2025年11月1日

石神様/おもかる石(愛知県津島市)

愛知県津島市今市場町1丁目


津島神社境外摂社の大土社の社殿裏に、石垣に突き出た形で基壇が用意されその上に岩石が置かれている。

石棒状と形容するには短寸であり、本来何を志向した形なのかは一考の余地がある。




津島市の観光案内などでは「大土社の石神様」と紹介されることが多いようだ。

しかし、大土社は石神様の現所在地を指すにすぎず、歴史的にはもともと少し離れた辻沿いにあり、「石神社」として一座の社扱いだった。

明治43年(1910年)の津島の大火により社地焼失してから、大土社に石神様のみ移設されたという流れらしい。

このあたりの沿革について最もまとまった記録として、子宝信仰の事例を医療の観点から取り上げた『愛知県医事風土記』(1971年)を引きたい。ここでは「石の陽物」と題して紹介されている。

大土社背面にあって、明治四十三年、辻(現在、市道元標あり)の大火までは辻東側の石神社のかこいの中にあったという。辻は名古屋から津島への東西の道路と津島北口から佐屋、桑名への南北の道路との交差点で、古くから道祖神が祭ってある。道祖神が陽物をシンボライズしていることは諸国の例から考えても珍らしいことではないが尾張地方には珍らしいというので、民俗学に興味のある人々が時々来訪し、寸法を測ったり写真を撮ったりして行く。子のない人が妊娠を祈り、また良縁があるように祈る人があるという。

『愛知県医事風土記』,愛知県医師会,1971. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12644342 (参照 2025-10-30)

なお、愛知県が運営するサイト「Aichi Now」の紹介文には、「おもかる石」の別称も挙げており、石を持ちあげてその重さでご利益を占う祭祀も付帯している。運試しをしてはいかがと同サイトでは推奨しているが、岩石の大きさとしては今後の保存が不安になるほどである。前掲文献では、かつては石神社のかこいの中にあったというから、その頃におもかる石の祭祀があったのかには疑問もある。

また、「NPO法人 まちづくり津島」のサイトには「旧石神社跡地にも陽石が置かれています」との興味深い一文が見られる。旧社地とは、現・大土社から西約400mに鎮座する秋葉神社(境内に大土社の祠がある)の辺りではないかと思料したが、秋葉神社およびその手前の道沿いには確認できなかった。他の場所かもしれない。

秋葉神社(津島市橋詰町2丁目)。写真右が大土社の祠。

2025年10月27日

三ッ石/三つ石(愛知県津島市)

愛知県津島市神明町 津島神社境内




直径二メートル、一.四メートル、三メートル短径一メートル前後の滑らかな硬砂岩の自然石三個が、境内に巴状に置き並べられています。この三つ石は「尾張名所図会」の神社境内図にもほぼ現在の位置に描かれています。津島神社は欽明天皇元年(五四〇)にここ居森の地に鎮座したと伝承されており、古代祭礼の場としての磐境と考えられることから、神社の鎮座と何らかの関わりがあるのかもしれません。
(現地看板より)

『尾張名所図会』の該当の絵図を下に掲載する。

岡田啓 ほか『尾張名所図会 7巻』[7],菱屋久兵衛[ほか],弘化1 [1844]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13589305 (参照 2025-10-27) 58コマ。インターネット公開(保護期間満了)資料で転載自由のため掲載。

3個または4個にも見えるが岩石が描かれている。
細かいことだが、「三つ石」ではなく「三ッ石」の表記であるため、歴史学的には本来的な名称として「三ッ石」を優先したほうが良い。
現地看板が記すように、たしかに本文には三ッ石の記述はなかった。絵図上だけの存在である。これは、三ッ石の伝承が当時すでに失われていて何も書けなかったのか、枝葉末節の存在のため省略されたのだろうか。


江戸後期から流行った各種名所図会において、絵図上には岩石名が注記されながらも文中では言及されない存在は他例でも見られる。
たとえば同じ尾張名所図会の例であれば、尾張本宮山には鷲岩穴明神社がまつられていて絵図上にも岩穴が描かれるが、神社の紹介に終始して岩石の説明はない。
だが、同時代の『尾張志』には、鷲岩穴明神社と共に別頁に鷲洞の名で登場し、巨石に穴が1つ開いているが人が入るには難しく、穴の深さは知れずと記され同一のものとされる。
一つの文献に記されなくても、別の文献には情報が記されるということは当然起こりうる。

