2019年3月11日

三輪山の磐座群と周辺の岩石信仰(奈良県桜井市)



三輪山の磐座研究


嘉禄2年(1226年)成立という『大三輪神三社鎮座次第』によれば、三輪山には「奥津磐座 大物主命」「中津磐座 大巳貴命」「辺津磐座 少彦名命」がまつられ、山中の三ヶ所に磐座があることを記している。

三輪山
 三輪山(奈良県桜井市) 標高467.1m

三輪山
三輪山の祭神をまつる大神神社

ただ、『大三輪神三社鎮座次第』は後世のものによる作(中世~近世)という批判も根強く、仮に中世の言説としても、この「奥津」「中津」「辺津」 という概念がいつまで遡れるものかははっきりしていない。

また、実際には三輪山の中におびただしい数の岩石が散在しており(樋口清之氏「三輪山上に於ける巨石群」1927年、中山和敬氏『大神神社<改訂新版>』1999年)、「奥津」「中津」「辺津」の3つの単体の磐座があるというわけではない。

山中にとどまらず、山麓にも複数の岩石信仰の場が確認されている。
中には、後述する山ノ神遺跡・奥垣内遺跡のように、巨石の周辺から古墳時代の祭祀遺物が出土した遺跡があり、勾玉や石製模造品・土製模造品の遺物散布地も三輪山麓には多く見つかっている。

 これら古墳時代の遺跡群は文献資料がなく、岩石の性格を物語るのは本来難しい。
「三輪山の岩石信仰」=「磐座」という半ば定説化したイメージがあるが、岩石信仰は磐座祭祀の形態だけではない。
すべてがすべて「磐座」の機能を担う岩石だったのか、三輪山研究者が安易に断定しているのは早計だと私は思っている。

奈良盆地の西側にそびえる春日山系の山々はいずれも花崗岩地質で構成されているが、三輪山はそれとは異質の斑糲岩から成り立っている山である。
この岩質の違いが、大和盆地の山岳信仰の中でも三輪山が独自の位置を占める一つの要因になったのかもしれない。


樋口清之氏の「三輪山上に於ける巨石群」


三輪山
登山口となっている狭井神社

山中には無数の岩石群があるが、文化財上は2つのグループに分けられている。
1つは、拝殿背後の尾根上に分布する「禁足地裏磐座群」である。
もう1つは、玄賓庵の裏のオーカミ谷と呼ばれる谷間を中心に分布する「オーカミ谷磐座群」である。

考古学者の樋口清之氏は奈良県桜井市の出身であり、青年期に三輪山中を踏査してその様相を論文「三輪山上に於ける巨石群」(1927年)で発表した。

ここで樋口氏は、オーカミ谷の岩石群をA~Eの5群に分類している。

たとえば、玄賓庵南側丘陵上のA群、北側丘陵上のB群は後世の石材利用などにより原状をとどめていないと指摘している。
そして、玄賓庵裏のC群と山頂やや西斜面下のE群は大規模な岩群で、人為的に列石を構築したような規則的な配置も見られると報告している。

しかし、これらの多くは現在許可されている登山道の外に存在しているため、実見者が樋口氏だけという状況であり、人為性が本当にあるのかなどについての再検証はできていない状況である。

現在、三輪山の山内は写真撮影が厳禁であるが、考古学者の大場磐雄博士が調査時撮影した写真資料が國學院大學博物館により公開されている。

「三輪山調査, 貳 □板16~30, 26 三輪調査(昭和三年), へ津岩座」/國學院大學博物館所蔵(クリエイティブ・コモンズ・ライセンス済資料)

大神神社が認定する「三輪山中の公式な磐座」


大神神社の宮司である中山和敬氏『大神神社<改訂新版>』(1999年)には、大神神社神地課が「典型的なものとして折紙をつけた磐座」がマップ化されており、そのドット数は26ヶ所に及ぶ。
中山氏は「磐座線」という表現を用い、4種類のルートを紹介している。

  • 社殿裏の禁足地から山頂までの線:山腹に3ヶ所、山頂近くに3ヶ所
  • 山ノ神遺跡から山頂までの線:山腹に5ヶ所、山頂近くに2ヶ所
  • 檜原神社からオーカミ谷を経由して山頂までの線:山腹に5ヶ所、山頂近くに2ヶ所
  • 三輪山南の脇本区から山頂までの線:山頂近くに10ヶ所
※各ルート同士で重複している箇所あり。詳細は前掲書参照。

「磐座線」とは言うが、いわゆる直線状に磐座が並ぶという類の話ではなく、山麓から三輪山を拝する時の「辺津-中津-奥津」の3ヶ所の磐座がどこのことを指していたか、その想定として4種類の「遥拝の視線」を提示したという意図であることに注意したい。

合計26ヶ所とはかなりの数に上るが、そのほとんどが登拝道から外れた立入禁止の場所にあり、実態はやはり判然としない。
その内の数ヶ所は、樋口氏が報告した磐座と地点が重なるものもあるだろう。

また、山ノ神遺跡の東山中に位置する月山谷には「百目石」、オーカミ谷中腹に「鏡石」、三輪山の東山腹に「木斛」という3ヶ所に関して固有名詞が付されている。
「木斛」は単に樹木のモッコクを指しているだけかもしれないが、百目石・鏡石という名が存在することは注目していいだろう。


登拝道で見られる磐座


では、実際に登拝すると出会える磐座はどのようなものか。

登拝道の道中には、多くの岩石に注連縄が巻かれている光景に出会う。
奥津磐座を除いて、合計7ヶ所においてそのような磐座を確認することができた。
ただ、これらの岩石は先述した中山氏の挙げた26ヶ所から地点の外れたものが多い。
かつて神社が認定した磐座だけでなく、新たにまつられた磐座や、神社側ではなく篤信家の方によってまつられた磐座かもしれない可能性を記しておく。

まず、登拝口と山ノ神遺跡と三光の滝(篤信家によって整備された禊の滝)の3ポイントのほぼ中間に、最初の1ヶ所目に出会える。
ここは三光谷の入口に位置し、登拝口から徒歩約10分の地点である。

