2016年11月2日

古代人は巨石をどのように運んだのですか?

「歴史観の形成」の授業でいただいた質問にお応えします。
 "疑問としては巨石をどのように運び出し、祀ったのかということです。"(2回生の方より)

巨石の運び方


巨石の運び出し方について、最も基本に忠実な説明をされているのが下記の発表です。

中根洋治ほか「運ばれた巨石に関する一考察」(土木学会第63回年次学術講演会、2008年発表)
http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00035/2008/63-04/63-04-0190.pdf

上記で例示された日本国内の事例が、真に縄文時代以降の巨石遺構と言えるかは批判の余地が残りますが、テコの原理でソリやコロ、時には水運で移動できたという運搬方法についてはおっしゃるとおりです。
巨石の移動・運搬は超技術ではなく、古代人の長年をかけて蓄積した工夫と多大な努力により説明できる現象です。

ただし、説明はできますが、いま目の前にある巨石が実際に古代人が運んだ産物なのか、それとも運ばれたわけではなく、自然の力でそこに行きついた産物なのかは、また別の議論になるので注意が必要です。

その岩石が、自然そのままのものであるのか、人工的にもってきたり組み合わせたものであるのか。
この結論をはっきり出したいなら、必ず理化学的な調査が必要です。
でも、理化学的な調査には専用の装置と調査費がかかるため、一個人には大変です。


地学的な知識で巨石の人工説/自然説を推定する


そこで、見た目からある程度の推定ができると良いですね。

見た目からは、自然とも人工とも即断できないことが多いですが、地学的な知識をある程度持っていれば、推定することはできます。
その点で、 下記の研究は巨石の成因の地学的裏付けを学ぶにあたって参考になります。

吉村光敏「信仰巨石の地学観察技能講座」(2016年発表)
http://chibataki.moo.jp/kyosekitigaku/slideindex.html

まとめると次のような知見が得られるでしょう。

  • 火成岩(火山活動由来の岩石。花崗岩ほか)の場合、冷え固まる時に立方体状の割れ目(方状節理)ができる。
  • 地下の岩体が地表近くに露出すると、地表面と並行して直線的な亀裂(シーティング節理)が発生する。
  • これらの節理でできた岩石が、後世の風化・浸食によって石の角が取れてくると、結果として鏡餅形や饅頭形の岩石を積み重ねたような構造物(地中塔・トア)が誕生する。
  • これらの構造物は、山の中でも傾斜が変わる山頂・尾根などの浸食の抵抗地点に発生しやすい。また、落石、地滑り、土石流などで現地性の岩石が移動することも多く、それ以外の地形でも見られる。
  • 現在、人工的に積み重ねたように見える岩石構造物は、構造物の頂面に元々の地表面があり、それが造山活動および風化・浸食を経て柔らかい部分の地形が削れて、結果的に下から積み重ねたように見えている。

巨石が織りなす光景を見て、それを人工の産物と感じるか、自然の産物と見るかは、ひとえに受け取り側の「常識」に委ねられています。
「常識」を飛び超えた瞬間、その人にとって「これは自然では説明できない=人工である」という図式が成り立つわけですから。
であるなら、その「常識」を形作る知識を事前に広げておくことが求められると思います。上記の地学的知識を入れておけば、岩石の積み重なりを人工と思いたくなる自らの主観的問題性に気づけるでしょう。

個人的には、各地の巨石を巡れば巡るほど、自然が織りなす光景は、人間の常識や経験則なんてものを軽々と凌駕していることに気づけると思います。


古地磁気調査の取り扱いは注意


 一方で、巨石の人工設置説を証明する方法として、古地磁気調査がしばしば援用されます。
下記の研究が著名ではないでしょうか。

森永速男「雑感 古地磁気研究が縁で関わった『巨石文化!?』について考える」(『文化財と探査』6巻1号、2005年発表を『イワクラ』4号に掲載したもの)
http://iwakura.main.jp/magazine/4-10.pdf

