2025年9月15日

太刀山愛宕神社裏山の愛宕大権現(静岡県浜松市)

静岡県浜松市中央区舘山寺町 舘山寺

秋葉山舘山寺に接して太刀山愛宕神社が鎮座する(太刀山は舘山と同音)。

神社の裏には山道が続き、5分も登れば山頂の尾根筋に出る。そこには無数の岩塊が露頭し、一画に玉垣に囲われた石祠が存在する。太刀山愛宕神社の奥宮と目される。

愛宕大権現(太刀山愛宕神社奥宮)

石祠に捧げられた穴あき石

藤本浩一『磐座紀行』(1982年)では「館山寺・磐大権現」と題した一項を置いている。

いわく、『東海道名所図会』の絵図には山の西側に「磐大権現(権現岩)」と書き入れてある場所があり、岩石群の合間に社が挟まれた様子が描画されている。当地の岩石群がそれで、館山(かんざん)は神山に通ずることからここは神山の磐座ではなかったかと所感を述べている。

しかしながら、残念なことに藤本は誤読しており、『東海道名所図会』の絵図に記された文字は正確には「愛宕大権現」である。
下に寛政当時の版本を掲載する。

国立国会図書館デジタルコレクション『東海道名所図会』65コマ。 インターネット公開(保護期間満了)資料のため転載自由。

愛宕が縦書きでやや字が詰まり気味で書いてあるので「磐」の一字に誤認したのかもしれないが、それでもあまりに異なる字であり、「磐」であってほしいという固定観念に冒されていたようだ。

以上のことから、この地は愛宕大権現に関わる岩石群だったということが、歴史学的にもっとも古く遡れる評価だろう。


現地には、岩石の傍らに名前を冠した看板が建てられているものも多い。気づいたものをまとめておこう。

ながめ岩

見かえり岩

神付岩(かみつき岩)。「頭をカミゝして厄を落して下さい」の説明も付される。

寄仲岩。後ろの建屋の床下あたりに「木魚岩」なる岩石もあったらしいが見逃した。

初登岩。山頂尾根の岩塊で最大規模。「初登岩」というネーミングは他で聞かない。

天辺岩。山頂尾根に沿って屹立する岩石群を天辺に準えたものか。

くぐり岩

船岩

これらの名称は文献上で確認できていないが、現代に名付けられたものか、地元で古くから口伝で語り継がれてきた名称なのか、経緯がよくわからなくなり独り歩きする前にはっきりしたいところではある。

火穴

先出の藤本浩一は、同図会の「火穴」という場所も「大穴」と誤読している。

火穴は現在「舘山寺穴大師」「弘法穴」と呼ばれてまつられている場所で、弘法大師がここで修業して自作の石仏を安置し、舘山寺の開基につながったと伝えられる霊窟である。

穴大師入口部分

この岩穴であるが自然の洞穴ではなく、文化財上では舘山寺古墳・弘法穴古墳と呼ばれており、古墳時代後期の横穴式石室であることがわかっている。
大師の霊窟として奥は禁足地となっているので詳細不明なところもあるが、天井石が1個欠けているだけで石室の保存状態は極めて良好である。玄室に対して羨道が長いことが特徴だという(浜松史跡調査顕彰会『浜松の史跡』1977年)。

なお、舘山の山中には十数基の古墳の存在が伝わるというが、本古墳の他に古墳認定されているものはない。


参考文献

  • 藤本浩一『磐座紀行』向陽書房 1982年
  • 秋里籬島 編『東海道名所図会』上冊,吉川弘文館,明43. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/765194 (参照 2025-09-01)
  • 浜松史跡調査顕彰会 編『浜松の史跡』続編,浜松史跡調査顕彰会,1977.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9537735 (参照 2025-09-01)


2025年9月6日

野崎島王位石自然成因説について

テレビ東京9月5日放送番組「所でナンじゃこりゃ!?」の「王位石」のコーナーで取材協力しました。


王位石(おえいし)は、長崎県北松浦郡小値賀町の野崎島にある巨岩で、これが人工的に造られた構造物か自然の地形なのかという依頼でした。

王位石は巨石業界でも有名ですから存在を知っていましたが、私は現地に行ったことがありません。その時点で専門家として噴飯物だと思っていますが、自然説も人工説も適した人が見つからないということでお鉢が回ってきました。

人工説の方もいないんでしょうか。だれか地質畑の方かイワクラ巨石専門家の方、取材を受けてください…。


私は歴史系なので地質系の石は専門外ですと断りを入れたうえで、キュレーターという立場で回答させていただきました。その分、王位石を巡る諸説を調べて正確な情報を提供したつもりです。

実際の取材では約1時間30分話しました。放送では約1分に編集されています。

いろいろ語弊があると嫌なので、ここで補足説明させてください。


取材の打ち合わせ時、想定される質問を事前にいただいていたので、私がその時作成したメモ(回答集)をこちらに掲載いたします。

放送で実際に使われた部分を青字で表示しましたので、それでご理解を賜れば幸いです。


質問1「王位石は岩石信仰なのでしょうか?」

王位石は「生石」「湧出光明神」の異名をもち、石が生まれる、生長する石という信仰を有することから、岩石信仰の中でも「石神」(石そのものを神とする信仰)と呼ばれる種類に属する事例と思われます。

野崎島の沖ノ神島神社(沖津宮)と対岸・小値賀島の地ノ神島神社(辺津宮)を合わせて神島神社と呼ばれてきたので、野崎島のみならず近在の島々・島民にとっての聖地だったと思われます。


また、この在り方は沖ノ島の宗像大社における沖津宮・中津宮・辺津宮の考えと類似するものがあります。

沖ノ島では国家単位での祭祀の場として古墳時代以降の遺跡が見つかっていて、神島神社の神宝にも古墳時代の鉄剣がありましたので、野崎島の王位石も古墳時代以降に国家的な聖地としての位置づけもあったかもしれません(ただし王位石からは祭祀遺物は見つかっていません)。


