2021年1月31日

阿智神社の岩群(岡山県倉敷市)


岡山県倉敷市本町


漢王朝の末裔を自称し、朝鮮に逃れていたとされる阿知使主(あちのおみ)は、17県の郎党を引き連れて来朝し、東漢氏として帰化したと『日本書紀』応神天皇条にある。

阿智神社の社伝によれば、このとき東漢氏の一部が当地に到来し、日本列島の磐座・磐境の祭祀形態に基づきながら、大陸由来の神仙蓬莱思想や陰陽思想を取り入れて配置・構築したという。
その跡とされる岩群が阿智神社境内に現存しており、原始庭園の通称や日本庭園の祖型と呼ぶ人もいる。

羽石(鶴石組)と阿智神社社殿

亀石組。左が亀頭石、右が亀甲石。

天照皇大神をまつる祠の後ろに「磐座」と名付けられた岩石がまつられる。

上写真の「磐座」の近景。玉垣の奥(外と言うべきか)に位置する。

「磐境」と名付けられた岩群。帯状とも蛇行状とも形容される。

本殿北斜面の玉垣外にはこのような大小の岩石が群在している。

現地看板。岩石の配置平面図が掲載されており全体把握の参考に。

写真で見る限りは、これらすべてが人為の設置か自然の営為かを見極めるのは難しいところがあるが、庭園研究者の見立てでは以下の指摘がなされている(重森三玲氏・重森完途氏『日本庭園史大系第31巻』社会思想社 1975年や、河原武敏氏の文責による現地看板など)。

  • 鶴・亀を模した岩石の配置
  • 斜面上に大小の岩石を列状に並べた枯滝
  • 陰陽石の配置


このような特徴を持つ岩群であるが、人工的な設置、そしてさらにそれが真に庭園の源流にあたる設計が意図的になされたものかは十分に検討されたとは言いにくい。斜面上の枯滝などは、枯山水の思想で考えれば古代ではなく中世以降の影響も考えられる。東漢氏がこの地に渡来して手掛けたかも半ば伝承上の話となっており、そこを根拠にすることも慎みたい。


八木敏乗氏は『岡山の祭祀遺跡』(日本文教出版 1990年)において阿智神社を取り上げ、この岩群の形成についてさらに突っ込んだ推測をおこなっている。

いわく、本殿向かって左にある現在「羽石」「鶴石」「亀石」と呼ばれている岩群のあたりは人工的に動かされたもので、それに対して本殿の右にある現在「磐座」「磐境」と呼ばれている岩群と、本殿右後背と左後背に広がる岩石群は原初の状態のままを残した自然石であろうと、岩群によって人為のものと自然のものがあった可能性を示している。

そして、本殿左の鶴亀石の一群についても、その人為設置の理由について、

  • 社殿構築のために丘の頂上を整地した際、頂上にあった岩石を移したもの
  • または、整地掘削の際に起こし出された岩石を、庭園石組の法則に準拠して配置したもの

と二通りの説を併記している。
このように、阿智神社のすべての岩群をすべて同時期同成因による庭園と一括することは避け、自然石の景観、社殿祭祀、社殿以前の岩石信仰の可能性、庭園施設への活用といった複数の文脈が輻輳したうえで現状の景観があることに気をつけたい。

ただいずれにせよ、現在、神社にとっては当地を開拓した祖先が構築した神跡として神聖視されていることは間違いない。

八意思兼神をまつる境内石祠とその背後の注連縄が巻かれた岩塊


2021年1月24日

長森岩戸の岩石信仰~岩戸岩窟観音・岩戸の滝・岩戸八幡神社・岩戸神社・岩戸弘法弘峰寺~(岐阜県岐阜市)


岐阜県岐阜市長森岩戸


金華山南麓に長森岩戸(旧・岩戸村)と呼ばれる地域が広がる。

ここには岩戸森林公園という広大な公園が造成され、駐車場も整備されているので金華山登山の入口としても人気を博している。

「岩戸」の名は、当地に開闢された「岩戸岩窟観音(厳窟観世音菩薩)」の存在に由来するらしい。

また、『延喜式』神名帳には厚見郡物部神社の名が登場し、物部神社の鎮座地には諸説あるものの、一説に岩戸の地が挙げられる。
現在、その候補地には岩戸の名と関連される岩・石も残っており、本記事ではそれらを一括し「長森岩戸の岩石信仰」と題して紹介する。


岩戸岩窟観音(厳窟観世音菩薩)