このように、文献に記述がないからと言ってそれが当時すでに由来不詳だったと言い切れる証拠にはない。
三ッ石がどうだったかは、一つの文献からどうこう断言できず不明瞭とみなすのが適切な理解であり、ましてや「磐境」説は一つの可能性としてとどめて独り歩きに注意しなければならない。

あらゆる情報は記憶・記録となるから、それらが後代に忠実に伝存することが望まれる。本記事もそうありたいと思って書いた。三ッ石はこのことを教訓として教えてくれる。

2025年10月20日

白雲神社の薬師石(京都府京都市)

京都府京都市上京区 京都御苑内 白雲神社境内


現地看板によると「御所のへそ石」(京のへそ石は一般的に六角堂のそれが有名)の異名をもち、撫で石としての霊験を伝える。薬師の名もこれに縁するものかもしれない。岩石の前面の凹凸を人面と形容するのも、薬師の顕現の表れということか。

白雲神社の社殿背後に存在。玉垣は岩石を囲わず手前の供花台と板石の部分を覆うのも独特である。

写真中央の岩肌に凹凸の陰影の深い部分があり、これを人面に準えたものか。

側面から撮影。岩石の基部には、岩盤に石を噛ませているようである。

現地看板

看板では古くからの磐座と記すが、歴史的にはどのような存在だったのだろう。

白雲神社は京都御所の中にあり、元々は西園寺家が個人的にまつる妙音堂だった。その由縁から「西園寺の妙音天」という呼ばれ方が元来的で、明治時代になって西園寺家が東京へ移ってから祭祀を存続するために白雲神社として神社に改称した。

薬師石の来歴を文献からたどるのは難しい。1996年発刊の下記文献に、境内に薬師石がみられるの一文を確認できたくらいである。

文献に記されていなくても、このように私的な祭祀の場の場合、公刊化されていない私文書や口伝において信仰が継続されていた可能性もある。その点で白雲神社自身が文章化した現地看板に勝る内容はない。


参考文献
  • 現地看板
  • 石原康夫「京都白雲神社記」『私考弁才天記』第3巻,石原康夫,1996.1. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13223711 (参照 2025-10-20)

2025年10月16日

安井金比羅宮の縁切り縁結び碑(京都府京都市)


京都府京都市東山区下弁天町

縁切り縁結び碑

穴をくぐる

大量のお札(形代)に覆い尽くされていてわかりにくいが、岩石に開いた穴をくぐることで悪縁を切り、また、良縁を結ぶことで有名である。

訪問時は穴をくぐろうと人が行列をなしていてどうしても顔が映るため、見えないように加工して掲載した。


安井金比羅宮の縁切り縁結び碑のことを初めて知ったのは、京都新聞1999年7月1日付の「岩石と語らう」コーナーでの特集だった。

「碑」で「いし」と読むので、「縁切り縁結び石」の表記でも見かける。


歴史的にはいつから存在する岩石か。

下記文献に明記されていた。

安井金比羅宮に新名所

安井金比羅宮は1月に夫婦和合を干支で表した干支回縁碑を建立したのをはじめ5月には縁切り、縁結び石の建立、7月には朱傘の灯籠が建立された。これは「境内を憩いと信仰の場に」との宮司の願いで建立されたもの。

『京都年鑑』1981年版,夕刊京都新聞社,1980.11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9570356 (参照 2025-10-16)

こちらには「縁切り、縁結び石」として紹介され、1980年5月に設けられた岩石であることがわかる。

現代の岩石信仰の事例であり、岩石に穴を開けてくぐる同種の祭祀が他にも見られるので参考になる。


2025年10月13日

「霊神碑」の岩石信仰

霊神碑(れいじんひ)とは、下写真のような石碑を指す。

愛知県名古屋市名東区 大石神社境内

寺社巡りをされている方の中には、このような「●●霊神」と刻まれた岩石を、境内でご覧になった経験があるのではないだろうか。

石面に刻まれた神号を見ると、日本神話では聞いたことがない神々ばかりであり、個人の姓名を冠した霊神号も多く見かける。

岐阜県各務原市 迫間不動境内。無数の石柱に家の霊神名や個人の霊神名が刻まれる。

三重県四日市市 福徳寿御嶽神社境内。こちらは「霊神」以外に「大神」表記も見られ人名以外の事象にも神号が贈られる。霊神碑からの派生と見てよい。

「霊神」というカテゴリーの中で一定の統一性はありながら、刻まれる内容は多様性に富んでおり、これは神なのか墓なのか記念碑なのか、前提知識なしでは評価に困る特異な岩石である。


