2022年11月2日水曜日

ドビロの列石 / 龍仙山の「神籠石」(三重県度会郡南伊勢町)


三重県度会郡南伊勢町船越 字ドビロ(堂広)


「龍仙山の神籠石」として紹介されることがあるが、文献を捲ると「神籠石」と呼ばれた時代がいつからなのか疑問符がつく。

南伊勢町の郷土史家として知られた中世古祥道氏(中世古 1980年)によると、当地が神籠石として紹介されたのは昭和15年が初出で、それ以前の古文書などに本列石の記述は見当たらないという。明治時代に巻き起こった、いわゆる神籠石論争の後にその影響で名付けられた可能性がある。

以上の点から、恣意性を避けるためこの記事では字名から命名された「ドビロの列石」を採用したい。

 

位置関係把握のため、下地図の地点記号に沿って紹介する。

地理院地図(電子国土Web)より。作図機能が埋め込み不能のため画像化した。

A地点 登山口

A地点から望む龍仙山。

南伊勢病院の奥に駐車スペースと登山口がある。普通車可。


B地点 東ルート入口

東ルートの標示。明記されてはいないが神籠石へ取りつく最短ルート。


C地点 本ルート入口

軽自動車なら本ルート前の駐車スペースも可。今回は本ルートから山頂を目指し、東ルートで下山する行路を選んだ。


D地点 最初の岩塊

龍仙山が自然岩盤を露出する地質であることがよくわかる。登山道中、沢が通る場所に礫石を列状に並べるのは、後述する「神籠石」に触発されたかのよう。


E地点 岩塊群と岩船石?

龍仙山の山頂近くに高さ5mの岩船石と岩船池があり、目が潰れるので近づくものはいないという(岩永 1980年、南伊勢町教委 2021年)。その場所は未確認ながら、地図上で山頂近くに池マーク(溜池含む)があり巨岩が見られるのはE地点のため、候補地として挙げておく。


F地点 山頂直下の岩塊群

こちらも山頂近くの巨岩と言え、岩船石の候補たりうる場所。

鞍部から谷間に列状に集まる岩石群。これも当山の「列石文化」の萌芽につながるものか。

山頂直下の巨岩群は山頂鞍部に続く。


G地点 「不動尊」「行者さん」

山頂西尾根上の眺望の開けた地点に位置。

行者さん(左)、不動尊(右)の石祠。手前の斜面には岩盤が露呈する。

行者さん、不動尊の西に連なる列石状の岩石群。


I地点 大日如来

龍仙山頂上。

大日如来の石祠。

山頂からは五ヶ所湾が一望できる。曇天のなか一瞬陽の目が射した。


J地点 "神籠石列石"の上端の始まりか

山頂から東ルートで下る場合、最初に出会う「列石」がJ地点。上方斜面から撮影。

下方斜面から撮影。

J地点から下方斜面にも断続的に列状の露岩が続く。石垣状にもみえるが、龍仙山は龍仙山層群と呼ばれて地質的な特徴を有する。その岩脈の一種ではないか。


K地点 ドビロ列石上部 自然岩盤群

「神籠石」の看板が立つ地点の北限。

列石というより、巨岩の群集である。

高さは目測5mは越えるだろう。人が運ぶ形状ではない。

しかし、このように列状にみえる部分も存在する。

当地の列石が、自然岩盤に端を発するものであることを首肯せざるを得ない光景。

巨岩と巨岩の間には、中休み的に中小規模の岩石が散在する。

K地点南限の巨岩。ここから南はL地点へわたって岩石の規模が小さくなる。


L地点 ドビロ列石中盤 人為的列石

L地点には「謎の列石・神籠石」の看板が立つように、最も人為性に富んだ列石が広がる。

岩石は地表面から独立して直立していることから、人が副次的に並べた可能性が指摘できる。

岩石の高さは1体1体が高さ1mを越えず、翻って人が並べた可能性を想像しやすい。自然の岩盤がまずあって、断続的な岩石の線に対して後世の人が手を加えたかもしれない。


上動画はL地点を撮影したもの。


M地点 ドビロ列石下部

列石の下部は、再び自然岩盤を起点に不整形の露岩が散布する。

列石下端の岩石。

東ルートから神籠石の尾根への取りつきは、上写真の赤看板が目印。


「龍仙山の神籠石および南伊勢町の列石群」雑感


ドビロの列石については、南伊勢町に広がる他の列石と絡めて論じられることが多い。

以前から知られた存在ではヤジロ山の列石、八方山の列石、行者山(大戸)の列石、城ヶ谷の列石があり、武蔵大学の学生グループが数年がかりで実測した列石測量図が町立の資料館「愛洲の館」に保存されている。

