2020年1月13日月曜日

蓬莱山・阿須賀神社・白玉稲荷神社・宮井戸遺跡の岩石信仰(和歌山県新宮市)


和歌山県新宮市阿須賀~蓬莱

蓬莱山・阿須賀神社・白玉稲荷神社・宮井戸遺跡は、それぞれが歩いて行ける距離に集まっているので一度にこのページで紹介しておこう。

阿須賀神社と蓬莱山の祭祀遺跡


和歌山県新宮市にある阿須賀神社は延喜式内社で、熊野速玉大社の境外摂社。
熊野三山の信仰と深い関わりをもつ。飛鳥社の当て字でも知られた。

『熊野権現御垂迹縁起』『熊野社記』という書物によると、熊野速玉大神は今の阿須賀神社の近くに一時鎮座してから現速玉大社に遷ったともいわれる(木内武男氏『熊野阿須賀神社』1983年)。

熊野の神々の系譜から目を転じると、阿須賀神社は社殿裏にそびえる蓬莱山を神の地とする自然景観にも注目したい。
蓬莱山は標高48mの小さな山だが、平地にぽつんと突き出ているその三角形の山容は目立ち、そもそも元来は海中に浮かぶ小島だったと推定されている。

熊野川対岸の三重県側から望む蓬莱山

阿須賀神社と蓬莱山

蓬莱山の麓、すなわち阿須賀神社の境内からは、弥生時代末期から古墳時代初期にかけての3基の竪穴式住居址が出土している(阿須賀神社境内遺跡)。

住居址とともに、陶磁器の破片、須恵器の破片、土師器の破片、弥生土器の破片、土錘、紡錘車、鉄鏃の破片、少量の石器が見つかった。
弥生土器の属性から、弥生後期前葉(1世紀~2世紀)以降、古墳時代に至るまでこの一帯で生活が営まれていたと考えられている。

阿須賀神社境内遺跡(境内で史跡整備されている)

さらに、蓬莱山の中からは、平安~室町時代における仏教関連の祭祀遺構・遺物が豊富に出土した。

神社本殿の西脇を上オンビ、東脇を下オンビと呼んでいる。
オンビの意味については「御幣(おんべ)」ではないかと木内氏前掲書で紹介されている。

この上オンビに、子安石という霊石があったと伝えられ、現地に子安塚が現存する。

子安塚

子安塚に献じられた玉石

上オンビのあたり

考古学者の大場磐雄博士は、氏の人生の中で少なくとも3回当地を訪れていることを自身のメモ『楽石雑筆』に記しており、そこで子安石と子安塚について以下の通り明らかにしている。

現本殿に向って左方に子安石と称する自然石竪居せりと、戦災のため破壊せりといふ、且つこの附近を「上オンビ」と呼ぶといふ。(昭和28年8月31日)
(略)
上オンビに子安塚あり、丸石をあげており、もとここに子安石ありしところ、ここは速玉社の例祭にも神倉社の火祭りにも奉幣の式あり、またここより少し上手に上りしところに巌窟ありて、御正体の出土せしところなりという。(昭和37年8月5日)(以上、『記録―考古学史 楽石雑筆(補)』2016年より)

つまり、子安石は戦災で破壊され現存しておらず、現在それらしく屹立する立石は子安石を偲ぶ子安塚であるということだ。
この情報を入手するまでは、現状の立石が子安石と勘違いしていたので、重要な事実としてここに注記しておきたい。

さて、この子安石の裏は蓬莱山の端に当たり、そこから組石や敷石の人為的な遺構が見つかった。また、蓬莱山の南斜面に露出する巨石(自然石)を壁として利用し、その前面三方に石を組み合わせた石室(岩窟)遺構が見つかり、そこから御正体(鏡像・懸仏の総称で、鏡に本地仏を刻し祭祀対象や埋納祭具として使用したもの)総数194枚や、経筒片・経石などの経塚関係遺物が出土した。

他にも上オンビ、下オンビ一帯からは弥生時代の土器や古墳時代の手づくね土器、滑石製模造品なども見つかっている。
仏教祭祀以前の痕跡であり、遺物の性格から単なる生活の痕跡とは言えず、仏教祭祀以前の山岳祭祀があった可能性も捨て切れない。

なお、蓬莱山の熊野川寄りの海岸を「こりかけ場(垢離所)」と呼んでいる。


白玉稲荷神社


阿須賀神社のすぐ南へ足を向けると、住宅地にぽつんと存在する小さな社・白玉稲荷神社がある。
社殿のすぐ裏に、社殿を覆い尽くさんばかりの巨岩が2体あり、社殿向かって右にもまな板状の巨岩が1体寄り添っている。