霊神碑は、木曽御嶽山を信仰する人々が結成する講によって建立された石碑である。

御嶽山は岐阜県と長野県の県境にそびえるが、中部地方のみにとどまらず、東北から中国・四国地方にも霊神碑の存在を確認できる。

これは御嶽山を信仰する御嶽講の人々が日本各地に広めた結果と考えられ、御嶽山との直接的な関係だけでなく、人が岩石に神の名を刻む行為としての視点からも興味深い社会的現象である。

この記事では、霊神碑の現在的な学説をおさらいした上で、岩石信仰という観点に立った時の霊神碑の位置づけについてまとめておく。


御嶽山と霊神碑の基礎知識

2022年、霊神碑を専門的に研究する愛知学院大学教授の小林奈央子氏の研究発表を聴講する機会があった。その後、その発表内容は下記論文として結実した。

本記事では、小林氏の研究に基づき御嶽山と霊神碑の最新の研究状況を紹介しよう。


■ 御嶽山の名称

御嶽という尊称は他地域にも認められるので、区別のため木曽御嶽と記されることもある。

また、歴史的な雅称としては「王の御嶽」「金の御嶽」がある。特に「王の御嶽」は、その読みかた「おうのみたけ」が転訛して「おんたけ」となった可能性も指摘されている。


■ 御嶽山の開山者

御嶽山の山中および山麓には御嶽神社が鎮座する。江戸時代中期までは御嶽神社による所定の潔斎の上で登拝許可を受けた者しか登れない山だった。

このような状況を一変させ、庶民が登れるようにした18世紀の「開山者」が2名いる。後に集団化された各地の御嶽講にとっての開祖とされる。

  • 覚明(1719~1786年)…尾張国出身
  • 普寛(1731~1801年)…武蔵国出身

この2名を慕った人々により、中部地方と関東地方では御嶽行者や御嶽行場が多く生まれることになった。


■ 霊神碑の歴史

本来は、覚明・普寛を死後に追善しようと供養塔を建てたのが最初である。

「霊神」の字を刻んだ最古例は、弘化2年(1854年)の「大阿闍梨覚明霊神」である。ただし、それに先行する天保14年(1843年)の「覚明神霊」の事例もあり、当初は「霊神」と「神霊」の号が定まっていなかった模様である。

明治時代に入ると、覚明・普寛以外の行者や信者にも「霊神」号がつけられた霊神碑が増加する。とりわけ功績高い行者や、講活動に尽力した篤信者に霊神号が授けられるようになった。生前に霊神号を授けられるケースもあった。

霊神碑の脇や背面には俗名・造立年・享年・造立者が刻まれるのが一般的で、霊神碑の建立年代調査によれば昭和戦前期にかけて造立のピークを迎えるが、1950~1960年代にも造立の小ブームがあったようである。

御嶽山の山中には、現在約3万基が存在するといわれている。御嶽山だけが造立の場ではなく、さまざまな地域の講が自らの講社・教会の敷地などに「霊神場」と呼ばれる、霊神碑を建立するための空間を形成した。

覚明から「覚」または「明」の一字を採った霊神碑と、普寛の「普」「寛」の一字を採った霊神碑の系譜に分かれる。それぞれの開祖の出身地に合わせて、前者は東海地方に多く、後者は関東地方に多いとのことである。


■ 霊神碑の形態

扁平な自然石をそのまま石碑に用いたものと、自然石を整形して表面を平らに削ったものがある。いずれにしても「扁平」が良いらしい。

岩石のフォルムは、角のない丸みを帯びたものもあれば角柱状のものもあり定まっていない。

標準的なサイズは、高さ1.5m、幅1m、厚さ20㎝程度で、墓石よりはやや小ぶりのサイズと評価できる。大きい事例では高さ3mを越える。


■ 霊神碑の性格の変化

先述のとおり、霊神碑はもともと供養塔だった。すなわち故人への鎮魂や作善のための奉納物だった。

しかし、時代を経て建立数が増えるにつれて、奉納物から「御霊の宿る施設」へ性格が変化した。

その証拠として、霊神碑には「御霊移し」という祭祀行為が伴うようになった。

御霊(みたま)とは故人の霊魂であり、人が亡くなると墓が建てられる。墓は遺骨が埋葬される施設だが、それとは別で、御霊を宿すための施設として霊神碑が用いられる。

生前に霊神碑を造っておく場合、霊神碑の刻字の「霊」の部分に赤を入れておく。没後すぐではなく、半年~1年の間に赤を消して、故人の御霊を霊神碑に宿す「御霊移し」がおこなわれるという。

