見してみることから始めたいと思っています。




>まささん




南谷とはどこだろうと思って調べてみたら、大岩大神とか滝の辺りのことですね。古代の信仰色濃く残るですか。私も行ってないのでチャレンジしたいです。






稲荷山行ってきました! 投稿者:まさ 投稿日:2009年11月15日(日)01時15分54秒 返信・引用

uziさんのおっしゃったとおり、確かに「稲荷山」は別世界でした。

今回は、古代の信仰が色濃く残るといわれている南谷には行く事ができなかったので、次回は南谷にもチャレンジしてみようと思います。

稚児岩(岐阜県土岐市) 投稿者:チェリー 投稿日:2009年11月13日(金)14時42分33秒 返信・引用 編集済

 岐阜県多治見市から恵那市に抜ける県道66号線があります(多治見恵那線)。途中、「道の駅 どんぶり会館」から500m程進むと「稚児岩大橋」を渡るのですが、この橋から右下を覗いた谷底に「稚児岩」があります。

 高さ18m・長さ18m・推定重量13125t 土岐市の天然記念物です。戦国時代のこと、子宝に恵まれなかった夫婦が、お告げに従って子安観音を滝ヶ洞の地に祀ったところ、谷底のこの岩から赤ん坊の泣き声を聞いて子供を授かったという伝承に由来しているとのことです。

 川水が侵食して取り残された捨子石なのだそうですが、谷の斜面から転がり落ちたように思えてなりません。弁慶が運んできたという言い伝えもあるそうですが、蹴落としたという話の方がいいですね。祀られてはいないようでした。

 岐阜県道66号線は国道19号線を大きく南に迂回する道ですが、とても気分のよいドライブコースです。私は抜け道として使っております。昔掲示板に載せていただいた「神明社」もスタート地点近くにありますねぇ。どんぶり会館も周辺の景色もよく、いいところです。

 話が変わりますが、「龍仙山の神籠石」の写真を見ました。「宮川神社の石列」もですが、北部九州を中心とした朝鮮式山城と思われる「神籠石」とは、かなり異なるようですね(もう20年以上前の記憶ですが)。あちらは石列の高さは、同じように低かったけれども、隙間がなかったと思います。水の流れのあるところには、きちんと水門がありました(雷山神籠石(大城山の水門も))。本当に一体何のための石列なのでしょうか?大変な労力だったはずです。カルナックの列石に似ているのでしょうか?












(無題) 投稿者:MURYメール 投稿日:2009年10月14日(水)14時47分8秒 返信・引用

>チェリーさん




穴観音と南無観世音菩薩の情報ありがとうございます。穴観音は立派な巨石ですね。近くの苗木城も、自然の巨石を利用して石垣を作ってるそうです。

尾根の先端という立地も、岩石祭祀の一定型として見えてきた感じがします。

>気がつけば岩石の写真を撮っている今日この頃です。

どんどん撮ってください(笑)







>滝おやじさん




岩石祭祀な展覧会情報ありがとうございます。近くに住んでいれば見に行きたいと思いました。

チラシのPDFはこちらです。

http://www.city.tsuchiura.lg.jp/cms/data/doc/1254615025_doc_44.pdf




◇展示構成と展示品

Ⅰ 山の信仰とその起こり ― 大峯山・三輪山山ノ神遺跡出土資料

Ⅱ 古代の筑波山信仰と磐座 ― 磐座の祭祀遺物と山麓の里宮関係資料

Ⅲ 古代の神まつりと筑波山の位置 ― 鹿島・香取・浮島の祭祀遺物ほか

Ⅳ 信仰の起源と内海の世界 ― つくば市八幡塚古墳出土埴輪ほか




◆記念行事

記念講演会「古代日本における山と信仰」

11月7日(土) 午前10時30分~12時

講師:茂木雅博館長

定員:70名(先着順) ※要入館料

企画展講座「筑波山信仰の源流をさぐる」

11月22日(日) 午前10時30分~12時

講師:当館学芸員

定員:70名(先着順) ※要入館料

現地見学会 「筑波山神社と周辺の遺跡をめぐる」




11月29日(日) 午前9時30分~午後4時

行先:六所神社跡・筑波山神社・女体山山頂・八幡塚古墳ほか

定員:40名(11月4日(水)より電話で受付、先着順)

