旧ホームページに載せていた参考文献リストをもう一度UPしてほしいというリクエストをいただきましたので、このブログに再掲します。
旧サイトからコピーするだけなので楽です。
ただ、量が膨大なので、ジャンルごとに分けて掲載します。
まずは、岩石信仰を取りあげたバイブル的な位置付けの重要文献をご紹介します。
――――――
2016年11月10日
「君の名は。」の御神体について知りたいです
「歴史観の形成」の授業でいただいた質問にお応えします。
「君の名は。」の質問もいただきました。
おかげさまで、このブログでぶっちぎりのpv数が以前書いた「君の名は。」のページになっています。
ブログへ来た検索ワードの約半分もこの映画関連です。
(他の岩石信仰のページも見てね)
さて、ご質問の答えについてですが、
バチが当たるかも、という気持ちがあれば大丈夫だと思いますよ。
私が岩石信仰に接する時のモットーは「信仰している人に失礼がないように」です。
その岩石を守り続けてきた、語り続けてきた人の意思を尊重します。
山に入ってはいけないというルールがあれば入りませんし、岩石に触ってはいけないという約束があれば触りません。
触ると指の脂が付きますし、苔も取れます。一人が触っただけではたいしたことなくても、みんながそれをすれば、きっと岩石の肌を改変する手伝いをしてしまうので、基本しません。
禁足地などの明確なルールがない場合は、観察・記録したいという気持ちが勝ります。
時折、長年誰も見ていないがために、岩石の所在や事実があやふやになっているケースがあります。
この場合、足を踏み入れないことで、道が消滅し、岩石の物語が消滅し、一つの歴史が消滅するという手伝いをしていることになります。
過去に、その岩石に接してきた人々に対して、それは失礼であろうと感じるのです。だから私が記録しておこうというおこがましい気持ちが出てきます。
ぜひ、謙虚さと相手への尊重と、知的好奇心のせめぎ合いの中でバランスを取られると、うまくいくのではないかと思います。
経塚と宮水神社の御神体との違いについても質問をいただいたのでそちらも回答します。
私が先日の授業で例示した経塚は、三重県の多度経塚でした。
自然の岩と岩の割れ目などを利用して、お経を埋納するスペースにしている例です。
(経塚には、いちから人工的に塚を構築したタイプもあります)
経塚というのは、お経を経筒という入れ物に入れ、その経筒をさらに収納した入れ物です。
中に収めるものが人に代われば、古墳の石室のような働きになります。遺骸を棺桶に収納し、さらにそれを石室でくるむ。
中に神を収める施設なら、「君の名は。」の御神体と同じ働きになります。神を宿す石祠をさらに御神体の岩で格納しています。
違いは、中に入れるものが道具か人か神かということに尽きますが、
なぜ、いずれも二重に入れ物で覆っているのでしょうね?
お経そのもの、遺骸そのもの、神そのものを直視しないことに価値を置いているように見受けられます。隠されると神秘性が増す・・・隠されると、より惹きつけられる・・・
人の心理に、共通する何かがあるのかもと思えます。
宮水神社の御神体や多度経塚は、自然の岩の状態を利用して、その隙間や空間に寄生して祭祀をしています。
ただ入れ物としたいだけなら、全部人工でもよさそうなものです。その方が、作り手にとって意図通りの入れ物になります。
しかし実際は、人工的な加工や補填はごく一部にとどめられており、メインを占めるのは元からそこにあった岩石です。
その辺に、入れ物の機能性だけに終始しない、自然石への思い入れのようなものを感じます。
最後に、山の中という人里離れた不便な場所に、なぜ御神体や経塚といった入れ物を用意したのかというポイントに触れておきたいです。
「君の名は。」の御神体は、森林限界のような高所感のある山頂に舞台化されています。
糸森の町からの距離の遠さがツッコまれ、「あんなところに短時間で往復できるの?」とか「雨の中登れるの?」など話題になっていたのを見たことがあります。
経塚も、末法の世に仏法が絶えないように、そしていつか来臨する弥勒菩薩のために、経文を保管しておく施設です。
では、そのお経が永久に残り続けると信じられた場所は、決して寺や神社の建物の中ではなかったわけです。
人里離れた山の中が永久に残ると信じられ、弥勒に見つけてもらえる場所だとも信じられ、もっと言えば、岩石の中に宿すことが選ばれたわけです。
なぜ不便な場所に、入れ物を置いたのかの答えが、その辺りにある気がします。
人にとって不便なものほど、人ではないものにとってはイイのかもしれませんね。