これらの点から、小林氏は霊神碑が供養塔から「御霊の依り代」に変化したと表現しており、それはまるで墓石が当初「死者が極楽往生するための菩提」を目的にしていたものから、宝暦年間(1751~1764年)以降は「霊位」(死者の霊魂の依り代)に変化した流れと類似性があることに触れている。

※なお、「依代」概念は折口信夫が創出した分析概念であり、歴史的な事物に対して真に同時代的な説明をするに適切な用語であるかどうかには批判点もある(参考記事「依代と御形と磐座について―祭祀考古学の最新研究から―」)。その議論を踏まえるなら、霊神碑や霊位は「故人の魂の憑依物」と表現するのがより客観的かもしれない。


岩石信仰の観点からのまとめ

小林氏による霊神碑の最新研究を以上紹介した。今後、各地の霊神碑を観察して歴史の中に位置付ける際に学ぶ点が多い。


江戸中期~後期の墓石の性格変化、江戸後期~明治以降の霊神碑の性格変化は、それぞれ岩石信仰(岩石を用いた信仰)の変遷と言える。

私が作成した「岩石祭祀の機能分類」においては、墓石や霊神碑の元来的機能「供養のための奉納物」は、「BBB類型 鎮め・清めの道具」「BBC類型 奉納物」の2つの要素が複合していると考えることができる。

そして、墓石や霊神碑が変容した「故人の魂の憑依物」は「BAA類型 憑依物(旧・依代概念)」の機能であり、願いをかなえる道具から信仰対象が宿る施設に岩石に込められたものが変化したとまとめられる。


岩石信仰の諸事例を鑑みれば、同一の岩石が単一の機能のみを永続的に保ち続けるわけではなく、人々によって同時に複数の機能(性格)を込められることもあれば、時代変化の中で岩石に期待されたものもしばしば変化する。そのような事例は他にも多く見られる。

しかし、自然石の場合は元来込められていた人間の意図が見えにくいために至極当然の変化と言えるが、霊神碑は単なる自然石ではない。文字情報がある岩石(石造物)である。このように明確に人間の意図が読み取れる場合であっても、岩石の機能が変化しうるケースを示したと言える。

もしかしたら文字情報があることで、文字に引っ張られた要因もあるのではないかと感じる。元来は供養の対象としての「人名+霊神」が、「霊神」という文字の強さに引っ張られて霊神を物体化・可視化する祭祀対象に変わったという見方である。


自然石の岩石信仰においては、神への畏敬的信仰から信仰心なしの特別視へと人々の認識が親近的に変わるという仮説がある(たとえば林宏氏『鏡岩紀行』中日新聞社 2000年 における鏡石・鏡岩信仰のケースでの指摘)。

人々の知(文化・技術)が成熟するにつれて、岩石に対する「未知」が薄れることによるものという理解に立った仮説である。


一方、霊神碑のケースでは奉納のためのツールが御霊の憑依物として、限りなく信仰対象に近い存在へ聖化した(霊肉分離の考え方に基づけば、信仰対象と同一とまでは言えない)。

同じく人々の知(文化・技術)の結晶である文字が、岩石の「未知」を言語化した結果、岩石そのものの性質に左右される必要なく、文字から岩石に聖性を読みとったのではないか。

文字が一種の権威性を発揮し、聖なる要素を強化したのではないかという私見を記して本記事を終えたい。


2025年10月12日

伊寶石神社のいぼ石(愛知県豊橋市)

愛知県豊橋市大岩町北元屋敷

伊宝石神社の社殿の後方にある大岩に、縦二メートル、横一メートルの洞穴がある。そこに水がつねにたまっている。この水をもらってきていぼにつけると、よくいぼが取れるという。
堀田吉雄 編著『東海の伝説』,第一法規出版,1973. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12467820 (参照 2025-10-06)


伊寶石(伊宝石)はイボ(疣)の当て字である。

全国各地に広がるイボ石信仰の一事例であるが、多くが岩石単独で残るのに対して、いぼ石の手前に社殿を設けて神社にまでなったという点においては比較的珍しい事例である。

勧請は弘安7年(1284年)とされ、天保15年(1844年)には疣石本社の名も伝わる(愛知県神社庁 編『愛知県神社名鑑』,愛知県神社庁,1992.8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13223261 (参照 2025-10-06))。