古地磁気とは、火山岩が冷却される時に、当時の地球の磁場と同じ磁気が岩石に帯びたもので、磁気の向きは地球の磁場と同様に一定の向きに揃います。
つまり、岩石が冷却後ずっとそのままその場所にあるのなら、岩石の磁場は一定の方向に向いたままと仮定でき、一方で、岩石の磁場の向きがバラバラだったり自然の磁場の向きに逆らうものであれば、その岩石は人工的に運搬・設置された証拠になるのではという見方をします。

この論理に立って、高知県唐人駄馬の巨石群や、岐阜県の金山巨石群、奈良県の鍋倉渓、岡山県の高島・白石島巨石群の4か所が上記論文で取り上げられていて、そのうち前3者について、磁気の方向が一定しないことから、岩石同士が「回転・移動」していることは証明されたといいます。

この「回転・移動」が曲者です。さすが上記論文の森永氏は職業研究者だけあって全編にわたって理性的な記述にとどめていますが、「回転・移動」の動作主が人間か自然かについては一言も決めつけていません。
それは当然、森永氏は巨石群の歴史学的な研究者ではないからです。この態度が学問的態度というものです。

しかも、高島・白石島の例からは、冷却時の古地磁気が後世、二次的な原因により攪乱されてしまう岩石もあることを指摘しており、あらゆる火山岩がこの方法で「回転・移動の有無」を明らかにするわけでもないことを記しています。巨石人工設置説に立つ方々は、あまりこの点に触れませんが・・・。

そもそも、この古地磁気調査の安易な援用を気をつけなければいけないのは、それぞれの立地や地理的環境を考慮していないことでしょう。
冷却時の岩石が、ずっとそのままの位置にあるだけが自然のままとは言えず、後世の自然災害により岩石が二次的に動くのも自然の範疇であり、立地的に傾斜している場所であれば、地面から浮いた巨石が別の巨石の上に乗りかかったり、より傾斜下に移動することも自然の範疇でしょう。

実際、岐阜県の金山巨石群は、立地的に地滑りで原位置を動いた自然配置の巨石群の可能性が指摘されており(宮下敦「岩屋岩蔭遺跡」http://earthprobe.blue.coocan.jp/megalith/iwaya.html、2016年11月2日閲覧)、古地磁気で磁気の向きが一定ではないことが、すなわち人為を証明するわけではないことを押さえておかないといけません。

また、高所山岳にそびえる巨石・巨岩に雷が落ちると、本来の地磁気とは異なる磁気が帯びるという報告もなされています。

山崎明ほか「落雷に伴う磁場の異常変化について-草津白根山での観測例」『Conductivity anomaly研究会論文集』(2003年)
http://www.eqh.dpri.kyoto-u.ac.jp/CA/2003/Yamazaki_et_al_CA2003.pdf

多久島徹「伊佐市の自然残留磁気の異常地点」『鹿児島県立博物館研究報告』第36号(2017年)
私としては、「自然のまま長年の時を経た露岩群=磁気の向きが一定になる」 という仮定が正しいかという疑問があります。

上記の報告からもわかるとおり、自然の露岩群も時間経過のなかで外部の自然成因によって磁気が変容するわけです。

サンプル抜き取り調査という意味で、自然の露岩群に対しても何例か古地磁気調査をかけてみてはいかがでしょうか?
その結果、自然の露岩と人工的に配置した岩石群との間に、磁気の一定/不定に有意差があるかをまず明らかにするべきでしょう。


"考古学抜き"で巨石遺構を議論することはありえない


文献が残っていない時代の巨石人工移動・運搬を説明するには、考古学抜きでの議論はありえません。

上記の巨石群を縄文時代の巨石文明の例と主張する方々を見かけることがありますが、共通して言えるのは、縄文時代を専門とする考古学者が介在しないまま、縄文時代の「遺跡」として語られている異様さです。

縄文時代がどういう時代か、どのような遺構と遺物に基づいている時代なのか、熟知して語られているとは思えません。
少なくとも、縄文時代という一つの時代と、日本列島というひとくくりの空間幅で語られるほど安易なものではないのです。それこそ、数多の考古学の成果が蓄積されています。

私ですら専門は古墳時代なので、現在の考古学の縄文時代研究について熟知している人間ではないことを自覚しています。だから私も、縄文時代の岩石信仰の有無については保留の立場です。

