2018年4月5日

下栗大野の子安三社大明神(長野県飯田市)


長野県飯田市上村下栗大野

子安三社大明神は、子安大明神(子安神社)・赤崩大明神・池大明神の三社からなる。
子安様とも呼ばれている。
寛政4年(1792年)の棟札が残る神社である。

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子安大明神の境内に2個の丸石がまつられている。

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下記の伝承がある。

  • 「二つの丸石はアカナギ沢の下に二つ並んであったもので、小野の人が小さな石を家に持ち帰って漬け物石にしたが、漬け物を漬けてもまずくて食べられない。おかしいと思ってハッケメと呼ぶ禰宜に八掛で診てもらったところ、子安様にあげてもらいたい石だから漬け物石はダメだと言われた。そこで子安神社に奉納した。そののちに大きい石も子安様にあげなければいけないと、大野の村中で細引きのモッコでこの石を担ぎあげたのだった。この石を撫でて腹を撫でると子が授かると信じられている。子供ができたら健康でヒトナル(成長する)ように、学校に上がったら勉強ができますように、と次々に神頼みをした」(『遠山谷北部の民俗』)
  • 「これらの石は、大野の入口にあたる赤ナギ沢から百年ほど前に出土したもので、それをここに移した」(同書)
  • 「いまでは、赤ナギ明神の本体と見られるようになった」(同書)
  • 「この石を三度撫でまわしてから、腹に手をふれると、子供が三人できると言われている」(同書)

丸石は2つではなく3つという話もある。一番右に置いてある平べったい石をそれに含めるのであれば3つにはなる。

出典

飯田市美術博物館編・発行 『遠山谷北部の民俗』(飯田市地域史研究事業・民俗報告書4) 2009年

2018年3月31日

子安岩(岐阜県各務原市)


岐阜県各務原市那珂琴が丘町

当地にあった土山は、「琴が丘団地」の造成によりほとんどが原型を失われた。
ただ、その最西端はまだかつての土山の樹林帯を残し、そこに子安岩が現存する。

子安岩は「土山の七名石」の1つという。
他の六石は「兜岩」「観音岩」「蛙岩」「獅子岩/神楽岩」「烏帽子岩」「玉岩」といい、土地開発の中で消失したものもあるというが、全容はまだはっきり突き止められていない。

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土山の最西端の道路から、このような入口が通じている。

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子安岩

子安岩は4個の岩石が組み合わさり、その隙間がくぐれるようになっている。自然の産物か人為によるものかは不明。

妊婦がこの穴をくぐっておくと安産になると信じられた。
現在は、大人が這いつくばって通れるほどの隙間しかないが、濃尾地震(1891年)前は立ったまま通過することができたといい、地震により上部が崩れて現在の姿に変わったという。現状と原形の景観は異なることに注意したい。

なお、子安岩に隣接して山神の石碑が安置されている。

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出典

小林義徳 『那珂町史』 龍文堂 1964年


2018年3月29日

大頭龍神社(静岡県菊川市)


静岡県菊川市加茂

神社の概要

創建は詳らかではないが、延暦11年(792年)勧請の口碑が残る。
祭神は大物主大神・大山咋大神であり、当社の旧地名は加茂村白岩字馬場と呼んだことなどから、賀茂氏・大神氏の影響色濃い神社とされている。

野本寛一氏の『石の民俗』(雄山閣出版、1975年)では、大頭龍神社の例祭が石の祭祀に関わる特殊神事であることを明らかにしており、祭祀の様子を詳述している。
本項は氏の記述から要点を紹介したい。

大頭龍神社

例祭神事の次第

例祭は現在、8月第4日曜日に行われるが、元々は11月19~20日の2日間に行われていたという。

大頭龍神社では例祭の時に、竹と紙四手でできた御幣を氏子や崇敬者が大量に供える。
最盛期(戦前という)には26000本の御幣が大頭龍神社の鎮座する山を彩り真っ白だったという話が残る。

