2025年12月7日

岩神の飛石(群馬県前橋市)


群馬県前橋市昭和町




岩神稲荷神社の境内に存在。現地の地名「岩神」の由来とされる高さ9.47mの岩塊で、地下にも約10mにわたって埋没しているとされる。

飛石には祟り伝承が付帯する。石工が石材に用いようとノミを入れたところ、真っ赤な血が吹き出た。逃げ帰った石工は祟りのせいで後日死んでしまい、これを恐れた人々によって神としてまつられたという。

赤褐色の岩肌をもつことから血の発想を得たと思われるが、岩石から血が出るという生き物扱いをされていること、岩石自体が岩神と呼ばれ本殿に位置していること、岩石自体に意思の発動が見られることから、石神の事例として認められる。


都市部に独立して存在する巨岩であることから国指定天然記念物として古くから著名な存在であり、かつては近くの赤城山から噴出した火山岩と目されていたが、近年の理化学的調査により西の浅間山から流れ着いた安山岩と考えられている。

同時期に行われた発掘調査からは近世以降の遺物が出土し、江戸初期、前橋藩主の酒井重忠が岩神稲荷神社を勧請したといういわれと時代的に一致することになる。


これらの調査および飛石の詳細は以下の報告書にまとめられ、インターネット上で公開されている。

技研コンサル株式会社 2016 『国指定天然記念物 岩神の飛石環境整備事業報告書』前橋市教育委員会 

2025年11月30日

石谷山/ビク石山(静岡県藤枝市)


静岡県藤枝市瀬戸ノ谷


ビク石山の通称で知られるが、石谷山が正式の山名である。

標高526mを計るが、山頂近くに「市民の森」公園が整備されており、西側経由で山頂近くまで車で乗りつけることができる。


山頂一帯と東斜面を中心に、多くの岩石群が確認されている。

特に東斜面の岩石群は笹川八十八石と総称され、山頂やや下にある一巨石にビク石の名が付く。山名の由来である。

ビク石(上部)

ビク石(下部)

巨人ダイダラボッチの伝説が付帯する。悪さをしたダイダラボッチに罰として、西の国から土を採り東の国に高い山を作れと神が命じた。ダイダラボッチは籠(びく)に土を入れて運び、高い山は富士山となり、土を採られた場所は琵琶湖となった。

この時、籠から落ちた石がビク石だという話もあれば、ビク石の形状が籠に似ていることから名付けられたという話もある。


そのほか、山頂一帯には宮石・かさ石・剣ヶ石・平石・富士見石・大名石・頂上石・がま石・滝見石・夫婦岩などが存在する。

宮石

かさ石

平石

大名石

頂上石

がま石

山頂岩石群の北部には特に岩石が密集し、岩石名を同定しにくい。

さらに笹川八十八石にも、その一つ一つに名前が付いているものがある。確認できたかぎり、表石・赤石・黒石・めがね石・ふくろう石・五色石・のぞき石・こうもり石・恐竜石・なめくじ石・らくだ石・腰叩き石・象石・座禅石・なだれ石・菊石・見上げ石・鏡石の名を確認できる。

「八十八」は膨大さを表す冠名と見て良いが、その他にも名前の付いた岩石があるかもしれないし、それぞれが現地のどこに該当するかは情報不足である。


以上の点から、石谷山の岩石群はおびただしく存在し、その光景から特別視されて命名された岩石が多いものの、過去に祭祀・信仰を行なっていた記録や痕跡は確認できない。寺社も伝わらず、現在も神聖視の対象としては見受けられないこと自体が興味深い特徴である。


2025年11月23日

鳳来寺山の岩石信仰(愛知県新城市)

愛知県新城市門谷鳳来寺


大宝2年(702年)、鳳来寺が開山されたことから鳳来寺山の名で呼ばれる。

平安時代の文献に「鳳来寺」の名が登場することから、この頃から山岳仏教の霊山としてあったことは疑いない。

山中各所に岩盤が露出し、主に鳳来寺に関した岩石信仰を伝える。未訪の場所も多いので簡単に紹介する。


屏風岩/鏡岩


鳳来寺山のシンボルと言ってよい広大な岩肌。

かつては屏風岩という名称が広く用いられていたが、昭和41年、屏風岩の下から鎌倉時代の鏡や経塚関係遺物などが出土したので、それ以降は鏡岩の名前が定着したということがわかっている。歴史的には屏風岩が元来的名称ということに気をつけたい。