考古学は、人が活動した痕跡である遺構・遺物が確認されて、初めて研究できます。

文献が登場する奈良時代以降であれば、文章に書かれてさえあれば、現地に痕跡がなくても、人の思いを抜き出すことができますが、古墳時代以前は文字資料が激減するため、遺構と遺物に依拠しなければいけません。

そのため、まず遺構・遺物が巨石群から見つかることが大前提です。見つかっていなければ、そもそも人が関わった岩石であることを説明できないからです。
遺構・遺物が見つかっただけでも、まだまだです。巨石との関連がまだ説明されていないことに気づかないといけません。


そこからの分析方法はケースバイケースです。
岩石そのものが自然石でも、それを据えつけた場所・地層自体が整地されていないか、噛ませ石など周囲の痕跡がないか、岩石自体に運搬・移動の痕跡を見つけるかなど。

私は、巨石であればあるほど、それを無理に移動したことによる考古学的痕跡が残るのではないかと思っています。
つまり、逆にそれが確認できないということは、人為性は疑わしいとも思っています。

ただし、私はそう判断できるほど理系の専門を歩んでいないので、今後、そのようなアプローチから研究される方が現われることを待っています。
私は、私が活躍できるであろうアプローチで岩石信仰の研究を研鑽していきます。



2016年10月30日

飛鳥の石造物は岩石信仰なんですか?

「歴史観の形成」の授業でいただいた質問にお応えします。

"奈良の飛鳥の方に亀石などたくさん「謎の石」があるから、石を加工することだとか、モチーフだとか、そういったことについて授業としてお聞きしたいなあと思いました。"(1回生の方より)

"私は奈良県出身です。石舞台古墳であったり、鬼のまな板など石をたくさん使用したものがたくさんあったことを授業をきいて思い出しました。明日香には行ったことはありますか?あれらも吉川さんの研究している岩石信仰に分類されるものなのでしょうか。"(2回生の方より)

飛鳥の石造物に対する私の考えを述べます。
明日香村には行ったことありますよ。

亀形石造物

鬼の雪隠

鬼の俎

亀石

石舞台古墳

須弥山石(飛鳥資料館内に展示)

猿石

益田の岩船

さらに、明日香村には下の石造物や、それに類する岩石があります。
がんばれば1日かけて回れますので、ご参考に。

  • 御厨子神社の月輪石
  • 御厨子山妙法寺の光明不動
  • 天香山神社
  • 天岩戸神社
  • 天香久山の「月の誕生石」と「蛇つなぎ石」
  • 豊浦の立石
  • 須弥山石・石人像
  • 弥勒石
  • 飛鳥坐神社の立石群
  • 小原の立石
  • 亀形石造物
  • 岡の酒船石
  • 出水の酒船石
  • 川原の立石
  • 岡寺奥の院彌勒堂
  • 岡の立石
  • 上居の立石
  • マラ石
  • フグリ山/ミワ山
  • くつな石
  • 橘寺(二面石・三光石)
  • 立部の立石
  • 亀石
  • 鬼の俎と鬼の雪隠/鬼の厠
  • 猿石
  • 高取の猿石
  • 益田の岩船
  • 人頭石
  • 天津石戸別神社


『日本書紀』の斉明天皇条に、多量の石を用いた土木工事を乱発していたことが記されています。
飛鳥の石造物群のいくつかは、この時に人工的に造られ、設置されたものというのが一般的な説です。

この石造物群の用途が、鑑賞目的(庭園施設など)か、実用目的(石垣・暦施設など)か、祭祀目的(信仰の対象や結界厄除、祭具など)かによって、岩石信仰の跡ととらえるか否かが当然異なってきます。
ということで、信仰なのか信仰でないのかの境界線上に漂う事例群のため、自ずから私の研究対象には入っていることになります。


「謎の石造物」という枕詞が先行していますが、当然、石舞台古墳は古墳の石室ですし、鬼の雪隠・俎、益田の岩船なども諸説あるといわれながら、古墳石材の一部という説が有力であることも、ここ20年以上固定化されており、有効な代替案は提示されていません。
立石群についても、当時の都の境界石という説が提示されています。石造物のいくつかも、水を通す構造を共通して持ち、斉明期に宮都で用いられた施設の一部と推測されています。