社殿の背後には小高い丘があり、御山(おやま)と呼び神聖視している。

大頭龍神社
御山

その頂上を「御天上」と称する。
御天上は禁足地であるが、例祭の「お山のぼり」という特殊神事の時のみ、御天上に足を踏み入れ神饌と祝詞が捧げられる。

大頭龍神社

御山御門から仰いだ御天上。入口には「これより内、入山をご遠慮下さい」と掲示がある。

御天上の中心には大小6個の自然石が群集しているらしい。
大きいものでも直径30㎝、小さいものが直径15㎝ほどである。

この自然石群の背後に1本の榊があり、これらを隠すように手前に竹で作った御簾が下げられる。
さらにその四方を竹垣で囲み、完全に外部からは目視できない構造にしている。
南東隅にだけ入口を作り、これを胎内潜り門と呼ぶ。この門から中腹の境内まで竹垣で仕切られた参道があり、その距離は約25mである。
境内側には御山御門という山門がある。

19日の午後8時頃、神職者は禊の後に境内の祓所に向かう。
祓所は3m四方の区間に円状の平石を敷き詰めた敷石の祭祀場であり、その祓所の北側に祝詞石と呼ばれる平石の上で祝詞を奏上する。
祝詞石はこの例祭の時だけに使用される岩石であり、祝詞石の奥には御天上の山が控えていることから、祝詞は御天上に対して捧げられたものとされる。

20日の午前4時頃になると「お山のぼり」が始まる。
部外者は参加できず、氏子も胎内潜り門の手前までしか入れない。
神職者は御天上内部に設置された神饌棚に七十五膳の強飯や魚のイナダ、大根などを供える。
その後、自然石群の手前に玉串が奉納され、地面に神酒が注がれ、祝詞が改めて奏上される。この神事の間はずっと無灯で無言、暗闇のなか執行されるという。

大頭龍神社の現在

極めて興味深い内容の祭祀である。
野本寛一氏は御天上の自然石群を磐座と評価しており、大神氏が司った三輪山祭祀と共通する形態と位置付けている。

ただし、この自然石群が磐座と断定できるかというとそうとも言えない。
自然石群は御簾と竹垣で完全に隠されており、神が人々の前にその姿を現す磐座としての役割とは完全に合致していない。この点ではむしろ、自然石群は姿を直接拝まざるべき石神そのものとも言える。
ただし、年1回という定期的間隔で神と交信するという祭祀のあり方は磐座的である。磐座と見る人もいれば石神と見る人もいる複合的事例なのかもしれない。


このような祭祀場をぜひ見たいと思い現在の大頭龍神社を訪れたのだが、野本氏が記録していた当時の祭祀場の状態とは様子が異なっていたことを記しておかなければならない。

野本氏は社殿の東に祓所と祝詞石が位置することを『石の民俗』の中で写真と共に図示もしているが、その場所には現在、本殿とロマネスクパーク大頭龍(神社境内にあるセレモニーホール)を結ぶ渡り廊下が建設されている(前掲写真参照)。
周辺も各種の石碑などが建っていて『石の民俗』に掲載された写真の祭祀施設はおろか、その名残すら確認できない。

大頭龍神社
御山御門の基壇部分に、円状の平石が敷き詰められているが…。

上写真の丸石の基壇は祓所を多少想起させる作りではあるが、『石の民俗』の写真に載っているものとは違うものである。

さらに野本氏によれば、祝詞石はもう1つあり、これは直径1mほどの平石で元々は本殿の手前にあったが、本殿と拝殿の間に幣殿を建てた際、祝詞石の場所を幣殿の西側に移転したという。
あらゆる祝詞はこの岩石の上で奏上されたという貴重な祭祀事例であるはずが、幣殿の西側を隈なく見渡しても、このもう1つの祝詞石さえも確認できなかった。