水が溜まる場所は文献によって洞穴や窟などと記されるが、実際は岩石の頂面の窪みに溜まった水という表現が正確である。

伊寶石神社

社殿の背後にあるいぼ石

岩石の頂面には今も水が溜まる。

大岩町には他に岩屋観音などの岩のまつり場があるので、地名由来となった大岩がどれを指すかははっきりしない。


2025年10月9日

立岩(愛知県豊橋市)

愛知県豊橋市雲谷町字上ノ山460番


標高約88mの岩山を通称・立岩と呼ぶが、東海道新幹線からも目に飛び込む奇観としてしばしば話題になる。

麓に立岩稲荷が鎮座するが、立岩との直接の信仰的なつながりを地理的な近さ以外に伝えるものは見当たらない。現状、岩石祭祀事例として取り扱うには確たる根拠を得られず「保留」である。

唯一、境内に「天地天神社旧跡地」と刻まれた石碑が境内岩塊の上に立つところに、単なる稲荷神社とは異なる歴史を感じさせる。

境内には「明相(?)霊神」の霊神碑も見られることから、天地天神社の詳細は不明ながら御嶽講などの別文脈の祭祀が入り混じる地であったことが偲ばれる。

立岩稲荷

天地天神社旧跡地

霊神碑

立岩稲荷の奥から立岩の基部を撮影

また、探訪時は存じていなかったが、立岩の南には「椀かせ岩」と呼ばれる岩石があり、いわゆる膳貸・椀貸伝説の類例である。

椀かせ岩と立岩は相対するように存在するが、それぞれの岩石に信仰的な関係性があったのかも不明である。


チャート質の岩肌は南面で最大30m切り立ち、ロッククライミングの愛好者の間でも有名な存在である。

現地には2025年3月に新設された看板が建ち、岩登りには愛知県東三河遭難対策協議会への許可申請が必要である。

申請した即日に許可を得られるが、申請書pdfへの記入を現地で行うのは難しいと思うので、事前に印刷・記入・送信が望ましいだろう。

現地看板

参考リンク

愛知県東三河遭難対策協議会HP


2025年10月5日

2025年9月27日

尾張大國霊神社の磐境(愛知県稲沢市)

愛知県稲沢市国府宮


尾張総社として知られる尾張大國霊神社(通称・国府宮)の磐境は、現存する数少ない磐境の実例として著名な存在だが、拝殿と本殿の間にあるためおいそれと実見できるものではない。

このたび、神職さんのご厚意に預り磐境の見学および撮影許可をいただくことができた。磐境に関する取扱いや位置づけには不明なところも多かったので、誤解のないように今後に向けて重要な情報をまとめておきたい。

尾張大國霊神社の磐境。本殿向かって右手前に存在。


神職さんからの聞き取り


◆「磐境」の読みかた

「磐境」の字で「いわくら」と読んでいる。
この場所は神様をお招きした「座(くら)」であり、岩石で境をつくり、その中に神様が座すという理解なので、その意味を重視した読みかたであると以前の宮司から引き継いだものである。
ただし、「境」で「さか」と読む立場もあることも承知されており、否定まではされていない(神社発行の由緒書にも「いわくら」「いわさか」の両音が併記されている)。

◆ 磐境の個数

文献によって磐境の岩石の個数を7個と紹介されることもあるが、神社としては「5個」と認識している。
見ようによっては5個以外にも周辺に石が見えるものの、磐境としてとりわけ特別視しているのは5個である。

◆ 磐境への祭祀の現状

磐境に対して定期的に行っているような神事・祭礼は存在しない。
すでに神様が隣の本殿内に鎮まっているので、現在の祭祀は本殿に向けておこなうということである。
磐境は社殿が設けられる前の古い祭場であるという意味で大切にされている。

注連・紙垂は最低年2回は新しくするが、荒天などにより傷んだ折はその都度交換するようにしている。
近年、社叢に鷺が住み着き糞害や羽根・落葉などの掃除に悩まれていることも伺った。

◆ 磐境の見学・撮影についての立場

場所柄、誰しも見られるという意味での公開はしていないが、(今回、吉川が許されたように)状況に応じて見学を許可されている。写真撮影も禁じられてはいない。
基本的には、神職の方々が対応できる時期やタイミングであれば、下記の手続きを踏むことで可能とのことである。