同時期の遺跡として同村には、水時計の遺構が詳細に解明された水落遺跡もあります。イメージされているよりも、飛鳥の「謎」は解明されつつあります。


ただ、こうやって書くと「実用=非祭祀」 のように受け取られるかもしれませんが、そこには注意が必要です。
先述の水落遺跡で言えば、時間を管理することは天子の特権であると中国では考えられていたことから、水時計というのは、単に時間を知るためのものではなく、王権というものが時間管理という形而上の世界にまで広がったという解釈もできるでしょう。
そもそも祭と政が混然一体となっていた当時、実用と非実用という分け方が現代的感覚であり、あらゆる行為に宗教的な素地があってもおかしくはありません。

他にも、こういう論点も出せます。
「庭園=観賞用=信仰ではない」
この図式が成り立つかどうかということです。
講義では『作庭記』における石の禁忌・霊性の話に触れましたが、これも庭に対する価値観を現代的にイメージしては、過去の人々の思いを取り違えてしまいかねません。

「美」と「聖」の境界線とは何か、線引きできるもの何か、そもそも別物として分けるものなのか。
信仰を考えるということは、信仰でないものを考えることも同等に重要であり、であるからこそ信仰以外に視野を広げなければ、一面的な理解とイメージを喧伝する人になってしまうでしょう。私も自戒の意味で述べました。

何にしても、現代人の感覚で遺物や遺構をイメージしては、危ないのです。

古代文明や古代文化、超古代文明でもいいですが、たびたび「謎の○○文明」といったセンセーショナルなキャッチコピーが冠されたりします。
講義の中でも触れましたが、その「誰かが用意した情報」に対して、私たちがどう反応を「選択」するか、が試されていると言って良いでしょう。
人間の動物的な本能として、センセーショナルなものには、センセーショナルに反応したいですからね。
最初は動物的反応でいいのですが、後は、その外部情報をどのような解釈幅で判断するかという私たちのリテラシーにかかっているでしょう。



2016年10月29日

岩石信仰と歴史観 in 立命館大学

母校の立命館大学で、外部講師として講義をさせていただきました。
(文学部教養科目「歴史観の形成」の1コマ)

90分、岩石信仰の世界にお付き合いいただき、皆さま本当にありがとうございました。



「歴史観の形成」

何やら難しそうな科目名ですが、歴史専攻以外の文学部生も取れて、受講者も1回生~4回生以上まで100名を越す大人数とのこと。
さて、誰をターゲットに、どんな話をしようかと考えたのです。

まあ、話は岩石信仰しかできない人間ですから、授業名と絡めて「岩石信仰と歴史観」と題しました。

私自身が大学生の頃に、こんな授業があったらよかったなという気持ちを一番に置いて、授業内容を考えました。
結果的に、大学1~2回生の方々に響く内容になれたかな? と、授業後の感想シートを読む限り思います。
岩石信仰のマニアックな話が聞きたかった皆さん、いたとしたら、すみません(笑)


研究者としての自分も研鑽したいけど、周りに世界を広げる伝道師としての自分でもありたい。
私の今の興味関心は、後者が勝りました。

ですので、岩石信仰をモチーフにしながらも、話の根っこは岩石に目を向けませんでした。
私の話を聞いて、明日から即、新しい行動に移してもらえるような話を中心に据えました。
あわよくば、岩石信仰研究の後継者が一人出たら大成功です。


受講者の皆さまから、授業後の感想をたくさんいただきました。
このリアクションも、岩石に触れた人の心だという点で、私の研究対象になります。宝物にさせていただきます。

ご質問もいくつかいただきました。
このブログで何回かに分けて、回答をしていこうと思います。


2016年10月19日

奇岩巨石磐座ニュースさんと情報交歓


奇岩巨石磐座ニュースさんに、各種媒体からもっと取材が来ないのが不思議ですね。

一人占めしてはいけないようなネタを、たくさん持っている方です。

先日、9年ぶりにお会いしました。








9年もたつと、いろいろため込んだ話が出てきます。

石の話から、トイレの話まで・・・

1世帯しかない集落の話

宮崎高千穂神社の(近くの)話

国東半島の登ってはいけない山の話

山形が熱い

etc...


