2019年10月8日

出雲大神宮の岩石信仰(京都府亀岡市)


京都府亀岡市千歳町出雲

出雲大神宮は丹波国一宮として著名である。
創建の時期や、島根県出雲大社(明治以前の旧名・杵築大社)との先後関係はまだはっきりしていないが、大国主命と后神の三穂津姫命を主祭神とする。
当社の語るところによれば、和銅年間に大国主命を当社から出雲国に遷座したのが島根県出雲大社の始まりであり、その由縁から当社を「元出雲」と呼ぶと伝わる。
また、『延喜式』神名帳には「出雲神社」として記載され、丹波の地にありながら「出雲」の名は古くから伝わることがわかる。千年宮の通称も持つ。

神社の背後には、御蔭山(御影山とも。周辺山塊一帯を含めて千年山とも)がそびえ、ここは国常立尊の神陵と信じられて禁足地に指定されている。
この山も含め、神社境内の山麓~山裾には数ヶ所の磐座が分布しており、かつては山岳信仰と岩石祭祀の場として信仰が盛んだったことを推測させる。

出雲大神宮と御蔭山


下画像のA~Jの順に、岩石祭祀の事例を紹介していこう。



A地点 夫婦岩


縁結びの御神石。
社殿前の開けた境内に位置すること、夫婦岩は基壇の上に安置されていることから、この霊石はいずれかの時代に持ち運ばれ、夫婦神をまつる神社としてふさわしい形状としてご利益のある霊石としてまつられることになったと推測される。

夫婦岩


B地点


拝殿の脇に船形の岩石があり、それに寄り添うように樹木が植えられている。
そして、この岩石と樹木はセットになって注連縄の結界を張られ、神聖視されていることがわかる。



C地点


社殿前の開けた広場から、神体山の方へ道が続いている。
その入口に注連縄の巻かれた岩石がある。



D地点 春日社


アメノコヤネノミコト・タケミカズチノミコトをまつる境内社・春日社。
現地にあるのは社殿ではなく、玉垣に囲われた岩石である。

春日社

岩石が社殿の代わりを果たしている。それは、岩石が神そのものと見るより、岩石という神殿を通して形而上の祭神をまつっているという考え方のほうが適している。

しかし、それは現状での神への認識であり、むしろ岩石を社殿の代わりとみなすのは社殿祭祀以後の考え方であり、社殿以前の岩石信仰において、この岩石がどのような認識にあったのかはまた別である。

かつては祭祀の度に神を招いていた磐座が、やがて神の常在化・固定化と共に、常に神宿る磐座として、表面上は石神と同一視される存在になったのかもしれない。

しかし、石神は岩石自体に神の性格を求めるものだが、現状では春日信仰の影響下で神が語られている。

E地点 磐座


春日社の左方奥にごろんと転がる巨岩。
神社側が「磐座」と公式に名付けているものの一つである。

磐座

起伏の少ない「安定的」な地形に対して、今にも転がりそうな「不安定」な巨岩。
このアンバランスなコントラストが、他になかなか見ない独特の存在感を醸し出している。

ネット上の記事を接する限り、パワースポットブームに沸いたここ10年で、出雲大神宮の磐座では最も代表的な存在になったように感じる。

巨岩の手前には神体山から沢が流れてきており、水辺の祭祀の場としてもふさわしい。



F地点 車塚古墳


これは古墳であり、5~6世紀の前方後円墳と推定されている。
前方部は損壊甚だしいが後円部の残りは良く、円丘部分が確認できる。横穴式石室が開口しており、内部の様子を拝観できる。
成務天皇代の由縁が口碑として伝わっているという。

磐座のすぐ傍らにあるが、磐座祭祀と古墳祭祀のどちらが先に始まったかという前後関係は不明である。ただいずれにしても、磐座と古墳が同じ場所に「同居」しているという現状自体は全国各地で散見されるので、重要な事象として頭に入れておきたい。