当地を支配していた城主・斎藤利永(後の美濃守護代)が、文安2年(1445年)霊夢を見て、この岩窟に聖徳太子作の聖観音菩薩像を安置したという縁起が語られている。

いわゆる戦国時代における金華山の城郭史の中に組み込まれた宗教伝承ではあるが、なぜこの岩窟が選ばれたのかという理由は語られておらず、それ以前の歴史は不明である。

式内物部神社の旧社地はここであるという話があるそうだが、説の出所ははっきりせず、確たる資料に欠ける。

岩戸岩窟観音 入口

石段を数分登ると岩戸観音安置の地に到着。

堂内は秘匿されている。

境内の一露岩


「岩戸の滝」の地蔵石


「岩戸の滝」は、岩戸観音に接しており行場の霊滝としての存在感漂うが、実は明治40年に公園化や集客化の一環で造られた人工の滝である。

この滝を造るために近在から数々の名石が運び込まれ、特に、滝の台石には砥石のように滑らかな石面を持つ一大巨石が用意された。この台石のことを俗に地蔵石と呼んだそうだ。

この台石は、元はすぐ南の岐阜市雪見町に架かる石橋を転用・移設したものであることが明らかになっている。

岩戸の滝。滝の底面に滑らかに光るのが俗称地蔵石。


岩戸八幡神社と岩戸神社


名前が似通っているが、長森岩戸には岩戸八幡神社と岩戸神社という別々の二社が、近い場所に鎮座し合っている。

このうち岩戸八幡神社については、明治34年に海津市高須町にあった日下丸という集落の氏神・八幡神社を当地に遷座したものということがわかっている。
経緯は、日下丸集落が揖斐川の氾濫対策の改修で地区ごと水没、移転の憂き目にあったものという。岩戸村とはやや離れた距離にあるどのような縁によるものかわからないが、両村合意の上で、岩戸村の新たな鎮守として迎え入れられたものだという。

この話を踏まえれば当社は近代以降の歴史ということになるはずだが、当地も式内物部神社の旧社地だったという一説がある。
つまり、元来物部神社があったと伝えられる故地に、新たに八幡神を勧請したという流れで、土地の選定にそのような地元の口承が働いていたのかもしれない。

岩戸八幡神社

岩戸八幡神社境内の担石

現境内には担石(力石の意か)が残されているほか、当社の裏山が古道の一つであったなどの歴史的な傍証もあるそうだが、個人的には当社のすぐ北に鎮まる「岩戸神社」という別社の存在が興味深い。

こちらの岩戸神社は、どうやら物部神社候補地に挙がることが少なかったようだが、地理的には岩戸八幡神社の鎮座地と尾根を一つ隔てただけであり、口碑の曖昧性を考えれば誤差の範囲にも入る。

当、岩戸神社の起源も調べ切れていないが、当社のポイントは社殿下に露出する岩盤の存在である。
「岩戸」の由来となるような構造をしているかといわれると全貌を確認できないので何とも言えないが、岩盤の上にコンクリートの基礎と石段を打ち付け、そこに懸造の社殿と回廊を建てている。とにかく岩盤上に社を築きたかったという心理は伝わってくるが、ではその岩盤が物部神社問題と直結できるかというと安直なので差し控えておく。

岩戸神社

岩戸神社社殿

社殿下の岩盤

岩盤の近影。写真左に古い石段のようなものが見える。


岩戸弘法弘峰寺の岩石祭祀事例


岩戸弘法弘峰寺(こうぶじ。以下、弘峰寺)は岩戸公園に隣接し、岩戸岩窟観音と二社の岩戸神社の間に立地する。

その位置と名称から否応なく注目せざるをえないが、当寺は戦後昭和年間に新しく発願・建立された祈祷寺である。
落慶時には、高野山から鎌倉時代製作の不動明王像を迎え入れた堅実なる真言宗派の寺院であるが、最近はインスタ映えする数々の御朱印が人気を博し、パワースポットや新たな観光地として成長拡大路線の最中のようである。

さて、なぜ当地に霊場を発願するに至ったのか、それは創建者たる最初の住職の方に聞かないといけないだろうが、立地的環境として境内には多数の露岩群が散在していることを挙げたい。

弘峰寺全景。裏山に岩崖が見える。

寺の一部

本堂背後の岩肌

これら、岩石を利用した聖地の筆頭が本堂を構成する岩窟であり、弘峰寺は「日本最大級の岩窟本堂」と銘打っている。

私の探訪時は、本堂正面は閉じられお寺の方にもお会いできなかかったため中に入るのは遠慮したが、弘峰寺公式ホームページには岩窟本堂の写真が掲載されているので参考にされたい。