  • 尾張大國霊神社の神事・祭礼日などは当然ながら神職者は忙しいので、そのような日を避ける。筆頭は全国的に有名な2月の儺追神事(はだか祭)であるが、その準備期間には正月も重なるので、12月からは多忙とのこと。また、はだか祭の後も5月に梅酒盛神事が大きな神事となるので、毎年6月~11月が望ましい。
  • 書面での事前申請をお願いしたいとのこと。申請内容としては、いわゆる昇殿参拝(正式参拝)としていただければ、昇殿時に本殿・拝殿の間にある磐境の案内・説明もいただける。尾張大國霊神社の昇殿参拝の初穂料は一人あたり千円が目安とのことで、事前予約は必要なものの、祈祷などの初穂料とは異なり正式参拝のみで磐境見学が可能である。
  • できれば個人参拝が相次ぐよりは、ある程度人数がまとまった団体参拝での申請のほうがありがたいように感じた(私にも30分を越えるご説明をいただいたので、毎回説明を行うことを考えれば納得である)。
  • 昇殿せずに外から磐境を撮影したい場合は、拝殿向かって左側の、拝殿と廻廊が接する角から本殿向かって右手前を望むと磐境の上部だけ見えているので、そちらから撮影する分には止めていない。ただし、時と場合によって拝殿の扉を閉めることもあるのでご了承願いたいとのことである。

この辺りの情報は今まで明らかになっていなかったと思うので、今後、同好の方におかれては参考としてほしい。

写真中央の立札の裏あたりが、拝殿と廻廊の境目

その境目から磐境を撮影すると上写真のようになる。


吉川の所見


岩石信仰研究の立場から最も興味深かったのは、磐境の5個の岩石は「境」であり、神が降り立つのはその内側の「場」にあり、それを「座」とみなす部分だった。

これは岩石を「境」の役割としていて、岩石自体に「座石」の機能を求めるものとはなっていないが、見方を変えれば、境たる岩石も含めたその場一帯が「いわくら」なのだと解釈もできる。
磐境という存在が「空間」性を特徴とする岩石祭祀であり、その点で、磐境は磐座を内包しうるというのは他例を顧みても肯けるところである。

そして、現在、磐境は現役の祭祀の施設ではなく、かつてここが祭祀の淵源だったことを歴史的に示す「聖跡」として位置づけられるのもそのとおりである。


磐境の個数については7個説と5個説があったが、今回伺ったお話により、信仰・祭祀の当事者としては5個を磐境として神聖視されていることが明らかになった。

7個説は「誤り」ということになるが、写真をご覧いただくとわかるように、主石となる5体の傍らにも小さな岩石が複数確認できる。

西から撮影

南から撮影

磐境の北辺を拡大

磐境の北側に仕切りのように並べられた岩石群もある(上写真)。玉砂利より一段階大きく磐境を構成するものとみなすこともできるが、苔むしているものと比較的新しい石肌のものに分かれるようで、仕切りとして後世追加されたところもあるように見受けられる。

また、磐境の内側の地表面には、地中から僅かながら顔を出しているものもあり、他にもまだ地下に埋まっているような感もある。
その点を踏まえると、現在の姿は時代の経過と整地の蓄積である程度地層が重なったもので、地表面の原景は異なる姿だったのかもしれない。


歴史記録まとめ


磐境に言及した文献に『張州府志』(18世紀)と『尾張大国霊神社神祠記』がある(田島 1977年)。それらによると、瑞籬の内に「磐石」があり、祠官が崇敬していたことが記される。
さらに当時、空海がこの石を畳にしていた(磐境の横たわる一石か)という俗信があったようで、それは後世の付会でむしろこの磐石は「大穴持像石」だったのではないかという考えが示されている。


江戸時代の記録においては、「磐境」という用語は登場せず「磐石」という表現になっていることに注意したい。
「磐石」は岩石の当時の呼びかたであり、普通名詞のような使われかたである。つまり、神官が崇敬する存在だったにもかかわらず来歴は当時すでに不明となっており、この岩石群に定まった呼び名が伝わっていなかったようである。だから文献著者も「磐石」と書くしかなく、空海の机石説や大穴持命の神像石説も飛び出す「無色透明」な存在だったのだろう。
磐境の語は神道用語として長らく使われてきたが、明治時代以降の神籠石論争を経て学者間で広く知られるようになった。磐境の字はその頃に定着した可能性もある。


尾張大國霊神社の宮司であった田島仲康氏は、空海の畳石説、大穴持命神像石説は後世の付会であることに加えて、鳥居龍蔵博士のストーンサークル説や国司庁・神社建設時の石材・庭石説などにも否定的である。