車塚古墳


G地点 みかげの滝


岩石の集積のさせ方から見て、御蔭山から流れてくる水の通り道をおそらくは人工的に滝にした場所。

みかげの滝


H地点


みかげの滝から、素戔嗚命・櫛稲田姫命の夫婦神をまつる「上の社」へ至る道を登っていく途中で出会う岩石。
坂道の屈曲点に目印代わりの如く注連縄を巻く姿は、C地点などと共通する。



I地点


「C地点~上の社」「真名井の水~笑殿社」の2つのルートの合流点にたたずむ岩石。
このように、C・H・I地点の岩石はそれぞれ道のランドマーク的存在として注連縄を巻かれている感がある。
奥の方にも3~4個の岩石が顔を出しているのを確認できた。



J地点 磐座


I地点から北に進路をとり、杉が立ち並ぶ御蔭山参道を5~10分ほど歩くと、J地点の「磐座」に到着する。
E地点と並んで、神社側が公式に「磐座」と名付けている場所である。

地理的環境としては、御蔭山への本格的な山道となる直前に位置し、里と山の境界線たる山裾と呼んでふさわしい立地と言える。

若干周辺地形から膨れ上がった微高地上に、10体をゆうに越える数の岩石が群集している。
「岩群(いわむら)」と呼びたい光景がそこに広がる。

岩群の一番手前に置かれた岩石には注連縄が張られており、微高地の頂き付近にある巨岩の上には、小石が積まれているものもあった。
そして、最も奥方には高さ・幅ともに約3mを越える巨岩も控えていた。

2002年撮影

2002年探訪時は、自由にこのJ地点の磐座に参拝することができたが、2009年再訪時にはI地点にゲートが置かれていて立入禁止になっていた。今は許可制のようだ。
理由は、どうやら磐座を打ち欠いて石片を持って帰った不届者がいたらしい。何をやっているのかという気分だが、歴史の重みも他者への配慮も顧みない自分本位な人にならないためにも、歴史を知ることは大事。その一端を担うためにも、当ブログでは歴史学に基づいた記述を引き続き心がけていきたい。


2019年10月7日

内部の「なぞの石神」は現存した(三重県四日市市)


三重県四日市市貝家町

「なぞの石神」とは?


1985年、四日市内部(うつべ)地区で活動していた内部郷土史研究会が「内部旧跡案内図」という地図を作製した。

内部郷土史研究会「内部旧跡案内図」(1985年)一部抜粋

同地図より


この地図の番号5に「なぞの石神」と書かれた場所がある。

上地図のとおり貝家町に位置するが、曖昧な地図である。
現地は山林と住宅地が入りまざるエリアで、この地図だけで場所を特定することは困難である。

うつべ町かど博物館運営委員会・編『内部の史跡・旧跡案内 わが町再発見』(2013年)によると、1985年の「内部旧跡案内図」は、今となっては所在がわからなくなっているものが多いため、うつべ町かど博物館が2009年に新たに追跡調査をして、現在の地図上にマッピングしたのだという。

その調査結果、「なぞの石神」はリストから省かれた。
1985年当時で「なぞ」と呼ばれているような存在であり、追跡調査でも特定できなかったのだから、これはもはや歴史消滅に近い状態である。

聞き取り調査


そこで、追跡調査の仔細を確認するためにうつべ町かど博物館を伺ったところ、内部地区の歴史を調査され『うつべ歴史覚書』を2017年に上梓された稲垣哲郎さんとお会いできた。

稲垣さんによれば、「なぞの石神」については貝家町で調査をした際、同町の歴史に詳しい方が「わからない」と述べたそうで、それで現在の史跡マップからは省いているとのお返事だった。