次に、三光の滝から尾根を約15分登った山腹に、杉の巨木と共に注連縄の結界が張られた岩群地帯がある。これが2ヶ所目。

さらにそこから5分ほど登った路傍に、人工的に小石を配して磐境状に仕立てた祭り場があり、賽銭も捧げられていた。これが3ヶ所目。

そして、やや視界の開けた広めの尾根を登り、傾斜がやや急になる坂の途中に複数の露岩があり、まつられている。これが4ヶ所目。

坂を登りきると、そこはもう山頂近くに達するが、そこに近接しあって3ヶ所、注連縄の巻かれた岩石がある。そのうち1ヶ所は、二重に注連縄が巻かれていた。

以上、合計7ヶ所の「磐座」と目される岩石群を文面で報告しておく。

山頂の奥津磐座


山頂には高宮神社という祠があり、大物主神の子・日向御子神をまつっている。

祠の周囲は池のように地形が窪んでいる。
旱魃などが起こった時にだけ人々が特別に参拝でき、降雨を祈れば必ず霊験があったといわれる場所で、江戸時代の入山記録も残っている。

先出の樋口氏によれば、高宮神社の南西と北西にFとGの2つの群があり、それは環状列石のような配置を見せる好資料と記している。
登拝道から外れるわけにはいかないので、目を凝らしながら山林の中を観察する程度だったが、そのような環状列石は確認できなかった。
ただ、山林に一部露岩が隠れているのを、高宮神社南西にて僅かながら確認することはできた。それがF群に該当するかどうかはわからない。

高宮神社は山頂にあるが、そこから東に50mほど進んだところに、三輪山磐座群の頂点に位置付けられる「奥津磐座」がある。

大小無数の黒光りした斑糲岩が群集している。
手前から拝んでいる限りでは、岩群の一番奥がどういう様子になっているのか見えない。
空間的な広がりを持つ磐座と言える。

群集の具合は、互いの岩石が高さ無関係で無造作に上下に重なり合いつつも、全体としては地山がほとんど見えないほどに岩石が間断なく敷き詰められており、整然とも雑然とも言えない群集状態である。
ちょうど賽銭箱の奥に位置する岩石は他よりも若干巨大で、外見も亀裂・岩陰を持ち印象的ではある。中心石という位置づけが正しいかは控えなければならない。

奥津磐座のさらに東には、東青木原や東大谷と呼ばれる場所があり、ここだけで9ヶ所の磐座が大神神社に認定されている。

以上、おびただしい磐座の報告となったが、一つの岩石に祭祀が集中することはなく、山から露出するあらゆる岩石に神性を見ようとする心が窺えるだろう。
地山から露わになった岩石が遍在的に神聖視されているという性質が、三輪山という神体山と、数多の祭祀遺跡(祭り場)との関係性をあらわしているように思えてならない。

次の章からは、山中から出て三輪山周辺の岩石祭祀事例を紹介していこう。


九日社


多紀理比売命・狭依理比売命・多岐津比売命をまつる神社。
樋口清之氏「三輪山上に於ける巨石群」(1927年)において、三輪山周辺の拝石の事例として挙げられている。
『桜井市文化財協会『平成12年度秋季特別展解説書 三輪山周辺の考古学』(2000年)の中では「陰陽石」として記載されている。

2体の岩塊が横に並んだ社だが、双方とも高さ50cmほどの小ぶりな規模であり、どれほどの旧状をとどめて、いつ頃からの祭祀跡なのかには検討の余地がある。
九日社の「ほぼ」真東に三輪山頂が位置している。

三輪山
九日社の「陰陽石」


綱越神社


祓戸大神をまつる神社。
桜井市文化財協会『平成12年度秋季特別展解説書 三輪山周辺の考古学』(2000年)に「磐座」との記載あり。

神社境内の一角に位置し、まつられていることは明らかだが詳細は不明。

三輪山
綱越神社の「磐座」


素佐男神社


樋口清之氏「三輪山上に於ける巨石群」(1927年)によると「薬師堂祇園社 二箇 伏」として報告され、岩石の名前は「夫婦岩」と書いている。
他に「回り石」という名前もある。この石の周りを3度回る儀礼が伝わっている。

三輪山
素佐男神社の「夫婦岩/周り石」


志貴御県坐神社


記紀の中で第10代崇神天皇が都を置いた「磯城瑞籬宮」の伝説上の場所とされる。
社殿脇に4個の丸石が横一列に並んでおり、4個の石の手前に玉垣と石鳥居が付設されている。
俗に「磐境」と呼ばれる比較的有名な存在だが、それに比して具体的ないわれなどは不明。

三輪山
玉垣の奥に4体の岩石が横並びに置かれている


平等寺


寺伝によれば、敏達天皇10年(581年)に聖徳太子が賊徒平定後に十二面観音菩薩を本尊として開基した大三輪寺といわれ、歴史的には鎌倉時代以降に大神神社の神宮寺として栄えたという。

境内の最奥部に「岩屋不動」と「磐座」がある。

「岩屋不動」は人工的に切り石を組んだ石窟の内部に、不動明王の石仏と梵字「ア」(広く仏を表す梵字)の刻まれた石碑と黒色化の進んだ立石の計3つを安置する。

「磐座」は「影向石」の名もあり、地主神をまつる場という。「ドルメン」という形容がぴったりくる構造物だ。

三輪山
岩屋不動内部

三輪山
磐座/影向石。上の岩屋不動とまつり方が違う。


大直禰子神社


大神神社の表参道の途中を北側に曲がると大直禰子神社が鎮座する。

主祭神の大直禰子命(大田田根子命)は、崇神天皇の時代に任命された、大神神社の最初の神官だという。三輪氏の始祖で、大物主神の子孫にも当たるので、若宮として位置付けられた。
明治時代の神仏分離の前までは「大神寺」「大御輪寺」「三輪寺」といい、大神神社の神宮寺としての位置付けでもあった。

この神社の境内には「神饌石」と「安産岩」がある。
神饌石は、正月元旦の神火祭の時に、若宮社のすぐ東方にある久延彦神社に対する神饌(神への供え物)を置く石として使われている。
久延彦神社を遥拝する時はこの石の地点から遥拝するように、という話もある。

神饌石は、かつてはこのような使われ方をされておらず、以前は境内に転がっているだけだったともいわれている。
少なくとも現在においては、岩石自体が神そのものという訳ではないが、祭祀行為に用いられ神聖視されているという岩石祭祀事例である。 

安産岩については、名称から安産に霊験のある岩石と推測されるが詳細不明。

三輪山
神饌石

三輪山
安産岩


夫婦岩


大神神社の表参道を進んでいくと、参道脇に「夫婦岩(めおといわ)」と看板の立つ、2個の草履状の岩石が柵内に安置されている。

「夫婦岩」の名が示すようにいわゆる縁結び・安産の霊験を持つとされる岩石だが、昔は「影向岩(ようごういわ)」「聖天岩(しょうてんいわ)」という名称だったことがわかっている。

