2025年6月14日、日本宗教民俗学会の第34回大会シンポジウム「これからの宗教民俗学の可能性」をオンラインで聴講した。
学会発足35周年という節目で、宗教民俗というものをこれからの時代に向けて再び輪郭づけようとした題目だと受け止めた。
結果として、現今の民俗学分野で知名度の高い「ヴァナキュラー」概念が当日の大きな論点になったように思う。
聞きながらのメモのため読者向けにまとまってはいないが、私吉川が問題意識を抱いた部分でフィルターをかけてお届けする。
島村恭則氏「民俗学とヴァナキュラー―来歴と可能性―」
ヴァナキュラーという概念をなぜ使うのか。
どこまでが民俗学の対象なのかを試し続けた40年だった。
すべてが民俗と呼んでもいいのだが、ヴァナキュラーという概念がさらにぴったりくる。
ヴァナキュラーは「俗語」の訳。国語の対比概念。
俗語と国語の関係は、俗的なものと国的なものとの対比関係で語られる。
つまり、社会的に正統・公式とされるものに対立する概念が「俗」。対覇権性(対抗覇権主義)とも。
聖・俗の俗の概念とは異なることに注意。
民俗にはフォークロアという言葉もある。しかしこれらの語のイメージが持つ、田舎のものや牧歌的なもののみに縛られていてはいけない。
ノスタルジーや昔に限定されるのが民俗研究ではなく、現代的なものまで含めて考えていけるのがヴァナキュラーの考えである。
ヴァナキュラーという概念をつくる、こだわるのが最終目的地なのではない。ヴァナキュラーから学ぶことが多いので広く紹介するというスタンス。
最初は来宮信仰をフィールドにしていた。そのような精霊論に最近回帰している。来宮は「来」の字から漂着神とみなす立場があるが、伊豆諸島の木霊様が神社化した地域の影響下に入ることから、「木」の宮としての、木の神様の信仰が本義だろうという結論に最近たどりついた。
■ 吉川感想
覇権・中心に対する俗の人々を学問するという視点だが、俗の人々も集団であるかぎり、その人々の中でまた主流や中心が生まれる。
俗とされる人々の中に埋没して、個人によっては周縁・対抗も生まれる。そこまでまなざしをむけることができるか。それでこそ反覇権の学問たりえるように感じる。
言い換えれば、民俗学は、俗という言葉で覆われた個人の心まで研究たりえるか。俗を生み出し、俗の成立の下にあるベースとなる心である。
民俗学が集団研究(再現性のない個人ではなく、文化に焦点を当てる)を前提とするものかによる。
橋本章彦氏「怪しきモノの宗教民俗学―「ゴジラ」の日本的性格を論ず―」
ゴジラもヴァナキュラーたりうるか。
ゴジラという作品の中に潜む俗的(一般化される)な部分に、皆さんの心にも共感できるものがあるかという問い。
第1作でのゴジラは出現時に暴風を伴い、神棚が崩壊したという映像制作者の表現が流れる。
出現時の天候不順は、全30作品の3分の1に見られる。
たとえば「赤い月」はヴァナキュラーと言えるかもしれない。
ゴジラは、鵺と同じ性格構造をもつ。
ゴジラ表現を一例としたが、このような俗の営みを、見えない世界、見えない存在(≒それが宗教的なものか)の関係から分析するのが宗教民俗研究方法と位置付ける。
見えないもの見えるものの境界を、表現作品から分析したということである。
■ 吉川感想
「皆さんの心にも共感できるものがあるか」
この問いかけ自体が、主流か反主流かが試されるような趣をまとい、学会発表という場の「俗」を感じざるをえなかった。
2003年以降の作品では、シンゴジラなどでは暴風を伴わないが、これを表現者の俗という立場からはどうとらえるのだろうか。
表現者・視聴者の世代を問わない普遍性があるのか、昭和レトロのような世代間の問題にただ帰属するような錯覚なのか、別の視点でも見極めもほしいところ。
解釈時、俗をみようとして通俗的パターン・定型パターンで解釈してしまうことで、捨象されてしまう個人の心がないかに注意したいと思った。
なお、境界は意味が出現または消滅する直前の混沌さを表すものであるという山口昌男『文化と両義性』の概念は、見えないものを扱う信仰研究において汎用性が高いものと感じた。
