2021年10月10日日曜日

宗像大社辺津宮の高宮祭場(福岡県宗像市)

福岡県宗像市田島 宗像大社境内


昭和30年(1955年)8月14日の日記で、大場磐雄氏はこう記している。

「下高宮の磐境附近において上高宮の古墳を遠望す、この地より滑石製臼玉、円板、馬形等の発見を見るを以てこヽにおいて古代祭祀の行はれたるは疑なし、上高宮の古墳がいかなる意味を有するかは大いに考究を要するところなり」
茂木雅博(書写・解説)・大場磐雄(著) 『記録―考古学史 楽石雑筆(補)』博古研究会 2016年

宗像大社の辺津宮には、下高宮と上高宮と呼ばれる2ヶ所の聖地がある。
下高宮の磐境とは、現在「高宮祭場」と呼ばれる下の場所を指す。






しかし、現在のこの岩石を用いた磐境・神籬は、いわゆる沖ノ島祭祀の頃の状態を現代まで忠実に残し続けたものではない。

花田勝広氏「温故知新と回想—宗像二題—」『むなかた電子博物館紀要』第7号 2016年(https://munahaku.jp/wp-content/themes/munahaku/img/kiyou/vol07/pdf/08_kiyo2015.pdf)によると、高宮祭場が昭和30年に古代風に再現整備された場所だったことが記されている。

昭和30年1月に田宮・高宮の土地買い上げられる。高宮の地は、古代・中世の頃まで聖地であったが、整備前は、私有地の畑地や山林となっていた。ここが古代風の祭場として再現された高宮祭場となる。

前述の大場氏の日記のとおり、高宮の一帯からは多量の祭祀遺物の報告があるため、一帯は下高宮祭祀遺跡として遺跡登録がなされているが、どうやら遺構の確認は発掘調査でなされておらず、遺物が表面採集されたことによる散布遺跡としての認定のようである。

つまり、現在ある磐境や神籬のモデルとなった配石遺構が、地中で確実に検出されていたわけではないことに注意したい。


宗像大社は2020年代に高宮祭場から参道の一帯を再整備する方針のようなので、今後の再整備の中で下高宮祭祀遺跡の実態がより原風景に忠実となることに期待したい。
下記文献にも、下高宮祭祀遺跡が「学術調査等を実施していない」旨が明記されており、現在の景観が昭和30年当時の古代祭祀のイメージを越えたものではないことを示している。
(『国指定史跡「宗像神社境内」整備基本計画 第1期【令和2 (2020)年~令和6(2024)年】』宗像大社・宗像市教育委員会 2020年 https://www.city.munakata.lg.jp/w010/munakatajinjakeidaiseibikeikaku.pdf



なお、大場氏は続く8月16日に中津宮が鎮座する大島に渡り、日記で以下のとおり記す。大島頂上には「磐座」に見立てられた自然石があるらしい。

「御嶽山にのぼる。同山は大島最高の山にて頂に御嶽神社あり、その背後に磐座ありという、頂にのぼれば沖の島も遥かに見ゆ、磐座というは一自然石にて5×7m位の磐石なり、傍らにタブの木あり」
(前掲『楽石雑筆』より)


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