博物館を出て、次は現地で調査をおこなった。
「なぞの石神」は旧跡「なこの坂」の西に位置するようなので、なこの坂周辺でも一軒ずつ訪問して聞き取りをおこなった。

なこの坂

最近現地に銘板が設置された。

一帯はもともと山林を切り開いた宅地であるため土地の人が少ないなか、同地で生まれ地区の最高齢として紹介された85歳の男性や、鎮守・加富神社の氏子総代をされている男性、内部で史跡看板を立てた方など数名からお話を伺った。
しかし、いずれの方も石神はご存知なかった。

約35年ぶりの確認


いわゆる地元の最長老格や、歴史に詳しい地元の方が知らないという結果にやや心が折れかけながら、あきらめきれず路地という路地を歩いたところ、突如、路傍の石が目に入った。

写真左下に注目。

高さ約25cmで、何も刻まれておらず、本当に何の変哲もない石だ。







町内ではもっと大きな岩石にたくさん出会ったが、この石の手前には、何かを立てていたであろうコンクリ製の基壇が二基横並びしている。おそらく花を手向けていた祭祀跡ではないか。

ちょうど、道路を挟んだ向かい側の隣家に男性がおられたので、思わず声をかけた。
この方は、この石にまつわる物語をご存知だった。

いわく、この石はもともと坂(なこの坂と思われるが、なこの坂と言っても通じなかった)の途中にあり、子どもの頃からまつられていた石だという。
やはりただの石ではなく、位置的にも「なぞの石神」と認めて良い。

そして数十年前、山林を切り開いて今の宅地を開発した時、土建屋の社長さんがこの石を坂から現在地(会社の敷地)に移設したそうである。
移設したその社長も会社も今はなく、残ったのはこの石と、その経緯を見ていた隣家の方だけということである。

自然石とのつきあいかた


隣家の方は、この石の詳しい由来を知らないとのことだったが、35年前ですでに「なぞの石神」なのである。
かろうじて石自体は消滅しておらず、その経緯も今回記録にとどめることで、石の歴史の寿命を延ばせたことを幸いと考えたい。

自然石信仰は、たとえば地域で一番大きい石だったら神とされるものではない。
石には彫刻も文字も刻まれないから、歴史に造形が深い人が意識する存在とは限らないことにも注意したい。
とりわけ、巨石でも奇岩でもない路傍の自然石は、ものの本からも除外されやすい。そんな周縁外の存在にこそ、眼を向ける意識が求められる。

自然石の歴史に出会うためには、自然石を通して「人の歴史」を見た人に出会うしかない。
地区の中でその人だけが知っていて、その家族やご近所はすでに知らないという、そんな一筋の光明にまなざしを向けることで自然石とつきあうことができる。

あらためて、「なぞの石神」が内部や四日市の旧跡として再び認知されることを願って、ここに所在地と現状を記録しておいた。

参考文献


2024年10月14日追記

「なぞの石神」は無念であるが消滅した。

2019年10月6日

「この人を知る 吉川宗明さん」(パッション第65号掲載)

四日市市立文化協会の会誌『パッション』第65号に、私のインタビューが掲載されました。



ローカルな記事ですので、一部、四日市市民向けに書いているのはご容赦ください。

私は岩石を信仰していない、とインタビューでは言っていますが、言葉というものは難しい。

私が岩石に愛着というか執着を持っており、執拗に岩石に惹かれていることは間違いない。
それは、信仰という概念そのものではないかもしれないが、信仰とまったく無縁の感情でもないのでは、とも思います。

かつては、研究者たるもの、研究対象に対しては第三者的に、客観的に、批判的に、ある種冷ややかに見ないといけないと枠にとらわれていた時期もありました。
しかし、それもそれでバイアスがかかっており、そもそも人が客観的であるということが傲慢で、さらに、当事者感覚を通過せずに研究することの危険さも感じ、今は必ずしも「信仰していませんよ」ということが免罪符になるわけではないということも承知しています。
(信仰していたほうが当事者感覚を理解できて、より良い研究ができると言っているわけでもないので、あしからず。)

こんなことを言い出すと雑誌のカラーにも合わないし、編集の方も困惑だと思うので、紙面のような感じにおさまりました。


紙幅の都合上カットされた質問項目がいくつかあり、その中のひとつだけこちらのブログで掲載しておきます。

Q.別の仕事をされながら石の研究を両立されているコツは?

