2016年12月23日

カエデの森(三重県津市)



所在地:三重県津市白山町真見59-2


Googleで「磐座 三重」と打つと、トップページが上の画像のようになります。最近になって気づきました。

「カエデの森・磐座遺跡」
なんだろうここは。
三重県在住で磐座歴15年ですが、このような場所は初めて聞きました。

おそらく、この表示はGoogleMapで地点登録されたことによるもの。

この地点登録の手続きや基準を私は知りませんが、私がどうあがいても到達できない検索1ページ目をやすやすと叶えてしまうのだから、なんとも虚無感があります。

ということで、さっそく先日現地を見に行ってきました。三重県民として。


2016年12月19日

川上山若宮八幡宮の岩石信仰(三重県津市)

三重県津市美杉町川上

境内の岩石信仰

川上山若宮八幡神社
おもかる石。拝殿向かって左脇に安置。

川上山若宮八幡神社
みそぎ滝。雲出川水源。現在でも「みそぎ修法」と呼ばれる滝行が公式に行われている。
滝に隣接して岩肌斜面上に不断社の祠がまつられており、磐座の上に建つという。

川上山若宮八幡神社
不断社から、雲出川を挟んだ向かいに見える露岩。その裾には2基の石灯籠が設けられている。詳細不明。

川上山若宮八幡神社
みそぎ滝に榊と積石が手向けられている。

川上山若宮八幡神社

川上山若宮八幡神社
このように、ケルン状の石積みをしたり、鳥居の上に石を積むという行為が境内では散見される。

川上山若宮八幡宮には、各宅の神棚にまつるために「御石」を授与し、祈願成就の暁には個数を倍にして返す「お返し石」の儀礼が執り行われており、岩石を用いた祭祀行為が極めて親しく行われていることが窺われる。

川上山若宮八幡神社
神橋から見える川中の岩塊。詳細不明。9年前(2006年1月)に参拝した時には注連縄は巻かれていなかった。

本殿内の神体石

2025年10月18日付の中日新聞三重版によれば、本殿内には主神・仁徳天皇と皇后の磐之媛の神体として伝わる石が収められている。
石の手前には木像もあり、男性の頭から背中にかけて竜とみられる造形が見られるという。仁徳天皇は黒竜に準えられたことから仁徳天皇の神像と目されている。


【情報募集】所在地不明の事例群

2007年時点で神社境内に存在した地図。2016年探訪時には撤去されていた。
今はなきこの地図に重要な情報が載せられている。


「雨乞社(立石さん)」「燈明石」「赤子石」の字が読める。

曖昧な地図のため、等高線地図と照らしあわせても、どこに該当するか特定することができない。
そこで、川上山若宮八幡宮の社務所で神職の方に尋ねたところ、おそらく現地を知る神職の方から次のような回答を聞き取りできた。

  • 赤子石は、逢神橋からすぐ見える、川の中にある大きな石。祭祀に関わる石とのこと。詳細は明確な回答を得られず。
  • 燈明石は、逢神橋から車道を下って1軒の家があるので、その家の後ろから山に登れる道がある。暗渠(地下に水が流れる)になっている場所という。その道を5分ほど登るとあるとのこと。たぶん案内なくても行けるとのこと。
  • 燈明石は祭祀対象としての石ではない。そこで燈明を灯したことからこの名があるという。
  • 雨乞社(立石さん)は、たまに行くとのこと。ただし、その場所を知る地元の人の道案内がなければ辿りつくことは難しいだろうという。1時間以上は登るのではないかとおっしゃる。
  • 山のどのあたりか、山頂ですか?と尋ねたところ、「磐座を勉強されている方ならわかると思うが、磐座は山頂にはない。」と強調された(磐座と決まってはいないが・・・)。中腹というか、山の凹み、鞍部のようになっているところらしい(はっきりとニュアンスが掴めず、おおむねこのような意味と受け取った)
  • 雨乞社(立石さん)を示す表示・案内は現地には一切ないとのこと。
  • これらの石に関して書いてある文献はないだろうとのこと。

文献がないのであれば、この聞き取りが唯一のヒントとなってくる。
(ただし、まだ郷土資料の調査はしていない。美杉町の図書館は17時閉館だったため見れず)