質問2「王位石は自然にできたのか人工的なのか、どちらでしょうか?」

地質学の分野では、自然成因で説明可能といわれています。

であるとするならば、人工説が明確な証拠を出せない限り、私は自然成因説を支持します。


たとえば人工説には、岩の柱の上に笠石を置く方法としてこういう仮説があります。

岩の柱の後ろの隙間に盛り土をして、その盛り土の上で石を転がして岩の柱の上に乗せ、その後、盛り土を除去したという仮説です。

ならば、盛り土をして、その盛り土を撤去した作業の痕跡を証明する必要があります。それだけの大工事なら、土の乱れが地層として残っているかもしれません。

不用意に発掘調査はできませんが、地層を分析すればそれが自然の積み重なりなのか、人為的な攪乱がみられるのかなどの判断ができるかもしれません。しかし、現状としてそのような証拠はありません。

人工の手があるかないかですから、ある側に立つ人工説側が証拠を提示する必要があります。それがない限りは、自然成因説に立つのが科学的な姿勢だと思います。


また、大事なこととして技術力の証明がほしいです。

王位石をどの時代の構造物で想定するかによりますが、仮に縄文時代や弥生時代とするなら、金属器による工具がほとんどない時代ですから、そんな時代にそのような規模や技術力をもつ遺跡が他にもあるのかということです。こういう遺跡や遺物があるから、こういう規模の技術が可能だったと言える、というような。

できるかぎり考古学的に証明された遺跡で候補を挙げないと、王位石だけが突然変異のような扱いになり、それは非現実的で、その時代・文化の中で生まれたという説得力のある遺跡とは言えなくなるでしょう。

そういう意味では、人工説を唱える方に今挙げた課題を解明していただきたいと思っています。人工説を否定したいのではなく、説得されるのを待っているという立場です。


質問3「王位石の成り立ちを教えてください」

王位石は溶結凝灰岩とみなされています。

これは火山活動により生まれた岩石で、冷え固まった時に体積が小さくなって、その時に節理と言われる隙間が生まれます。

溶結凝灰岩の場合は柱状節理といって、柱のような形に風化・浸食していく節理があるそうです。


王位石の周りは森に覆われているので王位石だけがそこにあるように見えますが、島にはあちこちに岩盤が露出していて、野崎島の海中にも同じような柱状の岩石があるという話もあります(小値賀町郷土誌)。

このように王位石の岩の柱の群れは、元は一つの岩盤で、それが亀裂や風化を起こして、今は柱を複数立てたように見える自然の構造物と言えます。


では、岩の柱の上に横渡しになっている笠石はどうなのかというと、これも地質学的には自然成因で説明がなされています。

岩の柱のうちの1本が途中で折れて横倒しになったという説と、山の上から転がってきた岩石がここで止まったという説です。


質問4「石の上に石が乗るという偶然が起こるのでしょうか?」

王位石は山頂じゃなくて山腹にあるんですよね。ここがポイントだと思います。

日本列島の各地で、そのような別の石が乗っかった地形を挙げることができます。

  • 三重県の御在所岳にある地蔵岩
  • 岩手県遠野市の続石
  • 長崎県時津町の鯖くさらかし岩

いずれも山腹にあります。


これらは現状を見ると、下から上に積んだように見えますが、造山活動が起こる前は、もともとは岩石の頂面に地表面があったと考えると良いと思います。

その時代に上の斜面から別の岩石が転がって、下の岩盤にぶつかって止まった。その後、長い時間を経て周囲の脆い地形が削れていって、地中に埋まっていた岩盤が露出すると、結果として積み重なったように見えるということです。


質問5「王位石の前では方位磁石が狂うという話がありますがなぜでしょうか?」

高い木には雷が落ちるといいますが、同じように、高い所にそびえる岩や石にも雷が落ちやすいです。

雷が岩石に落ちると、その場所に本来あった地磁気に影響をおよぼして、岩石自体の磁性も変化するというケースが確認されています。


だから、山の中の岩石に近づくと方位磁石が狂う、不思議なパワースポットだという話を聞きますが、自然というものは常に安定しているものではなく、こういった雷などの日々の現象で環境変化するものとも言えます。

ですので、方位磁針が狂うのもある種当然で自然な現象だと私は受け止めています。

王位石はとりわけ立柱状にそびえる巨大構造物ですので、落雷が落ちやすいと思われます。雷が落ちた直後などに行くと、特に方位磁針は狂うのではないでしょうか。


私個人が注目しているのは、その現象自体が不思議ということではなく、そのような自然現象によって人間が不思議がったり、もしかしたらそのような磁気異常に無意識に影響を受けて、特殊な感情や精神状態が生まれるというヒトのメカニズムです。

そういった、ヒトの心理に影響を及ぼす条件がそろった自然環境というものが、人が聖地として崇めるようになった一因になったのかもしれません。


※番組放送では王位石の磁場が狂うという謎も取り上げられていましたが、私の回答はカットされていたので、磁場の謎は宙に浮いたまま番組終了しました。1分・1秒を大事にする番組編集のタイトさを感じましたが、このように色々話していましたのでフォローに代えさせてください。


出典

王位石についてはすでにいくつかの知見があります。今回の私の回答は下記ソースを紹介したものです。

  • 近藤忠・山口要八「野崎島巨石遺跡の紹介(長崎県北松浦郡小値賀町野崎郷のドルメン)」『考古学雑誌』第37巻第4号 1951年
  • 小値賀町郷土誌編纂委員会 編『小値賀町郷土誌』,小値賀町教育委員会,1978.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9773094 (参照 2025-09-06)
  • 本馬貞夫「神嶋神社と野崎島」(2020年2月4日中日新聞朝刊)
  • フジテレビ2023年8月2日放送番組「林修のニッポンドリル」における出水亨氏のコメント(Xに参考動画あり


2025年9月1日

TV出演のお知らせ(2025.9.5)

2025年9月5日(金) 19時25分~21時54分、テレビ東京系列「所でナンじゃこりゃ!?」に取材コメント放送予定(1分ほど?)です。

番組内容は番組ホームページの告知にてご覧ください。

「野崎島」のパートで出演予定です。


番組ホームページ
https://www.tv-tokyo.co.jp/broad_tvtokyo/program/detail/202509/23083_202509051925.html