特段の伝承を持たない岩石だが、鳳来寺の本堂や鐘楼は屏風岩の懐に抱かれるように形成されており、明らかに鳳来寺岩石信仰の中心をなす。伝承や物語でわざわざ言語化する必要さえない存在(感)なのかもしれない。


勝岳不動


鳳来寺を開山した利修仙人が入寂した場所。巨岩の懐を聖者の墓所とする事例として数えられる。


奥の院


鳳来寺境内の最高所であり、利修仙人と薬師如来をまつる。

奥の院背後の岩崖は修行の場として使われており、山岳行場の一典型である。


龍の爪あと/鬼の爪あと


荒々しい岩肌に爪状の剥落痕が残る。

龍が天に昇る時についた爪あととも、利修仙人に仕えた鬼の爪あとともいわれる。


岩倉大明神


龍の爪あとに接して立てられた石碑に「岩倉大明神」と刻まれている。

「いわくら大明神」という神名は磐座を神格化したものか。石碑そのものを大明神として崇めるのか、背後の岩肌(龍の爪あと)を大明神と号するために建立したのかはわからない。前者なら御霊代の役割であり、後者なら標示ないし奉献物としての役割を果たす。

新城市には延喜式内社の石座神社も鎮座する地なので、「いわくら」を岩石信仰とする風土が続いてきたのはたしかである。


胎内くぐり


寄り添いあう巨岩内に形成された隙間に石仏群がまつられている。全国数多存在する胎内くぐりの事例である。


その他の事例

『三州鳳来寺山文献集成』(1978年)に収められた、鳳来寺縁起に関する最古の記録は『鳳来寺興記』となる。

慶安元年(1648年)に書かれた文献であり。ここには高座石・巫女石が登場する。仙人(おそらく履修千人)が山上で説法を行い、天から舞い降りた8人の巫女がこれを聞いたという話が収録されている。その仙人が座したのが高座石で、巫女が影向したのが巫女石という。


そのほか、名号岩・牛岩・双頭岩・双子岩・馬の背岩・天狗岩・鷹打場・鬼の味噌倉・酒倉・富士見岩・夫婦岩という岩石が記されている。

夫婦岩については、行者越道に夫婦石と石神があると『郷土』石特集号(1932年)に記されているものと同一の可能性がある。


参考文献

  • 川合重雄・河原慶一・小村正之・竹下正直・林正雄・牧野劭[編]『三州鳳来寺山文献集成』愛知県郷土資料刊行会 1978年
  • 『郷土』第2巻第1・2・3号合冊(1932年)


2025年11月16日

坂手神社の岩石祭祀事例(愛知県一宮市)

愛知県一宮市佐千原


境内に「磐境石(おぼれ石)」と「坂手大神御神石」の2つの神石が存在する。

磐境石/おぼれ石

坂手大神御神石


これらが岩石祭祀事例であることは言を俟たないが、詳細は不明点が多い。

小池昭氏の『遥かなる雲間に―尾張の神話・他―』(私家版 1992年)に唯一、本殿西南に自然石をまつるの一文が確認できるくらいで、後は現地看板に頼るしかない。
「坂手大神御神石」の看板にはこうある。

現地看板

享保2年(1717年)に建立された磐座だと具体的な年代まで記されている。おそらく地元にしか伝わっていないような情報ソースがあるのだろう。
岩石の表面には「坂手大神」の四字も刻まれ、磐座という表現よりも神号を刻んだ石碑を神の御霊代としてまつったものとみるのが正確だ。岩石の規模が小さければ、本殿内にまつる石体・神体石のような位置づけのものである。

注連縄で若干隠れているが「坂手大神」の刻字が確認できる。

残る「磐境石」には神号が刻まれておらず、先の御神石とはまた出自が異なる自然石信仰に端を発する可能性がある。
ただし、磐境石は天王社(津島社)の祠と共に基壇の上に置かれており、地中に根を張る岩盤としての信仰ではなく場所を移されても問題ない、可動的な性質の岩石としてあったようである。

「おぼれ石」という名称は、「負ばれ」(おばれる、背負う)の転訛だろうか。であれば類例も他で見られる。
「磐境石」という学問的な名のほうが歴史的な類例は少なく、「おぼれ石」という俗名のほうが元の古称かもしれない。