川上山若宮八幡神社
まず、これは逢神橋である。
橋の北側に、川に沿って歩ける未舗装の道があり(並行して走る林道ではなく、川に一番近い道。300mも歩かないうちに行き止まりになる)、これを進むとすぐにこのような石祠が路傍に置かれている。

川上山若宮八幡神社
石祠から下の川を見下ろすと、ちょうど直下の川の真ん中に大きな石がある。

川上山若宮八幡神社
特に表示はないが、位置的に考えてこれが赤子石だと推定したい。

次に、燈明石が到達できる可能性があるので、まず家を探す。
逢神橋からさらに車道を下ると、まず見かけるのは谷沿いに置かれたコンテナ状の施設と、その奥の谷に続く道。

川上山若宮八幡神社
木材を切り出して並べている。
写真左下に石祠がある。門扉が半開きであり中に鏡が収められているのが見えた。赤子石と同様、この石祠が燈明石の目印の可能性も?
しかし、燈明石は祭祀対象としての石ではないと言っていたことや、このコンテナは家とは呼ばないはずなので違うと判断する。さらに車道を下る。

すると、車道が大きくカーブするところで山側に登れる道があり、そこを上がると1軒の家がある。人は常駐していないようだ。その家の背後からは登れなさそうだが、家から向かって右手に山側へ向かって続いている踏み跡があり、ちょうど谷の北側を進む道となる。この谷を暗渠とみなせば、条件にかなう。

川上山若宮八幡神社
上の写真のように、この道も木材を切り出すための作業道として活用されているようだ。
5分ほど登ってみたが、特に岩石は見当たらない。
時間もすでに17時で暗くなってきたためここまで。今回は予備的調査なので、次回の機会に持ち越したい。

雨乞社(立石さん)については、現時点では自力での到達はあきらめているところ。
しかし、ここは川上山若宮八幡宮の境外社としての社格があり、その名称からもぜひ一見したいし、これほど知られていない状況であれば、知っている人が存命のうちに、後代に途絶えないように記録に残したい。

おそらく、逢神橋北から東へ伸びる林道からアクセスするのだと思うが・・・(詳細はgooglemap参照)
現地を知る地元の方にお会いでき、いつかは案内いただけるように願って。

次の段階としては、地元の図書館や資料館などで文献調査をしたいところだが、本事例に関してはこのようにまったく情報が出回っていない。
(2007年に初めて知って以来、9年間待っていましたがweb上に登場することはなかった)

情報をお持ちの方はぜひご提供ください。

2016年12月17日

渭伊神社境内遺跡と、いわゆる「天白磐座遺跡」について(静岡県浜松市)


静岡県浜松市北区引佐町井伊谷字天白 渭伊神社境内

参考文献

  • 辰巳和弘・編 『天白磐座遺跡』(引佐町の古墳文化5) 引佐町教育委員会 1992年
  • 辰巳和弘 『シリーズ「遺跡を学ぶ」033 聖なる水の祀りと古代王権・天白磐座遺跡』 新泉社 2006年
  • 藤本浩一  『磐座紀行』 向陽書房 1982年

いわゆる「天白磐座遺跡」に対しての警鐘 


渭伊神社の背後に薬師山(標高41.75m)があり、頂上に多数の岩塊が露頭している。
これが渭伊神社境内遺跡である。
頂上の巨岩群の周辺一帯から、古墳時代から鎌倉時代前期まで連続した祭祀遺物・祭祀関係遺物が出土した。



遺跡発見者であり、発掘調査を主導した辰巳和弘氏は、この遺跡を「天白磐座遺跡」と命名した。
一般にはこの名で有名となった国内の代表的な「磐座」遺跡だが、史跡登録時の正式名称は渭伊神社境内遺跡である。

本遺跡発見より遡ること約10年前、『磐座紀行』著者の藤本浩一氏が当地を訪れ、同書にて磐座の例として紹介した。
現地には、藤本氏の同書に影響を受けたと思われる説明板も立てられている。

藤本浩一氏の記述を元にした現地看板。「天白磐座遺跡」の名はまだない。

この点を踏まえると、藤本氏の紹介以降、当地が「磐座」と呼ばれるようになったようである。
逆に言えば、それ以前、この巨岩群を「磐座」と呼んでいたわけではないことに注意したい。
実際、かつて地元ではこの地を「おがみ所」と呼んでいたという記録が残っている。それが、天白磐座遺跡の名称が広まってからは「おがみ所」の呼称は影をひそめてしまった。