大穴持命の神像石という説は、石川県の宿那彦神像石神社などの「神像石神社」から着想を得たものと思われ、たしかにこの説に強力な根拠はないものと思われる。
また、空海説についても弘法大師伝説の付帯する岩石は全国数多く、空海が実際に足を運んでいたか否かを問わない状態である。同様に高い説得性は持たないだろう。ただし、江戸時代の俗伝として弘法大師信仰に絡める人々がいたというのは事実となるので、この磐石に弘法大師信仰の側面があったことは認められるだろう。


先出の田島氏によれば、磐境の配置状態から祭祀の向きは東方向になると評価しており、その先には尾張本宮山が見えた可能性を指摘し、本宮山を祭祀するための施設だったのではないかという仮説を提示している。

五石が囲む中で、西側(写真手前側)だけ1人分のスペースが空く。

祭祀の向きを東方向とみなしたのは、磐境の五石のうち、岩石同士がもっとも離れているのが西側であることから、そこを司祭者のスペースと解釈したものと思われる。
現在の磐境の配置が、地表に露出したまま原位置を保ち続けていたと仮定するなら、西側に岩石がない意味を説明する1つの理由となるだろう。

しかしながら、五石のうちの一石は立った状態ではなく倒れている。
初めから倒すことに意味があった可能性もあるが、磐境が石を立たせることに意味を持たせるものとするなら、この石も元来立っていたと考えないとならない。
また、仮にこの石が立ったままなら、東側にも隙間が認められることになる。その場合、東西に隙間のある環状配石となり、東を志向していたか西を志向していたかはどちらも対等となりうる。
先述のとおり、地中には埋もれているかのような岩石の露頭も認められる。原位置と現状が異なる可能性を考慮すると、現在の状態から性格・機能を類推するには限界があるように思う。

ちなみに、神社境内からは祭祀用か生活用かは不明だが、弥生時代の土器片が見つかっているという話がある。さらに神社約500m東の「塔の越遺跡」(稲沢市長野)からは、古墳時代の竪穴建物・掘立柱建物も出土しており、これらは尾張国府や社殿建立前の歴史を物語る考古資料と言える。


参考文献

  • 田島仲康 「尾張大国霊神社記」 『尾張大国霊神社史料』 尾張大国霊神社 1977年
  • 新修稲沢市史編纂会事務局 「国府宮の磐境」 『新修稲沢市史 本文編 上』 稲沢市 1990年
  • 尾張大國霊神社発行由緒書


2025年9月23日

寄木神社境内社 津島神社の砂(静岡県袋井市)


静岡県袋井市西同笠

 

袋井市には寄木神社が三社あるが、その中で最も原型とされるのが西同笠の寄木神社である。

その証左とされる存在が寄木神社向かって西側に鎮座する、境内社の津島神社の特異な社の在りかたである。

津島神社

津島神社を背後より撮影。写真手前の配石は炉か。

葉で覆われた高さ1.6mの高床式の建物である。

竹4本を四方に立てて、中心に立てた白木の角材の上に神札を付け、その周りを大量の葉で覆い塀とする。葉は境内に繁る杉の葉が用いられる。

極めて原初性の高い建築であり、遠州灘沿いの海岸部において寄木という地名から、海からの漂着神信仰に由来するものではないかと考えられている。

その漂着神のよりつく霊代としての木の信仰が、地名と立木の祠に現れ出たということになるが、岩石信仰の観点から注目されるのは、祠を設けた場に敷かれる「砂」である。

津島神社の聖域に敷かれた砂(雨天時の撮影のため祠の周囲は濡れている)


この祠が建てられる聖域には約二メートル四方にわたって、高さ五センチほど白砂が盛られている。そして、前面の二本の自然木を柱として注連縄が張られている。この祠の造営は毎年交替で一〇名ずつの神役によって行なわれる。神役は部落の南にあたる遠州灘で禊ぎを行ない、続いて、渚の清浄な砂を社域用として境内に運び、その後、杉の葉と竹で祠を造るのである。
野本寛一『石の民俗』雄山閣出版 1975年

野本氏は、砂運びが年1回という定期的な間隔でおこなわれていることを指摘し、定期的な祭礼で招く神の座として砂が機能していたことに注目する。

砂は、海や水にかかわる神の座として相応しい媒体であるばかりか、「砂は石の小極」とみなす立場から、各地の神社で白砂が敷かれることの意味もあらためて問うている。

岩石信仰における「砂」の聖性を示す典型例と言える。


2025年9月21日

岐佐神社の赤石(静岡県浜松市)