"山の中にある経塚と「君の名は。」に出てくる宮水神社の岩石は、何がどう違うのか気になりました。もし自分が山の中に行く機会があった時、詳しく見たりしたらバチが当たりますか?中をのぞいてみようと思います!!"(3回生の方より)
「君の名は。」の質問もいただきました。
おかげさまで、このブログでぶっちぎりのpv数が以前書いた「君の名は。」のページになっています。
ブログへ来た検索ワードの約半分もこの映画関連です。
(他の岩石信仰のページも見てね)
御神体の見学のしかた
さて、ご質問の答えについてですが、
バチが当たるかも、という気持ちがあれば大丈夫だと思いますよ。
私が岩石信仰に接する時のモットーは「信仰している人に失礼がないように」です。
その岩石を守り続けてきた、語り続けてきた人の意思を尊重します。
山に入ってはいけないというルールがあれば入りませんし、岩石に触ってはいけないという約束があれば触りません。
触ると指の脂が付きますし、苔も取れます。一人が触っただけではたいしたことなくても、みんながそれをすれば、きっと岩石の肌を改変する手伝いをしてしまうので、基本しません。
禁足地などの明確なルールがない場合は、観察・記録したいという気持ちが勝ります。
時折、長年誰も見ていないがために、岩石の所在や事実があやふやになっているケースがあります。
この場合、足を踏み入れないことで、道が消滅し、岩石の物語が消滅し、一つの歴史が消滅するという手伝いをしていることになります。
過去に、その岩石に接してきた人々に対して、それは失礼であろうと感じるのです。だから私が記録しておこうというおこがましい気持ちが出てきます。
ぜひ、謙虚さと相手への尊重と、知的好奇心のせめぎ合いの中でバランスを取られると、うまくいくのではないかと思います。
経塚と御神体の比較
経塚と宮水神社の御神体との違いについても質問をいただいたのでそちらも回答します。
私が先日の授業で例示した経塚は、三重県の多度経塚でした。
自然の岩と岩の割れ目などを利用して、お経を埋納するスペースにしている例です。
(経塚には、いちから人工的に塚を構築したタイプもあります)
経塚というのは、お経を経筒という入れ物に入れ、その経筒をさらに収納した入れ物です。
中に収めるものが人に代われば、古墳の石室のような働きになります。遺骸を棺桶に収納し、さらにそれを石室でくるむ。
中に神を収める施設なら、「君の名は。」の御神体と同じ働きになります。神を宿す石祠をさらに御神体の岩で格納しています。
違いは、中に入れるものが道具か人か神かということに尽きますが、
なぜ、いずれも二重に入れ物で覆っているのでしょうね?
お経そのもの、遺骸そのもの、神そのものを直視しないことに価値を置いているように見受けられます。隠されると神秘性が増す・・・隠されると、より惹きつけられる・・・
人の心理に、共通する何かがあるのかもと思えます。
あるがままの岩石への思い入れ
自然の岩石に少し人工的な細工を加えて祭祀の場に仕立てているのも特徴の一つです。宮水神社の御神体や多度経塚は、自然の岩の状態を利用して、その隙間や空間に寄生して祭祀をしています。
ただ入れ物としたいだけなら、全部人工でもよさそうなものです。その方が、作り手にとって意図通りの入れ物になります。
しかし実際は、人工的な加工や補填はごく一部にとどめられており、メインを占めるのは元からそこにあった岩石です。
その辺に、入れ物の機能性だけに終始しない、自然石への思い入れのようなものを感じます。
不便さが、人ならざるものの力を帯びる
最後に、山の中という人里離れた不便な場所に、なぜ御神体や経塚といった入れ物を用意したのかというポイントに触れておきたいです。
「君の名は。」の御神体は、森林限界のような高所感のある山頂に舞台化されています。
糸森の町からの距離の遠さがツッコまれ、「あんなところに短時間で往復できるの?」とか「雨の中登れるの?」など話題になっていたのを見たことがあります。
経塚も、末法の世に仏法が絶えないように、そしていつか来臨する弥勒菩薩のために、経文を保管しておく施設です。
では、そのお経が永久に残り続けると信じられた場所は、決して寺や神社の建物の中ではなかったわけです。
人里離れた山の中が永久に残ると信じられ、弥勒に見つけてもらえる場所だとも信じられ、もっと言えば、岩石の中に宿すことが選ばれたわけです。
なぜ不便な場所に、入れ物を置いたのかの答えが、その辺りにある気がします。
人にとって不便なものほど、人ではないものにとってはイイのかもしれませんね。
2016年11月7日
人間にとって岩石はどういうものなのですか?