2025年8月30日

御許山の三石/三ノ石/石体/石体権現(大分県宇佐市)



御許山の山頂、宇佐神宮奥宮大元神社の背後は永らく禁足地であるが、昭和14年に大場磐雄博士が拝観・撮影しているので資料紹介する。
(大場博士は当時、内務省神社局考証課に奉職していため全国各地の神社の宝物調査をおこなっており、各社の宮司も調査に公式協力していた)

後年、大場博士は下記のとおり語っている。

御許山あるいは大元山の石神で、この山は現在宇佐八幡宮からかなり離れて、南の方へ一里半か二里ばかり行った所にございまして、その頂上には三個の立石が立っております。これが宇佐八幡宮の元だといわれております。これは私も拝観いたしましたが、実際自然石がちょうど並んで三個立っておられます。(略)『八幡愚童訓』という本には、この石はやはり生き石で人体のように暖かみがあるというようなことが書いてあります。やはりそういう風に、特別な精霊をもっているのだ、と古代人は考えていたのだろうと思うのです。

大場磐雄 「日本に於ける石信仰の考古学的考察」 『國學院大學日本文化研究所紀要』第8輯 1961年 


國學院大學デジタルミュージアムが公開する「大場磐雄博士写真資料」には、本調査時に大場博士が撮影した写真もクリエイティブ・コモンズ・ライセンス済資料として公開されている。

宇佐神宮, 九 94~103 [乾板九 94~103], 99 宇佐神宮(昭和十四年七月~八月), 宇佐 八幡 神体/國學院大學博物館所蔵/クリエイティブ・コモンズ・ライセンス済資料

前掲に同じ

前掲に同じ

大場博士は、石が人体のように暖かみを持っているという伝説から、博士が唱えた石神・磐座・磐境の3つの分類のうち、「石神」の事例として評価している。


御許山・大元山は馬城峯(まきのみね)の別称も持ち、岩石の名も三石・三ノ石・石体・石体権現などの表現があるが人によって呼称がばらばらで確定していない。


また、三石を中心に禁足地内には数々の名称付きの岩石群が記録されている。

正和2年(1313年)成立の『八幡宇佐宮御託宣集』には、次の九つの岩石が絵図に注記されている。

  • 四 武内
  • 五 北辰
  • 六 善神王
  • 七 若宮
  • 八 白山
  • 九 善神王


一、二、三はいわゆる中心となる三石であり、やはり名称が特に固定されていない。

四~九は仏家による付会と見る説が濃厚だが、いずれにしても現在禁足地のため文献上に残る記録としてまとめておいた。


2025年8月24日

雨乞山の岩石信仰(愛知県田原市)

愛知県田原市石神町

雨乞山(標高233m)

雨乞山は海抜三百米で、頂上に小さな雨乞神社がある。この社には御神体として、石剣が奉祀してあったもので、夏日旱天が打ち続いて、水田が旱魃し農家の困る時は村中の者が参籠して、御祈祷をしたもので、幾日も打ち続いて、此の御神体なる石剣に湿気を帯びて来ると必らず降雨のあったもので、霊験あらたかな神として、信仰があつかった。
泉村々史編纂会 編『泉村々史』,泉村々史編纂会,1956. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2991712 (参照 2025-08-24)

石剣とはいうが、いわゆる弥生時代の磨製石剣のような整ったものとは異なり、写真(前掲書に掲載)をみるかぎりでは打製で扁平な刃先を成形したものである。剣という字のもつイメージとはまた異なる。

長さは約20cmとされ、人工遺物であることは間違いないが製作年代は確定していない模様である。
かつて考古学者の八幡一郎は、本石剣を東蒙古の石鍬に類似すると指摘した(八幡一郞「石鍬」『考古学雑誌』第31巻第3号 1941年)が、それ以降の本石剣の考古学的評価は情報収集不足につき不明である。

現在、石剣は石神町の自治会において保管されているとのことで、雨乞神社の現地からは移設されているが、文化財指定はされていない様子である。


さて、この石剣は雨乞神社の神体であり、祭祀の折に石剣が濡れてきたら雨が降るという超自然的存在だった。
雨乞山が存する石神町の「石神」はこの神体たる石剣に由来するという説が有力だが、石剣を安置した雨乞神社自体が巨岩の岩陰に鎮まることにも触れておきたい。

雨乞神社

岩穴状の空間に祠を安置する。古くはこの祠内に石剣をまつったということになる。


『渥美町史』歴史編上巻(渥美町 1991年)によれば雨乞神社は通称であり、正式には請雨社と呼ぶらしい。

当社は山頂からやや下ったところに位置しており、巨岩はそのまま現地性の岩盤として断続的に山頂へ続いている。これらの岩石が石剣奉祀以前からの石神の地名由来となった可能性も記しておく。

雨乞山頂上。登山口から40~50分で登頂可。

山腹にある「くちなし台」と呼ばれる場所(現地標示あり)


2025年8月21日

光岩山長楽寺の行者岩(静岡県浜松市)

静岡県浜松市浜名区細江町気賀

細江町気賀の長楽寺の北側にある「行者岩」と呼称される巨岩上から渥美窯製の経筒外容器を採集した。それらは細片であって復元は困難であるが、天白磐座遺跡出土の外容器と同型に属する資料であった。長楽寺は平安時代の開創と伝えられ、当初は行者岩直下の平坦地にあったといわれている。長楽寺の山号「光岩山」はチャート質で白色を呈する巨岩「行者岩」に由来することは間違いない。
辰巳和弘『引佐町の古墳文化5 天白磐座遺跡』引佐町教育委員会 1992年


行者岩の直下の平坦地とは、梅のトンネルを抜けた先に広がる「本堂跡」(観音堂跡)を指す。
ここには現在石塔が建つが、この石塔に向かって右奥にわかりづらいが登り道が続いており、この道を少し登れば舗装された車道に出る。

