鏡岩
御嶽(御岳・御嶽山)の中腹にあり、国指定特別天然記念物として著名な岩石である。
鏡岩 |
陽光が射すと岩肌がしっかり輝く(前の写真と比較)。晴天の午前中の訪問をお薦めする。 |
地質的な詳細および伝説面も人口膾炙しており本記事であらためて詳述はしないが、岩石の精神的性質をまとめると次のようになる。
- 鏡のように人影が映る岩石として知られ、奇異の怪石として恐れられた。
- 心の悪しき者が向かうと岩肌が曇り、善い心の持ち主が向かうと岩肌が澄む。
- 鏡岩の岩肌に落城する高崎城の姿が映り、それを見た落武者たちが憤慨して松明で岩肌をいぶしたとも、敵に見つからないようにするためにいぶしたともいう。
光り輝く岩肌に対して畏怖や忌避の心理が読み取れるが、たとえば信仰の対象としての神聖視とまでは直接的には読み取れないことに留意したい。
麓に武蔵国二ノ宮の金鑚神社が鎮座することから、金鑚神社のご神体石のように言及される例も見受けられるが、金鑚神社が特段の神事を行う対象とはなっていない。
神職家の方の談として、かつては子どもたちが滑り台のように遊んでいたことや、昭和30年代に起こった石のブームで鏡岩を切り欠く人達がいたので今のように鉄柵で囲った話も聞き取りされている(林 2000年)。
親しみをもって大切にされてきた岩石であることは伝わるが、神社信仰の中心という役割を担っていたわけではないことがわかる。
もちろん、かつては岩石信仰の場だったという可能性と、今残る奇異・忌避の伝説はその残滓だったとみなす立場までは否定しきれない。
しかしその場合でも、金鑚神社が神体山としてまつるのは鏡岩が存する御嶽の方向ではなく、北にそびえる御室山(御室ヶ嶽)の方向であることに何らかの説明が必要だろう。
長い歴史の中で鏡岩を神聖視した人もゼロではなかっただろうと容易に想像されるが、記録に忠実であるなら、歴史学的な資料の扱いとしては信仰というより特別視(畏怖・忌避)の事例として把握することが現状望ましい。
日本武尊の火鑚金(火打金)
金鑚神社の「かなさな」は「金砂」から由来するとみなされており、日本武尊が自らの火鑚金(火打金)を御室山に埋納したという神社創建由来が伝わる。
金鑚神社における岩石信仰とは、正確に言えばこの火鑚金(火打石)ということになる。
山中にどのあたりが埋納地なのかという位置や実在の有無については不明であるが、山中の岩石は鉄分を多分に含み、実際に鉱石の採掘坑も確認されているという(岡本 2003年)。
御室山・御嶽の一帯が金属採掘の地として重要視され、鉱石を産む山として山岳信仰と岩石信仰たる金鑚神社信仰が成立したことは肯けるところだろう。
弁慶穴/弁慶の隠れ岩
御嶽頂上は岩山となっているが、その岩山を構成する岩盤の下部に形成された岩陰。
弁慶が奥州へ逃れる時にこの穴の中で一夜を過ごしたという(山崎 1986年)。
弁慶穴 |
なお、現地看板によると弁慶穴の下東に「地蔵穴」なる別の岩穴があり地蔵石仏を安置していたらしいが、その場所は情報不足につき未確認である。
御嶽の仏教系岩石信仰
御嶽は中近世に修験道の行場となり、山名のとおりその後は木曽御嶽山信仰の影響も受けた。
御嶽の山頂には「奥宮」の石祠が設けられているが、岩山の手前には平坦地が広がり、この辺りに護摩壇が形成されていたという。
御嶽山頂の岩山 |
岩山手前に形成された平坦面と奥宮石祠 |
また、山中には今も70体余りの石仏が確認されているほか、「袖すり岩」「胎内くぐり」と呼ばれる岩場も存在するという(位置不明)。
御嶽の石仏群(一部。場所は原位置ではなく移動されている) |
現地看板。ここにしか載っていない存在が「地蔵穴」「袖すり岩」「胎内くぐり」 |
駒繋ぎ石
源義家が馬を繋いだ石と伝わる。金鑚神社境内にある岩石だが見逃した。
岡本一雄『金鑚神社』(2003年)には「義家橋と駒繋ぎ石(手前左)」と題された写真があり、端に向かって左手前の岩石を駒繋石と紹介する。一方で同書のp.10~11に掲載された明治35年の「官幣中社金鑚神社境内真景」絵図には、橋に向かって右手前に「駒繋石」の注記と絵が描かれる。
橋の左と右の違いがあるが、歴史の経過で場所が変遷した可能性がある。
参考文献
- 林宏『鏡岩紀行』中日新聞社出版開発局 2000年
- 岡本一雄『金鑚神社』(さきたま文庫・61)株式会社さきたま出版会 2003年
- 山崎康彦「埼玉県の石の民俗」『関東地方の石の民俗』明玄書房 1986年
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