近年では中根洋治氏の踏査(中根 2018年)により馬山、浅間山、清水山、七軒屋の山中でも列石の存在が確認されている。

この濃密な分布は、一種の「文化」さえ感じさせる。


これが何なのかについては、アマチュアから職業研究者まで、すでに多くの見解が出されている。ここで、龍仙山を一度だけ見た私が何かを評価するというのは無謀に等しい。

半世紀以上にわたり南伊勢町の郷土文化の生き字引だった先述の中世古氏をもってさえも、その結論は「謎を解くつもりで始めた歩みが、まずまず迷路にはまり、ヌキサシならぬみじめな姿が今の筆者」(中世古 1980年)と自虐的に締めるしかなかった存在なのである。


それでもあえて書き記すことがあるといえば、龍仙山のそれはすべてが人工物であるとは認められず、まず存在したのは自然露出の岩盤だったことは揺るがない点である。

これを認めたうえで、次は、すべてが自然だったのかというとそうではなく、その自然の地質特徴に対して、人々が影響されて自然露岩群に端を発した列石を構築した可能性である。

龍仙山においては、先に報告したK地点やM地点に自然露出の高さ数m級の巨岩群があり、その巨岩と巨岩の間をつなぐように高さ1m弱の地離れした岩石を立て並べている様子が見受けられる。


南伊勢町の他の事例では、ヤジロ山においても尾根上に存在する二体の巨岩をつなぐように列石がみられるという。

そして先述したように、龍仙山の一帯は龍仙山層群と呼ばれて他と一線を画する特徴的な地質構造を持った地域であることが判明している。

そして龍仙山層群の範囲(内野・鈴木 2017年)を地図上で照らし合わせてみると、これまで報告されている南伊勢町の列石群の多くが龍仙山層群のエリア内に属していることがわかる。地質的には、龍仙山と同様の成因で岩石が列状に露出する土壌があったことも考慮に入れたい観点である。


そこから、人々が露出した岩石の光景に何を感得して、どう二次的に手を加えて自らの心性を表現したいと思ったのかで差は分かれたことだろう。

南伊勢町の列石群は、場所によって列石の配置のしかたや列石の立地が異なっているというのはすでに指摘されている。八方山はそもそも山頂に少なくとも一重、一部二重の環状列石が明瞭に構築されており、実測図から見るかぎり人為的遺構というほかはない。ヤジロ山の列石は山頂から山麓の尾根稜線上に一列の列石が続き、話を聞くだけだと奈良県御蓋山の列石を想起させる。そして龍仙山は、山頂近くの7~8合目の一部の尾根上に列石が断続的に続く。列石とは一言でいえども、一つ一つの列石の様相は異なるのである。


この様相の異なりは、南伊勢町の地質的特徴が山ごとで異なって地表面に岩石として出現したことによるもので、本来は意図的な立地や存在ではなかったのではないか。

その非意図的存在たる岩石を意味付けすべく、時に列石が増築され、それぞれの山で異なる意味や性格が付与されたとしたら、今ここでそれを祭祀遺跡とか砦跡・烽火跡などで一括するのは危うい(神籠石、猪垣の二説はすでに下火である)。しかし一つ一つの集落としての列石の性格をミクロ的に論ずることができたら、それを結果的に当地の「列石文化」として語ることはできるかもしれない。

現時点で私が書けるのはこれくらいで、後はさらなる踏査の機会、資料調査の機会が到来した折に追記することになると思う。


参考文献

  • 中世古祥道「南勢町の謎の列石」『夢ふくらむ幻の高安城 第5集』高安城を探る会 1980年
  • 岩永憲一郎「三重県南勢町列石見学記」『夢ふくらむ幻の高安城 第5集』高安城を探る会 1980年
  • 中根洋治『巨石信仰 第3巻』2018年
  • 南伊勢町教育委員会『南伊勢の民話』2021年(https://www.town.minamiise.lg.jp/material/files/group/17/minamiiseminwa_full.pdf
  • 内野隆之・鈴木紀毅「三重県志摩半島、秩父累帯北帯白木層群の泥岩から得られた中期ジュラ紀放散虫化石と地質対比」『地質学雑誌 123巻12 号』2017年(https://doi.org/10.5575/geosoc.2017.0041


0 件のコメント:

コメントを投稿

記事にコメントができます。または、本サイトのお問い合わせフォームをご利用ください。