私はこの点を懸念している。
なぜかというと、文字記録がない古墳時代の遺跡に対して、容易に「神が降り立った岩石」という意味合いを持つ「磐座」の用語を断定的に当てはめるのは危険だと考えるからだ。

本遺跡の古墳時代の遺物の出土状況から、特定の岩(報告書中で「岩A」と称されている)をまつった様子は推定できるが、それだけですなわち「磐座」とは即断できないのである。「石神」など、奈良時代の古典には磐座以外の岩石信仰の存在が記されている。
このように磐座以外の岩石信仰の可能性がある現状で、「磐座」という限定的な意味を持つ名称を付することには慎重でありたいし、当地は旧来から「磐座」と呼ばれていたというわけではないことも重視したい。

地元で真に伝承されてきた「磐座」であればよいが、今回のように、外部の人間が持ちこんだ外来語としての「磐座」がないまぜになって、後世に勘違いが起こることを防ぐのは私たちの役目であると思う。

たとえば、露岩群の岩の割れ目より平安~鎌倉時代の経筒外容器が出土していることから、中世に当遺跡は経塚として機能していたことが明らかになっている。
ということはすなわち、本遺跡は年代によってさまざまな性格・役割を有してきた複合遺跡であると言える。
であるならば、本遺跡の名称は古墳時代に偏重しており中世の経塚の性格を切り捨てる「天白磐座遺跡」ではなく、史跡の正式名称であり、あえて言うなら「現代」の状態を忠実に示す「渭伊神社境内遺跡」の名称を私は使用したい。

本遺跡をとおして、「磐座」の用語を濫用することで本来の歴史を改変してしまう問題が全国各地で起こっていることに、せめて読者の方は関心を持っていただければ幸いである。


遺跡の状態


以下、本遺跡の発掘調査報告書でもある辰巳和弘氏『天白磐座遺跡』(引佐町教育委員会、1992年)に基づいて遺跡の状態を紹介しておこう。

薬師山の頂上には「岩A」「岩B」「岩C」(報告書での通し番号)の3体の巨岩がトライアングル状に位置しており、その3体の周囲に大小の岩塊が集中して散布している。

特に「岩A」が遺跡の中で最も巨大な岩であり、幅は南北最大長10.3m、東西最大長6.8m、高さは7.39mを誇る。現在、「岩A」の頂部には小祠が設けられている。

岩A

発掘成果


発掘調査では、1区から5区までの5ヶ所の発掘エリアが設定された。

  • 1区…「岩A」のすぐ西側
  • 2区…1区のすぐ南。「岩A」の張り出している部分。
  • 3区…「岩A」「岩B」「岩C」が織り成すトライアングル区域内の平坦面。
  • 4区…「岩B」の南東部。
  • 5区…岩塊群からやや離れた東側。

ここから発見された遺物を調査地区ごとにまとめておこう。

遺跡調査区と出土遺物のスケッチ

まず、1区のある「岩A」西壁直下付近は、付近の地形が斜面状になっているのに、この部分だけ平坦になっているのが不自然であることから、人為的な地ならしがされている可能性があると辰巳氏は指摘している。周りの斜面と比べると壇状をなしていることから「壇状施設」とも表現されている。現地で見てみた限りではそこまで顕著でもなかったが、発掘面や等高線的には不自然なのだろう。

発掘した結果、1区の至る所から手捏土器が出土。辰巳氏の観察所見では「これらの土器群は同時代に全て作られたものとは考えられず、分布の粗密も、磐座祭祀の継続期間の長さによる所産であろう」と記している。
1区から出土した土師器は最古級のもので、古墳時代前期後葉と考えられている。勾玉は作りが粗く、古墳後期のものとされる。
他にも鉄製の武器・工具など古墳時代中心のバリエーション豊かな遺物構成だが、その後代に当たる奈良時代(8世紀頃)の土馬も出土した。

岩Aとその西側の1区

2区からも手捏土器が出土したが、1区よりは出土点数が少ない。ちなみに1区と2区を合わせて約200~250個体ほどの手捏土器が見つかったとのことである。
2区から出土した鉄矛は、まるで「岩A」に立てかけていたものがペタリと倒れたかのような出土のしかただったというのが注目点である。この解釈が妥当ならば、当時の祭祀具配置の仕方を知る1つのモデルケースとなるだろう。