石の業界的に、氏の分身がいればなあと感じました。
業界の大きな損失ですよ。

・・・と、何回か伝えていけば、何か刺激になるかな?なんて。



ふだん、石の話を相談できる人が私にはいないので、私からは自分が今ためこんでいるアイデアの相談を。

氏はアイデアマンなので、次に考えていることを聞きたいのです。
私はアイデアを産むのが苦手なので(仕事でも)参考にするのです。



お互い、相手に対して思っていることも話しました。

考えていることが一緒じゃなくてよかった、と思います。
一緒の方向だと、キャラかぶりというか、太刀打ちできませんもん。
そのぶん、自分が今後していったほうがいいことを、より鮮明にできました。


石の業界ってマイノリティーですが、そんな小さい業界の中で、一人一人が石に対して違うことを考えてます。
だから、業界がまとまらないのかもしれませんが、それも石らしい。

いつか、石ウォッチャーの観察研究をしたいなあ、と改めて感じた時間でした。

2016年10月1日

「依代」と「御形」と「磐座」について―祭祀考古学の最新研究から―(後編)


前編からの続きとなります。 

「依代」と「御形」と「磐座」について―祭祀考古学の最新研究から―(前編)



笹生衛氏が切り開いた祭祀研究の新地平

笹生衛氏は、考古学が旨とする資料第一主義を徹底され、長年停滞していた祭祀考古学の諸研究の中で、資料性・説得性の高い新研究を打ち立てられています。
古墳時代の祭祀研究をテーマにする人たちにとっては、今もっとも耳を傾け、議論にすべき研究が詰まっていると私は思います。

笹生氏の独創性を示す部分を、下記論文から紹介したいと思います。
※以下、括弧内は笹生論文から引用

笹生衛「日本における古代祭祀研究と沖ノ島祭祀. ―主に祭祀遺跡研究の流れと沖ノ島祭祀遺跡の関係から―」(『「宗像・沖ノ島と関連遺産群」研究報告II‐1』2012年)
http://www.okinoshima-heritage.jp/reports/index/18

まず、笹生氏は「神道考古学を提唱した大場磐雄氏は、古墳時代の祭具の中心に石製・土製模造品や手捏土器を位置づけた」が、「昭和50年代以降、祭祀遺跡・遺物の資料が増加した結果、再検討が必要となってきた」と、従来の学説からの批判的発展を提起しています。

笹生氏が注目するのは、「5世紀前半から中頃、初期の祭祀遺跡の中で保存状態の良好な事例では、石製模造品以外に一定量の鉄製品が使用されていたこと」と、「さらに、紡錘車と初期須恵器が伴うこと」です。
これらは「中国大陸・朝鮮半島からもたらされた当時としては最新の技術と素材で作られた最上の品々だった」と評価しました。なぜ、これらの遺物が祭祀用とされたのだろうかという従来の疑問に対して、単に実用/非実用といった使い古された議論から脱却し、歴史的位置づけを鮮明にしたのが笹生氏です。

もう1つ、氏によって新地平が開かれた古墳時代祭祀の議論は、葬と祭の分化・未分化の問題です。
笹生氏は「埼玉県行田市埼玉古墳群の稲荷山古墳第1主体部から出土した辛亥年銘金象嵌鉄剣に刻まれた『上祖』の文字」に着目し、「『上祖(とおつおや)』『祖(おや)』の文字は、記紀・『風土記』では古代氏族の系譜で起点となる人物を指す」と指摘します。
ここから、古墳時代における古墳葬送儀礼には、祖霊信仰の観念があったことが認められます。確かに、金石文という古墳時代当時の文字資料が「祖」を使ったことには、有無を言わせない説得力があります。

笹生氏によれば「古墳に副葬された鉄製武器・武具、農・工具、鉄素材の鉄鋌は、5世紀中頃までに成立した祭祀遺跡の鉄製品と基本的に共通」することから、「『上祖』『祖』への祭祀と、自然環境に由来する『神』への祭祀は、別系統で存在しながらも、ともに貴重な品と飲食を捧げる共通した形で行われたと考えてよいだろう」と論じました。