「歴史観の形成」の授業でいただいた質問にお応えします。
これは嬉しい反応です。
そうなんです。いろいろな岩石を見れば見るほど、こういう疑問が私も湧いてきたのです。
この疑問を多くの人と分かち合いたいと思って、先日の授業の中ではわざと、バラバラな用途や役割を持った岩石信仰の事例をスライドで列挙しました。
「人間にとっての石というものがどういうものか分からなくなった」ということですが、岩石に意味づけを与えるのが人間の心という前提に立つなら、それは自然なことだと思います。
人間の考えていることがみんな一緒ではなく、人間の心とは何?と一言でまとめられるほど単純ではないように、岩石を通した思考パターンも指で数えられるような量には収まりきらないということでしょう。
といったらあまりに投げっぱなしすぎるので、具体的にどれくらいの思考パターンが見出せるか、この辺りは1000例を超える国内の事例に当たって以前調査したことがあります。
その詳しい結果は、自著にまとめた岩石祭祀の機能分類をご覧ください(宣伝。笑)
分類発表後5年たちますが、いまだ改訂の必要性に迫られる事例に出会っていません。 この分類のどれかには当てはまります。
人間が石自体を信仰していた。そういう人もいたと思います。
狭義の岩石信仰とは、これを指しますし、私の興味関心の最終ゴールはこの心理を知ることです。
石に内蔵した仏を信仰した人もいたでしょう。石に彫ったものを信仰した人もいたでしょう。その人にとって、石はただの素材であり道具だった。石に特別な力はなかった。この思考パターンもあると思います。一方、素材や道具でも霊性を認めた人もいたかもしれませんね。
これに通ずる話として、次のようなご質問もありました。
私のフィールドは日本列島なので、海外の岩石信仰は力量を超えてしまい、下手なことは口出すべきではありませんが、カーバ神殿の黒石も、石に特別な力を認めるムスリムから、石自体を信仰しているわけではないというムスリムの声もあるとwikipediaに載っていたので(出典wikipediaですみません)、黒石に対する思考パターンにも幅が出ているようです。
私が思うに、文字で明文化されていない部分に、人間のグラデーションが出るのでしょう。そこに宗派や教派というものが生まれる余地があります。
むしろこのことから、人の心全体から文字化された部分は、極めて限定的・表層的ということがわかります。
そういう意味では、メデューサの神話も、作者が意図したにせよしなかったにせよ、受け取り手には行間を味わう性質を帯びますから、そこに人間の心の自由さが出ます。
岩石を見るという行動は、言語化・文字化するという行動から最も遠いところにいるのかもしれません。
岩石信仰は、教祖や教典が人の思考を縛る世界観ではなく、人が岩石を通じて自ら発想を生み出していく世界です。
岩石を見ながら個々人の心を見ることができる、とても知的好奇心を刺激されるとりくみだと私は思っています。
"今回の授業で人間にとっての「石」というものがどういうものか分からなくなりました。人間は石自体を信仰しているのか、石に内蔵した仏を信仰しているのか、石に彫ったものを信仰しているのかがよく分からなかったのですが、石というものが人にとって特別な力を感じさせるものだということは分かりました。"(1回生の方より)
"祭祀、信仰の対象としての石と祭祀をするための道具としての石ではどのように石に対する考え方や扱い方が違うのか疑問に思いました。"(4回生の方より)
これは嬉しい反応です。
そうなんです。いろいろな岩石を見れば見るほど、こういう疑問が私も湧いてきたのです。