参加費:1,100円(ケーブルカー代ほか)




筑波山の磐座の出土遺物のみならず、奈良県山ノ神遺跡の出土遺物まで導入。茂木先生の講演もあり一般105円はお買い得というほかはない。

古代の筑波山信仰展覧会 投稿者:滝おやじメール 投稿日:2009年10月13日(火)16時01分36秒 返信・引用

展覧会の情報です。

土浦市立博物館第31回企画展

「古代の筑波山信仰-内海をめぐる祭祀の源流-」

2009年10月31日(土)~12月13日(日)

本展覧会は、筑波山信仰と祭祀の源流を考えるものです。あわせて霞ヶ浦沿岸の古代祭祀・交通にも目を向け、ランドマークとしての筑波山と内海を舞台とした地域交流についてご紹介いたします。




http://www.city.tsuchiura.lg.jp/section.php?code=43



http://chibataki.moo.jp/




穴観音と南無観世音菩薩 投稿者:チェリー 投稿日:2009年10月12日(月)02時35分25秒 返信・引用

 岐阜県中津川市苗木609(北緯35°32′14.52″東経137°28′04.87″(WGS84))

 場所が説明しにくいのですが、中津川市鉱物博物館から約235°の方向に1.2km程のところ、低い山から張り出した尾根の先っぽにいくつかの巨石が露呈しております。その中に長さ6mの自然石が屋根になったお堂があります。それが穴観音です(上の写真ですが、日の当たったところがふっとんで、見にくくなってしまいました)。明治2年に起きた廃仏毀釈運動から難を逃れた仏像等が安置されているのだそうです。

 その奥にも巨石があって、それは祀られていました。岩の上に石碑があって、南無観世音菩薩と記されているようです。この岩そのものが観世音菩薩であるようです(まん中の写真)。廃仏毀釈運動が起きた時に、この菩薩様の岩の近くに洞窟をつくって、仏像を隠したのではないかと思います。

 片側1車線の立派な舗装路沿いにありますので、道さえわかれば、楽に行けます(下の写真)。近くの中津川市鉱物博物館では水晶探しのイベントがあって、お子様連れが楽しめます。

 私、レイライン探しを趣味にしている人なのに、気がつけば岩石の写真を撮っている今日この頃です。まあ、行基さんゆかりの下野庚申堂がここの真北にあることがわかりましたので(山を超えてですが)、収穫でございました。






















稲荷山 投稿者:MURYメール 投稿日:2009年10月 6日(火)20時57分35秒 返信・引用

>高度が上がるごとに上がる値段?(笑)




もちろんこっちです(笑)

稲荷山 投稿者:uzi 投稿日:2009年10月 4日(日)09時31分12秒 返信・引用

>MURYさん

HPを紹介して頂きありがとうございます。




大岩大神のある大岩社から稲荷山をまくように進むと、末廣の滝など、いくつかの祭場があるようです。

が、私、一の峯~三の峯をまだまわっていなかったので、元来た道を後戻りしました。

大岩社からの道がものすごく下っているようだったので、再び一の峯~三の峯に登らなければならなくなったら、と心配になったこともあります。

次回、大岩・小岩神社と一緒に参拝したいと思います。




お山巡りの2日後、痛くなった腰がまだ治りません。

普段、体を使っていないのに、いきなり7時間の山歩きは私の年&体力にはきつかったです。




>山頂の自販機でジュースを買うと思い出になるかも。




疲れた体によく冷えた飲み物が美味しかった?