本堂跡

登り道から本堂跡背後を撮影。登り道の位置関係の参考として。

道が複数分岐するが、上地図のオレンジロード側から回り込むと、地図には図化されていないが航空写真だと行者岩頂上のすぐ近くまで蛇行する舗装道がある。ちょうど蛇行の折り返し地点から少し足を踏み入れるとすぐ行者岩の頂上である。

蛇行する舗装道の折り返し地点。写真左奥に入ると行者岩に到る。

行者岩頂部

行者岩からの眺望。浜名湖も見える。

行者岩の岩肌。岩崖である。

行者岩下部。「光岩」に相応しく白く輝く。

渭伊神社境内遺跡(天白磐座遺跡)と同型の経筒外容器が見つかったということから、12世紀後半~13世紀初頭の経塚遺跡として考古資料化できる。
そして、行者岩という自然岩(岩崖)を経塚として用いた岩石祭祀遺跡として評価することもできる。


麓の長楽寺裏には「満天星(どうだん)の庭」と称される名庭が広がるが、ここからも行者岩の岩肌を確認できる。植林繁茂前の往時には明瞭な岩山の景を望むことができただろう。

長楽寺庭園から望む行者岩(写真中央下)



2025年8月17日

金鑚神社・御嶽の岩石信仰(埼玉県児玉郡神川町)

埼玉県児玉郡神川町二ノ宮


鏡岩

御嶽(御岳・御嶽山)の中腹にあり、国指定特別天然記念物として著名な岩石である。

鏡岩

陽光が射すと岩肌がしっかり輝く(前の写真と比較)。晴天の午前中の訪問をお薦めする。

地質的な詳細および伝説面も人口膾炙しており本記事であらためて詳述はしないが、岩石の精神的性質をまとめると次のようになる。

  • 鏡のように人影が映る岩石として知られ、奇異の怪石として恐れられた。
  • 心の悪しき者が向かうと岩肌が曇り、善い心の持ち主が向かうと岩肌が澄む。
  • 鏡岩の岩肌に落城する高崎城の姿が映り、それを見た落武者たちが憤慨して松明で岩肌をいぶしたとも、敵に見つからないようにするためにいぶしたともいう。


光り輝く岩肌に対して畏怖や忌避の心理が読み取れるが、たとえば信仰の対象としての神聖視とまでは直接的には読み取れないことに留意したい。

麓に武蔵国二ノ宮の金鑚神社が鎮座することから、金鑚神社のご神体石のように言及される例も見受けられるが、金鑚神社が特段の神事を行う対象とはなっていない。


神職家の方の談として、かつては子どもたちが滑り台のように遊んでいたことや、昭和30年代に起こった石のブームで鏡岩を切り欠く人達がいたので今のように鉄柵で囲った話も聞き取りされている(林 2000年)。

親しみをもって大切にされてきた岩石であることは伝わるが、神社信仰の中心という役割を担っていたわけではないことがわかる。


もちろん、かつては岩石信仰の場だったという可能性と、今残る奇異・忌避の伝説はその残滓だったとみなす立場までは否定しきれない。

しかしその場合でも、金鑚神社が神体山としてまつるのは鏡岩が存する御嶽の方向ではなく、北にそびえる御室山(御室ヶ嶽)の方向であることに何らかの説明が必要だろう。


長い歴史の中で鏡岩を神聖視した人もゼロではなかっただろうと容易に想像されるが、記録に忠実であるなら、歴史学的な資料の扱いとしては信仰というより特別視(畏怖・忌避)の事例として把握することが現状望ましい。


日本武尊の火金(火打金

金鑚神社の「かなさな」は「金砂」から由来するとみなされており、日本武尊が自らの火鑚金(火打金)を御室山に埋納したという神社創建由来が伝わる。

金鑚神社における岩石信仰とは、正確に言えばこの火鑚金(火打石)ということになる。


山中にどのあたりが埋納地なのかという位置や実在の有無については不明であるが、山中の岩石は鉄分を多分に含み、実際に鉱石の採掘坑も確認されているという(岡本 2003年)。

御室山・御嶽の一帯が金属採掘の地として重要視され、鉱石を産む山として山岳信仰と岩石信仰たる金鑚神社信仰が成立したことは肯けるところだろう。


弁慶穴/弁慶の隠れ岩

御嶽頂上は岩山となっているが、その岩山を構成する岩盤の下部に形成された岩陰。

弁慶が奥州へ逃れる時にこの穴の中で一夜を過ごしたという(山崎 1986年)。

弁慶穴

なお、現地看板によると弁慶穴の下東に「地蔵穴」なる別の岩穴があり地蔵石仏を安置していたらしいが、その場所は情報不足につき未確認である。


御嶽の仏教系岩石信仰

御嶽は中近世に修験道の行場となり、山名のとおりその後は木曽御嶽山信仰の影響も受けた。

御嶽の山頂には「奥宮」の石祠が設けられているが、岩山の手前には平坦地が広がり、この辺りに護摩壇が形成されていたという。

御嶽山頂の岩山

岩山手前に形成された平坦面と奥宮石祠

また、山中には今も70体余りの石仏が確認されているほか、「袖すり岩」「胎内くぐり」と呼ばれる岩場も存在するという(位置不明)。

御嶽の石仏群(一部。場所は原位置ではなく移動されている)

現地看板。ここにしか載っていない存在が「地蔵穴」「袖すり岩」「胎内くぐり」


駒繋ぎ石

源義家が馬を繋いだ石と伝わる。金鑚神社境内にある岩石だが見逃した。

岡本一雄『金鑚神社』(2003年)には「義家橋と駒繋ぎ石(手前左)」と題された写真があり、端に向かって左手前の岩石を駒繋石と紹介する。一方で同書のp.10~11に掲載された明治35年の「官幣中社金鑚神社境内真景」絵図には、橋に向かって右手前に「駒繋石」の注記と絵が描かれる。

橋の左と右の違いがあるが、歴史の経過で場所が変遷した可能性がある。


参考文献

  • 林宏『鏡岩紀行』中日新聞社出版開発局 2000年
  • 岡本一雄『金鑚神社』(さきたま文庫・61)株式会社さきたま出版会 2003年
  • 山崎康彦「埼玉県の石の民俗」『関東地方の石の民俗』明玄書房 1986年