この疑問を多くの人と分かち合いたいと思って、先日の授業の中ではわざと、バラバラな用途や役割を持った岩石信仰の事例をスライドで列挙しました。
「人間にとっての石というものがどういうものか分からなくなった」ということですが、岩石に意味づけを与えるのが人間の心という前提に立つなら、それは自然なことだと思います。
人間の考えていることがみんな一緒ではなく、人間の心とは何?と一言でまとめられるほど単純ではないように、岩石を通した思考パターンも指で数えられるような量には収まりきらないということでしょう。
といったらあまりに投げっぱなしすぎるので、具体的にどれくらいの思考パターンが見出せるか、この辺りは1000例を超える国内の事例に当たって以前調査したことがあります。
その詳しい結果は、自著にまとめた岩石祭祀の機能分類をご覧ください(宣伝。笑)
分類発表後5年たちますが、いまだ改訂の必要性に迫られる事例に出会っていません。 この分類のどれかには当てはまります。
人間が石自体を信仰していた。そういう人もいたと思います。
狭義の岩石信仰とは、これを指しますし、私の興味関心の最終ゴールはこの心理を知ることです。
石に内蔵した仏を信仰した人もいたでしょう。石に彫ったものを信仰した人もいたでしょう。その人にとって、石はただの素材であり道具だった。石に特別な力はなかった。この思考パターンもあると思います。一方、素材や道具でも霊性を認めた人もいたかもしれませんね。
これに通ずる話として、次のようなご質問もありました。
イスラームのカーバ神殿やメデューサの石化も、石に対する畏敬の表れでしょうか。(2回生の方より)
私のフィールドは日本列島なので、海外の岩石信仰は力量を超えてしまい、下手なことは口出すべきではありませんが、カーバ神殿の黒石も、石に特別な力を認めるムスリムから、石自体を信仰しているわけではないというムスリムの声もあるとwikipediaに載っていたので(出典wikipediaですみません)、黒石に対する思考パターンにも幅が出ているようです。
私が思うに、文字で明文化されていない部分に、人間のグラデーションが出るのでしょう。そこに宗派や教派というものが生まれる余地があります。
むしろこのことから、人の心全体から文字化された部分は、極めて限定的・表層的ということがわかります。
そういう意味では、メデューサの神話も、作者が意図したにせよしなかったにせよ、受け取り手には行間を味わう性質を帯びますから、そこに人間の心の自由さが出ます。
岩石を見るという行動は、言語化・文字化するという行動から最も遠いところにいるのかもしれません。
岩石信仰は、教祖や教典が人の思考を縛る世界観ではなく、人が岩石を通じて自ら発想を生み出していく世界です。
岩石を見ながら個々人の心を見ることができる、とても知的好奇心を刺激されるとりくみだと私は思っています。
2016年11月5日
パワーストーンや宝石をどのように考えるか
「歴史観の形成」の授業でいただいた質問にお応えします。
大きい石の話が印象に強かったようで、反省です。
どうしても巨石は印象が残りやすいので、バランスをとるためにも、小さい石へのまなざしを持っているつもりでしたが、まだまだバランスが足りないようです。精進します。
パワーストーンや宝石についても、研究の対象としています。
ただ、今の私の興味関心が、パワーストーンや宝石ではない「ただの石」に向いていることも否定しません。
なぜかというと、パワーストーンや宝石という稀少性の高い石に惹かれる人の心は共感しやすいですが、「ただの石」に惹かれる人の心は理解しにくく、だから研究の対象としたいからです。