磐境石(おぼれ石)の背面

坂手神社は延喜式内社であるが、神社やや東が旧鎮座地であったという伝えもあり、そこは伊勢神宮の御厨の一つである佐千原御厨や元伊勢伝承地の中島宮址という伝承もある。

また、神社のすぐ北には富塚古墳という直径30mの大型円墳が残っており、このような古墳との関係を重視する向きもある(前掲書)。


2025年11月10日

夜鳴石(愛知県一宮市)


愛知県一宮市木曽川町黒田


白山神社の境内にあった石で、夜ごと丑三つ時になると泣くので、外に出したら泣きやんだ。
堀田吉雄 編著『東海の伝説』,第一法規出版,1973. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12467820 (参照 2025-11-10)

この白山神社の公式ホームページで、宮司の方が夜鳴石について興味深い話を述べているので紹介したい。

まず、夜鳴石が現在置かれている場所は白山神社の表参道の末端となる辻に当たり、この場所ではかつて左義長が行われていたことを明らかにされている。

村境の辻角であり厄神送りと目される左義長の存在から、「村境において疫神を防ぐために祈りを捧げた場所」の跡という見解を示されている。

さらに、一般的に夜泣き石は神社の中に入れられて泣き止む流れなのに、本例の夜鳴石は神社の外に出ることで泣き止むという特殊性に注目されている。

仮説として、神社境内にあったことで良からぬ出来事があって神社の外に出されたのか、古い巨石信仰に端を発するものだったのかといった可能性に触れている。

一般的な夜泣き石は神社の中に移されることで泣き止むと言えるのか、事例数を元にしたデータで見たことはなく論拠不明だが、夜泣き石境界神説については今後検討の余地がある。


2025年11月1日

石神様/おもかる石(愛知県津島市)

愛知県津島市今市場町1丁目


津島神社境外摂社の大土社の社殿裏に、石垣に突き出た形で基壇が用意されその上に岩石が置かれている。

石棒状と形容するには短寸であり、本来何を志向した形なのかは一考の余地がある。




津島市の観光案内などでは「大土社の石神様」と紹介されることが多いようだ。

しかし、大土社は石神様の現所在地を指すにすぎず、歴史的にはもともと少し離れた辻沿いにあり、「石神社」として一座の社扱いだった。

明治43年(1910年)の津島の大火により社地焼失してから、大土社に石神様のみ移設されたという流れらしい。

このあたりの沿革について最もまとまった記録として、子宝信仰の事例を医療の観点から取り上げた『愛知県医事風土記』(1971年)を引きたい。ここでは「石の陽物」と題して紹介されている。

大土社背面にあって、明治四十三年、辻(現在、市道元標あり)の大火までは辻東側の石神社のかこいの中にあったという。辻は名古屋から津島への東西の道路と津島北口から佐屋、桑名への南北の道路との交差点で、古くから道祖神が祭ってある。道祖神が陽物をシンボライズしていることは諸国の例から考えても珍らしいことではないが尾張地方には珍らしいというので、民俗学に興味のある人々が時々来訪し、寸法を測ったり写真を撮ったりして行く。子のない人が妊娠を祈り、また良縁があるように祈る人があるという。

『愛知県医事風土記』,愛知県医師会,1971. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12644342 (参照 2025-10-30)

なお、愛知県が運営するサイト「Aichi Now」の紹介文には、「おもかる石」の別称も挙げており、石を持ちあげてその重さでご利益を占う祭祀も付帯している。運試しをしてはいかがと同サイトでは推奨しているが、岩石の大きさとしては今後の保存が不安になるほどである。前掲文献では、かつては石神社のかこいの中にあったというから、その頃におもかる石の祭祀があったのかには疑問もある。

また、「NPO法人 まちづくり津島」のサイトには「旧石神社跡地にも陽石が置かれています」との興味深い一文が見られる。旧社地とは、現・大土社から西約400mに鎮座する秋葉神社(境内に大土社の祠がある)の辺りではないかと思料したが、秋葉神社およびその手前の道沿いには確認できなかった。他の場所かもしれない。

秋葉神社(津島市橋詰町2丁目)。写真右が大土社の祠。

2025年10月27日

三ッ石/三つ石(愛知県津島市)