高度が上がるごとに上がる値段?(笑)







>まささん

稲荷山は別世界です。ぜひ行かれることをお勧め致します。

http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






Re: 稲荷山 投稿者:MURYメール 投稿日:2009年10月 3日(土)20時26分19秒 返信・引用

> No.601[元記事へ]




御前谷の御饌石、雷石、大岩大神、稲荷山の七ヶ所の神跡・・・ウージーさんのサイトの稲荷山のページを見ると山中の名所が網羅されています。

あとは山頂の自販機でジュースを買うと思い出になるかも。

Re: 稲荷山 投稿者:まさ 投稿日:2009年10月 3日(土)19時35分3秒 返信・引用

> No.599[元記事へ]




お久しぶりです。

僕も近々、稲荷山に行ってみようと思っています。

「これは見ておくべきだ!」というものがあれば教えてください。

Re: 稲荷山 投稿者:MURYメール 投稿日:2009年 9月27日(日)18時57分3秒 返信・引用

> No.599[元記事へ]




大岩大神と玉垣を比較すると(写真で受けるイメージよりも)これはかなり巨大な岩肌じゃないですか。立派なものです。

劔石はやっぱりのぞいても見れないんですねえ。




山中全部チェックしようと思うと、7時間、かかるかもしれません。

もし足を運ばれていなければ、稲荷山と車道を挟んだ南にそびえる大岩山の大岩・小岩神社もどうぞ。こちらも伏見稲荷の影響をぷんぷんに感じる場所です。

稲荷山 投稿者:uzi 投稿日:2009年 9月27日(日)08時19分40秒 返信・引用

三度目のお山巡り(伏見稲荷)をしてきました。

御膳谷の御饌石もチェックしてきました。

長者社で、劔石が見られないかと、

社殿の横からちらっと中を覗いてみましたが、

解りませんでした。

「大岩大神さん」へも足を延ばしました。

社殿やお塚やお狐さんや鳥居を撮りながらのお山巡りで、

7時間近くかかりました。




http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






Re: 笠置山(恵那市)の百畳岩の奇怪な根っこ 投稿者:MURYメール 投稿日:2009年 9月26日(土)23時43分37秒 返信・引用

> No.597[元記事へ]




地図写真ありがとうございます。探訪の事前勉強に使わせてもらいます。




>山に対する信仰はあっても(この笠置山とか恵那山)、岩に対する信仰があまり見受けられないような気がするのですが、どうなのでしょう?




私は笠置山に行ってないので正確なところは分かりませんが、印象としては私もそう思います。

笠置山からペトログラフ岩を差し引いたら、岩石信仰として言い伝えられる場所はあるでしょうか。ピラミッド岩もピラミッドの形だから注連縄をしただけで、伝承・記録は持ってないようですし(もし事実と違ってたら誰かツッコんでください)

チェリーさんが貼付して下さった地図写真を見ると、百丈岩・物見岩・くぐり岩・巨大夫婦岩といった岩石があるようですね。名前の付けられ方は好奇・鑑賞・特別視の範囲で信仰心の芽生えには至っていない様子です。




岩石自体はたくさん露出している山のようですが、山全体に神が遍在するということで古来は山中禁足とされ、山の麓から祭祀したから山中の岩石が祭祀場とならなかった(後世に修験霊場として利用された可能性はある)というのが、笠置山に行ってない私の戯言です。

Re: 笠置山(恵那市)の百畳岩の奇怪な根っこ 投稿者:チェリー 投稿日:2009年 9月23日(水)19時39分10秒 返信・引用 編集済

> No.596[元記事へ]




 笠置山の地図を添付します。いずれも現地に立っていた看板です(下の地図は左が北になってますねぇ)。野瀬という集落から立派な山道が登っているのですが、そのまま「グリーンピア恵那(今は廃墟です)」へ行ってはいけません。ヘアピン状に曲がるところで左に入ってください。あとは一本道です(積雪期に閉鎖しているかもしれませんので、要注意です)。