静岡県浜松市中央区舞阪町舞阪


どういうわけか大国主命の命を奪ったとされる真っ赤に焼けた赤石も鎮座する。宮司の高柳智さん(74)は「昭和十七年に現在地の神殿横に置いた。その前は神社の鳥居近くにあった。いつ、赤石を神社に持ってきたのか知らない」と話す。火傷などに御利益があるとされ、赤石をさすっていく人も多い。
静岡新聞社[著・発行]『石は語る』2003年

原位置からの移動伝承を持つ岩石である。
また、現在は看板に「赤猪石(あかいし)」と名付けられ、出雲神話にさらに寄せた名称となっている。歴史的に遡る静岡新聞の「赤石」表記を優先して表示した。


2025年9月15日

太刀山愛宕神社裏山の愛宕大権現(静岡県浜松市)

静岡県浜松市中央区舘山寺町 舘山寺

秋葉山舘山寺に接して太刀山愛宕神社が鎮座する(太刀山は舘山と同音)。

神社の裏には山道が続き、5分も登れば山頂の尾根筋に出る。そこには無数の岩塊が露頭し、一画に玉垣に囲われた石祠が存在する。太刀山愛宕神社の奥宮と目される。

愛宕大権現(太刀山愛宕神社奥宮)

石祠に捧げられた穴あき石

藤本浩一『磐座紀行』(1982年)では「館山寺・磐大権現」と題した一項を置いている。

いわく、『東海道名所図会』の絵図には山の西側に「磐大権現(権現岩)」と書き入れてある場所があり、岩石群の合間に社が挟まれた様子が描画されている。当地の岩石群がそれで、館山(かんざん)は神山に通ずることからここは神山の磐座ではなかったかと所感を述べている。

しかしながら、残念なことに藤本は誤読しており、『東海道名所図会』の絵図に記された文字は正確には「愛宕大権現」である。
下に寛政当時の版本を掲載する。

国立国会図書館デジタルコレクション『東海道名所図会』65コマ。 インターネット公開(保護期間満了)資料のため転載自由。

愛宕が縦書きでやや字が詰まり気味で書いてあるので「磐」の一字に誤認したのかもしれないが、それでもあまりに異なる字であり、「磐」であってほしいという固定観念に冒されていたようだ。

以上のことから、この地は愛宕大権現に関わる岩石群だったということが、歴史学的にもっとも古く遡れる評価だろう。


現地には、岩石の傍らに名前を冠した看板が建てられているものも多い。気づいたものをまとめておこう。

ながめ岩

見かえり岩

神付岩(かみつき岩)。「頭をカミゝして厄を落して下さい」の説明も付される。

寄仲岩。後ろの建屋の床下あたりに「木魚岩」なる岩石もあったらしいが見逃した。

初登岩。山頂尾根の岩塊で最大規模。「初登岩」というネーミングは他で聞かない。

天辺岩。山頂尾根に沿って屹立する岩石群を天辺に準えたものか。

くぐり岩

船岩

これらの名称は文献上で確認できていないが、現代に名付けられたものか、地元で古くから口伝で語り継がれてきた名称なのか、経緯がよくわからなくなり独り歩きする前にはっきりしたいところではある。

火穴

先出の藤本浩一は、同図会の「火穴」という場所も「大穴」と誤読している。

火穴は現在「舘山寺穴大師」「弘法穴」と呼ばれてまつられている場所で、弘法大師がここで修業して自作の石仏を安置し、舘山寺の開基につながったと伝えられる霊窟である。

穴大師入口部分

この岩穴であるが自然の洞穴ではなく、文化財上では舘山寺古墳・弘法穴古墳と呼ばれており、古墳時代後期の横穴式石室であることがわかっている。
大師の霊窟として奥は禁足地となっているので詳細不明なところもあるが、天井石が1個欠けているだけで石室の保存状態は極めて良好である。玄室に対して羨道が長いことが特徴だという(浜松史跡調査顕彰会『浜松の史跡』1977年)。

なお、舘山の山中には十数基の古墳の存在が伝わるというが、本古墳の他に古墳認定されているものはない。


参考文献

  • 藤本浩一『磐座紀行』向陽書房 1982年
  • 秋里籬島 編『東海道名所図会』上冊,吉川弘文館,明43. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/765194 (参照 2025-09-01)
  • 浜松史跡調査顕彰会 編『浜松の史跡』続編,浜松史跡調査顕彰会,1977.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9537735 (参照 2025-09-01)