愛知県津島市神明町 津島神社境内




直径二メートル、一.四メートル、三メートル短径一メートル前後の滑らかな硬砂岩の自然石三個が、境内に巴状に置き並べられています。この三つ石は「尾張名所図会」の神社境内図にもほぼ現在の位置に描かれています。津島神社は欽明天皇元年(五四〇)にここ居森の地に鎮座したと伝承されており、古代祭礼の場としての磐境と考えられることから、神社の鎮座と何らかの関わりがあるのかもしれません。
(現地看板より)

『尾張名所図会』の該当の絵図を下に掲載する。

岡田啓 ほか『尾張名所図会 7巻』[7],菱屋久兵衛[ほか],弘化1 [1844]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13589305 (参照 2025-10-27) 58コマ。インターネット公開(保護期間満了)資料で転載自由のため掲載。

3個または4個にも見えるが岩石が描かれている。
細かいことだが、「三つ石」ではなく「三ッ石」の表記であるため、歴史学的には本来的な名称として「三ッ石」を優先したほうが良い。
現地看板が記すように、たしかに本文には三ッ石の記述はなかった。絵図上だけの存在である。これは、三ッ石の伝承が当時すでに失われていて何も書けなかったのか、枝葉末節の存在のため省略されたのだろうか。


江戸後期から流行った各種名所図会において、絵図上には岩石名が注記されながらも文中では言及されない存在は他例でも見られる。
たとえば同じ尾張名所図会の例であれば、尾張本宮山には鷲岩穴明神社がまつられていて絵図上にも岩穴が描かれるが、神社の紹介に終始して岩石の説明はない。
だが、同時代の『尾張志』には、鷲岩穴明神社と共に別頁に鷲洞の名で登場し、巨石に穴が1つ開いているが人が入るには難しく、穴の深さは知れずと記され同一のものとされる。
一つの文献に記されなくても、別の文献には情報が記されるということは当然起こりうる。

このように、文献に記述がないからと言ってそれが当時すでに由来不詳だったと言い切れる証拠にはない。
三ッ石がどうだったかは、一つの文献からどうこう断言できず不明瞭とみなすのが適切な理解であり、ましてや「磐境」説は一つの可能性としてとどめて独り歩きに注意しなければならない。

あらゆる情報は記憶・記録となるから、それらが後代に忠実に伝存することが望まれる。本記事もそうありたいと思って書いた。三ッ石はこのことを教訓として教えてくれる。

2025年10月20日

白雲神社の薬師石(京都府京都市)

京都府京都市上京区 京都御苑内 白雲神社境内


現地看板によると「御所のへそ石」(京のへそ石は一般的に六角堂のそれが有名)の異名をもち、撫で石としての霊験を伝える。薬師の名もこれに縁するものかもしれない。岩石の前面の凹凸を人面と形容するのも、薬師の顕現の表れということか。

白雲神社の社殿背後に存在。玉垣は岩石を囲わず手前の供花台と板石の部分を覆うのも独特である。

写真中央の岩肌に凹凸の陰影の深い部分があり、これを人面に準えたものか。

側面から撮影。岩石の基部には、岩盤に石を噛ませているようである。

現地看板

看板では古くからの磐座と記すが、歴史的にはどのような存在だったのだろう。

白雲神社は京都御所の中にあり、元々は西園寺家が個人的にまつる妙音堂だった。その由縁から「西園寺の妙音天」という呼ばれ方が元来的で、明治時代になって西園寺家が東京へ移ってから祭祀を存続するために白雲神社として神社に改称した。

薬師石の来歴を文献からたどるのは難しい。1996年発刊の下記文献に、境内に薬師石がみられるの一文を確認できたくらいである。

文献に記されていなくても、このように私的な祭祀の場の場合、公刊化されていない私文書や口伝において信仰が継続されていた可能性もある。その点で白雲神社自身が文章化した現地看板に勝る内容はない。


参考文献
  • 現地看板
  • 石原康夫「京都白雲神社記」『私考弁才天記』第3巻,石原康夫,1996.1. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13223711 (参照 2025-10-20)

2025年10月16日

安井金比羅宮の縁切り縁結び碑(京都府京都市)