村上紀夫氏「宗教のメディア史的考察―恵信と遍路関係史料の周辺―」
文献史学の立場からの発表。
文献史料に民俗を読みとることは、これまでもこれからもおこなわれていく手法であるという例。
文献史料をメディア論という切り口から取り上げた。
四国遍路で知られる恵信(安永5年・1776年生まれ)は、出版物というメディアを多用・駆使した人物。
恵信は衛門三郎の木像に自分の髪を植えた。衛門三郎は欲深い豪農だったが弘法大師と出会って改心した人物。死去時に大師が衛門三郎と書いた石を衛門三郎に渡した。その石は、来世で生まれ変わりたいと衛門三郎が願った河野氏(伊予豪族)の子が生まれた時に握っていた。
恵信は衛門三郎と同一視の行動をとる。生まれ変わり、後継者。
その際、仁和寺や高野山などの監修・公認としての出版物を作り、口頭や耳で聞く以上に、文字というメディアで遍路に権威性をもたせた。
また、「光明」という文字をさまざまな書体で表現した。文字を美的なものとして用いた。これも文字メディアの一方法。
文字が読める経済資本・文化資本をもつ人(遍路ニーズ)をターゲットにした戦略が仏教界にもあった。仏教世界は、常に文字や書物と共にある。
このメディア論は現代の問題にも通ずる。
日本遺産にも四国遍路のストーリーがあるが、19世紀に創られたステレオタイプなイメージの再生産ではないかという問題提起。
■ 吉川感想
正しく文献史学の手法でおこなわれた30分。
文字資料というメディアは、書いた人、書かれたもの、読む人、すべてに一定の資本フィルターがある。
文献からしか見えないものの限界を自覚しつつ、文献が作られたからこそ、ターゲットとされた対象を読みとることができるというケースを示した。
メディアが変わってくると、情報を受け取る側の反応も変わってくるという点でメディア論の重要性を村上氏が説かれていた。
その例として、学会もオンラインになると、対面時代と違い内職ができるようになるなどの受け取り側の変化を挙げていた。
面白い視点だが、ただ、受け止め方は本当に千差万別である。その推測どおりの反応だけでないのは私の例であり、私はむしろオンラインになったほうが周りを気にせず集中でき、パソコンを2台使って1台でスライドを見てもう1台でメモを取り、このように即ブログで公開できる。そして、この行為自体が対面で座りながら話を聞く以上のアウトプットの場になっている。対面空間には社会性が伴うので、そこでつぶされる効能というものを感じている。これは周縁、反権威的な俗の反応の一つと言えないか。
西村明氏「宗教学とヴァナキュラー―宗教概念批判を踏まえて―」
宗教学の立場からの発表。
宗教学でもヴァナキュラーの概念は、大勢ではないが扱われることがある。
「大文字の宗教」と呼ぶものが、従来の宗教イメージ。組織宗教・制度宗教なども類語。欧米由来のreligionの訳語をどう訳してきたかだが、これらの宗教概念はプロテスタント色が強い。内面の信仰を重視していて、教会、組織、教義、教典がないと宗教とみなされにくいという限界があった。
そのような「大文字の宗教」からあぶれたものがある。
「信仰なき宗教」というような呪術から、プロテスタントの文脈では想定されていない民間信仰、俗もそれに含まれるだろう。
かつては民俗宗教かなあと思っていたが、今はヴァナキュラー宗教がはまるのではないかとアプローチしている。
ヴァナキュラー宗教とは「生きられた宗教」。
人が解釈しつづける宗教という意味。
宗教には解釈が伴う。だから「個人の宗教がヴァナキュラーでないことは有り得ない」というが、それだとなんでもありになってしまう問題を現在自問自答していて、よく細かく分析したい。
制度化された、システム化された宗教は、人の日常から「離床」「自立・自存」している。
その反・離床、つまり日常に根差した実践を研究するのがヴァナキュラーか。
宗教者も24時間、宗教者でいつづけるわけではない。宗教者ではない顔を持ち、その日常の中での思い、解釈ももちうる。そこに宗教者の俗がある。
現代社会では、ヴァナキュラー宗教は、人が創造し、消費するということをどちらもしうる。