岩戸弘法弘峰寺

荘厳さ際立つ威容であるが、岩戸地区の他の歴史資料と絡めて取り上げるのではなく、現代の生きている信仰霊場として別次元で位置づけるべき存在である。

岩窟本堂は見逃したが、境内の背後裏山に参道がまだ続いていたので、山道を駆け上ったところ、山肌には大規模な岩盤や巨岩が屹立し、そこには懸造の小堂が設えられていた。
まだ建築は真新しく、奉納された幕には令和元年の寄進年が記されていた。

弘峰寺裏の参道

登りきったところ。金華山一帯が岩盤の宝庫である。

岩上の堂


境内は人工的に整備されているが、山肌の傾斜やその規模から、露岩のほとんどは当寺建立前から露出していたままと考えるのが適当である。弘峰寺の土地選定理由にはこの岩石環境があったのではないか。つまり、弘峰寺は現代の岩石信仰の事例としてじゅうぶん資料化できるのである。

いわゆる近世以前の歴史資料と一線は画するが、現代のすべての営みが歴史学の対象になるとも言える。
長森岩戸の岩石祭祀の事例には、文献記録が不足しているところが多いが、それは単に調査が足らないだけか、本当に記録自体が欠損してしまっているのか。後者だとしたら、現代おこなわれている信仰のかたちを記録化しておくことも歴史学であり、長森岩戸の未来の歴史研究に資するはずである。


2021年1月17日

櫛石窓神社裏山の霊岩(兵庫県丹波篠山市)


兵庫県丹波篠山市福井

かつてこの辺りは大芋荘と称され、櫛石窓(くしいわまど)神社は大芋荘を含めた四十八ヶ村の総社として信仰された。
「丹波の国大芋の大宮」の通称もあるといい、延喜式内社として古来からの岩石信仰を伝える地である。

櫛石窓神社

社殿背後の宮山(禁足地)

社殿の背後に、宮山と呼ばれる高さ約30mの小丘があり、神山として神聖視されている。

この宮山の頂上に、天照大神(あるいは祭神の櫛石窓命・豊石窓命)が降臨したと伝わる「霊岩(みたまいわ)」があるが、宮山は禁足地のため山内に入ることはできない。

かつては麓から山頂に露出する巨岩群が確認できたそうだが、後に植林が行なわれ、現在は社叢繁茂して麓から確認することができない。


大場磐雄博士は昭和26年に当社を訪れ、社殿内陣の神像三体を拝観したのち、下のとおり宮山を登拝している。

御山(宮山という)の頂に到れば神格の基ずくところ、巨巌壘々と盤居せり、即ち頂上を周りて八個程の巨石ほぼ円形に露出し、南側には二個の立石屹立せり、石は硅石なりという。白く風化して霊格あるが如し、ここにてまづ霊岩を模寫し、それより御山の全体をカメラに入る
茂木雅博(書写・解説)・大場磐雄(著) 『記録―考古学史 楽石雑筆(補)』博古研究会 2016年

そのとき撮影したと思われる写真が、國學院大學の「大場磐雄博士写真資料」にて公開されている。

宮山/國學院大學博物館所蔵(クリエイティブ・コモンズ・ライセンス済資料)

なお、インターネット上では神山頂上に立ち入って巨岩群の写真を掲載しているページが散見されるが、冒頭に書いたとおり現在神山の中は禁足地である。

大場博士の頃は、登れる空気感だったか神社の調査許可を得たかはっきりしないが、少なくとも現在においては、境内掲示に神山への立入禁止は明記されている。あれこれ理由をつけたとしても、無許可侵入を正当化することはできない。
我欲に負けることなく、信仰している人の権利と立場を最優先してほしい。

社頭掲示

2021年1月10日

丸山の烏帽子岩/伊奈波神社旧跡伝承地(岐阜県岐阜市)


岐阜県岐阜市 金華山山中


金華山(稲葉山)に丸山という一支峰があり、峰上に「烏帽子岩」と呼ばれる岩塊が現存している。





その名のとおり、烏帽子に擬せられるような縦長の三角形状の輪郭をした立岩である。

この烏帽子岩は、伊奈波神社祭神(五十瓊敷入彦命のことか)の烏帽子をかぶせた岩、または烏帽子そのものとされているようで、かつては金華山下を流れる長良川の川底に沈んでいたのを引き上げたものだという。
詳しくは以下のページに民話が紹介されているのでご覧いただきたい。

丸山の烏帽子岩 - 長良川温泉 ホテルパーク

烏帽子は本来石製ではないので、烏帽子の形をした岩でありながら、岩に神が烏帽子をかぶせたのだろうと見た人と、神の烏帽子だから本来非実用である石製の烏帽子が成立し、烏帽子岩を神の烏帽子そのものと見た人に分かれたのではないか。

