2019年9月14日

赤岩大神(岐阜県養老郡養老町)


岐阜県養老郡養老町小倉

赤岩大神は、神社本庁に所属しておらず、『養老町史』などの郷土資料にも言及がない場所である。
養老町図書館で郷土資料コーナーを当たったが、ほとんど情報が出てこなかった。

唯一、近畿日本鉄道が発行している近鉄沿線ハイキングマップ「てくてくまっぷ岐阜-3 養老公園周遊・志津北谷コース」に、二頭の竜が赤い岩に変わり大洪水を防いだことから赤岩をまつったという情報が記述されているのみだった。

現地を訪れると、鳥居や境内に赤い石が集積しており、拝殿内に赤い岩石が奉納されていた。

赤岩大神入口。鳥居裾に集積した赤石礫に注目。

赤岩大神拝殿。手前の岩塊上に赤石の石積みが見える。

拝殿内に安置された岩石群

しかし、これらが赤岩大神の名の由来というわけではない。
社殿からさらに山奥へ15分ほど進むと奥之院があり、そこに赤岩をまつっている。

奥之院入口。川沿い谷間の道を進む。

奥之院全域。視界の開けた谷間に立地。

赤岩

奥之院の赤岩は、いわゆる巨岩と呼べる大きさではなく、人が腰かけられる規模の岩石ではある。
赤岩の名のとおり、岩肌は赤色化している。

他方で、赤岩の背後には岩崖が露出しており、こちらも祭祀の対象に含めれば大規模な岩石祭祀の場と化す。
しかしこの岩崖は赤色化していないので、岩崖と赤岩は元は同体というわけではなさそうだ。

赤岩と背後の岩崖との色のコントラスト

個人的に注目しているのは、赤岩大神の自然環境と古墳の存在である。

赤岩大神は谷間川沿いに立地し、赤岩の奥の小倉谷は岩がゴロゴロしており急峻という。
ちょうどその谷の入り口にあたる場所に奥之院があり、麓で祭祀をする場としてはうってつけと言える。

後世には不動明王をまつる行場にもなった。

行場としての滝も形成されている。

また、古墳は小倉山古墳として遺跡登録されており、墳丘上には赤岩龍神の祠が立つ。
この古墳は、赤岩大神の社殿から奥之院の途中にある。

赤岩龍神の祠

赤岩龍神の祠は御嶽教信者の方により昭和13年に建立されたものというから、古墳との直接の関連性はないが、赤岩の谷が古墳時代から墓域として一つの葬送祭祀の空間であったことは否めない。


2019年9月12日

梅宮大社のまたげ石・白砂・影向石(京都府京都市)


京都府京都市右京区梅津フケノ川町

古代氏族の橘氏が創建。
橘氏の氏神、酒造の神として出発した神社である。
平安時代、橘氏の衰退と入れ替わるように藤原氏の信仰が篤くなったという。

本殿の東側に、白砂で敷きつめられた場所がある。
白砂からは細長い岩石が露出しており、さらにその上に2個の丸石が置かれている。これが「またげ石」である。

神垣の内側にあるため近くまで寄ることはできないが、垣の外から下写真のように肉眼で見ることができる。



嵯峨天皇の妃の檀林皇后が、子宝に恵まれないのを気にかけて、願掛けにこの岩石をまたいだところ、懐妊したという由縁を持つ。
以後、不妊に悩む女性が「またげ石」をまたぐと子宝の霊験があるという。
社務所に申し出れば「またげ石」での子宝祈祷も執り行ってくれるらしい。

また、檀林皇后は出産の際に梅宮大社の境内に白砂を敷き詰め、皇子を出産したと伝えられる。
現在、安産のお守りとして神社では「白砂」の授与もされている。


梅宮神社には、他に「影向石(熊野影向石または三石の別称もあり)」と呼ばれるものがある。

熊野から飛来してきた3羽の鳥が梅宮大社に降り立ち、そこで石化したという伝承をもつ岩石である。
現地探訪時は探し当てられず写真がないが、本殿の西側にあるようだ。

境内の南東隅には「猿田彦大神・宇壽女命」と碑が建てられた2体の岩石がまつられている。岩石をそのまま神としてまつる素朴な石神と思われる。



立派に整備された百度石にも注目。



2019年9月11日

宇治上神社の天降石/岩神さん(京都府宇治市)


京都府宇治市宇治山田

宇治平等院から宇治川を挟んだ北岸、仏徳山(大吉山)の山裾に宇治上神社と宇治神社が鎮座する。

明治時代以後、宇治上神社は上社、宇治神社は下社として位置付けられているが、『延喜式』神名帳で「山城国宇治郡 宇治神社二座」と記録された二社に相当する。
二社を併せて宇治鎮守明神・離宮明神・離宮社・離宮八幡などのさまざまな名称で呼ばれた。