A.これは家族を含め、周囲の方々の理解があるおかげです。
私の中ではひとつ思っていることがあります。昭和の頃は、学校の先生などをしながら郷土史研究などをされる在野研究者と呼ばれる人たちが一定数いて、その方々が地方文化の一翼を担っていたと聞きます。
近年は社会のいろいろなサービスが高度化してきて、余暇も仕事に還元していかないと満足なサービスを提供しにくい時代なのかなと、仕事をしていて感じます。
そのような働き方にも理解しつつ、一方で、その煽りを受けて衰退しつつあると思うのが、お金を生まないとされる研究活動や文化活動です。職業研究者以外は余暇の中で取り組むわけですから、オフもたえずオンに結びつけようと勉強している仕事人からすると、生産的ではない行為でしょうね。マイノリティなことをしていると思います。
ある意味、私はマイノリティの象徴として岩石信仰研究を置いているところがありますが、生産性がないと評価されて注目もされないマイノリティの文化が死滅すれば、最終的に世界は均一化していきます。均一化は、人々になにかしらの歪みを生むと考えています。
なんだか壮大な話になりましたが、こういう生き方もあっていいのではないかということをどこかの誰かに示したくて、今後も両立していきたいと思っています。

文化を守る文化協会の雑誌に載るものだから、私の文化に対する考え方を伝えたかったのですが、他の質問とカラーがちがうのでこれはボツですね(笑)

2019年10月5日

天乃石立神社と一刀石(奈良県奈良市)


奈良県奈良市柳生町岩戸谷

天乃石立神社へのアクセス


別称として、戸盤明神・戸岩谷神社・神戸岩神社がある。

天乃石立神社境内の岩群
天乃石立神社の拝殿

天乃石立神社は、柳生の里の東方に連なる山嶺地帯の中にある。麓から山に入る道は遊歩道として整備されており、小さいながらも道標もしっかりしている。
ただ道は幅狭で駐車スペースはないので、地元の方に考慮して、境内まで車で乗り入れるのは控えるべきだろう。

境内は、岩戸谷・戸岩谷・万年渓と呼ばれる渓谷の中にある。
神社の裾に落ち込んでいる渓谷に、数多の巨石が累積している景観が目を見張る。自然成因によって谷間へ岩群が寄り集まった結果だが、岩の全面には苔がびっしりと生い茂り、人の手が介入していない場であることが神域感を否応なく高める。

岩戸谷


天乃石立神社の祭神


  • 天照皇大神(アマテラスオオミカミ) ― 天照大姫命の字を当てる場合もあり。
  • 櫛盤門戸命(クシイワマドノミコト) ― 櫛磐盤命の字を当てる場合もあり。
  • 豊盤門戸命(トヨイワマドノミコト) ― 豊磐盤命の字を当てる場合もあり。
  • 天盤戸別命(アマトイワトワケノミコト) ― 天岩戸別命の字を当てる場合もあり。

すべて、天岩戸伝説にちなむ神々である。
天照皇大神(天照大神)は言うまでもなく岩戸隠れを行った当事者。
櫛盤門戸命・豊盤門戸命は櫛岩窓命・豊岩窓命と同神とされ、天照大神が天岩戸から出てきた後に、天岩戸を守護するよう任ぜられた神々。
天盤戸別命は天岩戸別命の名の通り、天岩戸自体を神格化したものと言える。

天乃石立神社の由来も、天照大神を外に引き出そうと手力雄命が天岩戸を思い切り開けた時、天岩戸を構成していた岩々が勢い余って地上に落ちたのが、天之石立神社の岩群であるという内容で語られている。
基本的な骨組は完全に天岩戸伝説の影響下にあり、朝廷神話以前の姿があったかどうかは見えづらい。