「影向」「聖天」という名から、信仰対象が顕現する岩石だったことが伝わる。
また、江戸時代の神社絵図を見ると、参道の中央を塞ぐように「聖天岩」と記載されている。

参道脇にある現在とは「場所」も「名前」も「性格」も異なっていたことがわかる。それはすなわち、岩石に対する認識の仕方が時代で異なっていたことを示す。
他の岩石祭祀の事例を研究する時も、同様の経緯をたどったケースが多く潜んでいるのではないかという啓発資料にもなりうる。

三輪山
夫婦岩/影向岩/聖天岩


磐座神社


名前の通り、元は磐座だった岩石を神体としてまつる。
玉垣の中には、人頭大ほどの大きさしかない岩石が安置されている。
巨石や巨岩でなくても、神聖視される岩石は存在する。この事実を現代人に常に突きつける存在である。

なお、『大神神社摂末社由緒調査書』(1877年)によれば、磐座神社は別称として、三穂神社・石神皇后神社・岩上皇后社・岩倉社・岩倉祠・岩上宮・石上社があったことが明らかにされている。
三穂神社・皇后神社の名から、かつては大物主命の后である三穂津姫命を祭神とする神社だったようだ。
岩上・石上からは、岩神・石神に通ずる信仰もあったことを窺わせる。

三輪山
磐座神社

昭和3年の磐座神社。岩石周囲の玉垣はなかった。(「三輪山調査, 貳 □板16~30, 26 三輪調査(昭和三年), 岩座神社と馬場 山の神」/國學院大學博物館所蔵/クリエイティブ・コモンズ・ライセンス済資料)

山ノ神遺跡


狭井神社から北東の方向は谷間になっていて、狭井川沿いに踏み跡が続いている。
この踏み跡を5分ほど進んでいくと、三輪山の裾部に山ノ神遺跡が存在する。

三輪山の磐座群は神聖不可侵のため基本的に学術調査ができないが、たまたまここは民間私有地であり、1918年に露岩の傍らから、総数数百点(そのほとんどは玉類)にも及ぶ祭祀遺物が偶然に見つかった。

最初の発見から調査までの3ヶ月の間に、巨石は原位置を動かされ盗掘を受けたらしいが、それでも調査によって見つかった遺物はおびただしく、祭祀用と推測される勾玉・滑石製模造品・土製模造品・各種土器などが出土した。

遺物の様子から、山ノ神遺跡は古墳時代中期初~後期初(4世紀後半~6世紀初頭)の間に祭祀が行なわれた遺跡と位置付けられている。
  • 4c後半~5c前半:碧玉製勾玉・剣形鉄製品・小形素文鏡など
  • 5c後半~6c初頭:滑石製模造品・土製模造品(鏡・剣・玉に類似した模造品が多い)

遺構自体も、主石となる巨石の周りを5体の小ぶりの岩石が取り囲む形で見つかり、それらの岩石の一帯には割石が敷き詰められ、人工的に地固めされていたと報告されている。
地固めのためだけではなく、視覚的に聖域であることをより強く明示する効果も意図したのかもしれない。

発掘当初は巨石は古墳の石室石材と見る声もあったが、現在は三輪山麓の磐座の遺跡という見方が定説となっている。
盗掘によって原位置からある程度は動かされていると仮定しても、古墳時代において人工的な配置・工法で設置されたと評価される磐座があることは大きい。

それに加えて考古学の歴史においても、古墳時代の磐座遺跡であると認定された最初のケースとして、山ノ神遺跡は学問史上も非常に重要な遺跡と言って間違いない。

三輪山
山ノ神遺跡

三輪山
現在の状態は後世の整備によるもので、発掘当時の配置状況とは異なる。


奥垣内遺跡


三輪山周辺で発掘調査がなされた磐座遺跡は、山ノ神遺跡だけではない。
知名度はなぜか格段に劣るが(多分見つかった年代が1965年と比較的新しいから?)、ここで紹介する奥垣内(おくがいと)遺跡も貴重な考古学成果を出している。

久延彦神社の鎮座する小丘から北に微高地が伸びていて、その北端に箕倉山という小丘があるが、その2つの小丘の中間地点あたりに本遺跡は位置する。

ここも民間地で、業者が温泉地開発をしようとここにあった露岩群に重機を入れたところ、露岩の1つに接して須恵器の大甕が出土した。この大甕の中を見ると、さらに小ぶりの杯・高杯・壺など十数点に上る須恵器が収納されていた。

大甕の中には土器だけではなく、多数の滑石製の玉も入っていた。そして大甕自体は下半分を土中に埋めた状態だった。ただ、これが意図的に埋置されたものか自然に埋まったものなのかの見極めが難しい。
大甕以外にも、その周りには滑石製の有孔円板(鏡の模造品と考えられる品)や土師器片などが散布していた。

須恵器の特徴などから、これらの遺物のほとんどは、古墳時代中期末~後期初頭(5世紀後半~6世紀初頭)に製作されたものだと推定されている。ただ一部、中期初頭(4世紀末~5世紀前半)に遡りうる土器も見られた。

ちなみに、現在ここは神社の所有地になっていて、この遺跡の発見を記念して現地に軽く復元がなされている。
といっても下写真の通り、たくさんあっただろう露岩群のうち2個の岩石を公園の中に置いているだけで、元々の露岩状態のよすがを偲ぶことは難しい。

さらに余談だが、この跡地の傍らの地面を軽く観察していたら、須恵器の破片が見つかった。
私が観察した限りだが、古墳時代後期後~末(6世紀後~7世紀初)ぐらいの須恵器杯の特徴に類似していた。奥垣内祭祀遺跡の盛行時期よりかは少し時期が新しいもののようである。

三輪山
奥垣内遺跡


檜原神社


大神神社の神社群では、檜原(ひばら)神社は最も北に位置する。
大神神社の摂社群の中でも社格が高く、元伊勢伝承地「倭笠縫邑」の伝説地としても知られる。

檜原神社には大神神社と同様、本殿はなく三輪山が本殿であり、三輪独自の鳥居形態である「三輪鳥居」と、その奥にある神籬(ひもろぎ)が祭祀施設として整えられている。
三輪鳥居の奥にある神籬が岩石で構築されているのが肉眼でも拝める。