元来は岩礁のひとつであっただろうことは、ここが熊野川、そして太平洋と目と鼻の先の場所にあることからもわかる。

単なる岩礁ならばそこに社がまつられる必然性はなく、後年、宅地開発のなかで社は遷座されるか、邪魔な岩扱いとして現在までに破壊されていただろう。
しかし、現状はこれらの巨岩群を避けるように住宅が建てられている。子供の遊び場となりやすいためか、「立ち入り禁止」の柵を張りながらも、岩の撤去はされていない。

「白玉」は、裏にそびえる球状の岩石群が、日光に反射して白く輝いた玉石を形容したものなのか、熊野に多い玉石信仰と、その玉石の巨大化した形状が相まって神聖視されたものなのかと類推される。


宮井戸社・宮井戸遺跡・千引の岩


熊野川の河口沿いに、こんもりとした森が残っている。宮井戸の森という。
外から一瞥するだけでは通り過ぎてしまいそうだが、森の中に踏み入れると雰囲気は一変し、森のそこかしこに自然露出の岩群が密集して岩山を形成している。




森の中には宮井戸社が鎮座し、古絵図には宮戸社として記録される場所だった。
いつの頃からかまつられていたかは不詳であるが、かつては海に囲まれた岩の島だったといわれ、飛鳥行人という者が創祀したという。
祭神は黄泉道守命で、熊野川の入口を黄泉国と見立てた信仰によるものか。

黄泉国信仰には、森の岩山にも向けられており、岩山全体を含めて「千引の岩」あるいは「千引岩」と呼んでいる。
黄泉国を塞いだ日本神話の千引岩を、河口という「境界」に群集する宮井戸の岩山に準えたのだろう。

千引の岩の一つには「キリーク」「カーンマーン」の梵字が刻まれ、それぞれ「大威徳明王」「不動明王」に該当する。
鎌倉時代の刻字と考えられているが、現地看板によると『熊野年代記』には文明3年(1471年)「本地梵字彫スル」との記述があるという。

千引の岩に刻まれた梵字

梵字だけでなく、森からは一字一石経も見つかっている。
仏教の聖地として神聖視されていたことは明らかだが、さらに、当地からは弥生土器も出土していて、宮井戸遺跡として文化財指定されている。
この発掘調査を主導された大場磐雄博士の野帳から下記引用しておこう。

宮戸神社千引岩・土器類出土・アスカの北の貴弥ヶ谷。子安石下より出土せしもの弥生式土器片。(略)千引岩 この石の下から経石あり。(昭和38年8月)(『記録―考古学史 楽石雑筆(補)』2016年)

蓬莱山の子安石、宮井戸の岩山ともに、弥生土器を伴出したことがわかる。
ただ、弥生土器の出土をもって、祭祀にまで結びつけていいのかは即断できない。

宮井戸社は明治時代に阿須賀神社に合祀されたため現存していないが、現在は地蔵堂が建っている。

宮井戸遺跡に建つ地蔵堂と遺跡説明看板


補足・新宮の徐福伝説


蓬莱山の名称は、後世に広まった秦の始皇帝の徐福伝説にちなむ命名と考えられている。

徐福伝承地は南は佐賀県、北は青森県まで数十ヶ所伝わるが、阿須賀神社境内には「徐福之宮」という徐福をまつる神社から、徐福上陸碑、徐福の墓、徐福公園まである。

徐福之宮(阿須賀神社境内)

秦徐福上陸之地(記念碑)

徐福の墓の起源ははっきりしており、元文元年(1736年)、江戸幕府紀州藩祖の徳川頼宣の命で設けられたものである。
新宮の徐福伝説は江戸時代には知られていたことがわかる。
中国元王朝の支配を嫌い、日本へやってきた仏僧・無学祖元がこの新宮で徐福を偲ぶ詩歌を残しているので、鎌倉時代まで新宮の徐福伝説は遡れるそうである。


参考文献


  • 木内武男『熊野阿須賀神社』 1983年
  • 山下立『特別展 阿須賀神社の御正体』 新宮市立歴史民俗資料館・南紀熊野体験博 新宮市実行委員会 1999年
  • 小賀直樹「住居」『和歌山の研究』第1巻 地質・考古篇 津文堂出版 1979年
  • 新宮市史編さん委員会 「古代新宮の息吹き」『新宮市史』 新宮市役所 1972年
  • 和歌山県史編さん委員会 「阿須賀神社遺跡」『和歌山県史 考古資料』 和歌山県 1983年
  • 茂木雅博(書写・解説)・大場磐雄(著) 『記録―考古学史 楽石雑筆(補)』博古研究会 2016年


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