大文字の宗教だけではとらえられない、個人のクセとして閑却されていたようなものが、ヴァナキュラー概念によって陽の目が当たるのではないか。
■ 吉川感想
西村氏のヴァナキュラー論では、個人のクセとして省かれそうな心にも焦点を当てようというまなざしがみられた。
内面の信仰なしの宗教(呪術)が存在するという話もあったが、信仰の定義にもよって扱いの変わる問題提起と思う。信仰告白のような大仰なものだけではない。
信じるというシンプルな精神は、宗教というイメージに関わらず行われている。それを宗教でないものと見るのか、それらも宗教的なものと無関係ではないとみなすのかの違いに行き着きそうである。
そして、信仰を教典で表せない、文字や言葉で表せない心の内面があると想定するのは、とりわけ一個人の心において当然想定されるべきである(全員が文章を書くわけがない)。
そうすると、最終的には個人の内面の「信じる」という心を無視することはできない。
何を信じ、何を信じないのか、そして、そこに理屈はあるのかないのか、理屈は言語化されているのかされていないのか断片的なのか、「末端」「枝葉」扱いされるようなイレギュラーな個人の目線に寄り添った分析・記述が求められている。
そして、そのイレギュラーな個人の心が周りの人々にどう扱われたかによって、社会宗教化するか個人の私的な「呪術」扱いされるかも変わってくるという点で、何が決定要因だったかを各個人の心と社会関係から研究することも求められるだろう。
俗の人が言葉で表していないものを、学者が言葉(講演、論文)で表そうとする行為の危うさと隣り合わせのヒリヒリとするテーマだった。
星優也氏のコメントから
星氏のコメントは、4名の発表を聞きながら同時にまとめたというパワポに基づいており、このスピードでよくぞという内容をまとめられていた。以下メモ。
- ヴァナキュラーの理解に時間がかかったが、ヴァナキュラーと歴史学は接続可能ではないかと感じた。
- 俗は、常民とどう関係するか、国民も越えていけるか、どこまで拡大する民の概念か。
- 共有される<俗>と、共有されることによる「国民」化をいかにずらしていく議論ができるか。
- ヴァナキュラー宗教から教祖が生成されることはありうるか。
- 日常の宗教的実践と宗教の日常的実践
3つ目の「俗の国民化」は、数ある質問の中でも特に警句だと感じ、私吉川の問題意識とも重なった。社会性をもつことの暴力性というか、そこへのまなざしである。
登壇者からの回答
■ 島村氏回答
民俗学は現代と日常を研究する。その際、過去を参照するので、従来の歴史民俗学と当然対立するものではない。
社会集団としての「民」は恋人2人からでもいい。数はテーマ設定により伸縮自在するもの。死者やペットも入れてもいい「かも」しれない。
ヴァナキュラーは拡散している(?)ものなので、そこから宗教・教祖は生まれるのかは?宗教学への質問でもある。
■ 西村氏回答
教祖としてなるつもりがなくても、生き神として教祖化されてしまう。教祖以外の周りの信者の力学がある。
概念やカテゴリーなどに、何が入るのか何が入らないのかとこだわるとそれだけの分析概念の論争に終始してしまう。
研究する側、記述する側が、ここまでは宗教、ここからは宗教ではないと線引きすること自体が、近代以降の思考にはまりすぎている。
(宗教2世問題 すべての子弟、子供達が生来的に宗教の枠組の下にあることも)
会場参加者からの質問
■ 質問1
ヴァナキュラーは流行の概念だが、なぜ外国語を取り入れるのか、俗語のままではいけなかったのかの理由。支配的なものに対する対抗という意味合いを持つというが、それは民俗学も同じではないか。
■ 島村氏回答
民俗学が支配的なものに対抗する学問というのはそのとおりだが、しかし、実際には民俗学辞典の民俗学の定義にそれが明記されていない。なので、その意味を明確に持たせるために自分が再定義した。
世の中では民俗学という言葉が持つイメージは強く、民俗学の変革の方向性が伝わりにくい。ヴァナキュラーと呼ぶことで注目されるという戦略でやっている。また、外国語圏で研究する時は俗ではなくヴァナキュラーのほうが誤解がない。カタカナ語に過剰反応する必要はない。