3区から出土したのは、大別して縄文~弥生時代の土器片、鎌倉時代の経塚関係遺物、江戸時代の古銭類の3種となる。
縄文~弥生時代の土器片の中で、最も新しい時期のものは弥生中期頃で、古墳前期後葉から始まるとされるここの祭祀遺物とは時期がかけ離れているので、これらの土器群は祭祀に関わるものではなく、生活用具の痕跡ではないかと辰巳氏は述べている。

3区の設定目的は経塚の所在を探るところにあったが、経塚は破壊されているようで所在確認はできなかった。ただし経筒外容器の破片は区域全体から出土し、それぞれの破片から経筒外容器が6個体分はあることがわかっている。
これらは円筒形の胴部に蓋が別個付いた容器で、およそ12世紀後半~13世紀初頭に渥美窯で作られたと考えられている。この経筒外容器の破片の約3分の1は「岩A」の割れ目の間から発見されており、「岩A」が経塚そのものとして機能していたことが窺える。

また、寛永通宝・文久通宝・照寧通宝など江戸時代の古銭10枚が出土した。照寧通宝はもともと宋銭だが、これは後代に真似て造られ、江戸時代に日本へ流入したものである。文久通宝5枚は紐が通った状態で出土した。

4区は「岩B」の祭祀状況を判断するために行なわれた調査区だったが、「岩A」ほどの成果は得られず、また「岩A」の1区・2区が古墳時代の資料に満ちているのに対し、「岩B」の4区からは数点の灰柚陶器・山茶碗など、中世の資料が主体を占めた。

最後の5区からは弥生後期の小型壺と思われる底部の破片が1点出土し、同時期の石斧が2点出土した。これも壺・斧の実用的機能上、生活の痕跡と考えられ、辰巳氏は祭祀遺跡成立以前の生活痕とみなしている。したがって、5区からは祭祀に関わる痕跡は見つからなかったということになる。

発掘調査区から外れて、岩A~岩Cの辺りから約15m下った南斜面の巨石裾では、和鏡の破片が採集されている。

薬師山斜面

山頂から遺物が出土しない意味を考える


こう見ると、古墳時代の遺物が「岩A」の西側~南側だけでしか出土していないのが興味深い事実である。
最も山頂に近い「岩A」「岩B」「岩C」の織り成すトライアングル空間を避けた形で、古墳時代の祭祀遺物は配置されているかのようだ。

特定の岩石の手前「だけ」で出土遺物が偏在し、なおかつ壇上施設という付随設備まで見受けられる以上、古墳時代、「岩A」が祭祀の対象として存在していたことはさすがに疑いない。「岩A」が遺跡中最も巨大な岩だとは言え、ここまではっきり祭祀の対象物が分かる事例も珍しい。

しかし先述したように、「岩A」が当時、石神(神そのもの)として祭祀されていたか、磐座(神が憑依する施設)として祭祀されていたかには検討の余地がある。

個人的には、本遺跡の祭祀構造と類似した事例として福岡県日峰山遺跡を思い出す(梅崎恵司 編『日峰山遺跡-北九州市八幡西区浅川所在の古代祭祀遺跡-』1982年)。
日峰山遺跡では山の頂上からは遺物が見つからず、その山頂直下にある女郎岩と呼ばれる岩の手前から古墳時代後期の土師器群が出土した。山の最高点空間を避け、その手前にある岩の前で祭祀具配置を行なっていることになる。
この祭祀構造と同種のものとして、渭伊神社境内遺跡も最高点やトライアングル空間を避けた上で、その手前にある「岩A」で祭祀具配置をおこなったのかもしれない。

最高地点を不可侵状態にしているということは、そこが信仰対象のテリトリーであると考えれば自然である。ならば、信仰対象のテリトリーの手前にある「岩A」は信仰対象そのものである石神というよりは、磐座の可能性のほうが高いという仮説は成り立つが、これは石神か磐座かの択一に絞った場合の思考実験であり、それら以外の岩石祭祀の可能性も考えられる。
同様に「岩B」や「岩C」は、「岩A」と共に神のテリトリーであるトライアングル空間を形成する結界石として機能していた側面が指摘できるかもしれない。

また、上記の仮説を覆す別の可能性として、古墳時代の祭祀遺物群は、奈良時代以降の祭祀集団によってトライアングル空間の外へ片づけられたという可能性もありうるが、これはある意味「ないことの証明」であり、消極的解釈とも言える。