京都府京都市東山区下弁天町

縁切り縁結び碑

穴をくぐる

大量のお札(形代)に覆い尽くされていてわかりにくいが、岩石に開いた穴をくぐることで悪縁を切り、また、良縁を結ぶことで有名である。

訪問時は穴をくぐろうと人が行列をなしていてどうしても顔が映るため、見えないように加工して掲載した。


安井金比羅宮の縁切り縁結び碑のことを初めて知ったのは、京都新聞1999年7月1日付の「岩石と語らう」コーナーでの特集だった。

「碑」で「いし」と読むので、「縁切り縁結び石」の表記でも見かける。


歴史的にはいつから存在する岩石か。

下記文献に明記されていた。

安井金比羅宮に新名所

安井金比羅宮は1月に夫婦和合を干支で表した干支回縁碑を建立したのをはじめ5月には縁切り、縁結び石の建立、7月には朱傘の灯籠が建立された。これは「境内を憩いと信仰の場に」との宮司の願いで建立されたもの。

『京都年鑑』1981年版,夕刊京都新聞社,1980.11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9570356 (参照 2025-10-16)

こちらには「縁切り、縁結び石」として紹介され、1980年5月に設けられた岩石であることがわかる。

現代の岩石信仰の事例であり、岩石に穴を開けてくぐる同種の祭祀が他にも見られるので参考になる。


2025年10月13日

「霊神碑」の岩石信仰

霊神碑(れいじんひ)とは、下写真のような石碑を指す。

愛知県名古屋市名東区 大石神社境内

寺社巡りをされている方の中には、このような「●●霊神」と刻まれた岩石を、境内でご覧になった経験があるのではないだろうか。

石面に刻まれた神号を見ると、日本神話では聞いたことがない神々ばかりであり、個人の姓名を冠した霊神号も多く見かける。

岐阜県各務原市 迫間不動境内。無数の石柱に家の霊神名や個人の霊神名が刻まれる。

三重県四日市市 福徳寿御嶽神社境内。こちらは「霊神」以外に「大神」表記も見られ人名以外の事象にも神号が贈られる。霊神碑からの派生と見てよい。

「霊神」というカテゴリーの中で一定の統一性はありながら、刻まれる内容は多様性に富んでおり、これは神なのか墓なのか記念碑なのか、前提知識なしでは評価に困る特異な岩石である。


霊神碑は、木曽御嶽山を信仰する人々が結成する講によって建立された石碑である。

御嶽山は岐阜県と長野県の県境にそびえるが、中部地方のみにとどまらず、東北から中国・四国地方にも霊神碑の存在を確認できる。

これは御嶽山を信仰する御嶽講の人々が日本各地に広めた結果と考えられ、御嶽山との直接的な関係だけでなく、人が岩石に神の名を刻む行為としての視点からも興味深い社会的現象である。

この記事では、霊神碑の現在的な学説をおさらいした上で、岩石信仰という観点に立った時の霊神碑の位置づけについてまとめておく。


御嶽山と霊神碑の基礎知識

2022年、霊神碑を専門的に研究する愛知学院大学教授の小林奈央子氏の研究発表を聴講する機会があった。その後、その発表内容は下記論文として結実した。

本記事では、小林氏の研究に基づき御嶽山と霊神碑の最新の研究状況を紹介しよう。


■ 御嶽山の名称

御嶽という尊称は他地域にも認められるので、区別のため木曽御嶽と記されることもある。

また、歴史的な雅称としては「王の御嶽」「金の御嶽」がある。特に「王の御嶽」は、その読みかた「おうのみたけ」が転訛して「おんたけ」となった可能性も指摘されている。


■ 御嶽山の開山者

御嶽山の山中および山麓には御嶽神社が鎮座する。江戸時代中期までは御嶽神社による所定の潔斎の上で登拝許可を受けた者しか登れない山だった。

このような状況を一変させ、庶民が登れるようにした18世紀の「開山者」が2名いる。後に集団化された各地の御嶽講にとっての開祖とされる。

  • 覚明(1719~1786年)…尾張国出身
  • 普寛(1731~1801年)…武蔵国出身

この2名を慕った人々により、中部地方と関東地方では御嶽行者や御嶽行場が多く生まれることになった。


■ 霊神碑の歴史

本来は、覚明・普寛を死後に追善しようと供養塔を建てたのが最初である。

「霊神」の字を刻んだ最古例は、弘化2年(1854年)の「大阿闍梨覚明霊神」である。ただし、それに先行する天保14年(1843年)の「覚明神霊」の事例もあり、当初は「霊神」と「神霊」の号が定まっていなかった模様である。