ただ、現在ある施設は戦後の再建であり、寛政年間(1789-1800年)の大強風で元来の祭祀場は崩壊したと伝わる。元来の神籬の形態が現在と同様かは不明である。

三輪山
檜原神社


参考文献


  • 桜井市文化財協会・編 2000 『平成12年度秋季特別展解説書 三輪山周辺の考古学』(桜井市立埋蔵文化財センター展示図録 第20冊)
  • 中山和敬 1999 『大神神社<改訂新版>』 学生社
  • 樋口清之 1927 「三輪山上に於ける巨石群」『考古学研究』1
  • 樋口清之 1928 「奈良県三輪町山ノ神遺跡の研究」(上・下)『考古学雑誌』18-10・12
  • 前坂尚志 1993 「山ノ神遺跡」「奥垣内遺跡」 東日本埋蔵文化財研究会(編)『古墳時代の祭祀-祭祀関係の遺跡と遺物-』《第Ⅲ分冊-西日本編-》
  • 「大場磐雄博士写真資料」(國學院大學デジタルミュージアム)https://d-museum.kokugakuin.ac.jp/search_by_word/id=18071

2019年3月10日

建鉾山遺跡(福島県白河市)


福島県白河市表郷高木字高野峯

古墳時代中期以降の祭祀遺跡。
この遺跡については、拙著『岩石を信仰していた日本人』の一稿「建鉾山(福島県白河市) 巨岩から離れた場所で祭祀をした理由」で紹介しているので、詳しくはそちらを参考にしていただきたい。

このページでは、紙幅の都合上掲載できなかった建鉾山の写真を中心に、補足的な話をしていきたいと思う。

遺跡は、山頂の「建鉾石」、山腹の「巨岩」と呼ばれる一大巨岩、そして山裾の一画にある「御宝前」と呼ばれるエリアの計3ヶ所から構成されている。順に紹介していこう。

建鉾山の山容


建鉾山
建鉾山は、思わずハッとする三角山というほかない。
直線的な三角形というわけではないが、周辺から隔絶された感のある、三角をやや扁平に崩した傘形の山容は目に止まる。
この方向だけでなく、別の方向から見てもそれぞれ印象的な姿を見せる。
こういう山を神奈備山と形容することが多い。

建鉾山の山頂


建鉾山
さっそく山頂である。石祠に神酒が献じられている。
標高402mだが、麓からの比高差は100mほどなので到達は苦ではない。
物理的な高さが神聖性となった山ではない。
三角山の山頂に露呈する岩盤という環境面。無縁ではないだろう。

建鉾山
建鉾山頂上からの眺めはとても抜けが良い。
今も広大な田園地帯が守られている。古墳時代当時はどうだっただろうか。

建鉾山
山頂に屹立する建鉾石。
頂上側から見ると、頭がニョキッと出ている岩塊だが、人の背丈ほどもないのでさしたる巨石ではない。
しかし、裏側(=斜面側)に回ると・・・


建鉾山
このように下斜面から仰ぐと、建鉾石から根続きで岩盤が広がっていることがわかり、建鉾山は別の姿を見せ始める。
登山口から正規の登山道を辿っているだけだと、この姿を拝むことはできない。

建鉾山の山腹にある「巨岩」


建鉾山
さて、次に第二の聖地「山腹の巨岩」へ移る。
建鉾山遺跡の発掘報告書で「巨岩」と表記された場所で、建鉾山の祭祀の中心ではないかと推測される存在である。
ここも、正規の登山道からは外れているので、目的を持った人でないと意識することはないだろう。
報告書の図面の位置から、当たりをつけて等高線を辿ると、上の巨岩の「端っこ」が見えてくる。

建鉾山
この巨岩の中心部分に石碑が一つ立っている。
石碑の表面には「大澤権現」と刻まれている。
刻年不明、由来不明である。
古墳時代遺跡当時に遡るものでは当然ないが、この巨岩を神聖視する一つの証である。

石碑の後ろに注目してほしいが、 巨岩の裾部に狭いながら洞穴状のスペースが開いている。
中は確認していないが、巨岩に内部スペースがあるということを祭祀者はどのように想像を広げただろうか。

建鉾山
これが巨岩の全容である。
縮尺が掴みにくいと思うが、写真中央下部に先ほどの石碑が見えるのがわかるだろうか。
石碑と比べてもらうと、巨岩の縦横規模がイメージできるのではないか。
しかも、写真からは見えないが、この巨岩の奥側はそのまま建鉾石までの岩盤に根続きになっている。
つまり、中腹から頂上にかけて岩が露呈する圧倒的スケールの一大巨岩なのだ。

建鉾山
巨岩をさらに引きで撮影した写真。写真奥方にうっすらと見えるのが、先ほどの巨岩である。
巨岩の周辺も、大小の露岩群が分布している。
この巨岩からさらに斜面を下に下っていくと、第三の聖地「御宝前」に到達する。

建鉾山の山裾にある「御宝前」


建鉾山
「御宝前」の上端部。
 (発掘報告書の図面からのおおよその推定)

山腹尾根の稜線が見える位置に、小ぶりの岩塊が転がっている。地盤からは浮いているので、元は上斜面からの転石だろう。
斜面の奥方にうっすらと「巨岩」の端っこが見えている。
つまり、「御宝前」は「巨岩」がはっきり見えるところではなく、見えなさそうで見ようと思えば見えるという微妙な立地に築かれた祭祀場である。

建鉾山
「御宝前」は江戸時代の絵図に描かれた聖地で、かつてはここまで神輿を運ぶ祭礼があったという。古墳時代の祭祀遺物が出土した建鉾山遺跡高木地区とは、この「御宝前」のことである。

古墳時代祭祀から江戸時代祭礼まで連綿として祭祀が続いていたと決めつけるにはまだ間をつなぐ証拠がないが、言語化できない神聖視がこの場に二つの時代にあったことだけは揺るぎない。

建鉾山
「御宝前」エリアの最下端あたり。
図面にも「御宝前」に大小の露岩が分布している様子が図示されているが、おそらくそれに相当する岩塊が上写真ではないか。
ここまで来ると「山腹の巨岩」はほとんど見えない。
ほとんど山裾の位置まで来ている。

古墳時代の山岳祭祀は山麓からの遥拝祭祀だったというのが通説的見解だが、麓という表現よりは、山の入口は突破して少し踏み込んでいる神の領域側に祭祀場を設けている印象だ。
古墳時代当時、ここが山の入口と認識されていたか、すでに山のある程度立ち入った中腹という認識だったかはわからない。