その宇治上神社の本殿の東隣。
なかば唐突な感じで佇むのが天降石(てんこうせき)である。岩神さんの異名も伝わる。




詳しい由来は不詳ながらも、その名称から神として信仰された一面、天から神あるいは岩石自体が降臨したという伝承の一面をうかがわせている。

京都新聞の『岩石と語らう』の記事によると、神社談の仮説として「隕石」説と「かつて何らかの社があった跡」説を紹介している。

社域内の社殿と岩石のお互いの位置関係から考えると、社域の中心は本殿・拝殿であり、岩石はその合間に置かれた感がある。
本殿・拝殿に後発して岩石が出現・信仰された可能性は比較的高い。

岩石が出現した理由が隕石によるものとすれば興味深いが、鑑定はされていないのであくまでも推測の域は出ていない。

少なくとも、現在は岩石の上にうず高く石が積まれていて、人々が様々な思いを重ねた積石祭祀の典型を見せている。

参考文献


  • 竹村俊則 『昭和京都名所図会』7 駸々堂出版 1989年
  • 京都新聞記事『岩石と語らう 140 宇治上神社の天降石』(1999.7)


2019年9月9日

感神社(兵庫県三田市)


兵庫県三田市下青野

三田市内には感神社が複数分布しているので、当地は字名から下青野感神社と表記される場合がある。

当社に、注連縄が巻かれた岩がある。



こうやって写すと神寂びた巨岩の感が漂うが、現地に立つとまた異なる印象を受けるだろう。
別の向きからの写真も掲載してみる。




社殿の裏に露出する岩盤であるが、社殿に比して、その規模は著しく広大というわけではない。
正確なところはわからないが、現状を観察する限り、岩盤を削平して社殿が切り合って建てられており、社殿を建てる時に地山の岩盤が現れたかのようでもある。

岩盤を削り取っていることから、少なくとも社殿建立時点で、岩石を保存するという心の働きは見て取れない。
ただ、それはイコール、岩石信仰を否定するとまでは言い切れない。
岩石を半ば取り込み、乗りかかるという心の動きだとみなせば、それを岩石信仰の一つの形とみなすことも不可能ではない。
(それは旧来の信仰に新たに神社信仰が乗りかかったとも解釈できるし、岩石信仰を眷属のごとく祭神の神威増大に援用したというような解釈その他も可能だろう)

この感神社の岩盤について紹介されているwebページは少ないが、有馬温泉の旅館・龍仙閣の三田市観光スポット紹介ページでほぼ唯一、この岩盤について言及がある。以下引用する。

感神社の社殿裏には露呈した岩盤があり、御神霊が宿る神域として、崇拝されている「磐座」があります。

上記ページには、この岩盤が神宿る「磐座」であり、崇拝されているとの情報を載せている。
事実、現状でも注連縄が巻かれているので、神社にとって聖なる岩であることは間違いないが、その歴史の深層を探るにはあまりに情報が少なく、ひとまず岩石信仰が存在するという事実面の報告だけしておきたい。

境内には「千丈寺山大権現遥拝所」の石碑が建つ。

感神社境内に存する石碑

感神社から遥拝する千丈寺山は、大変綺麗な三角形を描いている。
感神社の岩盤は山裾ではなくかなり集落内に位置するが、集落が広がった結果かもしれないし、この山容を拝むためにあえて離したところに祭祀の場を設けたのかもしれない。

感神社から望む千丈寺山


2019年9月8日

磐神社(兵庫県三田市)


兵庫県三田市市之瀬

市之瀬地区(切詰集落)の集落最奥、二つの山に挟まれた山田川沿い。
山へ入る手前に神社は立地し、そこには磐神社の名が示すように二つの岩がまつられている。

磐に接して社殿が建てられている。

岩陰部分

境内右手にもう一つまつられた岩。

磐根を張って、手前に小祠をまつり神々が寄り合う。

磐神社の2つの岩を撮影。

磐筒男命を祭神とする磐神社は、社殿を岩に寄せるまでに岩をまつる行動を体現化し、水源となる川を押さえ、二つの山に守られる。
この二つの山も麓から望むと美麗である。

磐神社向かって左(西)の山

磐神社向かって右(東)の山。磐神社は川の東でこちらの山域に属する。

藤本浩一氏『磐座紀行』(向陽書房、1982年)によれば、社殿背後の岩は最大高4m、幅は7m。
右手にあるもう一つの岩は、樹木を除いて岩の高さ3m、幅4mを計るという。

境内にあった、何らかの用途を終えた石

なお、前掲の藤本氏によると、磐神社から約6km奥に行った小柿地区にも、岩をまつる社があるというが、神社名は記されていない。