2025年8月10日

能仁寺の武石と天覧山の鏡岩・獅子岩(埼玉県飯能市)

埼玉県飯能市飯能

能仁寺の武石

武陽山と称しているが昔は武石山と称していた。昔台所に沢庵を漬けて於いたら沢庵石が唸り出した。それから此の石は霊異を顕はして当山の鎮護となった。(略)境内の一偶に武石と称して今尚祀られている。
(『郷土 石特集号』1932年, p.155。旧字を適宜改めた)

山号の由来にもなったといういわれつきの岩石で、外から見るとたくさんの武士が寺を守っているような霊異を見せたことから武石というらしい(あるいは名前が先で伝説が後かもしれない)。

今も境内にまつられると書かれているから存在は有名自明かと思ったら、web上にはそれらしき報告がなく、本堂前を見渡すかぎりは候補となるような岩石も見当たらない。

能仁寺本堂前。きれいに整備されていて自然石の類はない。

寺務の方に武石の場所をお尋ねした。山号由来の石でご存知と思っていたが初耳のようで、その場でいろいろと調べていただいていたものの結論としてはわからないとのお返事だった。

能仁寺には庭園も広がるので、その庭石まで可能性を考え出すときりがない。

ご住職は不在とのことだったので、もしかしたらご住職であれば異なる見解が聞けたかもしれない。
なぜなら武石の伝説や境内にあるという前掲の話は、昭和5年当時の能仁寺住職・荻野活道氏談だからだ。
一般民衆に語りつがれる民話のみならず、宗教施設内における伝承の記録・継承も重大な現代的問題になりつつあるように感じた。

天覧山の鏡岩・獅子岩

当寺の背後は天覧山であるが其の崖下に鏡岩と云ふ面の平滑な岩がある。今では蘚苔些か其の面を汚しているが昔は鏡の様で姿が映ったとか。武石と共に古来能仁寺の七不思議中に算えられていた。
(前掲と同じ)

鏡岩は天覧山(旧愛宕山。明治天皇天覧に浴したため天覧山に改称)の中腹にあり、十六羅漢石仏が刻まれた岩肌の特に西側では今も平らな面が残っている。

鏡岩と思われる岩肌

同じ岩肌を逆サイドから撮影。平滑面が見える。

十六羅漢石仏

看板には石仏のみ記され、岩石名は等閑視されている。

そのすぐ近くには獅子岩と呼ばれる岩石もあり、いずれもチャートの節理と断層で生じたものとされている。

獅子岩

獅子岩からの麓の眺望

今は奇岩怪石の名勝としての位置づけであるが、かつては愛宕社がまつられた山であり鏡岩の岩肌には石仏が刻まれる環境にあった。
神仏すまう聖地の中における岩石信仰の事例候補としても把握しておきたい。

天覧山頂上。山頂にもチャートの岩盤が露頭する。


参考文献

2025年8月3日

瑞光石/神影面瑞光荊石/小岩様(東京都荒川区)


東京都荒川区南千住 素盞雄神社境内


役行者の弟子とされる黒珍が、自宅の近くに奇岩の立つ塚(小塚・古塚)を見つけて、これを霊場として日々拝礼した。

延暦14年(795年)のある夜、奇岩が突如光を放ち、2人の翁が降臨した。翁いわく「我々は素盞雄大神と飛鳥大神である」。これを受けて、黒珍は社殿を建てた。

これが素盞雄神社の由緒という。江戸時代までは牛頭天王と飛鳥権現としての信仰であり、今も二社相殿となっている。


現在、境内南東部に一つの塚が存在し、そこに瑞光石と名づけられた岩石がまつられている。別称に神影面瑞光荊石(単に瑞光荊石とも)、小岩様(お岩様)がある。

写真左は浅間神社の標。写真右が瑞光石。

瑞光石

石肌拡大撮影。

幅約1.5m、高さ約1m弱ほどの不整形な平石にみえるが、万延元年(1860年)編纂の『江戸近郊道しるべ』という書物によると、瑞光石の根元は隅田川まで伸びており、千住大橋を築く時に橋脚が打ち込めなかったという。根を深く張った岩盤としての信仰を伝える。

石肌には多くの穴が開いている。人工的な杯状穴にも思えたが、瑞光石の石種は千葉県の鋸山周辺で採れる房州石と推測されており、石に穴を掘って棲む穿孔貝による特徴と考えられている。

房州石は周辺の古墳石室石材にも使用されていることから、瑞光石も本来は古墳石室石材で、塚は古墳の残骸だった可能性も指摘されていたが、古墳としての文化財指定はなされていない。

嘉永4年(1851年)に塚の周りが玉垣で囲われ、元治元年または2年(1863~1864年)には塚上に浅間神社がまつられた。南千住冨士の俗称があり、富士塚としても祭祀されたという。実際に冨士講が建てた碑が複数現存する。

現状としては、浅間神社の富士塚の中に瑞光石が安置されている状態である。

塚に残る冨士講の碑

塚上に浅間神社の祠が見える。

塚の下部に構築されたという人穴(現地看板に表示あり)


参考文献

  • 『荒川区史』,東京市荒川区,1936. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3438362 (参照 2025-08-03)
  • 高田隆成, 荒川史談会 著『荒川区史跡散歩』,学生社,1992.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13134296 (参照 2025-08-03)
  • 現地看板


2025年8月1日

研究会「宗教認知科学からみる考古学―顔身体象徴を中心に―」メモ(2025.7.26)

國學院大學研究開発推進センター・国立歴史民俗博物館による合同研究会「宗教認知科学からみる考古学―顔身体象徴を中心に―」が、一般向けにも無料開放されていたのでZoom参加した。