さて、3つの聖地を紹介したが、このうち山腹の一大巨岩と山裾~山腹の御宝前の関係について最新の私見を記しておく。

まず、一大巨岩は磐座と石神のどちらのほうがふさわしいか。
磐座は神を迎える場でありそこで祭祀が行われる性質の岩石であるため、一大巨岩が磐座であるならすぐ手前で祭祀遺物が見つかってしかるべきなのにそうなっていない。この点から、一大巨岩を磐座をみなす立場には否定的である。

拙著で石神説に肯定的なのは、御宝前に祭祀具を置いた人々が、1分も山の中に足を踏み入れれば認識できる一大巨岩を知らなかったわけがなく、この、あえて距離を離した絶妙な位置で祭祀した事実を、石神を反映した貴重な考古資料ではないかと評価するものである。

御宝前を祭祀後の廃棄跡と解釈することもできるだろうが、その場合気になるのは、御宝前が一大巨岩の直下にあり、祭祀を行う参道上にあるのではないかという点である。廃棄跡ならもう少し場所をずらして「見えない位置」に設けるのではないか。この辺りは他例の祭祀遺跡と廃棄遺構の位置関係の研究深化が必要である。
「御宝前」というネーミングは後世のものだが、信仰対象をまつる場であり廃棄の場としての認知にはなっていない。

御宝前は一大巨岩の下斜面で傾斜変換点に位置するから、おそらく一大巨岩から剥落した転石落石が固まっておりそれが磐境の観を呈する。
『出雲国風土記』には大なる石神に小石神が付随したという記述があり、一大巨岩と御宝前の岩石群は石神と小石神の関係も想起させる。

参考文献

吉川宗明 「建鉾山(福島県白河市) 巨岩から離れた場所で祭祀をした理由」 『岩石を信仰していた日本人―石神・磐座・磐境・奇岩・巨石と呼ばれるものの研究―』 遊タイム出版 2011年

静之神社(埼玉県飯能市)


埼玉県飯能市坂元字小床向

神社の読み方が文献などにルビがなくわからない。「しずのじんじゃ」だろうか。

静之神社は小床(こいか)と呼ばれる集落の鎮守となっている。
小床地区の一番奥にある建物で、この神社から奥は「子の権現」(足腰・火災に霊験ありの古刹)の登山道が続く。

静之神社

静之神社

写真を見てのとおり、岩盤の上に建つ神社である。

『飯能市史』(1985年)には「岩をそのままにして、その上に社を苦心して建てたもの」とある。
多少とはいえ岩盤の前には平地もあるのに、あえて岩盤の上に神社を設けているあたり、岩盤と切り離せぬ信仰があったことを窺わせる。

静之神社

こう見ると、岩盤の上に建つというより、岩に取り込まれているかのようである。

岩盤の上面に踊り場のような平坦面があり、そこに社殿を建てている。
そして、社殿の背後は庇状に岩が重なり合い、岩屋のような空間を形成している。社殿自体がこの窟に半ば取り込まれている。



『飯能市史』によると、小床の地名はこの神社が「神の床」たる岩の上に建つことから由来するものではないかと指摘している。
床という一字には多様な解釈が認められるので、この一説にすぐ肯くことはできない。

しかし、たとえば奈良県の平群石床神社の「石床」が、磐座と同義であるという神道考古学以来の研究解釈を参考にするならば、小床の「床」も単なる床という意味ではなく、この岩を「神の降り立つ場所」とみなした表現かもしれない。
現に、静之神社は岩盤の上面が平坦面を形成している。

また、静之神社の立地も興味深い。集落の最奥で、本格的に山道に入る一歩手前に立地するという点では、山と里の境界に立つ祭場であり、神を集落に迎えるための「神の床」であったという蓋然性を高めている。

今はその岩盤に人為的な階段状加工が施され、岩盤上の社殿に参れるようになっている。
神が降りる床は、当初、姿が見えない神を迎える祭祀だったが、現在は社殿という可視化された祭祀対象に置き換わった。

参考文献

織戸市郎 「1389.小床向」 飯能市史編集委員会・編 『地名・姓氏』(飯能市史 資料編11) 飯能市役所 1985年

2019年3月4日

水之尾毘沙門天(神奈川県小田原市)


神奈川県小田原市水之尾

水之尾地区は小田原石の産地として知られ、この一帯を石切山と呼んでいた。

戦国時代、北条氏が小田原城の石垣の石材として、当地の山肌の露岩を切り出そうとした。
すると、露岩から突如として血が流れ出た。

その夜、ある人の夢枕に「私は毘沙門天である。私の身を傷つけるな。そうすればお前たちの守護神となろう」と告げたことから、石切は中止されて露岩そのものを毘沙門天としてまつった。

元禄15年(1702年)には、当時の小田原城主がこの話を聞いて毘沙門堂を建て、北向毘沙門天とも称した。

寅年の4月に本尊が開帳されるというが、当地の毘沙門天はたとえば磨崖仏のように岩肌に仏の姿を刻することはなく、自然石をそのまま毘沙門天とみなした自然石信仰であり珍しい。

毘沙門天堂の石にイボをこすりつけるとイボが治るという信仰も付帯しており、イボとり石としても知られる。

水之尾毘沙門天
水之尾毘沙門天。鳥居が立つお堂で神仏習合の様相。


水之尾毘沙門天
岩肌に接して本堂が建てられ、毘沙門天とされる露岩本体の様子は開帳の時を待つほかない。


水之尾毘沙門天

2019年3月3日

赤城山周辺の岩石信仰~古墳時代の祭祀遺跡と流れ山~



櫃石(ひついし) 前橋市三夜沢町

群馬県の赤城山と言えば、赤城山中にある櫃石遺跡が古墳時代の磐座遺跡として有名である。

三夜沢赤城神社から約1時間登った場所で、赤城山の一峰である荒山の尾根南端に立地している。

そこには、櫃石と呼ばれる幅約5m、高さ約3mの岩石がある。
この岩石は、崇神天皇の第一皇子である豊城入彦命が東国平定に来た際、ここで天神地祇を奉祭したという伝承をもつ。

ここから手捏土器を中心とした土器類、滑石製玉類(勾玉・管玉・臼玉)、剣形模造品・有孔円板などの石製模造品が出土。
遺物の製作時期はおよそ5世紀後半~6世紀半ばの間に位置付けられている。