祭祀場所の移り変わり


古墳時代以降も、本遺跡で考古遺物の出土が続く。
奈良時代の出土遺物は土馬・須恵器となる。土馬は「荒ぶる神を鎮めるために奉献する形代」と考えられており、祭祀の場としての性格が引き継がれたと推測される。
土馬は1区からの出土だったが、須恵器は3区のトライアングル空間内から出土した。この点からは、奈良時代当時ですでに「岩A」限定の祭祀からは離れてきている感が窺える。

中世の経塚祭祀形態になると、祭祀のメイン場所が3区のトライアングル空間に本格的にシフトする。
古墳時代、神のテリトリーであった場所に経塚を築き、埋経したとしたら自然な流れでもあるのかもしれない。仏教の影響により山は不可侵ではなく登りきるものになる流れからも肯けるが、事実はわからない。
「岩A」自身に経筒外容器が差し込まれていた痕跡が見られることから、この当時の「岩A」が経塚施設として機能していたことは確かである。

鎌倉時代以降は目を見張る遺物の出土が途絶えるが、江戸時代に銭貨の投入があったことが今回の出土成果からもわかっているので、岩塊群に対する信仰心は連綿と続いていたことが読み取れる。
生活場所ではない山頂で、しかも渭伊神社の裏山としてすでに神聖視されている場所の中で金銭を落とす理由を考えると、賽銭祈願の痕跡と考えるのが妥当か。

以上の流れから、本遺跡に対する祭祀は、古墳時代の頃から祭祀場所を変え、その性格を変えながらも連綿と続けられてきたと結論づけられる。

付近の岩石祭祀事例


なお、この露岩群から西斜面に下ると、神宮寺川の崖沿いに「鳴岩」と呼ばれる巨岩が存在する。
これは川に面する崖状地形の岩盤の隆起であり、鳴岩付近からも須恵器や灰柚陶器の破片が出土している。

鳴岩

ほかにも旧・引佐町一帯には、本遺跡以外にも岩石祭祀事例がいくつか存在している。わかっている範囲で簡単に紹介しておく。

■幡教寺の巨石
富幕山という引佐町の奥方の山にあるのが幡教寺。詳細不明(竜ヶ石山麓「夢現の岩穴」説明板より)

■竜ヶ岩
日本有数の総距離を誇る竜ヶ岩鍾乳洞が見つかったのが竜ヶ岩山(標高359m)。その山頂付近に「竜の爪跡が残る」といわれる大岩「竜ヶ岩」があるという(竜ヶ石鍾乳洞出口の説明板より)

■「夢現の岩穴」
竜ヶ岩山の鍾乳洞観光整備の合間に、新たに発見され神聖視されるようになった岩穴。
現地看板によると、整備の一環で鍾乳洞一帯の清掃をしていた作業員が、たまたまこの岩穴の中に無数の丸石があったのを発見し、これは縁起が良いということで、娘の受験合格をついでに祈っておいたところ、数日後に娘が見事合格したという。そしてそれをきっかけに、この岩穴は「家内安全・合格祈願」の霊験がある場所として整備された。
「縁起がよさげだからついでに祈っておいた」という逸話には、畏れの感情というより「棚からぼたもち」「困った時の神頼み」の感情に近い。畏れを伴わない信仰も成立する。

「夢現の岩穴」現地解説板

夢現の岩穴

竜ヶ岩洞の看板より


2016年12月13日

高座山(愛知県春日井市)

所在地




愛知県春日井市高座町

出典

高蔵寺町 『高蔵寺町誌』 東春日井郡高蔵寺町役場 1932年(ブックショップ「マイタウン」 1988年復刻版)

高蔵神社合成

高座山

情報

・標高194m。山頂付近に高蔵神社が鎮座し、社祠の背後に岩盤の露頭が認められる。

・高蔵神社は熱田神宮の奥ノ院と伝承され、熱田神宮付近と同じあるいは似通った地名が高座山周辺に残るという。

・高座結御子神社(名古屋市熱田区高蔵町)は、元来高座山に鎮座していたのが『延喜式神名帳』編纂以前に熱田に遷座したという話もあるが実際は不明である。

・本事例に関して、次の興味深い情報がある。
「名古屋権現坊古文書に曰く、昔シ熱田ノ蓬ゲ原即チ島山ノ時海シヨウノ上ル時ハ熱田神宮御神体ヲ高蔵神社(○この高蔵神社は熱田の高蔵神社ならん。)ノ裏ニアル大磐石ニ御移シ給ヒシト之レヲ高御座ト称セリ。 註 本村高蔵社の裏亦大磐石存せり。」
(高蔵寺町『高蔵寺町誌』1932年。旧字体は新字体に直した)