事前に発表されていた出席者の名前を見るだけでも、信仰心・宗教心なるものを研究する第一人者が集うイベントであることは明白で、非常に有難い勉強の機会となった。

あくまでも岩石信仰の研究としての立場からではあるが、参加しながらメモした内容を以下にまとめる。吉川の主観を含む部分は「→」の記号で表した。


松本久史先生の挨拶

國學院大學の主催側としてのメッセージとして、現在大学として取り組んでいる「カミ学」の話。

カミ学では、カミを3つの深化(進化?)で考えようとしているとのこと。

→その3つは話し言葉と書き言葉の違いもありちょっとわからないところがあり、まとめられなかった。


いずれにしてもこのイベントが「カミ学」の弾みになればと願っている。

→現地会場に何名いるかはわからなかったが、オンライン上には約80名が参加していた。名前の知っている方もちらほら…。


中村耕作先生の挨拶

今回のサブタイトルである「顔身体象徴」を専門にされている。考古学以外では心理学などのアプローチも活用されている。

顔がついた縄文土器に関心を抱いている。顔身体土器という。土器に顔がついているという行いはどういう意味をもつのか。

土偶はそれ自体の機能が形から読み取りにくいが、顔身体土器は土器であるので、土偶と違ってある程度、器の形などの考古学的側面からその器の物理的機能を推定しやすい。


小林達雄の土偶論では、各人がそれぞれに「ナニモノカ」を知覚していたが、ある時、誰かが「実体化」をおこなった。それが他の人々の共通認識になったとする仮説がある。

→土偶以外のカミにも使えそうな論理である。


顔造形表現にどんな意味があるのかについては、山口真美「赤ちゃんは顔をよむ」(2003年)やスチュアート・E・ガスリー「神仏はなぜ人のかたちをしているのか」(2016年)などにおいて、なぜ壁のシミが顔に見えるのかなどのヒトの認知傾向について参考になるところが多い。

そのガスリーの文献訳者であり宗教認知科学の研究者である藤井修平先生を今回招聘した。


藤井修平先生の講演「神・霊魂をいかに考えるか―宗教認知科学と考古学の連携可能性―」

宗教認知科学(CSR)の概要については、当ブログの過去記事「『科学で宗教が解明できるか』(2023年)学習メモ」参照。その前提の上で新しく得た知見を以下に追記する。


素早く自動的、直観的な傾向、ヒトの認知メカニズム、普遍的なもの(いわゆるシステム1)を扱うのがCSR。

→個別性・後天性をどうするか問題。CSRは敢えて取り扱わないという姿勢もありか。岩石信仰は非言語領域に根っこがあるとしたらCSRの研究は有用性が高いと考える。


ヒトの遺伝子は、生物進化のなかで淘汰・適応されて現生人類になってからはその後変化していないというのが、ヒトの認知メカニズムの普遍性の根拠(もし遺伝子由来と仮定するならば)。


「超自然的行為者」…神仏から精霊、妖怪までを含めた概念。

→吉川が超自然的存在とか信仰対象とか呼んでいたものに相当。これからこの用語を使うか…。


超自然的行為者をどう認知するか。

1.反直観(ボイヤー)…常識的予想をわずかに裏切る存在に超自然的行為を認知する。

→簡単に言うと、いわゆるサプライズは記憶に残るということに通ずる。しかしサプライズすぎてはいけない。

2.パターン認識…ヒトがパターンに当てはめる傾向。アポフェニアともいう。詳しくは次の3つ。 

  1. 錯誤相関(現代の陰謀論などもこれに含まれる)
  2. パレイドリア(擬人観など)
  3. 行為者検知(ADD)
  4. 心の理論


自然物や人工物が、顔をもっている(パレイドリア)、意図をもっている(ADD)、生きている(アニマティズム)、感情や信念をもっている(心の理論)というようにCSRでは解釈される。

→岩石の場合、岩石特有の心理要因は何か。顔に似た姿石や巨石巨岩などはわかりやすいが、そういった要素を取り除いた「何の特徴もない単なる石ころ」が神聖となる要因は何かを追究しており、そこにはまだ応えきれていない。


霊魂のメカニズム

1.社会的交換(Cohen 2007)…何かをしたら、何かをしてもらうという取引の公平性の感覚。返報性の原理と同質か。(例)祖霊から恩恵をもらったら捧げものをする、災厄が起こったら祟りを鎮めるなど

2.心身二元論…身体と別の実態が宿っているという信念。デカルトほか哲学での長い議論がある。子ども、非西洋文化においても、体と別に魂があるという考えはあり、普遍性が認められる考え。

3.シミュレーション制約(自分が死んだ後をシミュレーションしきれず、想像できず、そこから祖霊が生まれるなどの仮説)、心理的本質主義(ヒトには本質や不変のものを求める傾向がある。身体が入れ物で魂が本質という考えへ行く)、オフライン社会的推論(その場にいない、その場に見えないものを考えることができるヒトの能力。目に見えない霊魂を考えられるということ)、埋葬・葬送儀礼(他の生物よりも人の遺体には過剰に危険性・不快感を感じる傾向が指摘されている。儀礼は集団を結束を強める)

4.ビッグ・ゴッド理論


認知考古学について、カートパトリック、ロッサノの研究(2022)によるヒトの宗教認知の歴史仮説

  • 16万年前~ 肉抜きされた頭蓋骨の事例。骨、頭に本質を見出しているとしたら心理的本質主義の表れか。
  • 7万年前~ 洞窟の絵の事例。絵を捧げものとするなら社会的交換の表れか。
  • 2万3千年前~ 動物霊の絵の事例。アニミズムの表れ。
  • 3千年前~ 神に危機の助けを求める捧げもの。愛着の表れ。