明治時代に入ると、覚明・普寛以外の行者や信者にも「霊神」号がつけられた霊神碑が増加する。とりわけ功績高い行者や、講活動に尽力した篤信者に霊神号が授けられるようになった。生前に霊神号を授けられるケースもあった。

霊神碑の脇や背面には俗名・造立年・享年・造立者が刻まれるのが一般的で、霊神碑の建立年代調査によれば昭和戦前期にかけて造立のピークを迎えるが、1950~1960年代にも造立の小ブームがあったようである。

御嶽山の山中には、現在約3万基が存在するといわれている。御嶽山だけが造立の場ではなく、さまざまな地域の講が自らの講社・教会の敷地などに「霊神場」と呼ばれる、霊神碑を建立するための空間を形成した。

覚明から「覚」または「明」の一字を採った霊神碑と、普寛の「普」「寛」の一字を採った霊神碑の系譜に分かれる。それぞれの開祖の出身地に合わせて、前者は東海地方に多く、後者は関東地方に多いとのことである。


■ 霊神碑の形態

扁平な自然石をそのまま石碑に用いたものと、自然石を整形して表面を平らに削ったものがある。いずれにしても「扁平」が良いらしい。

岩石のフォルムは、角のない丸みを帯びたものもあれば角柱状のものもあり定まっていない。

標準的なサイズは、高さ1.5m、幅1m、厚さ20㎝程度で、墓石よりはやや小ぶりのサイズと評価できる。大きい事例では高さ3mを越える。


■ 霊神碑の性格の変化

先述のとおり、霊神碑はもともと供養塔だった。すなわち故人への鎮魂や作善のための奉納物だった。

しかし、時代を経て建立数が増えるにつれて、奉納物から「御霊の宿る施設」へ性格が変化した。

その証拠として、霊神碑には「御霊移し」という祭祀行為が伴うようになった。

御霊(みたま)とは故人の霊魂であり、人が亡くなると墓が建てられる。墓は遺骨が埋葬される施設だが、それとは別で、御霊を宿すための施設として霊神碑が用いられる。

生前に霊神碑を造っておく場合、霊神碑の刻字の「霊」の部分に赤を入れておく。没後すぐではなく、半年~1年の間に赤を消して、故人の御霊を霊神碑に宿す「御霊移し」がおこなわれるという。

これらの点から、小林氏は霊神碑が供養塔から「御霊の依り代」に変化したと表現しており、それはまるで墓石が当初「死者が極楽往生するための菩提」を目的にしていたものから、宝暦年間(1751~1764年)以降は「霊位」(死者の霊魂の依り代)に変化した流れと類似性があることに触れている。

※なお、「依代」概念は折口信夫が創出した分析概念であり、歴史的な事物に対して真に同時代的な説明をするに適切な用語であるかどうかには批判点もある(参考記事「依代と御形と磐座について―祭祀考古学の最新研究から―」)。その議論を踏まえるなら、霊神碑や霊位は「故人の魂の憑依物」と表現するのがより客観的かもしれない。


岩石信仰の観点からのまとめ

小林氏による霊神碑の最新研究を以上紹介した。今後、各地の霊神碑を観察して歴史の中に位置付ける際に学ぶ点が多い。


江戸中期~後期の墓石の性格変化、江戸後期~明治以降の霊神碑の性格変化は、それぞれ岩石信仰(岩石を用いた信仰)の変遷と言える。

私が作成した「岩石祭祀の機能分類」においては、墓石や霊神碑の元来的機能「供養のための奉納物」は、「BBB類型 鎮め・清めの道具」「BBC類型 奉納物」の2つの要素が複合していると考えることができる。

そして、墓石や霊神碑が変容した「故人の魂の憑依物」は「BAA類型 憑依物(旧・依代概念)」の機能であり、願いをかなえる道具から信仰対象が宿る施設に岩石に込められたものが変化したとまとめられる。


岩石信仰の諸事例を鑑みれば、同一の岩石が単一の機能のみを永続的に保ち続けるわけではなく、人々によって同時に複数の機能(性格)を込められることもあれば、時代変化の中で岩石に期待されたものもしばしば変化する。そのような事例は他にも多く見られる。

しかし、自然石の場合は元来込められていた人間の意図が見えにくいために至極当然の変化と言えるが、霊神碑は単なる自然石ではない。文字情報がある岩石(石造物)である。このように明確に人間の意図が読み取れる場合であっても、岩石の機能が変化しうるケースを示したと言える。