天乃石立神社の岩石祭祀事例


天乃石立神社の四柱は、それぞれ岩石にまつられている。本殿はなく拝殿のみ敷設されている。また、拝殿から岩群を礼拝する時、山の方角ではなく麓の方角を向く構造をとることも付記しておきたい。

1.後立磐

後立磐は神社入口に最も近い位置にあり、櫛盤門戸命をまつる。
高さ6m、幅7m、厚さ1m。この後立磐単体で「天石吸神社」と呼ぶ。

写真右が後立磐


2.前立磐

後立磐の後ろにある。高さ6m、幅7.3m、厚さ1.2m。
前立磐は豊盤門戸命をまつり、これをもって「天石立神社」。

後立磐と並立し、前立磐と後立磐は共に約20度傾いて直立する。
元は同じ岩で、これの形成理由は、天乃石立神社周辺の岩質が花崗岩であり、花崗岩特有の垂直にピシッと割れる摂理によるものと考えられている(西田史郎氏論文「一刀石」)。

写真左が前立磐


3.前伏磐

前伏磐は天盤戸別命をまつり、これをもって「天立神社」。
高さ1.2m、幅7m、厚さ1.2m。「伏」の名の如く横倒しになっている。

横幅7m近くもある3体の巨岩が並立すること自体が偉観だが、それぞれの岩石が鋭角的でもあり曲線的でもある、この極めて特異な造形こそが天乃石立神社の本領だろう。

写真手前が前伏磐(写真奥は前立磐)


4.きんちゃく岩

前伏磐の南に隣接する球状の巨岩が「きんちゃく岩」。
これをもって、天照大御神をまつる「日向神社」。

この巨岩は、昭和28年の豪雨の際に神社横の崖から転落してきたもので、その時に氏子の人々によって「天照大神の鎮まる日向神社」としてまつられることになった。まさに現代の岩石信仰だ。

写真奥がきんちゃく岩(写真手前は前伏磐)


天乃石立神社の今昔


四柱の巨岩にはそれぞれ神社名が冠されているが、これらは比較的最近に名付けられたものと考えられている。
土井実氏の論考「天石立神社」(1985年)によると、これらは『延喜式』神名帳に記載されている、大和国北東部に属する式内社の社名を用いたのではないかと指摘している。

四柱のうち、「天立神社」の名だけは神名帳に記載されていないが、おそらくこれは「石立神社(五百立神社)」のことで、五百立(イホタチ)神社(奈良市)の「五百(イホ)」は「石(イハ)」の転化だと土井氏は述べる。
このような「石」に関連する式内社をピックアップし、それを四柱の岩にそれぞれ当てたのだろう。

このうち、きんちゃく岩は先述のように後出の岩石信仰で、天乃石立神社の核となるのは前立磐・前伏磐・後立磐の3体となる。
これら3体だけを一括して「神戸岩(かんべいわ)」という呼称がある。

「神戸」の名は古く律令期にさかのぼり、天乃石立神社が鎮座する小柳生庄・坂原庄・邑地庄・大柳生庄は「神戸四か郷」と呼ばれてきた(土井1985)。
この神戸四か郷を藤原頼通(992~1074)が春日大社に寄進した時、言い伝えでは神戸岩が突然鳴り動いたという。これは岩が怒ったというのではなく、喜んでいるという風に受け取られた。その証拠に、以降、朝廷で何か慶事がある度に「神戸岩」は鳴動したといい、朝廷神話に彩られ天津神をまつる当社らしい伝承と言える。

元来は天岩戸の欠片(神跡)に過ぎないはずだが、岩自身が目に見える行動を起こしたという点は、多分に石神的要素を帯びている。
現在、神戸岩の三体がそれぞれ社殿代わりにされていることも、岩石に常に神宿るという意味で石神的と言えるだろう。