物語上では、この岩は川底のものを現在地に持ち運んでまつったものと語られているが、烏帽子岩は屹立した立岩ではありながら、その根元は地山の岩盤と根続きになっており、元からここに存在した露岩だろうと推測される。

烏帽子岩の隣には「伊奈波神社旧跡」の石標が建ち、丸山は現在金華山山麓に鎮座する伊奈波神社の旧社地だったといわれる。丸山周辺の山中からは中世の建物遺構も出土しているが、それが伊奈波神社に関わるものであったか仏教施設としての遺構かは何とも言えず、伝承地としての域は出ないそうである。

現在残る礎石等の諸施設は、江戸時代に建てられた丸山神社の社殿跡であり、伊奈波神社の社殿遺構はその下層に埋もれているか、丸山神社建設時に切り合って地層改変された可能性もある。

丸山に残る丸山神社址

現地看板


2021年1月8日

敢国神社の黒岩/大石明神(三重県伊賀市)


三重県伊賀市一之宮字大岩


伊賀国一宮の敢国神社境外摂社として、「黒岩」をまつる大石社が鎮座していたが、採石で破壊され現存していない。黒岩の周辺一帯を調査したところ、古墳時代の祭祀遺物が見つかり、大岩遺跡としてその名を残す。

大場磐雄「伊賀国南宮山麓の上代祭祀遺跡」(『神社精神文化』第3輯、1939年)に本遺跡の詳細が報告されているので、本論文を参照しながら紹介していこう(『神道考古学論攷』葦牙書房、1943年所収版を参照した)。

現・大石社(敢国神社境内)

黒岩の場所について


敢国神社から西南約3~4町の小字大岩にあったという。

地理的には、南宮山(通説的に敢国神社の神奈備山に擬されることが多い)の西麓傾斜面の末端にある岩だったと報告されている。

黒岩の場所から山道を隔てた所に小さな池があり、池のほとりに立つと南宮山と遥かに伊賀盆地を拝める「眺望捨て難き」場所だという。


黒岩の文献記録


『三国地誌』には、大石明神祠の名前で登場する。
丘陵上の大石を俗に黒巖と称したと記される。

『敢国拾遺』には、黒岩の名前で登場する。
接する池の名を西池と呼び、その西池の上に黒岩があると記す。
そして、黒岩には弥勒の像が刻まれていたと貴重な情報が残っている。


黒岩の現況


大石社が遷座した後、岩石採掘工事が行われ、その時に黒岩は破壊され「往時の状態を見ることの出来ない」と書かれている。

大場博士はこの黒岩の旧地を踏査報告している。
南宮山の裾が西に延びてそれが終ろうとする傾斜変換点の松林の中だったそうで、黒岩はないものの、現地には周囲に片麻岩の露頭とそこから剥落したと思われる白砂が確認できたという。


大岩遺跡の調査結果


黒岩消滅後、近くを通る道路の拡幅工事が行われ、その際黒岩付近において古墳時代の祭祀関連と目される遺物が見つかったという。

正式な発掘調査を伴う発見ではなかったようなので図面は起こされていないが、大場博士は出土品の収蔵先へ行きそれを実見・記録している。

土器は高坏3点・盌3点・坩2点で、いずれも手づくねの小型土器ということから、非実用の祭祀土器と推定されている。

また、滑石製の臼玉が2点見つかっている。これらは発見者の証言によれば坩の中に入った状態で見つかったという。


私の疑問点としては、黒岩の付近から見つかったというが、その位置関係が客観的な図面で記録されていないので、その近さ、遠さの評価のしようがなく、これらの遺物が黒岩に関わる祭祀の遺物だったのか判断しにくい。

以上の点から、敢国神社の黒岩は古墳時代の祭祀遺跡の事例に数えられることが多いが、調査年代が古く発見状況も地元の方の採集によるものであることから、いわゆる第一級の考古資料として扱うには幾分のためらいがある。
古墳時代の岩石祭祀を論ずるには、基本的に他例の資料が豊富かつ正確な記録が残されている遺跡を第一に取り上げるのが適当で、本例はその類例またはよすがを感じさせるものとして、補足的に利用するのが望ましいだろう。

敢国神社にまつられる「桃太郎岩」。約550年前に南宮山頂から持ち運んできた岩石という。当地での信仰は後世的な影響が強いものと類推される。

追記 黒岩跡地と思われる場所に残る露岩の報告


おそらく下記の写真が、黒岩のよすがを偲ぶ露岩の一部ではないかと思われる。
再度機会を見つけて実見したい。