律令期の文献記録から、古墳時代祭祀を復元しようという挑戦



そして、これらの祭祀遺物組成は「『延喜式』四時祭々料で、特に重要な令制祭祀の祭料と共通する部分が多い」「『延喜式』祭料だけでなく、延暦23年(804)に成立した『皇太神宮儀式帳』(以下、『儀式帳』)とも整合する部分が多い」と笹生氏は指摘します。

これはすなわち、「『儀式帳』の祭式も5世紀代まで遡る要素を含む」という仮説です。
この仮説に基づき、笹生氏は前掲論文で福岡県沖ノ島遺跡の出土状況と、律令期における三重県伊勢神宮の祭祀状況とを比較検討していきます。

まず注目すべきポイントは、伊勢神宮の正殿の祭祀的な位置付けです。
笹生氏によれば、伊勢神宮における祭祀の場は「第三重で、屋外の庭上が主な祭場となっている」ことを指摘。
一方、「正殿の主な機能は、御形の御鏡の奉安、神宝・幣帛の収納保管にあり、高床倉構造となっている」と考え、祭祀の場における祭祀具・神宝の保管場所が高床倉などの形態で、古墳時代の祭祀遺跡にも存在していた可能性を提示しました。

また、「祭祀の執行に当たっては収納機能だけでなく、供献品の製作・準備、神饌の調理といった作業が必要であったことが『儀式帳』祭式からは読み取れる」ことと、5世紀代の祭祀遺跡において「鍛冶作業の痕跡が確認でき、さらに滑石製模造品の製作痕跡」も認められました。
そこから、5世紀以降の祭祀遺跡はただ祭祀をする場ではなく、「幣帛を製作・準備し、神饌を調理する施設、そして貴重な幣帛などを収納する高床倉などの集合体」と考えることを主張しました。これも、従来の祭祀遺跡研究からは一歩進んだものとして評価されるべきでしょう。

そのような視点から沖ノ島遺跡を分析すると、巨岩の岩陰に広がる22号遺跡において「鉄製雛形刀・矛、金銅製雛形紡織具・容器類、貝製品などは、岩陰の奥、巨岩に接する部分に約50㎝四方の石囲いをつくり、そこに収納された形で出土した」事実に注目。
この出土状況を保管・収納の場と解釈して、「岩陰の奥の部分は神宝・幣帛を収納した正殿・寶殿の機能を果たしていたことになる」 と、ここで伊勢神宮における祭祀と照らしあわせるのです。

これについては、議論の余地がある気がします。
祭祀具の保管場所が高床倉ではなく、岩陰の石囲い収納であったのが沖ノ島ですが、これを同質のものとどこまで見て良いか、です。
そもそも、伊勢神宮における祭祀の場が庭上で、その祭祀の対象として、沖ノ島にあるような巨岩はありませんでした。
多分に地理的環境の違いがこうさせると理解することもできますが、伊勢神宮は正殿が祭祀対象(御形である神宝が奉安されている以上、その機能を持つことも認めなければならないでしょう)で、沖ノ島は巨岩が祭祀対象というそもそもの差異を、自然環境の違いだけで説明してよいのでしょうか。伊勢神宮は祭祀対象と保管場所が正殿という同じところで担うのに対して、沖ノ島は祭祀対象と保管場所が違うことの差異とも言えます。

沖ノ島と伊勢神宮であれば、いかに比較する時代と場所が離れていても、ヤマト王権という同質の担い手による、共に国家的祭祀の場という点で、まだ比較検討ができると私も思いますが、ではこの検討方法を古墳時代のあらゆる祭祀遺跡に援用して良いかというと、またそれは慎重に考える必要があると思いました。


垂直降臨型思考への批判と他界観の問題

前編でも触れましたが、笹生氏もここで、折口信夫の「依代」問題に言及します。
依代というものは、去来する神の目印であり、それは大前提として、神はその場におらず、どこかから降臨してくるというイメージになります。
折口信夫は太陽神を前提とする去来信仰を語ることが多かったことから、自ずとそれは天上から地上界へという垂直型の降臨イメージとなります。これを垂直降臨型の思考と表しています。