パワーストーンは、能書きを見て選ぶ場合と、能書きを見ずに石だけを見て選ぶパターンがあると思います。
能書きを見て選ぶ人の心理は分かりやすいですが、石だけを見てパワーを信じる人の心理にはとても興味があります。
一言で言えば、理屈で解決できない、言語化されていない人の感情に興味があり、研究したいと思っています。
宝石になると、私たちが事前に仕入れている知識が、宝石そのものを純粋に見る目を曇らせているような気がします。
能書きもしっかりあり、値段という社会的身分もあり、市民権を得ている石。それが宝石です。
あえて言うなら、宝石を覆っているそういう御託や殻のようなものを全部剥ぎ取ってしまい、石だけを見て宝石を語りたいです。
そのためには、自分自身の知識の殻もジャマなので破り去ってしまいたいものですが。
宝石やパワーストーンのような「価値」を認められていない、周縁に追いやられた「ただの石」には、そのような御託も殻もついていないので、ある意味、純粋な気持ちで観察ができます。
そういう「無価値」な石につい肩入れしたくなるのが、私の興味関心や優先順位の基準のような気がします。
"吉川さんは比較的大きい石の話をしていらっしゃいましたが、パワーストーンのような小さい石、宝石については、何か研究していらっしゃらないのかなと気になりました。"(3回生の方より)
大きい石の話が印象に強かったようで、反省です。
どうしても巨石は印象が残りやすいので、バランスをとるためにも、小さい石へのまなざしを持っているつもりでしたが、まだまだバランスが足りないようです。精進します。
パワーストーンや宝石についても、研究の対象としています。
ただ、今の私の興味関心が、パワーストーンや宝石ではない「ただの石」に向いていることも否定しません。
なぜかというと、パワーストーンや宝石という稀少性の高い石に惹かれる人の心は共感しやすいですが、「ただの石」に惹かれる人の心は理解しにくく、だから研究の対象としたいからです。
パワーストーンは、能書きを見て選ぶ場合と、能書きを見ずに石だけを見て選ぶパターンがあると思います。
能書きを見て選ぶ人の心理は分かりやすいですが、石だけを見てパワーを信じる人の心理にはとても興味があります。
一言で言えば、理屈で解決できない、言語化されていない人の感情に興味があり、研究したいと思っています。
宝石になると、私たちが事前に仕入れている知識が、宝石そのものを純粋に見る目を曇らせているような気がします。
能書きもしっかりあり、値段という社会的身分もあり、市民権を得ている石。それが宝石です。
あえて言うなら、宝石を覆っているそういう御託や殻のようなものを全部剥ぎ取ってしまい、石だけを見て宝石を語りたいです。
そのためには、自分自身の知識の殻もジャマなので破り去ってしまいたいものですが。
宝石やパワーストーンのような「価値」を認められていない、周縁に追いやられた「ただの石」には、そのような御託も殻もついていないので、ある意味、純粋な気持ちで観察ができます。
そういう「無価値」な石につい肩入れしたくなるのが、私の興味関心や優先順位の基準のような気がします。
2016年11月4日
墓石や石のことわざも岩石信仰なんですか?
「歴史観の形成」の授業でいただいた質問にお応えします。
正直、知らなかったことわざもあります(苦笑)
上のことわざが、石をどのような象徴として表現しているかをまとめてみましょう。
こうして抽出してみると、石は堅固なもの、生気のないもの(動かない、冷たい)、価値のない石ころとして登場しているものが多いように見えます。これらはみなさんのイメージ通りではないでしょうか?