認知考古学ひいてはCSRへの批判的な見方

極めて原初的・先天的な認知能力には有用だが、認知能力が複雑化・後天的影響を受けた後の時代にどこまで当てはめられるのか。更新世までの研究にしか使えないのでは。

あそこもそうなら、ここも同じじゃないか、は暴論かもという指摘。

これらについては、普遍的なものがわかれば、そうではないものがその文化の固有的なものと言えるのではないかという考え方で当たりたい。

さらに、最近は認知歴史学が提案されている。

認知歴史学ではどちらを重視するではなく、人類共通の要素と、文化特有の要素の二重構造で考えるというのが今の流れ。

考古学においては、過去の資料を定量化・統計処理して分析していくことで、過去の人々に「アンケート」をとり、過去の人々を「可視化」できる方向性がある。


日本の歴史、日本の考古学にどのようにCSRを導入できるかは、笹生先生例を紹介した。

→弥生・古墳時代にはすでに文化的・固有的なものはあったと思われる。その点で、その時代をCSRだけで語り切ってよいか(吉川個人としては笹生先生の坐す神→招き迎える神の直線的な変遷には2022年拙論で疑問を呈していた。同時併存的な可能性も想定してほしい)。また、日本列島の自然環境に言及される一幕もあったが、日本列島は変動帯であるからこその地質学的なアプローチも環境が育む固有性を補強するに必要かもしれないと感じた。


笹生衛先生のコメント

神道においての祭祀儀礼の重要性から、儀礼を重視。繰り返される儀礼により超自然行為者(神)はさらに強化される日本列島の特徴を指摘。

人が亡くなり一定期間たち、生前のその人を知る人々がいなくなると、ボイヤーの人物ファイル理論でいう人物ファイル(人格)が喪失されるので、個人人格のない祖霊になると言えるのではないか。柳田国男の個別霊→先祖になるという話と照合。

古墳祭祀は、なくなりそうな人物ファイルを保存しようと、被葬者の副葬品や食膳を通しておこなったCSRでいう「適応」行為の例ではないかと指摘。頭部を赤彩したり石枕を置いたり頭部への副葬が多いのも頭部重視、つまり人物ファイルにおける個人の人格を強く表す頭部重視の表れ。遺体と個人の人格がかなり結びついているという点で、『礼記』の魂魄論のような霊肉二元論を素朴に当てはめることはできないのではないか。

→まとめかたや発表のしかたの印象と思うが、理論が先で考古学的物証をそれらに当てはめていくあたりが演繹的でよいかどうか。論文化される折には、他の可能性(ないとは言えない)への批判的検証のフェーズもほしいところ。

→石枕にも頭蓋骨同様に赤彩する事例があるとのこと。石枕と頭蓋骨の同質性が浮かぶ。骨と石を同質視する精神観や、山を肉体とする精神観もある。コメントを聞いていて、地中から出る岩盤は肉の中から出る骨に通じ、視覚的には反直観性に当たるのではないかという着想を得た(根拠なし)。石枕の存在は岩石との関わりから引き続き注目したい資料である。


認知考古学の松本直子先生のコメント

Joseph HenrichのWEIRD(ウィアード)における指摘

1.ヒトの心理に関する研究の多くは、極めて偏ったサンプルに基づいている。欧米系のサンプルによる研究が多い。

2.ヒトの心理は予想以上に多様性に富んでいる。現代人においてもそう。

3.非西洋の人々のサンプルを含めた研究によれば、西洋人のサンプルは分布の最端部に位置するという話。

→普遍性を標榜するCSRの偏りを暗示するという点で、重要かつ同意できる視点。


マテリアマインドの概念(物と心の共創関係)

ホモサピエンスになってから脳の容量は変わらないが、この1.5万年で急速にいろいろな物にあふれ、それによりヒトの行動は複雑化したと言える。その中で生まれるヒトの心の変化をマテリアマインドととらえる。

つまり、意識は生得的なものではなく、文化や言語による「ソフトウェア革命」によって変容したと言えるのではないかという仮説。その点で、CSRをそのまま移植することへの批判的姿勢を示した。

パレイドリアであれば、今の人も昔の人も、同一のものをみれば同じように顔と認知したと言えるのか? 欧米圏では四角い模様と認知した画像が、非西洋圏では四角に見えず丸に見えたなどの実験結果がある。私たちは「四角」に見える文明に生きた特殊な人々と自覚して、むしろ先史時代の人類から離れた後天的認知に影響を受けている危険性を指摘。

→同時代でも地域で異なる認知結果が出るのであれば、時間軸で離れた人々の認知も想像をはるかに越えた違いがあるのかもしれない、という前提で物事を考えることが大事。


ヒト形人工物についての考え

日本列島の場合は初期の土偶岩偶などの身体表現において、女性の胴部(胸など)を表現した遺物が多く、顔を表現しないという傾向が指摘できる。ならば、顔を重視したという認知科学的な見方とはかみ合わない事実。

  • 松本先生による縄文土偶の特徴…小さい、女性が多い、身体的特徴の表現、写実的ではない、集落から出土、そして初期には頭・手足がない
  • それに対しての弥生時代絵画の特徴…小さい、男女ともいる、顔・行為の表現がある、象徴的・記号的、集落から出土
  • 古墳時代の人物埴輪…大きい、男女とも、衣服・装身具、行為の表現、墓から出土

→時代ごとの差異が浮き彫りになり興味深い。異なる時代ごとに固有性の差があることは否めず、通史的に一つの認知に立脚した歴史観は語れなさそう。どこまでが先天的でどこからが後天的かという議論につながる。


質疑応答

・立ち位置の違い

藤井先生は更新世・旧石器時代のヒトの認知は現代まで基本的に変わらないという立場で、松本先生はその後マインドが変わったという立場であり、大きな分かれ目なので質疑応答レベルではコメントをするのに難しい。藤井先生は、昔と今に共通性があるとみなす、それがよりシンプルに考えることにつながるという科学的立場に立つ。


・超自然的行為者の認識をどう認めるか

笹生先生コメント…祭祀遺跡の立地。特に山と川を重視。延喜式祝詞の山口に坐す神の話が残る山に祭祀遺跡がある。日本の場合は、認知だけでなく他の要素を絡めて立論可能。


・顔身体表現について、人じゃなくて神や精霊のようなものだとみなすとき、どうやってカミ的なもの(条件)と評価するかに関心がある。また、顔身体表現が消える時代が来る。それはCSRでどう説明できるか。