一刀石


天乃石立神社は江戸時代、柳生藩の篤い崇敬を受けていた。
柳生町といえば剣豪の住まう柳生の里として有名だが、その柳生一族が厳粛な修行の場として選んだ所の一つに天乃石立神社があった。

  • 1645年(正保2年)、柳生藩祖の柳生宗矩が神社参道の整備を実施。
  • 1705年(宝永2年)、柳生宗弘が能舞台と石燈籠1基を寄進。
  • 1742年(寛保2年)、柳生俊平が石燈籠1基を寄進。

柳生新陰流開祖の柳生宗厳(1527~1606)が、この神社一帯で身体的・精神的修行を行なっていたことを伝える聖跡が伝わる。それが、天乃石立神社から少し奥まったところに存在する「一刀石」である。

一刀石

一刀石は長さ8m、幅7m、高さ2mの饅頭形の花崗岩で、縦に亀裂が走り岩石が真っ二つに割れている。

伝えによると、柳生宗厳がある夜修行していると天狗が現れたので対決し、この天狗を一刀両断した感触があったので戦いを止めたが、翌日その場に見に行ってみると、そこには真っ二つに裂けた大岩があるだけだったという。
天狗と宗厳の霊威を「伝説」というかたちで語る聖跡だ。

亀裂の原理は花崗岩の摂理現象によるものが、西田氏論文「一刀石」では大略「花崗岩は地表に現れると風化にあい、潜在的に摂理現象が進行する。そして、潜在期間を経るととうとう表面の亀裂というかたちで顕在化し、時によっては急に亀裂が走ることもある。一刀石はその可能性が指摘でき、一夜たったら岩石が真っ二つに割れていたという伝説を考慮すると、なお興味深い」と言及している。
もしかしたら柳生宗厳や宗矩が生きていた時代に、その現象が起こったのかもしれないと考えると面白い。

なお、一刀石はこれほど特異な外観を持つにも関わらず、天乃石立神社の社伝や信仰史の中には登場しない。
それは単に記録上見られないだけで水面下では同様に神聖視されていたのか、それとも元々は亀裂が発生しておらず特別視されていなかったことを示すのか、一刀石の亀裂時期を考えるにおいて参考にしたい。

ちなみに2019年以降、一刀石は人気漫画「鬼滅の刃」のいちシーンと類似した石が登場することで評判を呼び、地元でも観光地として注目を浴びているという。
観光と歴史と聖地の三両立が、絶妙なバランスで保ち続けられることを歴史学の立場から祈りたい。

人気作品「鬼滅の刃」の名シーン再現できる 奈良・柳生に熱視線


参考文献

  • 志賀剛「天乃石立神社」『式内社の研究 第2巻 宮中・京中・大和編』 雄山閣、1977年
  • 土井実「天石立神社」 谷川健一(編)『日本の神々-神社と聖地 第4巻 大和』 白水社、1985年
  • 西田史郎「一刀石」http://earth.nara-edu.ac.jp/nishida/PDF100MA/106.pdf(サイト「奈良教育大学地学教室(地質鉱物学分野)」 内)→2002年10月16日アクセス。現在リンク切れ。

関連記事(「鬼滅の刃」聖地事例)


2019年9月30日

花の窟神社(三重県熊野市)


三重県熊野市有馬町上地

高さ約50mといわれる岩壁「花の窟」に祭神・伊弉冉尊をまつる神社として有名である。

花の窟

花の窟下部と拝所

民俗学者の野本寛一氏の『石の民俗』(1975年)によると、別称として「般若の窟」「産立の窟」「隠れ窟」「オメコ岩」「大ハナ」が記録されている。
江戸時代以前の神仏習合の時代には「大般若の鼻(華または端)」の呼称が一般的だったという(三朝町教育委員会 2025年)。