一方で、12のように活動的な象徴として石を使ったり、13のように見方しだいで価値のあるものとして石を語ったり、16のように「冷たい石」と逆の発想から表すものもあったりと、人間生活の中で語られる石のイメージは一枚岩ではないようです。
質問の中で「石は長持ち」というコメントもありましたが、以前このブログで紹介した會津八一の「一片の石」の中では、石は逆に「長持ちしないもの」として語られています。
石に対して人が抱く発想が多面的であることを示しています。まさに「他山の石」の世界観です。
目に見えないものを信じる。それが信仰です。
予見できないことや、事実がはっきりしないものに対して、自分の予測、思いを信じる。これも信じることです。
「信仰」と書くから大仰に捉えがちになるだけで、信じることとは人間にとってごくありふれた、切り離せない感情ではないのかなと思います。
信じる矛先が、目に見えない出来事や結果ではなく、それを担保してくれる存在に向いた時、それを「カミ」や「ホトケ」や「霊」と名付けた人がいた。名付けていない人も、お天道様の前では悪さができないと思っているかもしれません。
人間のこういう心理は、決してハードルが高い、限られた特殊な感情ではなく、神を信じない人にも理解できないものではないと思います。
同様に、信仰対象を必要としない人は心が強いとか、迷信に興味がないといった一面的な評価をされるものでもないでしょう。
自分が見えないことを、まだ「だれか」に担保してもらう必要がないということです。
お墓に石が使われている理由。
葬儀を祖先への祭祀・信仰と定義すれば、墓石は否応なく「信仰・祭祀に用いられた石」にはなりますが、おそらく皆さんの興味関心はその辞典的定義付けではなく、石に「信仰」の思いが込められているか、霊石としての働きがあるのかというところでしょう。
そういう論点で回答すれば、墓石は岩石信仰であり、岩石信仰でないかもしれません。
墓石の前に行けば、お墓に祖先が(あの世から)現われると思ってお墓参りする人もいるでしょう。
墓石の前に行けば、自分の思いが(あの世の)祖先に気持ちが届くと思ってお墓参りする人もいるでしょう。
石が、祖先の宿るものになったり、あの世に思いを届ける転送装置になったりしています。
それとは別に、墓石をいつまでも残る石材として見ている人も言えるでしょう。思い入れがあるのは石ではなく、祖先なのだから。
そう考えると、少なくとも、墓石は神そのものではなさそうですね。
そもそも、墓石に対してそんなこと考えもしないという人が大半ではないかと、私は思います。
考えないというのも、人が墓石に対して行った1つの選択であり、尊重されるべき思いです。無意識だった人に、研究者が無理に考えさせたり、回答を求めたら、その人の思いは捻じ曲げられたものになるでしょう。
このように、人の意識や思い、それに基づく行動や選択というのは、境界線のないグラデーションのような繊細なものです。
思いや考えというのは、本来、目に見えないものなのですから。
私の回答が1つの結論を提示しない理由は、皆さんに無理に結論を求めると、石に対して皆さんが元々持っていたピュアな感情を無理に捻じ曲げ、変節させてしまう危険性があるからです。
教祖が信者の心を一方向に導く宗教とは違い、石は人の意思をコントロールしない自然物です。
石に対して人が取る選択は無限大ですから、皆さんが自由に接してほしいです。
"日本には墓石や「石の上にも三年」ということわざがあるように、人の生活と石には、密接な関係があると思うのですが、これらはどのような岩石信仰によるものなのでしょうか?また、岩石信仰なのでしょうか?"(4回生の方より)
"日本のお墓に石が使われるのは、ただ「長持ちするから」だけではないのかなと思いました。"(1回生の方より)
石のことわざから、人と石の関係を考える
石に関わることわざは、検索すると次のようなものがあるようですね。- 雨垂れ石を穿つ(あまだれいしをうがつ)
- 石が流れて木の葉が沈む(いしがながれてこのはがしずむ)
- 石に灸(いしにきゅう)
- 石に漱ぎ流れに枕す(いしにくちすすぎながれにまくらす)
- 石に立つ矢(いしにたつや)
- 石の上にも三年(いしのうえにもさんねん)
- 石橋を叩いて渡る(いしばしをたたいてわたる)
- 一石二鳥(いっせきにちょう)
- 木仏金仏石仏(きぶつかなぶついしぼとけ)
- 玉石混淆(ぎょくせきこんこう)
- 金石の交わり(きんせきのまじわり)
- 転がる石には苔が生えぬ(ころがるいしにはこけがはえぬ)
- 他山の石(たざんのいし)
- 他山の石以て玉を攻むべし(たざんのいしもってたまをおさむべし)
- 点滴石を穿つ(てんてきいしをうがつ)
- 焼け石に水(やけいしにみず)
(「故事ことわざ辞典」2016年11月4日アクセス)
正直、知らなかったことわざもあります(苦笑)
上のことわざが、石をどのような象徴として表現しているかをまとめてみましょう。
- 石を硬いものとして表現している。
- 石を重いもの、動かないものとして表現している。
- 石を硬いもの、傷つかず変わらないものとして表現している。
- 石を硬いもの、頑固なものとして表現している。
- 石を硬いものとして表現している。
- 石を冷たいもの、温もりを持たないものとして表現している。
- 石を頑丈なものとして表現している。
- 石をお手軽な道具として表現している。
- 石仏から由来した言葉として使われる。
- 石を稀少性のないもの、ありふれた存在として表現している。
- 石を硬いもの、壊れないものとして表現している。
- 石を動かないものとはとらえず、動いて転々とする小石として表現している。
- 石を一見価値がないように見えて、考え方、使い方しだいで価値がある二面性を表現している。
- 上に同じ
- 1に同じ
- 石を一度熱するとなかなか変わらないものとして表現している。
こうして抽出してみると、石は堅固なもの、生気のないもの(動かない、冷たい)、価値のない石ころとして登場しているものが多いように見えます。これらはみなさんのイメージ通りではないでしょうか?