玉・剣・鏡の古代祭祀3点セットの模造品が揃っていること、赤城山の山腹という立地、単独の岩石であることから、ここは赤城山に対する磐座祭祀の遺跡だと考えられている(大場磐雄「赤城神の考古学的考察」1942年)。

山の麓ではなく、赤城山の中にある程度入った山腹まで立ち入った上で、山の神を迎えるという磐座の場と言えるだろう。

赤城山南麓
三夜沢赤城神社境内の看板より

西大室丸山遺跡 前橋市西大室町丸山


かつて、赤城山南麓には周辺より約8m高い「丸山」と呼ばれる流れ山があった。

地表には数個の巨石が露出していた。
この流れ山を削って田畑に利用するため、1990年に発掘調査が行われた。
露出していた巨石の下を掘り進んでいったところ岩盤にぶつかり、その周辺から総数10000点を越す遺物が出土した。

遺物の大半は石製臼玉であり、続いて剣形模造品・有孔円板・勾玉などが出土した。若干ながら管玉・紡錘車・刀子・鎌の石製模造品も出土した。
原石剥片や未完成品も僅かながらあることから、この場所で祭祀具を製作していた可能性もあるという。

また、ガラス玉と鉄器片が少数出土。
土器については土師器(椀・杯・高杯など)、手捏土器、須恵器(瓦泉・甕)が出土。瓦泉の形態から時期はTK208に併行すると考えられている。土器の型式から、おおよそ実年代で5世紀の中葉から末にかけての時間幅とされている。

遺物の分布は、平面的にも垂直的にも比較的まんべんなく見つかったが、特に遺跡の中央から北部にかけて出土量が多かったと報告されている。
岩盤の露頭は遺跡地の東部を中心としているが、ここからは少量の遺物出土だった。また、遺跡の南部~西部も遺物出土は少量だった。
以上をまとめると、出土遺物は中央~北部と北側寄り、つまり赤城山側に多い傾向が見られたことは注目したい。

岩盤の北東で、岩石の周囲を掘って土坑とした遺構が1ヶ所、岩盤の北にて2ヶ所の土坑、岩盤の南にて大規模な落ち込みが検出されている。
土坑からの遺物出土は少なく、これらの遺構が何なのかは分かっていない。

この巨石群での祭祀が終了した後、巨石群の南方に3基の古墳が築造された。
古墳から出土した須恵器の年代がTK43に併行する時期と考えられており、このことから実年代で6世紀末~7世紀前半あたりのものではないかと推測される。巨石群の祭祀が終わってから最大100年ほどたって、古墳が築造されたという流れになる。

遺跡はほ場整備事業により消滅したため、現在、現地には何もよすがを示すものは残っていない。

西大室丸山遺跡の発掘状況スケッチ

赤城山南麓
西大室丸山遺跡跡地の辺りから赤城山を望む(写真中央の森は産泰神社の社叢)



荒砥荒子遺跡 前橋市荒子町


西大室丸山遺跡から西へ500mの所に、荒砥荒子遺跡が見つかっている。

方形の濠の内部に柵列及び建物遺構を有した、いわゆる豪族居館遺跡である。
5世紀代の遺跡と推測され、規模としては中~小規模のものとして分類されている。

注目すべきは、西大室丸山遺跡と荒砥荒子遺跡の圧倒的な近さ。時代も近接している。
岩石祭祀遺構と豪族居館との関係を考える上において、重要な知見を提供してくれるのが隣の市にある三ッ寺Ⅰ遺跡(群馬県高崎市)である。

―――

三ッ寺Ⅰ遺跡の祭祀空間は居館内の西部に位置しており、居館西方には聖山として著名な榛名山がそびえている。2基の石敷遺構を結ぶ流水溝の延長線上にこの榛名山が位置することを考えると、この石敷遺構は榛名山を信仰対象として、それを遥拝しながら祭祀を行なう施設だったのではないかと推測している。
石敷遺構と榛名山の間には柵列があるため、実際の祭祀の場面で榛名山が望めたかどうかは検討の余地があるが、報告書内に収められている前沢和之「三ッ寺Ⅰ遺跡の性格と意義」(1989年)にも「榛名山に面した西濠からの出土遺物に、祭祀に関係するものが多いのは注目すべき点」であると述べている。

※拙稿「岩石祭祀遺跡に関する包括的考察」(2003年)より。

―――

三ッ寺Ⅰ遺跡の担い手が、榛名山に対して麓で祭祀行為を行なっていた可能性を提起したものだが、それと同じ構図が、この荒砥荒子遺跡-西大室丸山遺跡の担い手にも表出しているのではないか。

ただし、違いが1つある。
三ッ寺Ⅰ遺跡の場合は居館内に石敷遺構という祭祀の場を設けているのに対し、荒砥荒子遺跡の場合は居館内に祭祀の場を有さず、少し離れた流れ山頂部の巨石群(=西大室丸山遺跡)を祭祀の場としていたという点である。

これは何に起因する差なのだろうか?
西田健彦氏は報告書『舞台・西大室丸山-』の中で、中小規模の豪族は祭祀の場を居館内に取り込まない段階だったということで、豪族の勢力格差が祭祀形態の差として現れた可能性を指摘している。

だが、必ずしもそれだけが可能性ではない。
周辺一帯の岩石露出率の差が、単に祭祀形態の差として表れただけなのかもしれない。要するに、西大室丸山の巨石群が格好の祭祀の場としてあるから、荒砥荒子遺跡の中に祭祀場を設ける必要性がなかったというだけの話かもしれない。三ッ寺Ⅰ遺跡には適当な自然の祭祀場がなかったので、居館内に人為的に構築したといった見方である。

また、三ッ寺Ⅰ遺跡の場合は2基の石敷遺構を結ぶ流水溝があるように、水を祭祀ツールとして用いている。
一方の西大室丸山遺跡には、遺跡内に今のところ水に関わるものが見当たらない。
神沢川などが近くに流れていますが、そことの関係も検討課題の1つと言える。

赤城山南麓
荒砥荒子遺跡の出土地あたり


大室古墳群 前橋市西大室町

西大室丸山遺跡から北東、同じ町内にある古墳群で、史跡公園化されている。

全長100mを越す、前二子古墳・中二子古墳・後二子古墳の3基の前方後円墳を中心にして、6世紀代に順次築造されていった10基ほどの古墳群。

6世紀代ということは、西大室丸山遺跡の岩石祭祀や荒子荒砥遺跡がその営みを終了した後であり、岩石祭祀としては櫃石遺跡と重複する時期の墓となる。

古墳群の内部には、自然の丘を掘削して、その中から石室石材の石採りを行なったと推測される陥没地形が残っている。
周囲にある流れ山の岩石に手を付けず、地中の岩石を取り出して石材に利用していたということだろうか。