たとえば神道考古学の大場磐雄氏は、沖ノ島遺跡の巨岩を磐座と捉え、それを「『「宇宙に遍満する」神霊を招き祭るための神の座と認識しており、21号遺跡で想定された神が垂直降臨する形は、まさにこの考え方を下敷きにしていると言ってよい」と笹生氏は指摘しました。

この"神はどこかから来る"という思考は、そもそも正しいのかという問題について検討が加えられます。

笹生氏は、沖ノ島にまつられている宗像三女神に関する文献記録に当たっていきます。
その結果、「神々の存在を示す言葉は『坐』『居』『在』の文字を使っており、これは、記紀編纂段階、三女神の神霊は祭祀の度に天上から降るのではなく、祭祀を行う島や海浜に常在すると認識されていたことを示すように思われる」と述べます。

また、他の事例でもたとえば『日本書紀』景行天皇条の記述から、「景行天皇は、山容の美しさから、そこには神が居るのではないかと質問し、水沼縣主は八女津媛という神が山の中に常に居ると答えている」という当時の心性を浮き彫りにしました。

これらの点から、笹生氏は沖ノ島祭祀が始まった古墳時代当時においても、「神霊は祭祀の度に巨岩の磐座に天下るのではなく、島を神として認識し、神は島に常に居しますという信仰を推定できる」と結論付けました。
つまりこれは、神は天上から垂直降臨するような発想ではなく、神はすでに沖ノ島にいるということです。

笹生氏は、沖ノ島の巨岩に対しては、これを「御形」と解釈しています。
氏の言葉を借りるなら、「人々は沖ノ島そのものに神を感じ、島の南側中腹にある巨岩群を、その神霊を象徴するものとして祭祀を行ってきた」といい、「これは『儀式帳』の表現を借りるならば、『形(みかた)、石に坐します』ということになるだろう」とその意味を説明しています。

「磐座」は「依代」ではなく「御形」?

「石に坐します」という先の表現は、「石坐」そのまま「磐座」と通じるものがあります。

前編で触れたとおり、磐座は憑依の目的物で、依代はその目印となります。
ならば、磐座に対し依代という言葉を使うのは避けるべきというのは、折口の本来の定義に戻る限り首肯できます。

一方、「御形」は、「神霊を象徴するもの」という説明ですが、読み手によって受け取り方に幅が出る、曖昧さを残した定義だと私は思います。
これの補足説明をするのなら、沖ノ島において神は天上から憑依するものではないのだから、御形は神が憑依するものではなく、神がずっと坐している(と信じられている)もの、それを象徴と表現したのだと思います。

つまり、磐座・石坐の「座」「坐」は、"どこかから来た神が座りに来る"ではなく、"ずっとそこにいる"と解釈するのが笹生氏です。

これが信仰の当事者の実際に即した考えかどうかを、検討する必要があります。


ところで、私はどうかというと、私には以前よりこのような疑問がありました。

"山頂に磐座があり、それは神が降り立つ磐座といわれているが、山の神が、天上から降臨するというのは変な構図だ"

山の神は、山の霊異から端を発するものなのに、山の領域から神格が切り離され、それがまるで高尚な抽象概念のごとく、天上世界から降り立つという人格神話的な発想で語られるのは違和感をもっていました。しかし、それを批判的に説明する術をもっていませんでした。
その点において、 笹生氏が論じた垂直降臨型思考への批判は、私の長年の疑問と響き合うものが多く、この通りだと感じています。
沖ノ島祭祀においても、信仰の当事者は島自体が神域であり、神が常住するテリトリーだったのだと私も賛同します。

私は、大場磐雄氏も無意識的にそう感じていたのではないか・・・と氏のさまざまな著作を読んできて感じます。
折口信夫以来の論理に無意識のうちに沿ったため、文章の上においては時枝氏・笹生氏の批判にあったような記述をしたのだと思います。
大場氏ほどさまざまな自然信仰の現場に足を運び、そこに多分に文学的なニュアンスを入れている記述に触れるかぎり、大場氏の肌感覚は、神が自然環境の場から切り離された所から垂直降臨するという発想にとらわれていたとは感じにくい。ただ、それをはっきり明文化しなかった。