2016年12月9日

新溝神社(愛知県岩倉市)


愛知県岩倉市本町宮西

概要

新溝古墳という円墳の上に建てられている神社。

円墳上には古くから岩石群があったといい、大正初年に社殿を改築した際に岩石群を動かし、一部を拝石としてまつり、一部を石段の台石などに利用したという。

岩倉市の地名の由来になった「いわくら」とされている。

新溝神社「いわくら」を巡る記録


『岩倉町史』(1955年)には、堀場義馨『愛知県岩倉町巨石文化遺跡の研究』(1934年)という文献が紹介されており、そこに新溝神社改築時の巨石の状態が詳述されている。

  • 改築時に6個の巨石が出土した。
  • 巨石はそれぞれ1m~1m50cmほどの将棋の駒のような形状をしていた。
  • 6個の巨石は境内の庭石や台石になったり、末社牛頭天王社の拝石になった。
  • 氏子総代や古老の話では、地表下には巨石が集積しており、その周囲を取り囲むように駒形の巨石が配置されていて、6個の巨石はその一部だという。

また、岩倉市の文化財保護委員だった浅野平雄氏が著した『磐座』(1978年)によると、新溝神社の磐座について下記の事実も記されている。

  • 改築の時、巨石群の中心と思われる岩石を本殿の東に立てて拝み石とした。
  • 本殿の西にももう1つ岩石を立てた。
  • 他の岩石は全て古墳下の境内に移した。
  •  古墳の地中を1mほど掘ったところ2mほどの平たい岩石が見えたため、これは墓の蓋石であり恐れ多いということで触らず埋め戻した。

以上の情報を総合すると、古墳の埋葬主体には手を付けず、その上にあった駒形の岩石群のうち3つを拝石(本殿東・本殿西・牛頭天王社)とし、他を古墳下の境内に移して庭石や台石に使ったということがわかる。
興味深いのは、これらの岩石群は古墳の石室石材というより、その上部~墳頂に設けられた別の石材だったと可能性があること。
埋葬主体を埋める時に用いられた角礫であったのか、はたまた、墳頂に石材を持って別の施設が構築されたいたのか、他の可能性もあるだろう。
古墳については須恵器杯が1点出土したといわれており、その型式から6世紀の製作ではないかと考えられている。これが本当であれば、新溝古墳は古墳時代後期の築造と推測される。

現況


本殿の周囲は玉垣(塀)で囲われているため、玉垣内にまつられているという岩石群は、玉垣の合間から目を凝らして見ることしかできない。
柵の合間からは、確かに駒の形をした岩石が、本殿の西と東に立てられている様子が見える。これが現在も認定されている拝石である。
垣内の本殿南東にはもう1つ棒状の立石が立っているが、これまでの文献記述などを読む限り、これは拝石にはなっていないようだ。


2015年11月24日、この新溝神社磐座の特別公開が催され、垣内に入り拝観することができた。
その折、氏子総代の方から下記のお話を伺うことができた。

  • 2014年の天王祭で磐座を初公開していた。これは2度目の公開。
  • 氏子総代の方が中心となり、地元でも知らない人がいるのでPRしようと昨年あたりから公開準備を進めてきた。
  • 伊勢神宮に行かれたとき、神宮の方から「磐座の石に触れることは神様の頭に直接触れるようなものだから恐れ多い」という話を聞いたので、磐座の手前にある立石を「願い石」と名付け、これに触れて磐座にお願いごとをするという作法を考案した。
  • 墳丘上の木々は伊勢湾台風によって枯れてしまった。
  • 前回の公開時に、新溝神社の御朱印はないのかと要望を受けたので、今回から新たに新溝神社の御朱印をつくった。
2016年の正月3が日にも公開されたらしい。
今後も祭礼日や正月などに公開される可能性がある。ぜひ同好の方はこういった機会に拝観されたい。