赤城山南麓
大室古墳群にある石採り山



七ツ石(ななついし) 前橋市粕川町深

七ツ石雷電神社の境内にある。
大小の岩の群れの上に石祠を安置し、これ自体を神社としてまつっている。

由来を調べたかぎりでは不詳である。
周辺には弥生時代~古墳前期にかけての住居址が20ヶ所以上、小古墳が100基以上見つかっている。

『共同研究「古代の祭祀と信仰」附篇 祭祀関係遺物出土地名表』(1985年)によれば、「巨石群があり、附近から祭祀遺物が多数出土したというが詳細は不明」と記述されている。

そのため、七ツ石祭祀遺跡という名でも知られるが、具体的な出土遺物の内訳は不明点が多い。縄文土器も伴出したという。

赤城山南麓
七ツ石



産泰神社(さんたいじんじゃ) 前橋市下大屋町

産泰神社は、西大室丸山遺跡の北に位置する。
西大室丸山遺跡から見ると、産泰神社越しに赤城山(櫃石)を北に望むという事実がある。

社殿の背後に「石山」と称される巨石の群れがある。
赤城山の岩屑なだれが集積した名残である。

赤城山南麓
産泰神社の流れ山


1つ1つの岩石には、影形石・舟石・硯石・磁石石などの名前が付いているという(二葉屋『群馬県上野国勢多郡荒砥村大字下大屋、鎮座、産泰神社之景』1901年)。

石山には、窟のようになっている空間が2ヶ所あり、かつては「胎内くぐり」ができたらしい。現在は危険なため立入禁止となっている。

産泰神社の南参道脇には、全長46m前方後円墳の大黒塚古墳がある。
そして、神社がある丘の東側には、全長67m前方後円墳の伊勢山古墳があり、神社の北方には40基以上の小古墳が群集する。

明らかに、古墳時代にはこの石山の存在が人々に認識されていたと思われるが、人々はこの石山の岩石群を石室石材に利用することはなかったようだ。

一方で、この石山から祭祀用土器などの発見は聞かれず、古墳時代に祭祀の場所として利用されたという痕跡も見つかっていない。不思議な場所である。


石山観音 伊勢崎市下触

自治体は伊勢崎市に移ったが、西大室丸山遺跡から北へ進むと産泰神社、北東へ進むと大室古墳群、西へ進むと荒砥荒子遺跡、そして東へ進むと石山観音がある。

石山観音は延暦3年(784年)建立の寺伝をもつ。

本堂の裏手に、赤城山噴火活動による巨石群が集積しており、流れ山の一つである。
巨石群の存在がすなわち石山観音の語源と思われるが、この石山にまつわる伝承などは特に聞かれない。現地看板では「累岩」とも表現している。

赤城山南麓
石山観音の流れ山


周囲に石山古墳群などの小古墳が分布しており、ここも古墳時代から認知されていた巨石群であったことは間違いない。


八幡神社の硯石 前橋市鼻毛石町

八幡神社の境内に「硯石」がある。

言い伝えによれば、当地に来た源義家に、地元の村人が従軍したいと続々と名乗りを上げた。
そこで義家はこの石の窪みに溜まった水を硯にとり、従軍者名簿を記したといわれる。そこから硯石の名がある。

赤城山南麓
硯石(写真左手前)



鼻石 前橋市鼻毛石町

八幡神社の硯石のすぐ近くにある。

当地は「鼻毛石」という地名がついておりその由来と思われるが、岩石自体の正式名称は「鼻石」となっている。

鼻石の表面にある窪みをかき回すと雨が降ると信じられ、雨乞いの神と信じられた。
現在、鼻石の上面には石祠が置かれ、手前にはおそらく仏を彫刻したと思われる痕跡が残っている。

赤城山南麓
車道横にある鼻石



牛石 伊勢崎市五目牛町

赤城山噴火活動の流れ山である洞山の麓に牛石がある。

近くを流れる粕川が大洪水になった時、源義経の連れていた牛が洪水に流されて水死してしまい、義経は川を渡るのをあきらめ近くに一泊した。
その翌日現地を見てみると、水死した牛がまるで伏したような巨石に石化したという。義経はこれを牛石と名付けて、長く弔うようにしたという。

赤城山南麓
牛石




赤城山の南麓に分布する岩石信仰の地、そしてそれに関連する遺跡を紹介してきたが、いくつか気になるポイントが出てきたので最後にまとめておきたい。


1.西大室丸山遺跡の岩石祭祀の担い手は、荒砥荒子遺跡の豪族居館の勢力か?


5世紀半ばから末にかけて営まれたお互いの遺跡。
両遺跡の圧倒的な地理的近さ、時期が互いに重複していること、豪族居館には祭祀遺構が付帯することを考え合わせると、この可能性は高い。

2.西大室丸山遺跡の岩石祭祀が終了後、周辺の豪族居館も使用を終了したのか?


いずれの遺跡も6世紀に移る頃には活動を終了する。まさに一蓮托生の関係である。
荒砥荒子遺跡だけではなく、同じく豪族居館遺跡とされる梅木遺跡(前橋市西大室町梅木。大室古墳群の南東に位置)・丸山遺跡(前橋市泉沢町丸山)も5世紀代であり同時期の使用-終焉を辿っている。
ちなみに高崎市にある全国有数の豪族居館遺跡・三ッ寺Ⅰ遺跡も、やや遅れて6世紀前半には終焉を迎える。

それと入れ替わるように、5世紀後半から6世紀半ばの間に赤城山荒山中腹で櫃石遺跡の祭祀が始まり、6世紀初から末にかけて大室古墳群や伊勢山古墳など、全長100m前後の大型前方後円墳が順じ築造されるようになる。

この6世紀からの変動は、どのような歴史的背景によるものなのか?