 詳しくは分からないのですが、この地域は、山に対する信仰はあっても(この笠置山とか恵那山)、岩に対する信仰があまり見受けられないような気がするのですが、どうなのでしょう?むしろ岩が産業の対象になっているようです。「恵那峡ランド」の北に「博石館」という石の博物館(絶好のデートスポット)があるのですが、そこに行くとよくわかります。でも、中津川駅の西側には「女夫岩」があって、小さな祠があるようです。全国夫婦岩サミットが開かれたそうです。

 岩が樹木に与える影響というのは、とてもおもしろいです。そんな事があるのでしょうか?人に影響を与えるのでしょうから、植物にもきっと及ぼすのでしょうねぇ。MURYさんの下の写真はいいですねぇ!縄文独特の生命力を感じますね!









Re: 笠置山(恵那市)の百畳岩の奇怪な根っこ 投稿者:MURYメール 投稿日:2009年 9月20日(日)20時22分42秒 返信・引用

> No.595[元記事へ]




春に飛騨高山~岐阜、GWに三河~静岡、夏に和歌山、盆に関西、、、次はどこだと考えたとき、残された一大「岩エリア」が恵那・中津川でした。冬~春のうちに行こうかなと思っていたところでした。




>山頂から南西に400m程の尾根に駐車場があり、標高差も35m位ですので、お散歩気分で登れます。




これはいいですね!私もお気楽登山ときめこみたいと思います。




>根っこ




霊石や磐座の周囲に伸びる木の中には、こういう風にねじりねじりなのが多いと感想を漏らされる方もいらっしゃいます。実際の因果関係は知りませんが、私も奈良県天神山(与喜山)の磐座地帯で火焔土器みたいにねじあがる木々を見た時に体験しました。

大江元伊勢内宮や静岡県粟ヶ岳では、幹から瘤が盛り上がる木も見ました。こういうのも同じ話でくくれるかもしれません。









笠置山(恵那市)の百畳岩の奇怪な根っこ 投稿者:チェリー 投稿日:2009年 9月15日(火)02時05分34秒 返信・引用 編集済

 岐阜県恵那市に笠置山(標高1128m)があります。山頂には立派な「笠置神社奥社」があって、信仰の対象となった山のようです。「百畳岩」はそこからほんの少し下ったところにあります。至る所にこのような巨石が鎮座しているのですが、岩そのものは祀られてはいないようです。でもこの根っこは素敵でしょう?ペトログラフとかピラミッド石(ひとつにはしめ縄がしてありました)とかたくさんあるようですが(表示があちこちにありました)、どうかなぁという感じでした。

 山頂から南西に400m程の尾根に駐車場があり、標高差も35m位ですので、お散歩気分で登れます。駐車場の脇に「物見岩」があって、ここからの展望がよろしいです。でも、お勧めは一つ下の駐車場から歩いて登る道です。この山の感じがよくつかめますし、晴れていれば途中の展望台から御嶽山・乗鞍岳がよく見えるはずです。

 ここから東方10km程のところに巨石織り成す「星ヶ見公園」があります。まあ、その、山頂から真東に17kmたどれば行基さんゆかりの「医王寺」がありますねぇ。






金大巌 投稿者:MURYメール 投稿日:2009年 8月19日(水)22時56分17秒 返信・引用

1年ぐらい前でしたか、ウージーさんが行った時は牛尾・三宮神社にブルーシートがかかってたようです。それはそれでレアだと申し上げた記憶が。KNIGHTさんの時には終ってたんでしょうね。

現在も交替交替で工事なのか、境内摂社のいくつかが修繕骨組み中で神様が遷座しまくってます。工事奉賛ご協力一口2000円からだそうです。日吉大社の差しがねではありませんがよかったらどうぞ。

金大巌 投稿者:KNIGHT 投稿日:2009年 8月18日(火)14時37分12秒 返信・引用

あら?社殿の工事をしてたのですね。そんなに痛んでたのかな?




