2021年1月3日日曜日

折口信夫の「漂著石神論計画」を今一度とらえ直し、次の段階へ(3)


石の育て主


「人にとられると同時に、大きくなる。育て主を待つ。之が極ると、急に大きくなる。」

折口がまとめた「石の育て主」の具体的事例の再検討が必要である。

石を保管する人によって、石が大きくなったりならなくなったりするということを「石を育てる」という表現で説明するわけだが、大きくなる育て主として「翁」と「少女、後、夫婦」が挙げられている。

それと一方で、小さいままの「石の保管者」もいるらしい。
これら両例の収集と、折口のこの指摘が例外のない正確な指摘であるか再調査が必要に思うが、網羅的な研究にまだたどりついていない。


有勢な育み人は、少彦名と天日矛の二例だけメモされており、この二例の追跡は可能である。

少彦名と石の関係は古事記の「常世に坐す 石立たす 少名御神」でよく知られており、それが「つき物」としての石であることは論を俟たないが、この石の有勢な育み人は誰かというと明示されていないのと、この石は育ったのかというとよくわからない。

天日矛の石とは、古事記の天日矛伝承に登場する赤玉だろう。
賎しい女が生んだ玉が、賎しい男の手を経由して天日矛の手に渡ると、美女に変じて天日矛の妻となった。

今回の折口の文脈で考えると、石の保管者によって石が人に変じ、それが貴賤や美醜のコントラストで描かれていることが重要なテーマとなってくるが、この伝承は神話学の分野においては日光感精型・卵生型といった類型で取り上げられることがある。

堂野前彰子氏「神話としての『一夜孕み』」(『古代学研究所紀要』特別号、2009年)は本伝承の諸研究をふりかえり、女人が石を孕む現象はしばしば神の意思を示すものであり、神婚のモチーフとも言えることから、その結果生まれた石は神体石にもなりうる霊石となったと論じている。

だから少彦名の石と同列に「つき物」「より石」としてまとめることもできるが、石が人になるわけではないという物質的世界観はもちろん、おそらく石と人がボーダーレスで同次元にいる「モノ」同士であったモノ世界観下だったとしても、なぜ石が選ばれたのかという問題は結局追究できていない。


「玉」論


24~33の見出しは、玉の話が続く。

玉が登場する歌には、魂関係の玉と、より来る玉に分かれる。

玉は石か、貝かという問い。

装身具以外の玉の存在。

海祇の玉(海神の玉)、玉が大きくなること、玉が代々受け継がれ、玉が増殖していくこと。

玉は魂であり、玉を授受することは魂を預け、動かす行為となること。

このあたりは諸々の玉の研究があるのでいまさら言えることはない。
椙山林継氏は「玉と魂―石製品の祭り―」(『日本の信仰遺跡』奈良国立文化財研究所、1998年)の中で、考古学における玉類や石製品の使われかたを検討した結果、玉を含めた石の古墳時代は「石によって作られた永久性、変化のない世界」であり、「別な世界、死後の世界での道具、それは神の世界に共通する道具である」と論じた。

玉が、一度そこに封じ込めたものを変化しないまま後世へ世襲し、人の生死に関わる道具となりえたことを補強する情報と言えるだろう。


玉の異種として「玉がしは」(玉柏/玉堅磐)が登場する。
「玉がしは」は下の記事に詳しい。

遠州公の愛した茶入「玉柏」

歌のモチーフである「玉がしは」は海岸の藻に埋もれた岩であり、ここであらためて水と石の関係が浮上する。
「玉がしは」は自然の岩であり、その岩の表現に「玉」を冠するところに、玉と石の親和性あるいはボーダーレスの関係が出てくるわけで、そこに折口が付け足した「玉を盃に入れること」という一文と「玉よる磯」というキーワードが際立ってくる。


漂著石神論計画の21~33まで進んだので、続きはまた別記事で行いたい。


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