これはすでに考古学の中で説明されており、まず1つは、6世紀初に2度起こったとされる榛名山の噴火が大きく影響している。
三ッ寺Ⅰ遺跡が何度も立て直そうとされながらも最終的に放棄された原因がこれによるものだと考えられている。そして、火山灰により埋没した集落遺跡なども見つかっている。
この被害状況は、火山活動の影響が軽微なものではなかったことを物語っている。
こうした環境変化を受けて、当地における場所利用の変化や、何らかの体制再構築が行なわれることになった。

また、急激に古墳規模が膨らんで、前方後円墳を軸とする墓制が敷かれたことを考えると、ヤマト王権の影響が色濃くなった一面も感じられる。


3.西大室丸山遺跡、産泰神社、七ツ石、石山観音。いずれも岩石信仰と古墳が同居していることをどう考えるか?

古墳と岩石信仰の問題は、かねがねこのサイトで提起してきた。

つまり、岩石に宿る神霊と古墳祭祀の対象である祖霊は、異なる神霊として認識されていたのか、一心同体的なものとして認識されていたのかという問題につながる。

三輪山のように、山の神の祭り場である磐座と祖霊の祭り場である古墳が、それぞれエリアを分けながら設けられていると指摘されている事例もあれば、今回の事例のように両者が同居しているというケースもある。

また「同居」と書いたが、同時並存ではなく、両者に時間の先後関係があったのではないかという可能性は十分ある。
それが明示できない場合も多かったのだが、西大室丸山遺跡の例を見る限り、岩石祭祀終了後に古墳築造の時間的順序を認めることができる。


4.流れ山の岩石祭祀事例はいずれも類似した外観を持ちながら、祭祀遺物が見つかっているのは西大室丸山遺跡のみということをどう考えるか?


単純に、発掘されている場所とされていない場所の違いかもしれない。

しかし、産泰神社や石山観音は、今も明確に隆々とした石山が姿を見せている。
西大室丸山遺跡は、石山の多くが埋没した状態の中で、10000点といわれる遺物が見つかった。

また、産泰神社・七ツ石・石山観音の3ヶ所は、今も社寺があって神聖な祭祀の場として機能しているのに対し、なぜか西大室丸山遺跡だけは後世にまつられることもなく、発掘前は桑畑・牧草地・採石の場となっている状況だった。
この違いは何だったのだろうか。

上記3ヶ所は今現在に至るまで聖所として人の手入れが加わっているからこそ、前代の遺物などは全て撤去撤収され、清浄にされたのかもしれない。
(それにしても、土器片や玉の1点ぐらい見つかっていてもいいものだが)

有機物(草木や布など)を使って祭祀をしていたので、土に還ってしまって今は残っていないのだろうか。
でも、西大室丸山遺跡・櫃石遺跡は、滑石製模造品に土器類という同質的な祭祀セットを共有しているというのに、その2点の中間に位置する産泰神社が、まったく異なる遺物組成の祭祀を行なっていたとは考えにくい。

いずれの場所も周辺に古墳が築造されていることから、当時すでに各々の岩石群は認知されていたはず。
そんな共通の条件の中で、どうして「遺物の見つかる場所と見つからない場所」に分かれるのか?
これは今しばらく結論を保留して、他地域の事例や資料をさらに集めていくことで解決したい長期的な課題である。


5.磐座になった岩石と石室石材になった岩石の違いは?


産泰神社と大室古墳群の項で触れた問題である。

地表に出ている流れ山の岩石を採らず、わざわざ地下を掘削して古墳の石室石材を採っている。
同じ「祭祀用岩石」に属すカテゴリーの中で、神祭り用と葬儀用に岩石の使い方が分けられてもいたというのだろうか。
それとも、神宿るとして石材利用から回避されたものと、そうでなかったものという選択があったのだろうか。


6.ラインの問題


最後に触れておきたい。

地図を見ると分かるが、西大室丸山遺跡-産泰神社-櫃石はほぼ真北の直線で結ぶことができる。
しかも、ややラインから外れるものの、硯石と鼻石という二つの岩石祭祀事例も近接している。

いわゆるレイ・ライン論(聖地線)のようなものを積極的に評価するのか、慎重に捉えるのか。

まず、西大室丸山遺跡や産泰神社にある巨石の集積群は、赤城山からなだれてきた火山岩や火山泥流により形成された「流れ山」によるものであり、いわばそこにある微高地及び石山は自然の営為によるものという事実がある。

だから、流れ山地形は自然成因によるものだからそこに人為性はない。
一方、櫃石や硯石・鼻毛石などの単体の岩石、そして赤城神社など神社の位置に関しては人為的な立地選択が可能である。
これらの位置を、産泰神社-西大室丸山遺跡のラインに沿うように並べた可能性はないか、という解釈もあるだろう。

しかし、そういったラインを作るんだという「人間の意図」があったとするなら、各ポイントはもっと直線ライン上に乗っていいだろう。
各ポイントの位置は直線で結べそうながら、微妙に中心線からバラバラで外れている。

そう考えると、このラインに見えそうなものはやはり結果的なものであり、これぐらいのことは十分偶然の範囲内、自然に起こりえるものであるということを逆に証明するケースなのではないかと私は感じる。
原位置からズレている可能性、地理的制約などの観点もあるだろうが、地理的な制約を言ってしまったら、そもそもライン引き作業はナンセンスだろう。それを超えた人為性にラインとしての意味がある。

私の中で重要視しているのは線を結ぶことではなくて、"実際に祭祀をしていたことがわかっている西大室丸山遺跡"から、信仰対象である赤城山を眺めた時、そこに同質の祭祀事例である産泰神社の石山が赤城山の手前の視界に来て、かつ、目の前ど真ん中にくるという現地の景観である。

自然が織り成すその"ライン"を、結果的に神の業として古代の人々が神聖視したり重要視するケースもあったかもしれない。
そういった人々の体感的な感覚を明らかにする方向での研究を見てみたい。


参考文献


大場磐雄「赤城神の考古学的考察」『神道考古学論攷』 葦牙書房 1943年

小野真一『祭祀遺跡』(考古学ライブラリー10)ニュー・サイエンス社 1982年

小板橋靖正「荒砥の産神のメッカ産泰神社(前橋市)」『赤城山麓の性神風土記』 あさを社 1985年

群馬県教育委員会文化財保護課・編 『舞台・西大室丸山-平成2年度荒砥北部遺跡群発掘調査報告-』 群馬県教育委員会 1991年

長井和雄「前橋の石」『特集 群馬の石と岩の伝説』(月刊郷土文化誌 上州路No.391) 2006年12月号

国立歴史民俗博物館・編 『共同研究「古代の祭祀と信仰」附篇 祭祀関係遺物出土地名表』(国立歴史民俗博物館研究報告 第7集) 第一法規出版 1985年