2020年3月1日

伏見の大岩神社・小岩神社(京都府京都市)


京都府京都市伏見区深草向ヶ原町

伏見稲荷大社で有名な稲荷山から南に大岩山(標高182m)があり、山頂に大岩神社と小岩神社が鎮座する(世間的には大岩神社で総称されることが多い)。

その名のとおり、大岩神社は「大岩」をまつり、小岩神社は「小岩」をまつる神社で、大岩・小岩のそれぞれを玉垣で囲って、手前に別々の拝殿を設置している。

大岩神社参道(大岩山中)

大岩神社境内

大岩

大岩(背後より)

小岩(真上から)

当然ながら大岩は小岩よりも大きく、とはいっても、大岩は高さ1.5m、幅2mほどであり一大巨岩というわけではない。
小岩に関しては、高さ1m弱、幅1mほどの大きさとなっている。

京都新聞の記事「岩石と語らう」95(1999.4.6)では、この二体の岩は人が据え付けたものではなく山の露岩であると説明しているが、地中の岩盤からは独立して置かれているような印象も受ける。
周辺の地表面に岩盤の露出がゼロというわけではないが、目立ってもいない。だからこそ大岩・小岩が相対的に隆起しており特別視されたのだろうか。古態はどうだっただろう。

大岩山の露岩の一部

大岩山の麓から大岩・小岩神社に至る参道を登ると、伏見稲荷と同様に、岩滝大神・白姫大神・白龍大神など、諸々の神名を刻んだ多数の塚が見られる。
稲荷山の「お塚」信仰の影響下にあったことは間違いない。

境内の塚群

別の塚群

この神社の歴史は、江戸末期の山火事で古記録類が焼失したというが、唯一、大岩・小岩についての言い伝えが残っている。
当時、聞き取り取材をおこなった前掲の京都新聞の記事によれば、「男女二人の神がそれぞれが重い病気にかかった際に、互いの献身的な看病によって病を治したことから、土地の者がその徳をたたえて神社を造り、『大岩』を男の神、『小岩』を女の神としてまつったという」と。大岩・小岩は心身の病を治癒する霊石として、かつては全国各地から噂を聞きつけ参拝する人達が集ったという。
私が2004年に訪れた時も、大岩と子岩は陰陽の関係にあるのだと、当時、神社を守られていた方から聞いた。

神職の方が亡くなられて以降、現在は神社に常駐の方はおられないらしい。
大岩神社・小岩神社は氏子をもたない神社らしく、一部の篤信者の方の善意の清掃によって守られている状況かもしれず、今後の護持が保たれることを陰ながら願っている。

参考文献

京都新聞社会部・地域編集部「大岩神社の大岩と小岩」(京都新聞「岩石と語らう」95)1999.4.6

2020年2月29日

大田神社の蛇の枕(京都府京都市)


京都府京都市北区上賀茂本山 大田神社境内

大田神社は上賀茂神社の境外摂社で、上賀茂神社の手前を通る東西道を東へ進むと案内が出ている。

この大田神社境内にあるという「蛇の枕」は「雨石」とも呼ばれ、蛇が枕とした石だという。
蛇は雨を降らせると信じられ、蛇がいる枕元で雨乞いをしていたらしい。

現地で観察すると、蛇の枕は境内を流れる小川の川底にあり、水面からちょこんと顔を出していた。

鳥居前の石橋の右側の川底を覗き込むと

写真下部やや右側に、川底から少しだけ顔を出しているのが蛇の枕

真上から撮影

雨乞いの儀礼は少々荒っぽく聞こえるが、この雨石を農具(鉄器)などで叩く。そうすると枕を叩かれた蛇が、怒って雨を降らせるという構図らしい。
蛇は人間を困らせるために雨を降らせるが、人間にしてみれば雨が降らない時にこれをやれば大助かりという理屈である。

この雨石はさしずめ、霊的存在である蛇がいる霊域を単独の岩石で可視化すると同時に、石の上に蛇が現れるという構図をもつ憑依物であり、石占としての祭祀装置の機能も兼ね揃えていると言える。

参考文献

京都新聞1999.7.8付「大田神社の蛇の枕」(岩石と語らう141)

2020年2月26日

水火天満宮の登天石(京都府京都市)


京都府京都市上京区 堀川通 上御霊前通 上

水火天満宮は、平安京へ降りかかる水の難・火の難を退けるため、延長元年(923年)に菅原天神をまつったのが始まりとされる。
この天満宮の創建と非常に関わりの深い石として、境内に登天石(とうてんいし)という石があり、大略次のような物語を伝えている。

菅原道真が亡くなった後、都には相次ぐ天変地異や要人の変死など、様々な異変が起こったのはよく知られた逸話である。
当時の醍醐天皇もすっかり恐れてしまい、道真が師と仰いでいた法性坊尊意僧正に祈祷を依頼した。

尊意は宮中に参内すべく外へ出たが、外は激しい雷雨で、そのなかで鴨川までやってきた時、鴨川が氾濫して町に流れ出した。
尊意は数珠(一説には神剣)をかざして祈り始めると、川の水位が下がり始めた。
やがて水が引いていった中から1つの石が現れ、その石の上に菅原天神が立っていた。
雷雨はたちまち止み、水も完全に引いた後、道真は雲の上に登っていった。