一方で、12のように活動的な象徴として石を使ったり、13のように見方しだいで価値のあるものとして石を語ったり、16のように「冷たい石」と逆の発想から表すものもあったりと、人間生活の中で語られる石のイメージは一枚岩ではないようです。
質問の中で「石は長持ち」というコメントもありましたが、以前このブログで紹介した會津八一の「一片の石」の中では、石は逆に「長持ちしないもの」として語られています。
石に対して人が抱く発想が多面的であることを示しています。まさに「他山の石」の世界観です。
信仰のイメージ
目に見えないものを信じる。それが信仰です。
予見できないことや、事実がはっきりしないものに対して、自分の予測、思いを信じる。これも信じることです。
「信仰」と書くから大仰に捉えがちになるだけで、信じることとは人間にとってごくありふれた、切り離せない感情ではないのかなと思います。
信じる矛先が、目に見えない出来事や結果ではなく、それを担保してくれる存在に向いた時、それを「カミ」や「ホトケ」や「霊」と名付けた人がいた。名付けていない人も、お天道様の前では悪さができないと思っているかもしれません。
人間のこういう心理は、決してハードルが高い、限られた特殊な感情ではなく、神を信じない人にも理解できないものではないと思います。
同様に、信仰対象を必要としない人は心が強いとか、迷信に興味がないといった一面的な評価をされるものでもないでしょう。
自分が見えないことを、まだ「だれか」に担保してもらう必要がないということです。
墓石の前に立って、人は一種類の行動しかしませんか?
お墓に石が使われている理由。
葬儀を祖先への祭祀・信仰と定義すれば、墓石は否応なく「信仰・祭祀に用いられた石」にはなりますが、おそらく皆さんの興味関心はその辞典的定義付けではなく、石に「信仰」の思いが込められているか、霊石としての働きがあるのかというところでしょう。
そういう論点で回答すれば、墓石は岩石信仰であり、岩石信仰でないかもしれません。
墓石の前に行けば、お墓に祖先が(あの世から)現われると思ってお墓参りする人もいるでしょう。
墓石の前に行けば、自分の思いが(あの世の)祖先に気持ちが届くと思ってお墓参りする人もいるでしょう。
石が、祖先の宿るものになったり、あの世に思いを届ける転送装置になったりしています。
それとは別に、墓石をいつまでも残る石材として見ている人も言えるでしょう。思い入れがあるのは石ではなく、祖先なのだから。
そう考えると、少なくとも、墓石は神そのものではなさそうですね。
そもそも、墓石に対してそんなこと考えもしないという人が大半ではないかと、私は思います。
考えないというのも、人が墓石に対して行った1つの選択であり、尊重されるべき思いです。無意識だった人に、研究者が無理に考えさせたり、回答を求めたら、その人の思いは捻じ曲げられたものになるでしょう。
このように、人の意識や思い、それに基づく行動や選択というのは、境界線のないグラデーションのような繊細なものです。
思いや考えというのは、本来、目に見えないものなのですから。
私の回答が1つの結論を提示しない理由は、皆さんに無理に結論を求めると、石に対して皆さんが元々持っていたピュアな感情を無理に捻じ曲げ、変節させてしまう危険性があるからです。
教祖が信者の心を一方向に導く宗教とは違い、石は人の意思をコントロールしない自然物です。
石に対して人が取る選択は無限大ですから、皆さんが自由に接してほしいです。
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