私は今年の成人の日に探訪しました。




社殿の屋根に雪の残る日でしたが冬特有の澄んだ青空と琵琶湖の対岸に

出世不動もある三上山をはっきり望む事ができました。












(無題) 投稿者:MURYメール 投稿日:2009年 8月17日(月)23時16分49秒 返信・引用

>ウージーさん

金大巌への道は嫌がらせと言っていいレベルですよね。傾斜もけっこうなもんですが、工事現場かと思うようなゴロゴロ砂利道には参りました。足が痛い痛い

あれは純粋な参拝道として作ってなく、実用的な目的も持った道なんでしょうが、元々はどういう道があって、岩までどういう風にお参りしていたんだろうと思います。




>あんでっどさん

そういえばmixiニュースで取り上げてらっしゃいましたね!今の今で思い出しました。松尾大社などのように、磐座をオープンにする今の流れと逆行しただけになんでかと思いましたが、そんなことされちゃ立入禁止もしかたないです。

>もう少し別の視点

どうやら別の視点を持っているようですね?

(無題) 投稿者:あんでっど 投稿日:2009年 8月17日(月)14時38分48秒 返信・引用

出雲大神宮の磐座は昨年12月頃、何者かが削り取り、破片を持ち去るという事件が発生したために、当分一般の立ち入りが禁じられているようですね。

まだ見れないんだなぁ……。




櫛石窓神社は同じ感想です。石視点では楽しめないと思います。もう少し別の視点を持たないと行ってもガッカリかな。

終わってましたか! 投稿者:uzi 投稿日:2009年 8月17日(月)06時04分13秒 返信・引用

写真を撮り直したい、と言う思いは強いのですが、

あの坂の登りを想像すると・・・

http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






後追い 投稿者:MURYメール 投稿日:2009年 8月16日(日)13時45分17秒 返信・引用

>KNIGHTさん

JR武田尾ってどこだろうと思って見てみたら、兵庫県宝塚市じゃないですか。

盆休みの間、ここのすぐ近くを通りましたよ。KNIGHTさんの書き込んだその時刻は兵庫県篠山市内にいました。ニアミスでしたね~

PS.野洲のネコ岩と出世不動見てきました。ネコ岩の本当の名は何岩なのか分かりませんでしたが、大切にお手入れされていることの分かる気持ちのいい場所でした。出世不動は謎の雰囲気。




>ウージーさん

あの辺は赤岩尾神社しかり岩石信仰の強い地ですね。これほどのスタンダードな岩神が情報もないままだったとは。まあ「発見」とは言っても、地元の方からすればずっとそこにあるものだったんでしょうけど。

PS.日吉大社の金大巌・大威徳石・猿の霊岩・V字岩etc見てきました。金大巌の両隣の社殿は工事終わってましたよ!

磐座発見! 投稿者:uzi 投稿日:2009年 8月15日(土)09時13分32秒 返信・引用

伊賀市奥鹿野の八柱神社にありました。

地元では「岩神さん」と呼ばれております・




「磐座発見」って、コロンブスの「アメリカ大陸発見」

とニュアンスが似ていますね。m(_ _)m




http://www.geocities.jp/miniuzi0502/






武田尾の大岩稲荷 投稿者:KNIGHT 投稿日:2009年 8月13日(木)23時53分52秒 返信・引用

ご無沙汰してます。

最近、石は石でも鉱物採集やらサイクリングばかりやっていてすっかり磐座巡りから遠のいてしまいました。




そんなサイクリングでコースを考えてる時にJR武田尾へ向かう県道327号線沿いに「大岩稲荷前」というバス停がありました。

確かに近くには「大岩岳」という山はありますが大岩岳を崇めるにはあまりにも遠すぎで、更に山頂や中腹から降りてきたという立地条件でも無く

「きっと何かあるぞ」と直感の元、サイク