大頭龍神社
本殿横の玉垣内を覗いたところ、無造作に横倒しされている石造物があった。

大頭龍神社
境内には石材や石造物の一部が残されている。

大頭龍神社
詳細不明

どうやら野本氏の報告から現在までの間に、かなり神社の祭祀景観は変容してしまったようだ。
色々な事情があったのだろうが、岩石祭祀の観点から述べる限りは何とも残念と言うしかない。

御天上については現在も禁足が守られており、その旨の掲示もされており、御山御門から山頂を仰ぐと竹垣に囲われた一画を認めることができる。あの竹垣の中に自然石群や榊が控えているのだろう。

出典

野本寛一 『石の民俗』 雄山閣出版 1975年

2018年3月23日

七所社の不生石・日本武尊腰掛岩(愛知県名古屋市中村区)


愛知県名古屋市中村区岩塚町字上小路7番地

 応永32年(1425年)、熱田七社を勧請したことから七所社と呼ばれる。しかし、それ以前から神祠がまつられていたと伝えられ、『延喜式神名帳』に記載された御田神社の論社でもある。一般的には尾張三大奇祭の一つである「きねこさ祭」で有名な神社である。

 境内に奈良時代初期の築造と推定される3基の古墳が存在し、地名の「岩塚」はここから由来するとされる。

 天保14年(1843年)完成の『尾張志』の記述によると、塚の一つに縦4尺(約120cm)横3尺(約90cm)の岩が立っていて、これを不生石と呼んだという。
 ただし大正12年(1923年)に描かれた七所社境内図には既に不生石の記載はなく、代わりに「コシカケ石」という岩石が塚の前に描かれている。
 これは現在「日本武尊腰掛岩」として現存しており、日本武尊が東国平定から帰還の際、渡し舟が来るまでのあいだ腰掛けた岩石と伝えられている。
 腰掛岩は縦横寸法もおおよそ120×90cmであるため、不生石は日本武尊腰掛岩と同一物だった可能性があるが、確定には至らない。

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日本武尊腰掛岩

出典

坂重吉 「七所社に遺存の古石に就いて」 『尾張の遺跡と遺物』第42号 名古屋郷土研究会 1942年 (愛知県郷土資料刊行会 『尾張の遺跡と遺物』下巻 1982年版を参考とした)

石大神(三重県鈴鹿市)


三重県鈴鹿市小岐須町

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 小岐須渓谷の山中、御幣川の南岸に高さ113mの石灰岩の岩山があり、これを石大神(しゃくだいじん)と呼んでいる。
 『延喜式』神名帳に記載される「鈴鹿郡岩神社」の論社である。

 地元の伝説では、第31代敏達天皇がここに行幸した時、岩山の上に天照大神が出現したことから、敏達天皇は神器・古鏡・勾玉などを埋納して遥拝したと言い伝えられる(祓塚というものがあるという)。
 さらにこの時、白髪の翁が御幣川で鮎を釣ってこれを伊勢神宮に捧げたことから、以後、御幣川の鮎は伊勢神宮に捧げる「御贄」になった。安政2年(1855年)の御贄神事の記録も見つかっている。

 慶長19年(1614年)、石大神から神宮の御札が降ってきて近在の人々は喜び踊ったという。

 一時期は岩山の上に祠をまつっていたというが、明治時代の神社合祀の影響で椿大神社の管理となり、今は椿大神社の別宮となっている。

 石大神の周囲は石塊の採掘が盛んに行なわれており、景観の損傷が著しい。

 石大神の性格は、3つの類型の複合と考えられる。

  • BAABA類型.岩石の上に神が降臨した磐座(敏達天皇行幸時の伝承による)
  • BAABC類型.岩石の上に置かれた祠に神宿る磐座(一時期石大神の上に祠をまつっていたことから)
  • A類型.信仰対象(岩山そのものを石大神と呼んで信仰していることから)


参考文献

鈴峰の郷土誌編さん委員会(編) 『鈴峰の郷土誌』 鈴峰公民館 1993年