DSC00029
2015.11.24 垣内拝観。右奥が拝石で、左手前が願石と名付けられた立石。





DSC00043
本殿西側の岩石群。これらも拝み石の一部を構成していたと思われる。

また、末社の牛頭天王社(墳丘上の拝殿東にある祠)にも拝石があるとのことだったが、目立つ岩石は見当たらなかった。もしかしたら祠の中に収められているのかもしれない。
古墳下の境内にも人頭大の岩石などが散在しており、移設された岩石群の残骸の可能性もある。

岩倉の地名考


愛知県岩倉市の「岩倉」の地名は、この新溝神社の「磐座(いわくら)」から由来するのではないかといわれてきた。『岩倉町史』に収められた「岩倉と磐座」の一節でその説が述べられている。

しかし、いざ読んでみると根拠がいささか頼りない。論旨は、「いわくら」は「磐座」という深い意味を持つ言葉だから、たぶん「岩倉」も磐座信仰に基づくものだっただろうというもの。文章の最後の方になると「しなければならない」「信じたい」と信念的な主張が強い。

そもそも「岩倉」という地名は、織田伊勢守が応永年間(1394~1427年)の頃にそれまで新溝と読んでいた地名を岩倉と改称した(あるいは岩倉城の築城時に改称した)という記録が『尾張志』『地理資料(日本地理志料?)』に記されているのが初出だ。
「岩倉」地名が文献記録上中世を遡らないものであるのに対し、「新溝」の地名初出は『延喜式』(927年)諸国駅伝馬条に尾張国の駅(宿場)の1つとして「新溝駅」があり、諸説ありながらもこれが岩倉市新溝地域のことを指すともいわれている。
また、建久3年(1192年)の伊勢神宮の御厨(神領)一覧の中に「新溝御厨」の名があり、現に岩倉市新溝地域は鳥羽天皇が奉献した神領の名残として神明大一社の存在が伝えられている。
新溝神社は江戸時代まで今宮天王社と呼ばれており牛頭天王をまつってきたが、『尾張国神名帳集説』(1707年)には「従三位新溝天神」の名で記されており、神社が鎮座する地名の小字も新溝廻間と呼ぶ。

このように、「岩倉」地名が僅少なのに比べて、「新溝」地名は平安・鎌倉時代の頃から少なくとも文献で確認できる。
江戸~明治時代の地名考証で「新溝→岩倉」とみなしていた過去の蓄積に対して、『岩倉町史』は、磐座は古い言葉なんだから「岩倉→新溝」でなければならない、そう信じるという強引な論理で押し通している。
歴史学的なアプローチに立つ限り、岩倉よりも新溝の方が由来は古いのであり、思っていたよりも「岩倉=磐座」とする根拠は弱いという思いに至らざるを得ない。

確かに、「岩倉」という地名は岩倉城築城の頃から突如出現し、その理由は明らかにされていない。その語源を「磐座」に持っていきたくなる気持ちも分からなくない。
しかし、新溝神社の岩石群を「磐座」と呼んでまつったのは、大正初年の改築以後の話だということに注意しなければいけない。それ以前に、これらの岩石群をまつっていたという確たる記録・伝承はない。
しかも、これらの新しくまつられた岩石でさえ、呼び方は「拝み石」「拝石」だった様子が端々からうかがえる。「磐座」という表記では記録されていないのである。これらを「磐座」という言葉で表現するようになったのは、大正~昭和戦前期に熱を帯び始めた巨石文化研究者たちによるものではなかったか。そのような論点も提起しておきたい。

「岩倉」地名が仮に磐座祭祀に基づくものであったとしても、それは必ずしも新溝神社の岩石群を指していたとは言い切れない。ただ、岩倉市は沖積平野であまり露岩の目立たない地形のため、他に「磐座」候補を探すのも難しいかも。
1つ言えるのは、新溝神社は古墳の上に建つ神社である以上、磐座祭祀があったとしても、それは古墳祭祀より後であったということ。古墳築造後、後世に磐座祭祀に再利用された可能性は今後の研究しだいで見出せるだろう。

出典


  • 岩倉町史編纂委員会 「新溝古墳」「岩倉と磐座」「新溝神社」 『岩倉町史』 岩倉町 1955年
  • 浅野平雄 『磐座』 岩倉史談会 1978年
  • 中根洋治 「岩倉市」 『愛知発巨石信仰』 愛知磐座研究会 2002年