ここからは私の所感ですが、山の神は山全体の領域が神域・聖域であり、山のどこにいても、山の神に出会う可能性があったと思います。島の神も、島のどこにいても、そこは神のテリトリーであり、どこで出会ってもおかしくないと。

あえて言うなら、それでは困るから、特定の場所で神と出会えるように設けたのが、祭祀の場なのだと思います。
私は、神というものは、神域というテリトリーの中に偏在していた可能性があり、その内、神と出会える、あるいはここで出会わせてほしい(用意できていないところで会うと困るから)という考えのもとで、祭祀の場が形成されたのではないかと想像しています。
だから、しばしば1つの山や1つの島で、複数の祭祀の場が形成された。同時代にせよ、時期の先後関係があったにせよ、共通するのは、人によって神と出会える、出会いたいと思った場所はテリトリーの中で動く性質だということ。

そして、磐座と呼ばれる岩石は、そういう祭祀の場として設定されたものだということ。
山中のどこにいるかわからない、あるいは、島の中のどこにいるかわからない、そんな存在を、磐座の前で祭祀することにより、磐座に"座りに来てもらった"というのが私感です。

したがって、私は笹生氏の"ずっとそこにいる"というニュアンスとは違う考えです。
ずっとそこに宿るのは、石神という概念に近いです。
ならば、御形は石神か?
違うと思います。私は、宗像三女神は島の神、海を司る神であり、石の神ではないと思っています。
石は、あくまでも神が座る素材です。石が本来持つ聖性とは、別のところから"やって来た"神格のはずです。
そうであれば、沖ノ島の巨石群は"ずっとそこに坐す"神ではなく、島のどこかにいて、海の徳を有する神が、島の中で会えると信じられた場所に、祭祀の時に石に座りに来てくれるのではないでしょうか。

私は、自然信仰において、自然が織りなす聖域を離れたところに神を設定するのは、本来的ではなく後付的な発想と見る立場ですが、自然の聖域というものは広がりを持つもの。聖域の中に神が遍在しているから、聖域はすべて神聖となるのだと思います。
そして、神は目に見えないものであることが自明であるなら、神の基本的構造は目に見えない、人間とは異なる位相にいるものです。
異なる位相の神を、人間の目の前に可視化するために、ある1ヶ所に集約した岩石が磐座と私は捉えています。このような視点に基づき、私は磐座を、聖域に偏在する神に"来てもらう"場所と考えます。


磐座以外の可能性も検討する時期に来ている


そもそも、「石に坐す」しかないのでしょうか?
私はかつて自著で、石の宿り方にも複数のパターンがあることを述べました。

たとえば、磐座と磐蔵、石座と石倉では、ニュアンスが違います。
漢字は当て字と言われればそれまでですが、当て字を付けた人の心性まで否定されるものではないでしょう。「いわくら」に対して、蔵・倉という宿り方を想定した人もいたということになるわけですから。

御神体、御形といった言葉と、磐座という言葉の間にも、神の現れ方の差があると感じます。
御神体、御形には肉体・象徴・代用物といった表現ができるかもしれません。
それに対して、磐座は座る施設という表現がふさわしいでしょう。
蔵・倉なら、神が中に入る、宿る施設という表現がふさわしいでしょう。

時枝氏・笹生氏の研究においても、岩石に対する祭祀解釈は磐「座」に固定化されすぎているきらいがあります。あるいは、同時代において石神か磐座かの二者択一の考え方を感じます。

まず、磐座以外の祭祀の用いられ方が岩石にはあります。神が常住するとか、神が憑依するとか、神宿り施設以外の解釈可能性があります。それは分類で示したことがあります。極めて多種の解釈の幅がそこには認められます。

このように、文献登場以前の日本列島の神観の言説世界はもっと多種多様で、非統一的であった可能性があります。文字テキストは、その氷山の一角を照らしたものです。

"今後、考古学において祭祀遺跡が見つかった場合や、過去に神聖視の対象だったと推測されるものの、すでに記録が途絶えている岩石に出会った場合、この分類を活用することで少しでも現実性のある歴史の復元に寄与できればと願っている。"

自著のあとがきに書いたこの言葉をむすびの言葉に代えて、この長い感想を終えたいと思います。