学術的には、ヴァナキュラーでも民俗でも本来はどちらでもいい。
※島村氏の戦略、意図が伝わる質疑応答だった。
■ 質問2
書物の権威性についてさらに詳しく。
■ 村上氏回答
文字は国語(俗語に対する国語)であり、言葉と違って字を学べば同じ字を読める。その点で統一的なメディアであると言え、俗に対比される統一的・権威的な存在である。
そこから発展した議論として、文字資料を使って民俗を研究することは、かなりアクロバティックな読みかたをしないといけない。
文字資料は俗に対する権威的な書き手による情報であり、書き手の意図にからめとられないように、書き手の裏をかくような読みかたをより一層研究者は自覚しないといけないと考えている。
■ 司会の本林靖久氏からの問題提起
宗教民俗学はこれまでいわゆる固有信仰を研究するというのが中心だったが、これからはどのようなものを研究していく学問としていけばいいのか。
現実問題としては、学会として査読者が対応できないテーマも出てきている。編集委員側としての悩み。
■ 島村氏
いかにもヴァナキュラーな研究テーマも積極的に加えていっていいのでは。それも民俗なのだから。
あくまでも加えるのであって、今までの宗教民俗学をそっくり入れ替えることではない。
査読の問題は、外部に頼ってでも学会として対応するほかない。戦略として、学会として閉じてはいけない。雑誌の投稿先を投稿者側も見ている。研究者は好きなテーマをすればよく、その時に受け入れる先であれればいい。何なら、私はこれを機に入会するので手に余るテーマは査読を回してください(!)
ありのままにみる、というのは現象学(フッサール)。民俗学やヴァナキュラーは、ありのままに見るようであり、それに別の視点や意図が加わるもの。表現文化、物質文化など。
■ 西村氏
自分が解明したいテーマを研究していく中で、裾根を広げていく場面が出てくる。それは宗教や民俗とくくれるものではないかもしれない。そういったものも通過していきたいと自分は思っている。ヴァナキュラーもそういうものの一例。
■ 村上氏
各研究者は各研究者の専門を突き詰めて、読み手は自由な立場で、たとえばヴァナキュラーとして読んでもいい。
■ 橋本氏
ある聞き取り調査の時、「わしらは毎年同じことをやっているだけなんじゃ」と聞き取り相手から返されて、「民俗なんてないんだ」と目からうろこが落ちたことがある。
研究者が民俗と呼んでカテゴライズしているにすぎないのだということ。
このように、言語が世界を作っている。ということで、宗教民俗やヴァナキュラーという言葉から議論を始めるのは意味があることにはならない。文学における、書き手の意図と読み手の読みかたは異なるという問題にも通ずる。
対象が変われば問題や世界が変わるので、どのように自由であってもよいのではないか。
■ 本林氏
これから若い研究者がさらに登場する中で、さまざまなテーマが広がるのは自明ということを学会としても受け止め、それによって宗教民俗学・学会を盛り上げていきたい。
■ 吉川感想
学会や学問で取り上げられる研究テーマについても主流や中心があるというのなら、そうではないような怪訝な目でみられるテーマも研究され、そのような研究を受け入れていけば良いと思う。
なぜなら、その関係自体が反主流・反中心を内在するということであり、現代に生きる私たち「民」の「俗」の実践になるのではないか。
学会自体が、中心・主流に対するカウンター(反権威)になるという、新しい民俗学を体現していることになる。
査読委員側の問題は現実として問題山積だと思われるが、これは多様性を認めることに伴う出血であり、多様性社会のどこでも起こっている現在的事象と言える。
イレギュラーな各個人との軋轢をどう受け止めていくかということに尽きると思う。
人それぞれ、大事にしている自分の価値観があり、そこと他者が同一化するわけがないので、軋轢が生じてどうしても苦痛を伴う。
世代間格差もあろうと思うが、学会や先行研究者自身がそれ自体権威性をどうしても帯びてしまうものと自覚して、民俗学が反権威であることを体現するため、権威側ではない存在へ歩み寄っていくことを願いたい。