藤井先生…CSRでは「傾向」があるからといって必ずそうなるということを示すわけではない。出てきやすい要因・条件があったということを分析するのはあり。

中村先生…現代日本において、このような顔身体表現の例が見られないのはどうしてだろうということを考えたい。

藤井先生…土偶が神なのか人なのか何なのかは、複合的に考えたい。神の条件。もしかしたら、場所が変われば機能も変わるのかもしれないという話。


・吉川から藤井先生への質問

吉川「最近、竹沢尚一郎氏の『ホモ・サピエンスの宗教史:宗教は人類になにをもたらしたのか』という本を読みました。私の読解不足かもしれませんが、この本によれば、宗教の発生においてカミ観念の成立を先に置かず、まずは儀礼を重視した立場と理解して読みましたが、このような竹沢氏の研究をどのように位置づけていらっしゃるでしょうか?」

藤井先生回答…昨年、竹沢説について議論した。どちらが宗教の本質というわけではないと考えている。観念も儀礼も、順次、相互的な作用でそれぞれ成立していったという理解。(やや困りながらもご返答いただきました、ありがとうございます)

→反直観的な直観が最初にあり、非言語領域で儀礼が成立し、その後にシステム2的にカミ観念を編み出したとすれば論理は通るが、そういう理解で吉川は当面行きたいと思う。


・吉川のもう一つの疑問

社会を論じる中で埋没しやすい、人の個体差の問題。

遺伝子は同じでも、感受性には個体差があるのでは。岩石においては、それに含まれた地磁気の感知の違いなど。まったく感受しない人に対して、無意識下でも感知する人が一方でいるから、宗教者と呼ばれる存在が生まれるのではないか。そのような突然変異的なものや、統計に埋もれた外れ値へのまなざし。そして、感知できない側の人がそのような存在の影響によって、どうやって変容していくか。

ビッグヒストリーを語る場合、どうしても社会全体の語り口になってしまい社会的な研究となりやすいが、個人性の研究の視点が特に信仰・宗教史には必要ではないか。

CSRは統計の科学の道を歩むが、ヒト個体の分析の集積体でもあるので、統計からはじかれた個体こそ宗教的成立の要因が潜むという問題意識と、個人と社会の鍔迫り合いでヒトの先天的認知がどのように後天的影響で変化していくかの絵も描けるのではないかと思う。


2025年7月24日

大戸のお聖さま(埼玉県さいたま市)


埼玉県さいたま市中央区大戸1丁目から3丁目へ移設


「大戸のお聖さま」は、かつて埼玉県に住んでいた頃からさいたま市指定文化財の石棒と知っていたが、訪れないまま離れてしまった。

2025年7月、埼玉県を約15年ぶりに訪れる機会があり、この目に収めたいと思って現地に足を運んでみた。Googleマップにも大戸1丁目に位置が落ちている。

ところが現地は基壇を残し祠が消えていた。

2025年7月撮影


これはどうしたことか。現地には何の案内もない。

さいたま市のHPを見たところ、「令和7年6月から所在地が中央区大戸1丁目から中央区大戸3丁目に変更になりました」と追記されていた。
更新日は2025年7月11日で、訪問日のちょうど10日前の更新だった。私が訪れるこの1か月の間で、お聖さまを取り巻く状況が一変したことになる。

大戸3丁目とはいうが、細かい番地や地図がHPに掲載されてなくて困った。このように難易度の高い訪問になるとは予想しておらず、とりあえず現地でいろいろ調べてみた。


まず、大戸3丁目には大戸不動尊、お不動様、御嶽神社などがあり、それらの寺社の境内に移設されたのではないかと目星をつけた。

そこでそれぞれを尋ね歩いた。
大戸不動尊には多くの石仏石塔が集められていたが、堂内および境内を一巡しても最近移設されたような石棒は見当たらなかつた。

大戸不動尊境内

お不動様と御嶽神社は住宅地の前に隣り合うように存在したが、こちらにもそれらしきものは置かれていない。
いよいよ困ったが、ちょうど自治会役員の表札を掲げられているお宅を見かけたので、自治会の方なら何か事情をご存知かもしれないと思ってインターホンを押した。

お時間をいただき、地元で詳しいと思われる方を数珠つなぎでご紹介いただいたところ、その方が「●●さんが保管されている」とのこと。
お聖さんがなぜ移設されることになったのかの事情は皆様存じ上げていなかったが、教えていただいた●●さん宅へ向かう。

個人宅内での保管なら拝観は難しいかもしれないと心配したが、お宅の前に到着したところ、その隣に「大戸のお聖さま」の看板と共に祠ごと移設されていた。

移設後の姿。左は大戸稲荷、右がお聖さま。




堂内に現在まつられる石棒は江戸時代末期の製作(江戸時代の文化財)ということだが、大戸では大戸本村三号遺跡で石棒が出土しており、すぐ近くには縄文時代前期の住居跡からなる大戸貝塚が見つかっている。

大戸貝塚看板

どうやら元々はこのような縄文時代の石棒を後世にまつって「お聖さま」として信仰したらしい。中西紫雲「浦和だより」(『上毛及上毛人』126号 1927年)には以下の記述がある。
「『お聖様』の由来を尋ねし處、其家の老人曰く、此祠にはもと、三尺計りの古代の石棒が祀つてありましたが、今より十四五年前、何人かに盗まれまして、洵に惜しいことをしました。それで、其石棒の形に因みて、陽物形の如くに造り、再び祀つたのであります」(前掲書)
現在の石棒が高さ56cmなので、元は三尺(1m弱)とさらに大きかったようである。

しかしながら、文献発表年から計算すれば十四五年前は1910年代となるが、現地看板が記す江戸時代末期製作という伝とは年代が離れているように見受ける。
木製の陽物も複数まつられているので他のものを指した可能性や再度盗難に遭い今の石棒に登場願った可能性などあるが、前掲の地元老人の談を踏まえるとやや怪しい。この辺りにも語られぬ歴史がまだ潜んでいるのかもしれない。

ひとまず、大戸のお聖さまの最新の位置を記録することができたという点で、インターネット上の本ページの意味も有用だろう。
そのうち各地図アプリの位置も変更されると思われるが、それまで当面の訪問時は、併祀されている「大戸稲荷社」を目印に尋ねると良い。