『日本書紀』の一書に「伊弉冉尊火神を生み給う時に灼かれて神退去ましぬ。故れ紀伊国熊野の有馬村に葬しまつる。土俗此神の魂を祭るには花の時に花を以って祭る。又鼓吹幡旗を用て歌い舞いて祭る」とある。

有馬村の伊弉冉尊の葬祭地がこの花の窟に比定されているが、細かいことを気にするなら岩石の記述は見当たらないことも付記しておく。

先述の書紀の記述には、開花期に花を供え、鼓・笛・旗などを使用して歌舞を行ない神祭りをするという祭祀の様子が具体的に描かれている。

このような、歌舞や花や幡で供え飾る祭祀行為はただの祈願祭祀というより、被葬者に対する鎮魂の性格を持つ祭祀としてあったと考えられる。
これらを踏まえると、花の窟は葬送祭祀であり、それが「神の最終鎮座地=神の墓」でおこなわれるという、神祭りと葬送の融合した性格を垣間見ることができる。
神が不可視の存在であることを踏まえると、葬送儀礼の中でもこれは埋め墓の発想ではなく詣り墓としての祭祀と考えてもいいかもしれない。

花の窟の淵源がいつ頃まで遡れるのかわからないので、これは古墳時代のいわゆる葬祭未分化という論点とは分けて考えたい。
地域差はあるだろうが、少なくとも当地では「墓所」「祖霊」「神祭り」といった概念が厳密に分かれていたわけではなく、同一軸上にあったということを示すのではないだろうか。

また、花の窟は窪み面を持つ岩肌だが、「窟」と言えるほどの岩屋空間は持っていない。
それでいながら「窟」と呼ばれるのは、磐蔵・岩倉といった蔵庫的な側面を持つ磐座思想から由来するものと思われる。
それは、岩石を神の魂の入れ物(クラ)と見る心性であり、岩石に穴や内部空間が必ずしもなくても、窪みや凹みがない岩石にさえ、神宿ると信仰された事例は数多認められる。
いわゆる岩屋信仰・窟信仰とは、神宿るという磐座の概念と聖地には空間があるという磐境の概念が融合したものと解することができるだろう。

2月と10月に催される「御綱掛け神事」は、花の窟の上部から御綱(錦の幡)を境内前面の塔(かつては海岸の巨松に掛けたが松は枯死した)に掛け渡す祭礼として知られる。

花の窟に掛かる御綱

花の窟の岩壁の窪みには種々の白石が積まれているが、これらは神社の祭礼の時に合わせ、地元の人々が社の前の浜で白い丸石を探し、それを岩壁の窪みに捧げる風習とのことである。

このような窪みと白石の奉献が複数箇所見られる。

花の窟に向かい合うように一回り小さい岩があり、これを王子窟と呼び、伊弉冉尊の子である火神・軻遇突智尊をまつる。

王子窟

花の窟神社の手水所の脇に高さ約1mの丸石があり、注連縄が巻かれている。
野本寛一氏の調査によれば、この丸石に水を注いで祈願すると病が治ると信じられているという。
別の情報として、神職の方談でこの丸石は花の窟から落ちてきたものともいう(「45メートルの巨岩に神霊を祀る 花の窟神社」)。

手水所脇の丸石

なお、2021年9月に「花の窟」の岩壁の一部が剥がれ落ち、下の敷石場と、すでに存在していた岩塊の上に重なるように落下したことが報道された。

世界遺産「花の窟神社」でご神体の巨岩崩落 三重・熊野:中日新聞Web

上記の手水所の丸石も、岩壁から落石した後に新たな信仰が生まれたことを考え合わせると、この度の新たな落石の今後の特別視、神聖視、物語化の可能性も注視している。

参考文献

  • 野本寛一『石の民俗』雄山閣出版 1975年
  • 三朝町教育委員会[編]『神倉 後ロ山遺跡発掘調査報告書:三徳山山岳信仰遺跡』三朝町教育委員会 2025年