その後、尊意はこの石を自邸へ持ち帰り供養をしたのち、現在の水火天満宮に安置したのだという。これが登天石の由来である。


登天石

石の上に神霊が現れるという、磐座的な役割を担う事例として理解できるが、それに加えて特筆すべきは、石の上で神霊が天上へ戻っていくという話も伝えているところにある。

すなわち、登天石は神霊を人間界に呼び寄せる召喚機能だけではなく、再び神霊のいた世界に戻すという送還機能まで明確に備えている。
この点、神を降ろすという視点のみに偏りがちな巷の磐座とは違って特徴的である。石の名前も登天石という、神が帰っていくところに重点を置いた名称にもなっている。

さらに、川水で運ばれてきた石であり、かつ、尊意が自邸や天満宮にと持ち運びをしているという点で、大地に根差した岩盤的な磐座とは一線を画し、動産的・遺物的な性格を帯びた岩石祭祀の装置とも言えるだろう。

ちなみに当社境内には、登天石の隣に「出世石」と名付けられた石も置かれている。
神職さんにうかがうと、詳しくはわからないがけっこうな要職に就いた方が後年神社へ寄進した石だそうで、出世した人が寄進した石だから出世石だという。立身出世や就職の霊石となっているが、個人が岩石を奉納するという心の動きも岩石信仰においては何気に重要である。

出世石

最後に、境内社の六玉稲荷には玉子石という菅原道真所縁の丸石があり、子宝安産に霊験があると信じられるが、探訪時見落としてしまった。

参考文献

社務所でいただいた資料3枚


2020年2月25日

女夫岩町の女夫岩(京都府京都市)


京都府京都市北区上賀茂女夫岩町 柊野小学校校内

町名にもなっている女夫岩。
京都新聞1999.2.27付記事「女夫岩」(岩石と語らう76)で知った。

岩は現在、柊野小学校の校内に残っている。
小学校の方に見学を許可いただき、岩の場所へ案内していただいたところ、岩は中庭にあった。




女夫岩の名のとおり、2つの岩が顔を出している。
岩の高さはいずれも1.5mほどで、5㎡ほどの胴回りをもつ。

女夫岩に関して、小学校ではこれといった資料は見当たらない(詳しい人がいない)とのことなので、女夫岩の由来・情報については先述の新聞記事に拠ることになる。
注目すべき点をまとめると、


  • 女夫岩に関する、詳しい縁起や伝承などを伝える古文献などは見当たらない。
  • 昔(時代不明)、鴨川が氾濫を起こし、その水が引いた後に現れた2つの岩がこれである。
  • 女夫岩の名の由来は、その岩の外見が伊勢の夫婦岩に似ていることから、地元の人が呼んだもの。
  • 当初は、注連縄をして信仰対象としていたという。
  • 岩の近くから水が湧き出していたという(今はない)。
  • 白蛇がここで見られたという。
  • 柊野ダム(鴨川上流)にある岩と女夫岩は、地中で1つの岩としてつながっているという話がある。よって女夫岩を叩くと、ダムの岩でも音が鳴るという。


ダムの岩とつながっているというのは別として、2つの岩は地中で1つの岩塊になっている可能性はある。

今、信仰対象として見る人はいないが、学校が作られた時も取り壊されずに大事に保存され、町名の由来にもなり、子供達の遊び場でもあるのだろう。
地元ではとても愛着を持って大事にされている岩と言えそうだ。

2020年2月24日

松ヶ崎の岩上神社(京都府京都市)


京都府京都市左京区松ヶ崎町

林山(標高171m)の西麓に岩上神社が鎮座する。
社殿はなく、平板状の岩石をまつる。



岩神という意味合いよりも、岩上に神立つという趣である。
林山の山裾に位置するという点でも、山と里の境界でまつり場を設けるというありかたは古代の山岳祭祀に適う。

京都市北部の岩石信仰の事例として、岩倉の山住神社や上賀茂神社の岩上と並んで著名ではないかと思われ、特に上賀茂神社の岩上とは名称も形態も類似している。

しかし一方で、この岩石はもともと兵庫の海中で光を放っていたといい、それを現在地に持ってきて岩上大明神としてまつったという逸話もある。
このいわれに基づけば、岩石は発光する霊石であり、岩石自体を岩神と見立てたようにも思われる。
石神と磐座の両面を有する岩石と言える。

石質はチャートであり、当山で露出していた岩盤をまつったものと思われるが、かつて海底のプランクトンが堆積して石化したものであることを踏まえると、海から由来する岩石として神聖視された伝承も興味深い。

岩上神社境内入口

「末刀 岩上神社」と号した石標が建つ。
「末刀」は「まと」もしくは「みと」と読み、本来的には「末」ではなく「未」の表記が正しかっただろうとされている。

延長5年(927年)完成の延喜式神名帳によると、「愛宕郡 末刀神社」なる式内社があり、後世、末刀神社がどこだったかわからなくなった。
「末刀(まと)」が松ヶ崎の「松」に通じるということから、岩上神社が末刀神社ではないか、ということで現在の神号がある。
しかし、どうやら現在の学説では、延喜式記載の末刀神社は別の所であろうと考えられており、岩上神社説は否定的である。

ただ、延喜式編纂当時、ここは単に岩石のみをまつる場だったとしたら、神社として認識されなかったのも当然で、だから記載されなかったとみれなくはない。
比較的精美な山容を有する林山の、山裾に近いところにまつり場を設けている立地環境は注意しておきたい。

林山(2001年撮影)