もしかしたら文字情報があることで、文字に引っ張られた要因もあるのではないかと感じる。元来は供養の対象としての「人名+霊神」が、「霊神」という文字の強さに引っ張られて霊神を物体化・可視化する祭祀対象に変わったという見方である。


自然石の岩石信仰においては、神への畏敬的信仰から信仰心なしの特別視へと人々の認識が親近的に変わるという仮説がある(たとえば林宏氏『鏡岩紀行』中日新聞社 2000年 における鏡石・鏡岩信仰のケースでの指摘)。

人々の知(文化・技術)が成熟するにつれて、岩石に対する「未知」が薄れることによるものという理解に立った仮説である。


一方、霊神碑のケースでは奉納のためのツールが御霊の憑依物として、限りなく信仰対象に近い存在へ聖化した(霊肉分離の考え方に基づけば、信仰対象と同一とまでは言えない)。

同じく人々の知(文化・技術)の結晶である文字が、岩石の「未知」を言語化した結果、岩石そのものの性質に左右される必要なく、文字から岩石に聖性を読みとったのではないか。

文字が一種の権威性を発揮し、聖なる要素を強化したのではないかという私見を記して本記事を終えたい。


2025年10月12日

伊寶石神社のいぼ石(愛知県豊橋市)

愛知県豊橋市大岩町北元屋敷

伊宝石神社の社殿の後方にある大岩に、縦二メートル、横一メートルの洞穴がある。そこに水がつねにたまっている。この水をもらってきていぼにつけると、よくいぼが取れるという。
堀田吉雄 編著『東海の伝説』,第一法規出版,1973. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12467820 (参照 2025-10-06)


伊寶石(伊宝石)はイボ(疣)の当て字である。

全国各地に広がるイボ石信仰の一事例であるが、多くが岩石単独で残るのに対して、いぼ石の手前に社殿を設けて神社にまでなったという点においては比較的珍しい事例である。

勧請は弘安7年(1284年)とされ、天保15年(1844年)には疣石本社の名も伝わる(愛知県神社庁 編『愛知県神社名鑑』,愛知県神社庁,1992.8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13223261 (参照 2025-10-06))。

水が溜まる場所は文献によって洞穴や窟などと記されるが、実際は岩石の頂面の窪みに溜まった水という表現が正確である。

伊寶石神社

社殿の背後にあるいぼ石

岩石の頂面には今も水が溜まる。

大岩町には他に岩屋観音などの岩のまつり場があるので、地名由来となった大岩がどれを指すかははっきりしない。


2025年10月9日

立岩(愛知県豊橋市)

愛知県豊橋市雲谷町字上ノ山460番


標高約88mの岩山を通称・立岩と呼ぶが、東海道新幹線からも目に飛び込む奇観としてしばしば話題になる。

麓に立岩稲荷が鎮座するが、立岩との直接の信仰的なつながりを地理的な近さ以外に伝えるものは見当たらない。現状、岩石祭祀事例として取り扱うには確たる根拠を得られず「保留」である。

唯一、境内に「天地天神社旧跡地」と刻まれた石碑が境内岩塊の上に立つところに、単なる稲荷神社とは異なる歴史を感じさせる。

境内には「明相(?)霊神」の霊神碑も見られることから、天地天神社の詳細は不明ながら御嶽講などの別文脈の祭祀が入り混じる地であったことが偲ばれる。

立岩稲荷

天地天神社旧跡地

霊神碑

立岩稲荷の奥から立岩の基部を撮影

また、探訪時は存じていなかったが、立岩の南には「椀かせ岩」と呼ばれる岩石があり、いわゆる膳貸・椀貸伝説の類例である。

椀かせ岩と立岩は相対するように存在するが、それぞれの岩石に信仰的な関係性があったのかも不明である。


チャート質の岩肌は南面で最大30m切り立ち、ロッククライミングの愛好者の間でも有名な存在である。

現地には2025年3月に新設された看板が建ち、岩登りには愛知県東三河遭難対策協議会への許可申請が必要である。

申請した即日に許可を得られるが、申請書pdfへの記入を現地で行うのは難しいと思うので、事前に印刷・記入・送信が望ましいだろう。

現地看板

参考リンク

愛知県東三河遭難対策協議会HP


2025年10月5日